その違和感は最初、バイトの帰り道から始まった。
「じゃあねー市川くん! また明日!」
「ああ、また学校で」
いつもの靴屋での勤務を終え、天童と別れた後。
家に向かって自転車を走らせる途中、ふと人の視線を感じた。
「ん……?」
一度自転車を停め、辺りを見回してみる。
しかし暗い夜道に人影はなく、しばらくして車が二、三台横を通り過ぎていくのみだった。
なんだろう、と不思議に思った。
近くには誰もいないはずなのに、誰かに見られているような感覚。
自分が可愛い女の子なら警戒するところだけれど、いたって普通の男子高校生だし。
しばらくその場に留まって周りを注意深く見回していると、ちょうどそこへ通りがかった女性が嫌そうな目でこちらを睨んできた。
何見てんのよ、とでも言いたげな視線に内心焦る。
いや、違う。
あなたのことを見ていたわけではありません……。
不審人物として通報されたくはなかったので、それ以上その場に留まるのはやめにした。
再び自転車に乗って家路を急ぐ。
結局あれはなんだったのだろう。
気のせいだったのかなと、その日はあまり深く考えなかった。
◯
しかし翌日もまた、似たようなことが起こった。
その日はバイトはなかったものの、異変が起きたのは学校のやはり帰り道でのことだった。
放課後に旧校舎に寄って、三階の教室で坂井くんと談笑し、日が暮れる頃に下校する。
階段の踊り場まで見送りに来てくれた彼と手を張り合って別れる。
「気をつけて帰れよ」
何気ない彼の声が、やけに耳に残った。
空が段々と夜の色に染まりつつある中、ひたすらマイペースにペダルを漕いでいた。
昨日の違和感のことはすっかり頭から抜け落ちて、鼻歌なんて歌う始末だった。
車通りの多い道を逸れ、ひと気のない細道に入る。
すると、うなじの辺りになんとも言えない不快感を覚えて、思わず急ブレーキをかけた。
キーッと甲高い音とともにタイヤが停止する。
「だっ……誰だ!?」
すぐさま後ろを振り返って叫んだ。
しかし返事をする者はおらず、夜闇に包まれつつある視界には人どころか虫一匹見つからなかった。
誰かに見られていた気がする。
なのに辺りには誰もいない。
この時点でやっと、僕は昨日の違和感を思い出した。
二日続けて、人の視線を感じたのだ。
気味が悪かった。
誰かが後を尾けてくるような感覚。
今までそういったシチュエーションに見舞われたことはなかったので、女性が夜道を怖がる理由がここにきてようやくわかった気がする。
現在のような、日没あたりの時間帯を逢魔時と呼ぶのだと聞いたことがある。
『魔』——つまりは妖怪や幽霊など、何か恐ろしいものに『逢う』時間帯。
日没を迎え、昼の明るさが失われて夜は危険が増えるというのに加え、昼と夜との境目には不吉なことが起きやすいなど様々な意味が込められている。
こちらを見ていたのは生きた人間か、それとも……。
どちらにしても怖いなと思い、僕は自転車をかっ飛ばして家を目指した。
◯
違和感の頻度は、さらに日に日に増えていった。
誰かに見られている気がするのに、その正体がわからない。
「ストーカー……なわけないよな」
自宅に帰ってからも気持ちが落ち付かず、僕はリビングで動画を見ながら一人ごちた。
共働きの両親はいつも帰りが遅く、晩御飯は一人で食べるのがほとんどだ。
今日も今日とて、母親が用意してくれていたおかずをレンジで温める。
「…………ィ……」
レンジの加熱音に紛れて、一瞬だけ妙な音が聞こえた気がした。
電磁波のような、耳障りなノイズ。
「誰かいるのか!?」
慌てて周囲を見渡したが、やはり誰もいない。
壁時計の秒針の音だけが、部屋の中にやけに大きく響く。
自宅での違和感はこれが初めてだった。
まさか家の中にまで何かが侵入してきているのかと思うと気が気ではない。
やがて、チーン! とレンジが完了を告げ、僕はたまらず飛び上がった。
「お、おどかすなよ!」
声が裏返った。
もはや電化製品相手にも八つ当たりする始末。
精神が過敏になっているのを自覚して、このままじゃまずいなと思った。
高校生になって新生活が始まり、ここ最近はあの旧校舎のことやバイトなどで自分なりの変化もあったから、知らず知らずのうちに心身が疲れていたのかもしれない。
今のところ、気配は感じても実害はないし、相手を目撃したわけでもない。
もしかしたら本当に僕の心が疲れているだけで幻覚を見ている可能性もある。
とりあえずここは一旦肩の力を抜いて、できるだけ頭を冷やすことに努めた。
◯
「おーい、どうした市川。昨日は夜更かしでもしたのか?」
授業の合間の短い休み時間。
僕が机に顔を突っ伏して仮眠を取っていると、二岡が嬉しそうにニヤニヤしながら寄ってきた。
「うるさいな。寝不足だってわかってるなら放っておいてよ」
ここ数日、夜は寝付きが悪くて思うように眠れなかった。
「おー怖。そんなに冷たくあしらわれると俺、泣いちゃうぞ?」
やけに高い声でそんな気色の悪いことを言われると、余計に腹が立つ。
貴重な休み時間に少しでも睡眠を取りたかったのだが、この様子だと二岡は時間いっぱいまで邪魔をしてくるだろう。
「って、うわ。市川お前、すげークマが出来てんじゃん。人相やべえぞ」
こちらの顔をまじまじと見ながら、彼はどこまでも失礼なセリフを吐いてくる。
「だから本当に眠いんだって。わかったなら寝かせてよ」
「いや、冗談抜きで顔色悪いって。保健室に行った方がいいんじゃないのか?」
珍しく二岡が心配している。
そこまで酷い顔をしているのかと気になって、スマホの内カメで自分の顔を確認してみた。
「あー……確かに酷い顔」
思わず僕自身も呟いてしまうくらいには見事な土気色だった。
そのままカメラアプリを閉じようとしたものの、手が滑って撮影ボタンを押してしまった。
カシャッという音とともに僕の疲れた顔が写真として保存される。
「おっ、記念撮影か?」
二岡が隣から茶化してきた。
誰がこんな顔を記念に残したいというのか。
「そんなわけないでしょ。すぐに消すよ」
すぐさま写真アプリを起動して、先ほどの画像を表示させる。
それを削除しようとして……思わず手を止めた。
そこに写っていたモノを認識して、僕の思考が凍りついた。
「ん? どうかしたのか、市川」
二岡が不思議そうな顔で、横からスマホの画面を覗き込んでくる。
そして彼も、そこに写し出されたモノを目の当たりにして、「ひっ」と息を呑んだ。
僕の顔の斜め後ろに、青白い顔がぼんやりと浮かび上がっていた。
両目と口元は真っ黒に塗りつぶされように影がかかっている。
それはさながら、ぽっかりと口を開けた髑髏のようだった。
「あ、ぁ……ッ」
たまらず手が震えてスマホを落としてしまい、机の上でゴツ、と重い音を立てた。
画面が下になったままのそれを、再び拾うのは躊躇われた。
眠気は一瞬にして消え失せていた。
見間違いでなければ、写り込んではいけないモノがそこにあった。
反射的に斜め後ろを振り返ったが、何もない。
「……お、俺、何も見なかったことにするわ」
二岡は引き攣った表情のまま、そそくさと僕から離れていった。
◯
まずい。
まずい、まずい、まずい。
先日から誰かに見られているような気配がずっと纏わりついていた。
誰かに監視され、後を尾けられていた感覚が家でも外でも頻繁にあった。
おそらくスマホの写真に写っていたモノが、その正体だろう。
まるで髑髏のような白い顔だった。
よくよく思い返してみれば、黒く長い髪の毛が顔の横に張り付いていたようにも思う。
あの写真をもう一度見る勇気が出なくて確認できないけれど、あれはどう考えても旧校舎の三階で遭遇した女の幽霊だ。
てっきり校舎の外には出られないと思っていたが、もしや彼女は坂井くんと違って自由に移動できるのだろうか。
「陸? 何かあったのか?」
「うわああ!!」
至近距離から声を掛けられて、僕は悲鳴を上げた。
直後、そこにいるのが坂井くんであることを思い出して我に返る。
「……ご、ごめん。ちょっと考え事をしてた……」
「お、おう」
僕らはいつものようにカーテンを開けた教室の窓辺に立っていた。
窓の外では相変わらず木々の緑が生い茂り、その中に一本だけハナミズキの木が花をつけている。
今日も放課後にはバイトがあるので、こうして昼休みにここを訪れていた。
この状況下でこの旧校舎に入るのは足がすくみそうだったけれど、あの女の幽霊が本当に僕に張り付いているとしたら、もはやどこに行っても同じだった。
「大丈夫か? 今日は特に顔色も悪いし、具合が悪いなら早退した方がいいんじゃないか?」
「いや、問題ないよ。これくらい」
坂井くんにあの女のことを相談しようかとも考えたけれど、彼がこの校舎から出られない以上、話したところで心配させるだけだ。
「それより、坂井くんの方は何も変わりない?」
「俺は別に……。ただ、最近一つ気になってることがあって」
言いながら、彼は窓から目を離して教室の中を見渡す。
黒板の前、掃除用具入れの横の隙間、それから天井の角まで。
「あの女の幽霊を最近見かけないんだよ。もともとそこまで頻繁に会ってたわけじゃないけど。それでも、ここ数日は気配すら感じないし」
女の幽霊がこの校舎にいない。
心当たりがありすぎて、僕は沈黙する。
「ま、悪霊がいなくなってくれるならそれに越したことはないんだけどな」
「そ、そうだね……」
坂井くんの証言から考えても、やはりあの女の幽霊はここを抜け出している可能性が高い。
まさか本当に、あの女が僕を尾け回しているのだろうか。
僕を一体どうするつもりなのか。
今のところはまだ直接手を下されたことはないものの、この先どんなことが起こるのかは予想がつかなかった。
◯
「市川くん、ちょっと」
放課後、いつものように靴屋でバイトをしていると副店長に手招きされた。
なんだろう、とすぐさま向かってみると、彼はバックヤードまで僕を連れていった。
「市川くん。さっき女性のお客様にパンプスを売ったでしょ。箱の中身、ちゃんと確認した?」
いつになく厳しい口調で聞かれて、僕は緊張した。
「は、はい。確か両足ともサイズは揃ってたはずですけど……」
お客さんに商品を渡す際は、必ず中身の靴を両足とも確認する。
傷や汚れなどがないかはもちろん、左右のサイズが同じかどうかも注意して見なければならない。
「サイズは問題なかったみたいなんだけどね。さっきお客様から電話があったよ。箱に入ってた靴、どっちも右足用だったって」
「えっ」
しまった。
それは絶対にやってはいけないと教えられていたものだった。
商品を確認する時、サイズの他にも左右が揃っているかどうかも見なければならない。
「とりあえず、僕がお客様に謝りに行くから。次からは気をつけてよ」
「はい……すみません」
寝不足が祟ったのか、頭がうまく働かなかった。
こんな初歩的なミスをするなんて情けない。
その後は特に大きな問題は起こさなかったものの、気持ちのせいかパフォーマンスも下がり、店の売上にあまり貢献することができなかった。
帰り際も、天童に「今日はどうしちゃったの? 大丈夫?」と尋ねられたくらいだ。
今夜はとにかく早く寝ようと思った。
翌日は土曜日で学校もないのでゆっくり眠れる。
なのにいざ布団に入ってみると、いくら目を瞑っていても眠りに落ちていかなかった。
今夜もまたすこぶる寝付きが悪い。
いくら目を瞑っていても眠りに落ちる気配がない。
これもあの女の幽霊の祟りなのだろうか?
肉体的にも精神的にも、僕はじりじりと摩耗していった。
◯
翌日は朝から雨が降っていた。
空気がじめっとしていて、裸足のままベッドから降りると足の裏がフローリングに貼り付く。
寝不足が続いているせいか、不快指数が余計に高い。
今日はバイトのシフトも入れていないので一日中フリーだった。
遅くまで寝るつもりだったのに、体が勝手にいつもと同じ時間に目覚めてしまう。
仕方なく平日と同じように朝のルーティンを始めることになった。
トイレを済ませて一階に降りると、まずは洗面所で顔を洗って歯磨きだ。
あくびをしながら鏡の前に立ち、水道の蛇口を捻る。
冷たい水で顔を濡らすと、眠気とともに溜まった疲れが少しだけ洗い流された気がした。
タオルで水気を拭き取り、さっぱりした気持ちで再び鏡を正面から見ると、目の前には僕の顔ではなく、青白い女の顔が視界いっぱいに映し出された。
「うああああぁぁぁッ!!」
お互いの息がかかるくらいの至近距離から、女はこちらを睨んでいた。
たまらず腰が抜けてその場に尻餅をつく。
「陸!? どうしたのー!?」
キッチンの方から母さんの驚いた声が届く。
僕はあまりの出来事に声を出すこともできず口をぱくぱくさせていた。
そうしている内に、女はすうっと鏡の前から姿を消した。
移動したのではなく、その場で体が薄くなって消えたのだ。
母さんがその場に駆けつけた時には、女の気配はもうどこにもなかった。
「ちょっと。何があったの、陸。そんな大声なんか出して」
どれだけ質問されても、答える余裕はなかった。
それに答えたところで信じてもらえるとも思えない。
今のは、どう見てもあの幽霊の女だった。
やはり僕のことをずっと尾け回しているのだ。
しかも今回は完全に姿を現した。
着実にステップを踏んでこちらに干渉してきている。
ここまでくると、さすがに身の危険を感じた。
このままでは僕もいずれ殺されるかもしれない。
しとしとと降り続ける雨の中で、僕はこれからのことに不安を抱かずにはいられなかった。
◯
ダイニングで朝食をとる間も、周囲が気になって仕方がなかった。
そこはかとなく人の視線を感じる。
テレビの裏、冷蔵庫の後ろ、テーブルの足元……。
あの女の気配がどこからともなく漂ってくる。
「今日はどうしちゃったの、陸。ヘンな子ねえ」
しきりに周囲を警戒する僕を見て、母さんは笑っていた。
母さんは何も感じないのだろうか。
おそらく感じないからこんなにも平然としていられるのだろう。
そして不思議なことに、母さんと一緒にいる間は先ほどのように女が迫ってくることはなかった。
もしかすると、僕が狙われるのは一人きりの時だけなのかもしれない。
ならば今日はこうして母さんとずっと二人でいれば、僕も助かるかもしれない。
しかしそんな希望を抱いたのも束の間、
「あ。今日ね、十時になったら出かけるから。友達とランチに行くの」
そんな無慈悲なセリフを吐かれて、僕は失望した。
まるで上げて落とされた気分だ。
壁の時計を見ると、現在は午前九時過ぎ。
あと一時間もしない内に僕はこの家で一人になる。
父さんはここ数日出張に行っているので帰ってくる予定はない。
詰んだ。
こんなことなら、今日もバイトを入れておけばよかった。
あの陽気の塊のような天童のそばにいれば、彼の明るさで悪霊なんて吹き飛ばしてくれたかもしれない。
しかし無いものねだりをしたところで現状は変わらない。
せめて人のいる所に避難するべきか、と考えたとき、脳裏に坂井くんの顔が浮かんだ。
あの旧校舎の三階に行けば、彼に会える。
けれどこんな休日の、しかも雨が降っている中であの場所へ向かえば、きっと勘の良い彼は僕の異変に気づいてしまうだろう。
彼に余計な心配はさせたくない。
かといって、二岡を頼るのも気が引ける。
そして天童は今日は朝からシフトが入っていたはずなので仕事中だ。
最終的に、僕は傘を差してあてもなく街の中を彷徨うことになった。
都会ではないけれどド田舎でもないので、適当に歩いていれば人に出くわすだろう。
◯
まずはコンビニに入って店内をうろついた。
意味もなく雑誌をパラパラとめくり、適当に飲み物を買って外に出る。
店の前で飲み干して、容器をゴミ箱に捨てたらまた雨の中へ繰り出した。
お次は図書館だ。
ここなら椅子もあるし、本を読みながら長時間を過ごせる。
しかし二時間ほど粘ったところで腹が減ってきた。
「あんまり無駄遣いはしたくないけど……仕方ないか」
というわけで次はファストフード店に入る。
店で一番安いセットを頼み、できるだけ賑やかなグループの近くに席を陣取ってゆっくりと味わった。
その後も本屋、ゲーセンと次々梯子していく内に、時刻はようやく午後三時を回った。
そろそろ母さんが帰ってくる頃だ。
未だ降り続ける雨の中、僕は帰路に就いた。
なんとかあの女の幽霊とは遭遇せずに過ごせたことで、ささやかな自信がつく。
やはりあの悪霊は、人前では僕を襲ってこないのだ。
雨足がさらに強くなる中、大きめの交差点に差し掛かった。
片側三車線のそこには細長い歩道橋が架かっている。
階段を上って橋を渡り、向かいの階段を降りようとしたその時。
下から上ってくる女性が目に入って、僕は立ち止まった。
赤い傘を差した女性だった。
黒のワンピースに、長い黒髪が垂れ下がっているのが見える。
傘のせいで顔はほとんど見えないけれど、肌は抜けるように白いのがわかった。
どことなく似てる、と思った。
あの幽霊の女に。
まさかな、とは思いつつも、僕はその女性から目を離せずにいた。
傘で顔を隠したまま、彼女は一段一段ゆっくり階段を上ってくる。
どくんどくん、と心臓の音が雨よりも大きく聞こえた。
僕が最上段から足を踏み出せずにいると、女性はついに目の前までやってきた。
しかし、間近で見たその顔は僕の思っていたものとは違っていた。
色白ではあるものの、血の通った、生きた人間の肌をしている。
今時のメイクを施したその姿は、どう見ても幽霊のそれではなかった。
似ても似つかない、赤の他人だ。
「……はは」
思わず笑いが溢れた。
一体どこまで臆病なんだ僕は。
周りを警戒するあまり、なんの関係もない人まで疑ってしまうなんて。
もうさっさと帰ろう。
今の僕にできることは、少しでも早くお金を稼いで悪霊のお祓いをお願いすること。
あるいは天童をなんとか説得して、お昼の放送で噂の真相を流してもらうことくらいだ。
ようやく冷静になって、足元の階段を下りようと一歩踏み出した時、
「…………ィ……」
聞き覚えのあるノイズが、すぐ後ろから届いた。
電磁波にも似た、喉の奥から絞り出すような低い声。
「……ナ……ィ……」
背筋に冷たいものが走った。
一段だけ階段に足をかけたまま、僕は全身を凍りつかせていた。
視界の端で、先ほどの女性が歩き去っていくのが見える。
そして僕の背後には、別の何かが存在していた。
「……ア……ァ……」
声が、段々と大きくなっていく。
恐ろしくて後ろを振り向くこともできずに固まっていると、僕の顔の横に痩せ細った白い指がすっと伸びてきた。
あきらかにこの世のものではない、半透明の女の手。
「う……わああぁぁぁ!!」
その手を払いのけようとした瞬間、足がずるりと滑る感覚があった。
あっ、と思った時には、僕の体は斜めに傾いていた。
視線の先には、遠い地上へと続く長い階段。
その方向へ、僕の頭は重力によって引っ張られていく。
「市川!!」
転落する寸前、そんな叫び声とともに誰かが僕の腕を掴んだ。
べしゃっ、とその場に膝をついたものの、階段から転げ落ちることはなかった。
誰かが僕を助けてくれた。
傘を手放してしまい、雨に打たれる中、僕は濡れた視界で相手を見上げる。
僕の腕を掴んだまま、いつになく真剣な顔をしたその人物は二岡だった。
「あっぶねえな。大丈夫かよ、市川」
「二岡……どうしてここに」
彼を見上げたまま、そっと目の端で周囲を確認すると、あの女の幽霊の姿はもうどこにもなかった。
「たまたま通りがかったんだよ。コンビニに行こうと思ってさ。そしたら歩道橋の上にお前を見つけて……なんか様子がおかしかったから見にきたけど、無視しなくて正解だったわ」
一度は無視しようとしたのか、と突っ込む気力もなかった。
彼がここに駆けつけてくれなければ、僕は今ごろ死んでいたかもしれない。
二岡はこちらの手を放すと、僕の頭上へ自分の傘を傾けてくれた。
「しっかりしろよ。まだ寝不足なのか? それとも昨日の……あの写真が関係してるのか?」
昨日の写真。
僕が誤って自分の顔をスマホで撮影した時、背後に女の幽霊が写り込んでいた。
二岡もそれをしっかり見ていたので、さすがに冗談では流せないのだろう。
「なあ市川。お前、本当に幽霊に取り憑かれちまってるのか? ここまでくるとさすがに笑えねーぞ。あの旧校舎と関わるのはもうやめた方がいいって」
あの女の幽霊はもともと旧校舎にいた。
ならば僕があそこへ通うのをやめれば、こうして襲われることもなくなるのかもしれない。
この恐怖から解放されるなら——と、気持ちが揺れそうになる。
でも。
「……心配してくれてありがとう、二岡。でも、僕にはまだやらなきゃいけないことがあるんだ」
震える声で、虚勢を張った。
だって、あの校舎には坂井くんがいるんだ。
だから僕は、ここで折れるわけにはいかない。
あの暗い旧校舎で、坂井くんはもう十年も前からたった一人で、誰の助けも得られずに孤独を味わってきた。
そして、彼の存在を認知できるのは、今は僕だけ。
ここで僕が諦めたら、彼はまた一人になってしまう。
「あんな場所に何があるっていうんだよ。悪霊がいるだけだろ。いい加減に目ぇ覚ませって」
彼の放った悪霊という言葉に、僕の頭はカッと熱くなった。
坂井くんは悪霊じゃない。
あんな恐ろしい存在と一緒にしないでほしい。
もう何度も言っているのに、どうしてわかってくれないんだ。
坂井くんのことを何も知らないくせに。
真実を知ろうともしないくせに。
噂話だけを信じて決めつける二岡のことが、僕は許せなかった。
「どうせ二岡にはわかんないよ。僕の言葉だって、信じてくれなかったくせに!」
これ以上ここで話しても、もはや意味がない。
僕は二岡の体を押し退け、再び雨の中に飛び出した。
「市川!」
後ろから二岡の叫びが追ってくる。
けれど振り向きたくない。
聞こえないフリをした。
土砂降りの中、階段を地上まで駆け降りる。
僕は傘を拾うのも放棄して、がむしゃらに町の中を走った。
◯
連休明けの月曜日は、雨は上がったもののまだ曇り空だった。
一昨日はあれだけ雨に打たれたというのに、風邪をひかなかったのは奇跡だと思う。
登校して教室に入ると、いつものように天童が話しかけてきた。
それから数分遅れて、黒板側の入口から二岡が入ってくる。
彼は一瞬だけこちらと目を合わせた後、すぐに視線を逸らして自分の席へと歩いていった。
一昨日のあの歩道橋での一件以来、お互いに連絡は取っていない。
「あれ、どうかしたの二人とも。喧嘩でもした?」
僕らの異変を素早く察知した天童が隣から尋ねてくる。
「まあ、そんなところ」と僕が濁すと、彼はそれほど興味がなかったのか「ふーん」と流してそれ以上は追求してこなかった。
一昨日、歩道橋の階段から落ちかけた僕を二岡は助けてくれた。
それについては心から感謝している。
いわば彼は命の恩人だ。
それでも……坂井くんのことを悪霊だと決めつけて譲らない彼の態度は、どうしても受け入れられなかった。
その後も教室にいる間、二岡とは一切目を合わせなかった。
僕が避けているのはもちろん、二岡もあきらかに意識してこちらを見ないようにしている。
やがて昼休みになると、僕は例によって旧校舎へと向かった。
今日の放課後はバイトがあるから、坂井くんに会えるのはこの時間だけだ。
「坂井くん、いる?」
二階と三階との間にある踊り場まで一気に駆け上がり、恐る恐る最上段を見上げる。
するとそこには、まるで僕を待っていたかのように坂井くんが腰掛けていた。
「陸。今日も来てくれたんだな」
彼の形の良い目がやんわりと細められ、僕も安堵の溜め息を吐く。
ここのところ色々あったけれど、彼のこの微笑みを見れば全てが報われるような安心感があった。
一段飛ばしで残りの階段を上り切り、僕は三階へとたどり着いた。
目の前まで迫った僕の顔を、坂井くんはじろじろと無遠慮に見つめてくる。
「ん? どうかした?」
「いや……。まだ顔色が悪いままだし、体調はあんまり回復してねーんだろうなと思って」
どうやら心配してくれているらしい。
その心遣いが嬉しくて、僕は「大丈夫だよ」と笑った。
そのまま彼と肩を並べて隣の教室へ入ろうとしたところで、
「市川!」
予想していなかった声が、後方から届いた。
「え……?」
わけがわからないまま、僕は階段の下に目をやった。
つい先ほどまで僕がいた踊り場のところに、いつのまにか一人の男子生徒が立っていた。
僕らと同じブレザーの制服に赤いネクタイ。
そして、こちらを見上げる特徴的な三白眼。
「二岡……?」
けっしてここへ来るはずのない彼が、そこにいた。
「市川。お前、今誰と話してたんだよ。それにどこへ行くつもりだ!?」
その様子からすると、やはり二岡の目には坂井くんの姿は映っていない。
彼からすれば、僕はこの場所で一人で喋っているように見えているのだ。
「そこに例の悪霊がいるのか? お前には見えてるんだろ、市川」
確信を持ったように言う二岡。
しかし彼の三白眼はキョロキョロとあちこちを彷徨っている。
今の彼にとっては、いつどの方角から悪霊が襲ってくるのかわからなくて気が気ではないのだろう。
「二岡……今さら何しに来たんだよ。僕の話を聞く気なんてさらさらないくせに」
「お前の方こそ、俺の忠告を無視しやがって。もうこの校舎とは関わるなって言っただろ。おかげでお前、一昨日は死にかけてたじゃねえか。まだ反省してねえのか!?」
階段を隔てて、お互いに睨み合う。
そんな僕らを、坂井くんは戸惑った様子で交互に見ていた。
「なんだ? 死にかけたって……一体何があったんだ、陸?」
物騒なワードが出たことで、坂井くんの顔色が変わった。
こんな風に心配をかけたくなかったから、僕はあの女の幽霊のことを今まで黙っていたのに。
「なんでもないよ。気にしないで」
笑って流そうとすると、二岡の「なんでもないわけないだろ!」という鋭い声が飛んでくる。
「おい悪霊! そこにいるんだろ。一昨日はよくも市川を危ない目に遭わせてくれたな。最近ずっと市川のこと尾け回してるのもお前なんだろ!?」
追加情報まで暴露されて、僕は頭を抱えた。
坂井くんはさらに怪訝な目でこちらを見る。
「尾け回して……? まさか、あの女の幽霊か?」
察しの良い坂井くんには気づかれてしまったようだ。
僕はどう返事をしたものかと悩む。
「なあ、陸。あの女に付き纏われてるのか? この校舎の外でも? 死にかけたって……あの女がお前のことを殺そうとしてるっていうのか?」
こちらに詰め寄ってくる彼の顔には、隠しきれないショックの色が滲んでいる。
「なんで話してくれなかったんだよ。俺、お前がそんなことになってるなんて全然知らなくて……」
悔しげに唇を噛む彼は、今にも泣きそうな目で僕を見る。
優しい彼はきっと、こうなってしまった原因が自分にあると責任を感じているのだろう。
そんな辛そうな顔をしないでほしい。
僕がこの校舎に通っていたのは他でもない僕自身の意思であって、坂井くんは何も悪くないのに。
僕が返事を考えている間に、二岡は三階まで上ってくると、有無を言わさず僕の右手首を掴んだ。
そのまま階下へ引っ張ろうとしたので、僕は力ずくで抵抗する。
「やめてよ二岡」
「うるせえ! こんな場所からはさっさとおさらばするぞ。ここにいるのはタチの悪い悪霊なんだ。誰に何を吹き込まれたか知らねーけど、洗脳されてんじゃねーよ!」
「洗脳なんかされてないよ! それに、ここにいるのは優しい幽霊なんだ! 悪霊なんかじゃない!」
「市川!」
二岡がここまで激しい剣幕を見せるなんて思わなかった。
どうせ幽霊の話も都合の良いところだけ受け入れて、それ以外は我関せずを決め込むものだと思っていた。
しかし今目の前にいる彼は、まるで別人のように真剣に僕に訴えている。
一昨日のことは、それだけ彼にとって衝撃的な出来事だったのかもしれない。
二岡の腕力は意外にも強く、僕は踏ん張ってみたものの少しずつ階下へ引っ張られていく。
そのまま踊り場を通過しようとしたので、僕は慌てて最上段にいる坂井くんを見上げた。
「坂井くん、ごめん! こんな会話……。こうなったのは全部僕のせいだから。さっき二岡の言ったことは気にしないで」
全部、坂井くんには聞かせたくなかった。
二岡の発言は僕のためを思ってのことだいうのはわかっている。
けれど坂井くんからすれば、自分ではどうしようもない状況の中で理不尽に責められているのと同じだ。
「陸」
いつになく冷たい声が、階段の上から降ってきた。
「もう二度と、この校舎には近づくなよ」
「え……」
それは拒絶の言葉だった。
坂井くんは最上段から一歩も動かず、氷のような視線を頭上から浴びせてくる。
「正直、迷惑なんだよ。そうやって悪霊だなんだって騒ぎ立てられると。俺の悪い噂が余計に広がるだろ。だから、お前ももう二度と俺に顔を見せるな」
そう吐き捨てるように言って、彼は教室の方向へ歩き去ってしまった。
「坂井くん!」
名前を呼んでも返事はなかった。
僕の情けない声だけが、薄暗い校舎の汚れた壁に反響する。
迷惑だと言われて、僕に反論なんてできるわけがなかった。
僕のせいで、坂井くんが悪霊呼ばわりされてしまった。
少なくとも二岡は彼のことを本気で有害な存在だと信じている。
これじゃ坂井くんの言った通り、僕は彼の悪い噂を吹聴するだけの邪魔な人間だ。
「ごめん……坂井くん」
二岡に手を引かれながら、地上に着いて校舎から抜け出した。
外に出て最初に目に入ったのは、青々と生い茂った大木の列だった。
その傍らに、一本だけひょろりと立つハナミズキの木。
花はそろそろ見頃を過ぎて、いくつかの薄紅色を地面に落とし始めていた。
◯
その夜、僕は自室のベッドで布団にくるまって、昼休みのことをぐるぐると思い返していた。
『迷惑なんだよ』
あの時の坂井くんの声と表情が、脳の奥にこびりついて離れない。
思い出すだけで、体が芯から冷えていくようだった。
彼からあんなにも厳しい表情を向けられたのは初めてだった。
いや、思えば彼と最初にあの校舎で出会った日、興味本位で肝試しに来た僕に対して、彼は似たような目をしていた気がする。
『もう二度と俺に顔を見せるな』
彼に拒絶された。
会いたくないと言われた。
彼の心情を考えれば、それは当たり前の反応だった。
けれど、本当は僕もわかっている。
坂井くんは本気で僕のことを拒絶したわけじゃない。
彼は優しいから、僕のことを心配してくれているんだ。
これ以上僕を危険な目に遭わせたくない、巻き込みたくないと、彼はきっと考えてくれているに違いない。
だからこその、あの反応だった。
「坂井くん……僕、どうすればいいのかな」
彼の力になりたい。
できることなら、彼をあの旧校舎の呪縛から解き放ちたい。
今までもずっと、それを願って僕は彼の元を訪れていたはずだ。
なのに、今の僕はただ彼を困らせているだけだった。
このままでは本当に、彼にとって邪魔なだけの存在になってしまう。
「やっぱり、僕じゃダメなのかな……。こんな僕じゃ、キミの隣にいられないのかな……?」
出口のない思いを体中に巡らせながら、滲む視界を拳で擦る。
日付が変わっても気持ちが落ち着くことはなかった。
やがて、朝方にようやくやってきた睡魔の波に攫われるようにして、僕は暗い眠りの底に落ちていった。



