坂井くんは悪霊じゃない

 
 小学校に上がってすぐの頃、僕には(しょう)くんという友達がいた。

 昇くんは三つ上の四年生で、出会ったのは児童館でのことだった。
 お互いに兄弟がおらず両親が共働きのため、放課後はいつも学校の近くの児童館に通っていた。
 内向的な昇くんは同学年の子たちとはあまり仲良くなかったのか、普段から僕らのような低学年に紛れて遊んでいることが多かった。

「ねえ昇くん、おんぶしてよ!」

 僕がそうお願いすると、彼は嫌な顔一つせずに応じてくれた。
 もともと小さい子どもが好きだったのかもしれない。
 口数はとても少なかったけれど、僕らに向ける顔はいつも穏やかでニコニコしていて、そんな彼のことが僕も好きだった。

 転機が訪れたのは、その年の夏休みに入ってからのことだった。

 夏の間は学校のプールが開放されているので、水着を片手に児童館を訪れる子が多い。
 そんな中で、女子の水着が盗まれるという事件が起きた。

 被害者は四年生の女の子だった。
 昇くんと同じクラスで、彼のことをよく「キモい」と言って見下していた子。

 彼女は昇くんが犯人に違いないと言って譲らなかった。
 周りの取り巻きたちも同調して、彼にカバンの中を見せろと迫った。

 最終的に、昇くんの荷物の中から件の水着が見つかった。
 その結果を見た女子たちは悲鳴を上げ、昇くんに対していつも以上に罵声を浴びせていた。

 僕からすれば、こうして女子たちが彼に酷い言葉を浴びせるから、彼も我慢の限界に達して今回の事件を起こしたのではないかと思った。
 いわば仕返しをしただけで、昇くんにはそれだけのことをする理由がある。

 けれど周りはみんな別の目線で昇くんのことを見ていた。

「女の子の水着を盗むなんて最低。変態だよ」

「前から気持ち悪い奴だと思ってたけど、やっぱりそういう趣味があったんだね」

「見た目通りだよな。キモい奴はやっぱりキモいことするんだ」

 性犯罪者のレッテルを貼られた昇くんはその日以降、児童館に姿を現すことはなくなった。
 その後しばらくして転校したのだということを僕は風の噂で知った。

 彼がいなくなってしまったのは寂しかったけれど、本人が悪いことをしたのなら仕方がないと僕も自分を納得させていた。
 誰もおんぶをしてくれなくなった児童館に、僕は変わらず通い続けた。

 それからさらにしばらく経った頃、水着を盗まれた女の子が取り巻きたちに笑って話していた。

「あたしの自作自演だっつーの。誰も疑ってこないから笑っちゃった。やっぱりキモい奴はキモいことするってイメージが強いよね。あいつの自業自得だよ」

 例の水着事件の話だった。
 女の子は自分で水着を隠して騒ぎ立て、昇くんに無理やり濡れ衣を着せたのだ。
 周りは種明かしをされた後も笑い声が絶えなかった。

 まんまと彼女にしてやられた。
 周りの同級生たちも、昇くんと一緒に遊んでいた下級生たちも、そして僕も。
 誰一人として彼の無実を信じてあげることができなかった。

 今さら気づいたところでもう遅い。
 昇くんはもう転校して、どこへ行ってしまったのかもわからない。

 彼に謝る機会すら、僕は永遠に失ってしまったのだった。


          ◯


「はぁ……」

 昔のことを思い出すと、半ば無意識のうちに溜め息が出る。

 教室の席に座ってぼんやりと窓の外を眺めていると、誰もいないグラウンドを抜けた先には例の旧校舎が見えた。
 手前に生えている木々が建物の入口付近を覆い隠しており、今は扉が開いているのか閉まっているのか、ここから確認することはできない。

 あの校舎の三階に、幽霊の彼がいる。
 坂井翼くん。
 今から十年ほど前に階段で転落死した男子生徒。

 彼もまた、周囲の勝手なイメージによる被害者だった。
 あの校舎には悪霊がいて、彼はその張本人だと誤解されている。

 僕がいくら声を上げたところで、周りは誰一人として彼の無実を信じてはくれない。
 一度彼のことを実際に見てもらえれば疑惑は晴れるのかもしれないけれど、幽霊である彼の姿がみんなにも見えるとは限らないし、そもそもあの場所へ行こうとする生徒がうちのクラスでは皆無だった。

「何か悩み事か? 市川」

 不意に頭上から声が降ってきて、僕は顔を上げた。

「二岡……」

 いつもの三白眼が、ニヤニヤとこちらを見下ろしていた。

「ここ最近、ずっと浮かない顔してるよな。やっぱりあの旧校舎の悪霊が関係してるのか?」

 心配している風を装ってはいるが、その顔は面白いものを見るような笑みを浮かべている。
 僕のことも、坂井くんのことも、この二岡の目にはきっと見世物の一つくらいにしか映っていないのだろう。

「だから。あそこにいる男子の幽霊は悪霊じゃないんだって」

「へいへい。耳にタコができるくらい聞いたよ。もう聞き飽きたって。……さすがにそこまであの幽霊に執着してるのを見ると、本当に取り憑かれてるんじゃないかっで俺も思うぞ」

 クラスメイトの一部は、僕が本当に悪霊に取り憑かれたのだと思い込んでいるらしい。
 僕本人の意見には一切耳を傾けないくせに、信憑性のない噂話に対してはどこまでも肯定的だった。

「どうせ二岡も、僕の言うことなんて信じてくれないんでしょ」

「そう不貞腐れんなって。俺もお前のことを心配してるんだよ。ほら、あんまり酷いようなら一緒にお(はら)いにでも行くか? それくらいなら付き合ってやってもいいぞ」

 お祓い、という単語に僕はハッとした。

「そうだ、二岡。お祓いってやったことある? ああいうのって、お寺とかに頼めばしてもらえるのかな?」

「え。いや、さすがに経験はないけど……ガチでやるのか?」

 途端に難色を示す二岡。
 それまでは親身な態度を見せていたくせに、所詮は口先だけの男か。

 とりあえず、スマホで検索をかけてみる。
 お祓い、費用……とワードを入れてみると、すぐに検索結果がいくつも表示された。

 神社やお寺などで個人的に厄祓いを受ける場合、料金の相場は五千円から一万円程度とある。
 だが、それ以外の場所へ出張してのお祓いとなると、費用は数万円から十万円ほどかかるとあった。

「じゅ、じゅうまんえん……」

 思わず顔が引き攣る。
 さすがに高校生の少ないお小遣いだけでは、それだけの大金を払うのは難しい。
 
「どうするんだ、市川? これじゃバイトでもしねーと手が出ないだろ。あ、ちなみに俺は協力できねーからな」

 早々に友人を見捨てる二岡の判断はもはや清々しい。
 ある意味、こういう人間のことを世渡り上手と呼ぶのかもしれない。

「バイト……か」

 どのみち高校生になったらバイトを始めると決めていたのだ。
 なら、これも丁度いい機会かもしれない。

 再びスマホの検索窓をタップして、僕は求人情報を漁った。


          ◯


「そういうわけだから、お祓いができるまではちょっと時間がかかると思う」

 吹奏楽部の演奏が響く放課後、僕はまた旧校舎の三階を訪れていた。
 ここに初めて来た時はその場の雰囲気に気圧されていたけれど、坂井くんと話すようになった今ではほとんど恐怖心は鳴りを潜めている。

「お祓いって、けっこう高額なんだな。でもいいのか? そんな大金……」

「ちゃんと貯められるかどうかはまだわからないけど、とりあえずバイトの面接は申し込んだから。何か進展があったら報告するよ」

 僕と坂井くんは階段の最上段に並んで腰掛けていた。
 こうして話すのはもはや日課となりつつある。

「そういえば、今さらだけどさ。どうして僕には坂井くんの姿が見えるんだろうね? 今まで幽霊なんて見たこともなかったし、霊感なんて全然ないはずなんだけど」

 前々から不思議に思っていたことを僕が口にすると、坂井くんは「たまにいるんだよな」とどこか遠くを見つめて言った。

「なんか、波長? みたいなのが合うと見えるっぽい……って、俺も何年か前に気づいたんだ。ラジオのチューニングみたいにさ、お互いのチャンネルがたまに合う奴がいるんだよ。で、合わない奴には全然見えない。というか、合わない方が大半だな」

 わかるような、そうでもないような。
 霊感が第六感のようなものだとしたら、それはもう感覚で理解するしかないし、そういうものなのかもしれない。

「そっか。なんにしても、僕は坂井くんのことが見えて良かったよ」

 彼とここで他愛もない会話をするのが、僕はなんだかんだ気に入っていた。
 特に今の僕はクラスメイトたちからヘンな目で見られているから、あの教室にいるよりも、ここでありのままの僕を受け入れてくれる坂井くんと一緒にいる方がずっと楽だ。

 校舎の外では相変わらず野球部員たちの掛け声が響いている。
 ここからでは外は見えないけれど、教室のカーテンを開ければグラウンドが見渡せるかもしれない。

「よかったら、教室のカーテンを開けてみる? 辺りが暗いと気が滅入るでしょ」

「ああ、そうだな。俺も久しぶりに外の景色が見たい」

 二人で近くの教室まで移動して、僕がカーテンの裾を握ってみると、途端に白い埃が舞った。
 そのまま横へスライドさせていけば、大木の隙間から差す木漏れ日が中に差し込んでくる。

「ああ……」

 坂井くんはその光を眩しそうに眺めていた。

 校舎の目の前には大木の葉が広がっていて、その奥にあるグラウンドの様子はほんの少ししか見えない。
 それでも彼は窓辺に歩み寄って、遠くの野球部員たちの姿に目を凝らした。

「懐かしいな……。野球部のユニホームも全然変わってない」

 そう呟いた彼の横顔は穏やかで、けれど眉尻はわずかに下げられているように見えた。

「坂井くんも、部活は何かやってたの?」

「野球部だった。これでもピッチャーやってたんだぞ」

 彼の日焼けした肌や引き締まった腕を見ていると、確かにそうだったんだろうなと思う。
 グラウンドで今ボールを投げている部員たちみたいに、十年前の坂井くんもきっと汗にまみれて爽やかに笑っていたのだ。

「陸はまだ部活は決めてないのか?」

 聞かれて、僕は我に返った。
 窓の外を眺める坂井くんの儚げな横顔に、いつのまにか魅入ってしまっていたようだ。
 憂いを帯びたその瞳は、ずっと昔、最後に見た昇くんのことを彷彿させた。

「あ、うん。何か入ろうかなって思ってたんだけど、それよりも今はバイトがしたいし」

「俺のためにバイトを優先させるつもりなら、考え直せよ」

 言いながら、彼は先ほどよりも真剣な顔で僕に向き直った。

「陸は今、たった一度しかない青春の真っ只中なんだ。自分のやりたいことを優先しないと、いつか後悔することになるぞ」

 それは僕に対する彼の優しい気遣いだった。
 長い人生の中で青春を謳歌できるのは、今この時だけ。
 それを棒に振るような選択を僕にしてほしくないのだろう。

「心配してくれてありがとう。でも僕は、バイトのこともすごく楽しみにしてるんだ。中学まではバイトは禁止だったし、高校生になったら今まで経験したことのないことに挑戦してみたいと思ってたから」

 この主張に嘘偽りはない。
 部活でもバイトでもなんでも、やりたいことはいくらでもある。

「まあ、陸がそう言うなら……」

 坂井くんが折れたところで、ガタガタッと背後から音が聞こえた。
 釣られて振り向くと、部屋に並んでいる机の一つが斜めになっていた。

「……あの女が来たのかもな」

 坂井くんの声が低くなる。
 あの女というのは無論、例の悪霊のことだ。

 姿は見えないけれど、近くにいるのかもしれない。
 そう思うと、途端に不安が押し寄せてくる。

「さあ、陸はもう帰れ。あいつに襲われる前に」

「う、うん……」

 このままここにいれば、僕はまた命を狙われるかもしれない。
 坂井くんに迷惑をかけたくはないし、言われた通りに階下を目指す。

「坂井くん、ありがとう。今日も楽しかったよ」

 三階と二階の間にある踊り場まで来たところで、お互いに手を振り合って別れる。
 彼が移動できるのはどうやらここまでのようだ。

 幽霊は自分が死んだ場所から離れられない、なんて話を聞いたことがある。
 俗に言う地縛霊ってやつだ。
 もしかしたら坂井くんもそうなのかもしれない。
 この場所に彼を一人で残して行くのは心苦しかったけれど、僕にはどうしようもなかった。

 二階から下はまたカーテンが締め切られた暗い空間だった。
 早足でそこを通り抜けるだけでも気味が悪い。
 もしもここであの女の幽霊と遭遇したら一巻の終わりだ。

 幸い今日のところは無事に地上までたどり着いたので、僕は未だ落ち着かない心臓の音を耳にしながら旧校舎を後にした。


          ◯
          

 帰りはその足でバイトの面接に向かった。
 通学路の途中にあるショッピングモール、その二階に入っている靴屋のチェーン店。

 自宅から近く高校生でも働ける店の中で、一番時給が高いのがここだった。
 ついでに靴屋の仕事がどんなものなのか想像がつきにくくて、興味をそそられたのもある。

 モールの駐輪場に自転車を置いて中に入ると、見慣れた店内を歩くのに妙に緊張した。
 二階へ上がって目的の靴屋に入ると、店員と思しき爽やかな青年がこちらへ歩み寄ってきた。

「キミ、もしかして面接の子?」

 僕が制服姿だったのですぐにわかったらしい。
 彼はこの店舗の副店長だという。
 そのままバックヤードまで案内されると、靴の在庫は山のように積み上げられていて、ゴムみたいな独特のにおいが籠っていた。
 向かい合わせのパイプ椅子に座って、面接が始まる。

 しかし面接とは名ばかりで、話した内容はほとんど個人情報の確認だけだった。
 名前と住所と年齢、それから親に同意書を頼めるか等。
 給与の支払いの説明が終わると、あとは仕事内容を長々と聞かされた。

「できれば明日から早速来てほしいんだけど、来れる?」

 予想以上に早い展開だったけれど、できるなら今すぐにでもお金を稼ぎたい。
 僕は二つ返事で了承した。

 明日必要なものを確認して、僕は解放された。
 帰り際にちょっとだけ店のディスプレイを見て回ろうと歩いていると、

「あれ。もしかして市川くん?」

 背後から、なんとなく聞き覚えのある声が届いた。
 振り返ってみると、そこには小柄な少年が立っていた。
 丸眼鏡の奥から、これまた真ん丸な瞳がこちらを見上げている。
 無邪気な笑みを浮かべたその顔は、僕のクラスメイトだった。
 名前は確か天童(てんどう)とかいったはず。

「え、天童? だっけ。なんでここに……」

「それはこっちのセリフだよー! ボク、ここで働いてるんだもん。もしかして市川くんもここに入るの!?」

 まさかの偶然だった。
 世間は信じられないほどに狭い。

「実はボクもまだ入ったばかりでさ。知ってる人が来てくれてよかったー! それに市川くんにはちょっと聞きたいことがあったんだよね」

 勢いがすごい。
 さながら嬉ションするタイプの小型犬だ。
 お尻の辺りで尻尾をブンブン振っている幻覚が見える。

 この小柄な体のどこにそんなエネルギーがあるのか不思議だった。
 そしておそらく彼はまだ仕事中のはずで、この調子で雑談していると怒られるのでは……と心配していると、

「天童くん。喋ってないで手を動かして。入庫の検品がまだだったでしょ」

 先ほどの副店長が呆れた顔で声をかける。

「わーっ、ごめんなさい! すぐにやるからちょっと待って!」

 天童は慌てた様子で服のポケットからスマホを取り出すと、改めて僕を見上げた。

「市川くん、連絡先だけ教えてよ。SNSはどれを使ってるの?」

 聞かれて、僕もスマホを用意する。
 これだけテンションの高い彼とやり取りするのは骨が折れそうだけれど、仕事のことで相談できるのはありがたい。

 お互いのアカウントをフォローして、僕らは別れた。


          ◯


 その晩、風呂上がりにスマホを手に取ると、さっそく天童から着信が入っていた。
 髪を乾かしてから掛け直すと、彼はワンコール目で応答した。

「市川くんお疲れー! もうご飯は食べた? ボクはまだ!」

 相変わらずテンションが高い。
 まるで仕事終わりとは思えないほど体力が有り余っている。

 軽いやり取りの後、彼はすぐに本題に入った。

「市川くんさ、あの旧校舎で本物の幽霊に会ったんだよね?」

 その話題に触れられると、思わず身構えてしまう。
 ただの興味本位で坂井くんのことを聞かれるのは、あまり良い気分ではなかった。

「会ったけど、それが何?」

 ついそっけない返事をしてしまったものの、天童は全く気にしていない様子で続けた。

「いいなぁー。羨ましい! 実はさ、ボク放送部に入ったんだけど、お昼の放送のネタを探してるんだよね」

 そこまで聞いて、ああなるほどと思った。

「もしかして、お昼の放送で幽霊の話がしたいってこと?」

「そ! 絶対面白いと思うんだよね。でも実際にあの旧校舎に行くのはちょっと怖いし。まずは市川くんの話を詳しく聞かせてもらえないかなーと思って」

「断る」

 即答して、そのまま通話の終了ボタンを押した。
 坂井くんのことをエンタメのネタにするなんてとんでもない。

 その後も天童から何度も着信やメッセージが入っていたけど、全部無視した。
 あんなに悩んでいる坂井くんのことを面白おかしく放送するなんて、僕には理解できない。


          ◯
          

 翌朝登校すると、教室では待ってましたと言わんばかりの天童の笑顔に出迎えられた。

「あっ、市川くーん! おはよう! 昨日の話の続きだけどさー」
 
 そそくさと彼の脇をすり抜け、僕は自分の席へと向かった。
 無言の拒絶だったのだが、それは天童には効かなかったようで、彼はすぐさま僕の所までニコニコしながらやってくる。

「ねえ、幽霊ってどんな感じに見えるの? 体が透けてたりする? 足はあるの?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
 こちらが無視を決め込んでもお構いなしだ。

「二人とも、いつのまにそんなに仲良くなったんだ?」

 と、今度は教室の端から二岡がやってきた。
 特徴的な三白眼が僕と天童とを交互に見る。

「これが仲良さそうに見える?」

 皮肉を言ったつもりだったのに、その声は天童による「昨日仲良くなったー!」というセリフに掻き消された。
 声量では彼に勝てる気がしない。
 
 その後の休み時間も同じように付き纏われて、僕はほとほと困り果てていた。
 さすがに昼休みはゆっくりしたかったので、お弁当を持って教室から逃げ出す。

 そうして向かった先は、例の旧校舎だった。
 いつもは放課後に訪れるので、それ以外の時間にここへ入るのは初めてだ。
 女の霊の存在は怖いけれど、坂井くんがいてくれるならきっと大丈夫。

「あれ? 陸じゃないか。こんな時間に珍しいな」

 予想通り、坂井くんは僕の姿を見て驚いていた。
 
 女の霊と鉢合わせする前に彼と再会できて、僕はホッと胸を撫で下ろす。
 おかげで気が抜けてしまったのか、三階へたどり着く直前の最後の数段で、僕はわずかに足を引っ掛けて転びそうになった。

 カーテンを開け放した教室に移動して、僕はようやく昼食にありつけた。

「なるほど。お昼の放送か」

 僕がこの時間にここへ来た理由を説明すると、坂井くんは納得していた。

「昨日、バイトの面接に行ってきたんだけどさ。天童もそこで働いてるみたいで……。今日から僕も出勤だし、気が重いよ」
 
 新しい環境で同級生がいるのは心強いとも思う一方、逆に疲れる部分も出てきそうで心配だった。

 お弁当の半分くらいを胃に収めたところで、校舎の外から音楽が聴こえて、お昼の放送が始まったのだと気づく。
 この旧校舎のスピーカーはスイッチが入っていないようだったけれど、グラウンドに流される音がここまで届いていた。

 本日の放送内容は、新入生へのインタビューがメインだった。
 新生活への意気込みや、入りたい部活、勉強の目標など。
 質問を受けた一年生は複数人いて、その中に天童の声も入っていた。

「放送部はネタを探してる……って、天童が言ってた。確かにこうして毎日放送するならネタ切れにもなるかもね」
 
 放送の声を耳にしながら、天童の胸中を想像する。
 彼からすれば、せっかく放送部に入ったのだから先生や先輩たちに良いところを見せたいと息巻いているのかもしれない。
 そう考えると、彼が幽霊のネタに食いついているのも切実な理由に思えてくる。

 坂井くんは窓の外を遠く見つめながら、

「……幽霊ネタ、俺が悪霊じゃないってことを話してくれるなら、喜んで提供するんだけどな」

 ぽつりと、そんなことを呟いた。
 それを聞いた瞬間、僕は背中から水を浴びせられたような衝撃を受けた。
 
「そうか……それだよ!!」

 椅子を蹴飛ばす勢いで僕が立ち上がると、斜め前に立っていた坂井くんはびくりと背を逸らせた。

「そうだよ。校内放送! 悪霊の噂の真実を、放送で流してもらえればいいんだ。そうすれば坂井くんの濡れ衣も晴らせるかも!」

 お昼の放送は校内にいるほとんど全ての人間が耳にする。
 そこで坂井くんのことを話してもらえれば、悪霊の誤解も解けるかもしれない。

 これは名案だと張り切る僕に、しかし坂井くんは表情を曇らせた。
 
「いや……自分で言っといてなんだけど、そんな簡単にいくとは思えない。この旧校舎には悪霊が出るっていうその点だけ強調されて、また野次馬を増やすだけかもしれない。多くの聞き手が期待してるのは、この場所で怪奇現象が起こるっていうスリル感なんだろうし」

「でも、やってみなきゃわかんないよ。お祓いのことも、お昼の放送のことも、とりあえず同時進行で進めていくべきだと思う。天童がどこまで僕の話を聞いてくれるのかはわかんないけど……」

 やっても無駄かもしれない。
 それでも、少しでも希望があるのならそれに縋りたい。
 
 脳内のアドレナリンが急激に分泌されていくのを感じる。
 放課後のバイトも、俄然やる気がみなぎってきた。


          ◯


 初めてのバイトは午後四時から八時までの四時間。
 とりあえず週三の予定で、問題なさそうならもう少し日にちを増やそうという話だった。

 昨日に引き続き今日も天童は出勤のようで、一緒に自転車でショッピングモールまで向かう。
 その道すがら、悪霊の噂について質問責めに遭った。
 
「悪霊って本当に三階に出るの? 市川くんは襲われたりしなかった?」

 悪霊は確かに三階にいるけれど、噂の男子生徒とは別人であること——むしろその男子生徒が僕を悪霊から守ってくれたこと等を順を追って説明していく。

 しかし天童は「さすがにちょっと話を盛りすぎじゃない?」とそこだけ疑わしげな反応を見せる。

 やっぱり人は噂話を自分の都合の良いようにしか解釈しない。
 この天童も例外ではなく、いかに放送でウケる内容かかを軸にして話を進めようとする。
 
 悪霊に対するお互いの認識が食い違ったまま、僕らは仕事場にたどり着いた。
 一般客用とは違う裏口を通って中に入り、私服に着替えて売り場へと繰り出す。

 初めのうちは例の副店長が僕に付きっきりで仕事を教えてくれた。
 基本は接客だが、他にも靴の在庫やディスプレイの管理など色々とやることがある。

 ひと通りの説明が終わると、今日はとりあえず接客に慣れるところからということで、「わからないことがあったらなんでも聞いて」と言い残して彼はバックヤードへ引っ込んでいった。
 
 店内にお客さんがいない間は、商品の乱れをそれとなく直しつつ声出しをする。
 「在庫一掃セール開催中でーす!」なんて声に出してみると、なんだか急に店員らしくなった気がした。

 それから数分と経たない内に、同じく売り場に出ていた天童がスーツ姿の男性を相手に接客を始めた。
 意外と手際が良いようで、明るく談笑しながら革靴の試し履きを進めていく。

 売上のノルマはないものの、僕も負けてられないと意気込んでいると、店の隅にいた女性に声を掛けられた。

「すみませーん。子ども用の靴が欲しいんですけど」

 ついに来た! と僕はすぐさま声の元へ向かった。
 女性はベビーカーを押しており、そこに一歳か二歳くらいの子どもが乗っている。

「この靴の十二センチってあります?」
 
 女性が示したのはキッズサイズのカラフルな運動靴で、売り場に出ていたのは十三センチだった。
 「確認いたしますね」と返事をして、すぐさま在庫の場所を探す。

 靴の在庫は売り場の足元とバックヤードの両方にあった。
 四角い箱に入った状態で、メーカーごとに分けて並べられている。
 
 目的の商品の在庫は売り場にはなかったので、バックヤードに戻って確認した。
 どこに何があるのかまだ把握していない僕は、この時点でかなり手間取ってしまった。
 途中、副店長に助けを求めようかとも思ったけれど、ちょうど電話対応をしていたようでそれは叶わなかった。

 たっぷり数十秒かけて在庫の場所を見つけ、慌てて目的の十二センチを探す。
 幸い最後の一箱が残っていたので、それを持って再び売り場へ出た。

「ありました、十二センチ!」

 時間がかかったことを詫びつつ、ベビーカーの足元に膝をついて箱を開ける。
 すると、

「……あれ?」
 
 箱の中には何も入っていなかった。
 メーカーもサイズも合っているのに、肝心の中身がない。

「す、すみません。すぐ探します」

 まさかの展開に、僕はしどろもどろになる。
 目的の箱さえ見つけることができれば、その中に商品は必ず入っているものと思っていた。
 しかし実際はそんなことはなかった。
 おそらくこの店のどこかに、商品が飾られているはず。

「あの、まだですか? ちょっと急いでるんですけど」

 慌てて店内を走り回る僕に、女性が苛立ちの声を掛けてくる。
 さすがにこれ以上待たせるのはまずい……と青ざめていると、
 
「市川くーん。もしかしてコレ探してる?」

 間延びした声とともに、いつのまにか接客を終えた天童が店の入口から手を振っていた。
 見ると、彼が指を差す先に目的の靴は確かにあった。
 店頭の台の上に飾られていて、店の内側からは目に付きにくい配置だった。

「あっ……ありがとう天童!」
 
 この時の僕の安堵感といったら筆舌に尽くしがたい。
 天童に対してこんなにも感謝の念を抱いたのも、もちろん初めてのことだった。


          ◯
          

「……さっきは本当に助かったよ、天童」

 退勤後の帰り道で、僕は自転車を手で押しながら低い声で呟いた。
 バイトの初日から情けないところを見せてしまって、どんな顔をすればいいのかわからない。

「いいよー、そんなに何度もお礼を言わなくても。ボクも焦る時はあるからね、特に仕事中は。まずい、どうしよう! ってなるよね」
 
 隣を歩く天童はまるでなんでもないことのように言って笑う。
 僕からすれば、あそこまで取り乱すなんて自分でも信じられなかった。

「僕はもしかしたら、バイトのことを軽く考えてたのかもしれない。決められた時間の中でただ言われたことをやっていればいいって。でも実際は、そんな単純じゃなかった」
 
 実際に働いてみて、初めて知ることがたくさんあった。
 まだ一日目なのにも関わらず、仕事中は僕の想像を遥かに超える状況に何度も陥った。

 いくら店側がマニュアルを用意していたって、接客中は様々な例外がある。
 それらに対処するには、仕事の数をこなして得られる慣れと、咄嗟の機転とが必要になるのだ。

 あきらかに経験不足だった自分を振り返って、不甲斐なさで凹む。
 そんな僕を見て、天童はけらけらと笑った。
 
「意外と真面目だよね、市川くんって!」

 意外、というのは余計だったが、天童からそう評価されるとは思ってなくて僕は面食らった。

「僕が真面目? そうかな……」

「うん。真面目だよ。正直、今日のことで印象が変わった。だって普段はあのちゃらんぽらんの二岡とつるんでるし、立ち入り禁止の旧校舎にも忍び込んだでしょ? 絶対もっと素行の悪い奴だと思ってた」

 確かにそう言われると反論のしようもない。

「僕って、そんな風に見られてたんだ……」

「そうだね。でもボク、真面目な人って好きだよ」

 だからさ、と天童は頭上の星を見上げて続けた。
 
「例の旧校舎の幽霊の話。あれも実は本当なのかなって、ちょっとだけ思い始めてる」

「え……」

 幽霊の話。
 仕事が慌ただしくて、すっかり頭から抜けていた話題だった。

「正直さ、最初は信じてなかったんだよね。学校に幽霊が出るなんて。でもお昼の放送のことがあったから、ネタになるならなんでもいいとボクは思ってた。けど今は、市川くんがそういう嘘を吐くタイプにはどうしても見えない。だから市川くんが僕に必死に伝えようとしてる話は実は本当なのかなって」
 
「それって……男子生徒の幽霊が、悪霊じゃないってやつ?」

「そうそう」

 天童は再び視線を下ろして、丸眼鏡の奥の真ん丸な瞳で僕を見つめる。
 そのまっすぐな眼差しからは、疑いの色は感じられない。

「天童は、あの話を信じてくれるの?」

「もちろん!」

 四月の中旬。
 夜風は少しずつ温かみを帯びてきている。
 
 坂井くんの話は、きっと天童には信じてもらえないと思っていた。
 けれどそれは僕の思い込みだったのかもしれない。

 誰かに信じてもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。

「あっ、でもさ。さすがに怖くない幽霊なんて放送のネタにはならないから。お昼の放送の話はなかったことにしてね」

 さらりと付け足された天童の言葉に、僕は肩を落とした。
 せっかくのチャンスだったのに。
 
 ただ、アプローチの仕方はきっと他にもある。
 天童が他の誰かにも話したくなるくらい、僕が坂井くんの魅力を伝えればいいのだ。

 空を見上げれば、星は無数に(またた)いている。
 僕と坂井くんの未来の可能性もきっと無限に広がっているのだと、そう思えた。


          ◯


「……っていうことがあってさ。天童も坂井くんのこと、信じてくれるって」
 
 バイトの予定がない日の放課後、僕はまた旧校舎の三階を訪れていた。
 カーテンを開けた教室。
 その窓際で、僕と坂井くんは肩を並べていた。

「意外な味方ができたな。最初はその天童って奴のこと、すげえ毛嫌いしてたのに」

「そりゃあね。坂井くんのことを面白おかしく話されるのは腹が立つし。でも、僕の話を信じるって言ってもらえた時は嬉しかったな……」

 今思い出してみただけでも、口がにやけそうになる。

 これまで僕がどれだけ訴えても、クラスメイトたちは白けた顔をするだけだった。
 その悔しさがあったからこそ、今回の天童の反応がどれだけ貴重でありがたいことなのかを実感する。

「よかったな。なんだかんだ、陸も高校生活を楽しんでるみたいで安心したよ」
 
 ふっと彼が笑う気配を感じて、僕は改めて彼に視線を向けた。
 口元をやんわりと緩めた彼は、僕の方ではなく窓の外を眺めていた。
 その横顔は、どことなく哀愁を帯びているように見えた。

 坂井くんは時々、こんな風に遠い目をする。
 どこか頼りなげで、目を離せばたちまち消えてしまいそうな儚げな横顔だった。

 彼の視線の先を追うと、木々の隙間からわずかに野球部員たちの姿が確認できた。
 坂井くんも十年前は彼らと同じように、あの白いボールを追いかけていたのだ。

 もう二度と戻ってくることはない彼の青春。
 この先に彼を待ち受けるのは、あの女の幽霊と同じように悪霊になってしまう未来か、あるいはこの世での未練を晴らして成仏するかのどちらかだ。
 
「ねえ、坂井くん」

 僕が呼ぶと、彼は「ん?」とすぐに反応する。
 その顔は、すでにいつもの余裕のある表情に戻っていた。

「坂井くんは、成仏する前に会いたい人とかはいないの? たとえば家族とかさ」

 過去の青春を取り戻すことはもうできないけれど、僕が動けば、彼の家族や友人をここに連れてくることはできるかもしれない。
 
「……俺はもう十年も前に死んでるのに、今さらだよ」

 彼は再び窓の方を向いて苦笑した。

「確かに死んだ直後は、俺も誰かに会いたいって気持ちはあったし、家族とか友達とか、何人かは俺の死を悲しんでくれてたかもしれない。でもさすがに十年も経てば、心の傷も癒えていくだろ? 俺もじいちゃんが死んだ日はずっと泣いてたけどさ、数日もすればケロッとしてたし」
 
 時間が、人の心を癒していく。
 十年という月日は、僕ら人間にとってそれだけ大きな変化をもたらすほどの長い時間だった。

「……唯一、年の離れた弟のことだけは心配だったけどな。すげえ泣き虫だったから。でも、そんな弟も今じゃ俺より年上になってるだろうし。もう十年も前のことを今さら掘り返すつもりもないさ」

 時間は止まらずに流れていく。
 今ここで彼とこうして話している時間も、いつかは遠い昔の思い出となってしまうのだ。

「そういやさ。そこに生えてる木、なんの木か知ってるか? そこのピンクっぽい花をつけてるやつ」
 
 ふと思い出したように、坂井くんが聞いた。
 彼の指差す先、窓の向こう側では相変わらず、木々の緑が視界を覆うように生い茂っている。
 そしてその中に一本だけ、薄紅色の花をつけた木がひょろりと立っていた。
 
「いや、知らない。坂井くんは知ってるの?」

 僕が聞き返すと、「俺も知らね」と彼は笑った。
 「何それ」と僕も釣られて噴き出す。

 もともと花鳥風月を愛でる趣味はなかったのだけれど、坂井くんが興味を持ったのならと、僕はスマホでその木の種類を調べてみた。
 どうやらハナミズキという木のようで、花は四月の今が見頃で、来月には散ってしまうらしい。

 ちなみに花びらに見えていた薄紅色の部分は(ほう)と呼ばれる葉っぱであるらしく、その中央部分に小さく生えている黄色い部分が本物の花なのだという。
 
 坂井くんは僕の手元を覗き込み、画面に表示された解説をまじまじと眺めていた、かと思いきや。

「最近のスマホって、そんなにデカいんだな。なんか年々大きくなってねーか?」

「え、そっち?」
 
 彼が注目していたのはまさかのスマホの方だった。

 やっぱり、僕らには花鳥風月は似合わない。
 こうして馬鹿みたいな話をして楽しんで、笑って。
 なんの生産性もない、ともすれば無意味にも思えるようなこの時間を噛み締めるのが、何より性に合っている気がした。