その校舎の入口には、立ち入り禁止の張り紙がしてあった。
錆びついたスライドドアの表面に、もはや色褪せて黄ばんだ紙がかろうじてくっついている。
今から十年前に使われなくなった旧校舎だ。
コンクリート製の三階建てで、閉ざされた窓の奥はカーテンに遮られて何も見えない。
「ここの三階に幽霊が出るって話だぞ。階段を上り切った辺りだって」
僕の隣から二岡が言った。
彼はニヤニヤとした三白眼で上階の窓を見上げる。
「男の幽霊らしい。昔、ここで階段から転げ落ちて死んだ生徒なんだと」
そんな真偽不明の噂話は、僕ら新入生の間でもすでに有名だった。
この高校に入学して、今日でちょうど一週間。
たまたま同じクラスになったこの二岡は、さっそく度胸試しにと僕をここへ誘ったのだ。
正直そこまで興味はなかったのだけれど、初手で断ると臆病者のレッテルを貼られかねない。
これから三年間舐められないためにも、僕は二つ返事で了承して彼についてきた。
時刻は午後四時。
放課後のグラウンドでは野球部の掛け声が響いている。
さらにその向こうの本校舎からは、吹奏楽部の練習音がバラバラの不協和音になって届く。
この旧校舎までやって来る人間は、どうやら今日は僕らだけのようだ。
「鍵は……開いてるな。これも噂通りか」
二岡は錆びだらけの扉を力ずくでこじ開ける。
滑りは悪いが施錠はされていないようで、ズッズッと小刻みに横へスライドさせていく。
僕らの他にも、こうして肝試しに来る生徒がたまにいるのだろう。
立ち入り禁止になっている割には、入口は常に解放されているようだった。
いよいよ現場入りだ。
さすがに幽霊なんて本当にいるとは思わないけれど、曰く付きの場所に足を踏み入れるとなるとわずかに緊張する。
露わになった扉の向こう側へ神経を集中させていると、それを嘲笑うかのように、耳元をブンッと羽虫が通り過ぎた。
「ひゃっ!」
不意打ちを喰らって、僕はたまらず短い悲鳴を上げた。
すぐさま口元を押さえたものの、その間抜けな声は二岡の耳にもしっかりと届いていた。
「あ? おいおい、大丈夫かよ市川」
ふっと鼻で笑われて、反射的に耳が熱くなる。
「へ、平気だって!」
こんな序盤で腑抜けた姿を見せてしまうと、僕の沽券に関わる。
出端を挫かれた感はあったものの、気を取り直して、扉の先の暗がりへと僕らは進んでいった。
◯
外はまだ明るいはずなのに、カーテンで締め切られた校舎の中はじめじめとして薄暗かった。
ホコリだらけの階段を上っていると、冷たいカビ臭さが鼻をつく。
「幽霊になった男子生徒だけどな、死因は事故ってことになってる。けど、実は他殺なんじゃないかって噂もあるらしい」
二岡の声にはまだ余裕があった。
もともとこういうのには慣れているのか、あるいは強がっているだけなのかはわからない。
「他殺? 誰かに殺されたってこと? でも、この町でそんな話は聞いたことがないけど……」
「あくまでも表向きは事故だからな。当時はそれほど騒がれなかったのかもしれない。でも、現場となったこの場所に悪霊が出るんだぜ? 恨み辛みがあって成仏できないってんなら、誰かに殺された可能性もあるだろ」
件の幽霊はここを訪れる者に危害を加えるらしい。
この旧校舎が取り壊されることもなく長年残っているのも、その幽霊の祟りを怖れてのことだとか。
それだけ強力な悪霊がここで生まれたことを思うと、確かに事故よりは事件の方が疑われる気がする。
なんにしても想像の範疇を超えない会話を続けながら、二階を通り越し、やがて目的の三階が見えてきた。
さすがに心霊スポットを目の前にすると、体が勝手に身構えてしまう。
空気はひんやりとしているのに、額にはじわりと汗が浮かぶ。
僕より先に最上段へたどり着いた二岡は、最後の数段で一瞬だけつまずいていた。
平静を装ってはいるが、こいつもやっぱりそれなりに怖がっているのかもしれない。
「さて、着いたぞ。悪霊はどこだ?」
相変わらず薄暗いそこに、人の気配はなかった。
廊下は左右に伸びており、正面の壁には縦に長い鏡が嵌め込まれている。
白っぽく汚れた鏡面には僕ら二人の姿しか映っていない。
「どこにもいないね、幽霊なんて」
半ば安堵しつつ僕がぼやいた直後。
ガタガタッと何やら机を動かすような音が奥の教室から響いた。
「誰かいるのか!?」
すかさず二岡が叫んだ。
僕も同じように音の聞こえた方へ視線を送る。
しかし待てど暮らせど返事はない。
「もしかして動物かな? 何か棲みついてるのかも」
そんな僕の希望的観測に、二岡はなんの反応も示さなかった。
やけに静かで、違和感を覚える。
「二岡?」
「……なんか、聞こえないか?」
「え?」
言われて、背筋がすっと寒くなった。
誰もいないはずの旧校舎で、一体何が聞こえるというのか。
半信半疑のまま、息を殺して耳を澄ませる。
するとそれは、電波の悪い通話音声みたいに、プツプツと途切れながらも微かな音を発していた。
「……ォ…………ア……」
喉の音から絞り出すような声。
それを認識した瞬間、全身が総毛立った。
何かが声を発している。
人のようで、そうではないような。
すかさず辺りを見渡して音の出所を探している内に、二岡が「ひっ」と声を上げた。
「なっ、なんか今、風が当たった。誰かに息を吹きかけられたような……っ」
もはや動揺を隠せない様子で、二岡は早口で訴える。
さらにそこへ、ガタガタッと先ほどの音が再び届き、二岡は今度こそ悲鳴を上げた。
わあっと叫びながら、彼はくるりと体の向きを変えたかと思うと、数段飛ばしで階段を駆け下り始めた。
「あっ。おい、二岡!」
もはやこちらの声は聞こえていない様子で、彼は脇目も振らず階下へ消えていく。
その場に一人取り残された僕は、数秒遅れて我に返った。
早く、自分もここを離れた方が良い。
慌てて足を踏み出そうとしたその瞬間。
ふっと、首筋に何者かの息遣いを感じた。
「……ォ、前ら……」
声が聞こえる。
僕の顔のすぐ左、肩の辺りに、何者かの存在を感じた。
何かが、そこにいる。
寒気がした。
急激な焦りと恐怖とが足元から競り上がってきて、その場から一歩も動けなくなる。
もはや視線をそちらへ向ける余裕すらない僕の耳に、その声ははっきりと言葉を流し込んだ。
「誰が、悪霊だって?」
男の声だ。
おそらくは過去にこの場所で命を落としたという男子生徒の。
「うわああああぁぁぁ!!」
緊張が限界を超え、たまらず叫んだ、直後。
薄暗かった視界が今度こそ真っ黒に塗りつぶされて、ブツンと意識が途切れた。
◯
「…………ィ……」
ノイズのような音に誘われて、再び意識が浮上する。
うっすらと瞼を開くと、視線の先にはシミの付いた天井がぼんやりと見えた。
辺りは暗いものの、完全な闇というわけではない。
窓際のカーテン越しに、夕焼けと思しきオレンジの光が微かに届いている。
僕、どうしたんだっけ……。
体の下には硬い感触があって、おそらく床に転がっているのだということがわかった。
ふわふわとした思考で記憶を遡ろうとしていると、
「おーい。大丈夫か?」
すぐ隣から、そんな声が聞こえた。
もしかして二岡か? と顔をゆっくり横に倒せば、そこには見慣れたブレザーの制服を纏った男子が一人。
「やっと気がついたな。よかった、死んでなくて」
彼はこちらと目が合うなり、ほのかに口元を綻ばせた。
日焼けした肌にシュッとした輪郭と、涼しげな目元。
やけに整ったその顔は、僕の知っている人間の誰とも一致しない。
「えっと……?」
二岡じゃなかった。
見知らぬ男子生徒が、胡座をかいてこちらを見下ろしている。
ブレザーのネクタイが赤色だということは、僕と同じ一年生だろう。
うちの高校は学年ごとにネクタイの色が違うので、そこは間違いない。
「何が起こったかわからないって顔してるな。お前、さっき床に倒れて頭を打ったんだよ。そのまま気絶しちまって」
「気絶……」
彼の説明を聞きながら、僕はゆっくりと上体を起こした。
後頭部に鈍い痛みが走ったが、幸いたんこぶ程度で済んでいるようだ。
意識を失う前のことが少しずつ思い出されてくる。
そうだ、僕は二岡と一緒にこの三階までやってきて……。
「ていうかさ」
ようやく頭がはっきりとしてきたところで、謎の男子生徒は不可解なことを投げかけてきた。
「お前、俺のことが見えてるんだな」
「え?」
見えている、とは、どういうことだろう。
発言の意図がわからなくて首を傾げていると——
「俺、もう死んでるんだよ」
「は?」
「口で説明するより、見せた方が早いな」
こちらが戸惑っているのにも構わず、彼は引き締まった右腕を伸ばして僕の肩に触れた。
触れた、はずだった。
けれど、そこにあるはずの感触が何もない。
恐る恐る自分の肩に目を落としてみると、腕は僕の皮膚を貫通していた。
痛みもなければ熱も感じない。
こちらに伸ばされた彼の腕は、僕の体をすり抜けている。
「な。これでわかっただろ? 幽霊なんだよ、俺」
幽霊。
そのワードを耳にした瞬間、霧のかかっていた思考が一気にクリアになり、二岡から聞いた噂話の記憶が鮮やかに蘇った。
『ここの三階に幽霊が出るって話だぞ。階段を上り切った辺りだって』
『男の幽霊らしい。昔、ここで階段から転げ落ちて死んだ生徒なんだと』
この旧校舎に出るという男子生徒の幽霊。
訪れた者に危害を加えるという悪霊。
その本人を目の前にして、僕は口の中がカラカラに乾いたまま、声にならない悲鳴を上げた。
「ヒッ……!」
後ずさりしようとして、手が滑った。
無様に顔を床に打ちつけて悶える。
「おい。また卒倒するなよ。別に何もしてねえだろ、俺」
「だだ、だって! ここで悪霊を見た人はみんな、階段から落とされたって……!」
噂では、この階段で足を引っ張られて転倒した生徒が何人もいたという。
「俺はそんなことしねえよ」
「へ……」
「俺は悪霊じゃない。普通の幽霊だ」
「ふ、普通って?」
幽霊に『普通』なんてものがあるのだろうか。
そこだけ冷静に考えてしまった僕の思考を読み取ったのか、目の前の彼は少しだけ面倒くさそうな顔で答える。
「無害な幽霊だよ。ただここにいるだけで、お前らに手を出したりするわけじゃない。わかるか?」
生きた人間に手を出すことのない、無害な幽霊。
確かに、今のところ彼は僕に対して何かをしたわけじゃない。
ただそこにいて、僕と話しているだけ。
「……本当に、何もしてこないの?」
僕が改めて確認すると、彼はフンと鼻を鳴らして腕組みする。
「ったく。どいつもこいつも、想像だけで好き勝手に語りやがって。お前らって本当にそうだよな。人のことをイメージだけで決めつけて、実際のことは知ろうともしない。噂話の内容が面白けりゃ、真実なんてどうでもいいんだ」
ちくりと痛いところを突かれた。
思い込みで何かを決めつけてしまう経験は、過去の僕にも覚えがある。
それこそ小学生の時に、僕は大きな過ちを犯した。
周りの噂を真に受けて、決めつけて、それで疎遠になってしまった友達の顔が一瞬だけ脳裏を掠める。
「そ、そうは言っても……この場所では本当に祟りが起こるから、それでこの校舎は取り壊されずに残されたままだって聞いたけど」
「祟りを起こしてるのは俺じゃない。別の幽霊だよ」
「別……?」
何やら話がややこしくなってきた。
この旧校舎にはもう一人別の幽霊がいるという。
そして目の前の彼はあまりにも普通の高校生っぽく会話を続けるので、僕も段々とその調子に乗せられていく。
「俺が死んだのはもう十年前だけど、それよりも前にここで死んだ奴がいる。そいつが祟りを起こしてるんだ」
「別の幽霊……それが、本物の悪霊ってこと?」
「ああ。俺もここで死んだ時、階段で足を取られる感覚があった。お前も気をつけないと、うっかり殺されることになるぞ」
ざわり、と窓の外で風が唸った。
この場所に、本物の悪霊がいる。
なんなら目の前の彼は、その悪霊に取り殺されたのかもしれない。
ガタッ、とまた音が響いた。
反射的に僕は顔を上げる。
すると、ちょうど真正面に縦長の鏡があった。
壁に嵌め込まれているそれの表面に、僕の引き攣った顔が映っている。
そして、そのすぐ背後、僕の右肩の辺りに、ぼうっと白く浮かび上がる顔があった。
「は……」
吸い込もうとした息が、喉でつっかえた。
鏡に映し出された白い顔は、男子生徒のものではない。
両目と口の部分にぽっかりと黒い穴が空いていて、長く黒い髪が垂れ下がっている。
おそらくは女の幽霊が、僕の真後ろにいた。
「うわああああッ!!」
本日二度目の絶叫を上げ、僕は尻餅をついたままその場から飛び退いた。
転がるように後ろを振り返り、鏡越しではなくそれを直視する。
女は黒い靄のようなものを纏って、階段を二、三段ほど降りた所に立っていた。
体はかろうじて人の形を保っているようだが、顔はほとんど髑髏のようにしか見えない。
「……ナ……ィ……」
まるで電子音のごとくノイズ混じりの声を漏らしながら、女はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
足を踏み出すのではなく、床を滑るような動きだった。
「く、来るなっ……!」
慌てて立ち上がろうとして、うまくいかなかった。
下半身に力が入らない。
これが腰が抜けた状態というものなのか。
その間にも、女はどんどん迫ってくる。
痩せ細った白い腕を伸ばし、こちらへ食らいつかんとするように口を大きく開けている。
もうだめかもしれない……と諦めかけたその時。
「やめろ!」
僕と女の間に割って入ったのは、例の男子生徒の幽霊だった。
彼は僕を庇うようにして立ちはだかると、半ば体当たりをする勢いで女の体を抱き留める。
動きを封じられた女は呻き声を上げながら、男子生徒の腕の中で暴れ始めた。
目の前で繰り広げられる光景に、僕は唖然としていた。
幽霊が、幽霊と闘っている。
それも片方は僕を守ろうとしてくれている、のか?
「何してる。早く逃げろ!!」
男子生徒は肩越しにこちらを振り返り、叫んだ。
その声にハッとした僕は、今度こそその場に立ち上がって階下を目指した。
二岡に倣って、数段飛ばしで階段を駆け降りていく。
後ろを振り返る余裕はなかった。
二人の幽霊がその後どうなったのかはわからない。
幽霊同士で闘って決着がつくものなのか、それも疑問だった。
無力な僕は九死に一生を経て、曰くつきの校舎から夕暮れのグラウンドへと逃げおおせたのだった。
◯
自転車で下校する道すがら、僕の心臓はまだバクバクと言っていた。
あれは一体なんだったのだろう。
本当に現実だったのか。
あるいは夢か幻覚でも見ていたのか?
最速で家に帰り着き、母親との会話もそこそこに二階の自室へ上がる。
カバンを放り出してベッドの上に倒れ込んだところで、それまで存在を忘れていたスマホを手に取った。
画面にはSNSのメッセージを受信した通知がある。
「大丈夫か?」と二岡から一通届いていた。
「今さらどのツラ下げて……」
元はといえば、二岡があの旧校舎へ僕を誘ったのだ。
そのくせ、いざ怪奇現象に見舞われると僕を置いて一目散に逃げ出した。
お互いに極限状態だったとはいえ、信用はガタ落ちだ。
とりあえず無事、とだけ返信すると、すぐさま二岡から着信があった。
けれど今は頭が混乱していて話す気力もない。
明日もどうせ教室で顔を合わせるのだからその時に話すと伝えて、僕はスマホを投げ出した。
仰向けのまま目を閉じて、あの旧校舎であったことを一つずつ思い出していく。
『俺は悪霊じゃない。普通の幽霊だ』
普通の幽霊、なんてワードを耳にしたのは初めてだった。
彼に言わせれば、ただそこにいるだけで無害な幽霊は悪霊じゃない。
でも、幽霊ってそもそもそこに存在するだけで、僕らにとっては恐怖の対象になるんじゃないのか?
疑問ばかりが浮かぶ。
彼は本当に、僕らに手を出したりしないのだろうか。
そして、あの場所にいた本物の悪霊は何者だったのか?
あの女の幽霊から、彼は僕を守ってくれた。
幽霊同士が争うなんて今まで想像したこともなかったけれど、彼は無事なのだろうか。
どれだけ頭を整理しようとしても、わからないことだらけで答えは出なかった。
その夜はほとんど眠れなくて、翌日は見事に寝不足のまま登校する羽目になった。
◯
僕が教室へたどり着いた時、二岡はすでにクラスメイトたちに取り囲まれて鼻息を荒くしていた。
「あの場所には悪霊がいる! やっぱり噂は本当だったんだよ。あの校舎の三階で死んだ男子生徒が化けて出るんだ」
二岡が大仰なジェスチャーとともに説明すれば、周りの面々は驚いたり頷いたりして話の続きを催促する。
あの旧校舎の三階へ実際に足を踏み入れた二岡の武勇伝は、その場の全員の好奇心を刺激していた。
これはまた厄介なことになったな、と僕は肩をすくめた。
旧校舎に悪霊がいること自体は間違いないのだが、その正体はあの男子生徒じゃない。
彼が濡れ衣を着せられているこの状況は、さすがに看過できなかった。
「おい二岡。勝手に話を進めないでよ」
クラスメイトたちの群れの外側から僕が声をかけると、二岡は途端にぱっと顔を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。
「おお! おはよ、市川。お前も無事に生還できて何よりだ」
彼は昨日のことなど微塵も悪びれることなく僕に笑顔を向けてくる。
自分だけ先に逃げ帰ったくせに……と言ってやりたいところだったが、他のクラスメイトたちもいる手前、二岡の評判を下げるようなことはしたくなかった。
ただ、一つだけどうしても訂正しておきたい箇所があった。
「噂の男子生徒だけど、あれは悪霊じゃないよ」
悪霊の正体は彼じゃない。
そこの誤解だけは解いておきたかった。
昨日実際に悪霊に襲われた僕は、彼のおかげで命拾いしたのだ。
しかしこの僕の一声で、その場は水を打ったように静まり返った。
目の前の二岡の笑顔も、次第に歪なものになっていく。
「は? 何言ってんだよお前」
本当に予想外の発言でびっくりしたのだろう。
いつもの三白眼が今は四白眼になっていた。
「二岡の言う通り、あの場所には確かに悪霊がいる。だけど、十年前にあそこで死んだっていう男子生徒とは別物なんだ」
そんな僕の指摘に、斜め前にいた女子生徒が反応した。
「え、待って。何それ。もしかして、幽霊は一人じゃなくてもっといっぱい居るってこと?」
食いついて欲しい所はそこじゃなかったので、僕はなんとか軌道修正を試みる。
「いっぱいと言うか、幽霊は二人いる。でも悪霊は一人だけで、噂の男子生徒は悪い霊じゃないんだ」
「悪い霊じゃないって、なんでわかるんだよ? そいつも幽霊なんだろ?」
「幽霊に良いも悪いもないっしょ」
僕が発言する度に、周りから疑問や反論が飛んでくる。
これは想像以上に説明が難しいかもしれない。
「おい市川。お前どうしちゃったんだよ。悪霊じゃないとかなんとかってそれ、まさか幽霊の味方をするつもりか?」
二岡は信じられないと言わんばかりの顔で僕を凝視する。
他の女子も追随して、僕に不審な目を向け始める。
「市川くん、大丈夫……? なんか様子が変だよ」
「もしかして幽霊に乗り移られたりとかしてないよね?」
あの男子生徒の身の潔白を証明するつもりだったのに、それが失敗したどころか、今度は僕自身の立場まで危うくなってきた。
このまま会話を続けていても、僕はますます自分の首を絞めるだけかもしれない——そんな焦りを感じていたところへ、まるで助け舟を出すように校内には予鈴が鳴り響いた。
それぞれの席へ戻っていくクラスメイトたちを見送りながら、僕は安堵とも落胆ともつかない溜め息を吐く。
みんなの中にある悪霊への恐怖心というものは、想像以上に根深いものがあるらしい。
『お前らって本当にそうだよな。人のことをイメージだけで決めつけて、実際のことは知ろうともしない。噂話の内容が面白けりゃ、真実なんてどうでもいいんだ』
本人が怒るのも無理はないな、と思った。
人は一度こうだと思い込むと、その認識を改めるのは難しい。
ましてや怪談は娯楽の一種だ。
盛り上がりに水を差すような意見は、周りの圧力によって淘汰されてしまう。
◯
授業中、僕はずっと上の空だった。
いくら目の前の教科書に集中しようとしても、気づけばあの旧校舎の彼のことを思い浮かべてしまっていた。
「……川。おい市川、聞いてるのか?」
はっと我に返ると、いつのまにか担任の数学教師がすぐ隣に立っていた。
「あっ、はい! 聞いてマス」
僕が慌てて返事をすると、担任は呆れたように溜め息を吐き、それを見たクラスメイトたちがくすくすと笑う。
「今日の市川くん、やっぱり様子がおかしいよね」
「本当にあの校舎の幽霊に取り憑かれちゃってたりして……」
静かな教室の中で、僕への疑惑の声があちこちから聞こえてくる。
僕だけならともかく、これでは三階の彼の評判までさらに落としてしまう可能性があった。
あの旧校舎にいる幽霊はやはり、こうして実害をもたらす悪霊なのだと再認識されてしまうかもしれない。
彼は僕のことを助けてくれたのに……。
これでは恩を仇で返してしまうことになる。
この場合、僕はどうするのが正解なのだろう。
下手に首を突っ込んで状況を悪化させるよりは、自然の流れに任せて静観を決め込むべきなのか。
けれど本当にこのまま放っておいていいのか?
三階の彼が悪霊ではないことを知っているのは、今のところ僕だけだ。
僕がここで声を上げなければ、彼はこれから先もずっと誤解されたままになるかもしれない。
ぐるぐると頭の中で一人会議を続けている内に、今日もまた放課後がやってきた。
二岡は塾があるらしく、軽い挨拶を寄越しただけですぐに教室の外へと消えていった。
高校生になったらバイトに部活動……と充実した毎日を送るための準備をしたかったのだけれど、いかんせん今の僕はあの旧校舎に全意識を持っていかれている。
三階の彼のことがどうしても気になってしまう。
あの場所にもう一度行けば、彼に会えるのだろうか。
けれど会える保証もなければ、僕自身の安全面も確保されていない。
無力な僕が再びあそこへ向かったところで、今度こそ悪霊に取り殺されるかもしれない。
でも……。
このまま何もしなければ、僕は後悔する気がする。
それこそ小学生の時に抱えた心の傷が、今になって疼く。
やっぱり、彼のことを放ってはおけない。
ともすれば折れそうになる心に喝を入れて、僕は一人で旧校舎へと向かった。
◯
運動部の活気に満ちたグラウンドを通り越すと、敷地の端にひっそりとその校舎は建っていた。
入口の扉付近には剪定のされていない大木がいくつも立ち、そこを訪れる人間の姿をそれとなく覆い隠してしまう。
昨日、この校舎から慌てて飛び出した僕は扉を閉めるのを失念していた。
そして今日この時間になっても扉は開け放されたままだったので、おそらくその間は誰もここを訪れなかったと思われる。
生徒だけでなく教師ですら、この校舎の見回りには来ないということか。
ざあっと周囲の木々が揺れて、肌を撫でる風の冷たさに僕は身震いした。
そろそろ四月も半ばだけれど、今日みたいな曇り空ではまだまだ上着が恋しくなる。
辺りに人の気配がないのもあって、なんとなく胸の内側まで寒々しかった。
「……お邪魔しまーす」
その場の静けさを少しでも誤魔化したくて、僕は意味もなく声を出した。
当然返事はなく——あっても困るのだけれど——相変わらず薄暗いそこへ恐る恐る足を踏み入れる。
入って正面の右側に、例の階段があった。
ここを登れば目的の三階はすぐだ。
建物の中は相変わらずカビ臭くて、息を吸う度に喉の奥にホコリが溜まる感じがする。
せめて窓を開けて風通しを良くしようかとも考えたけれど、カーテンを開けた先に何かが待ち構えている可能性が頭に過ぎってやめておいた。
そうこうしているうちに、僕の足は例の場所までたどり着いた。
旧校舎の三階、階段を上り切った辺り。
正面の壁には薄汚れた縦長の鏡が嵌め込まれている。
今のところ、映っているのは及び腰になっている僕の姿だけだ。
寝不足による目のクマは思ったよりも酷くて、あの幽霊の彼よりもよほど悪霊っぽい顔をしている。
「また来たのか」
「ひゃっ!?」
唐突に声をかけられて、僕は飛び上がった。
気配も何もなかった廊下の角に、いつのまにか例の男子生徒が立っていた。
昨日と同じくブレザーの制服に赤いネクタイを付けている。
「そんなに怖がるなよ。傷つくだろ」
「ご、ごめん……」
ひとまず女の悪霊ではなかったことに胸を撫で下ろす。
とはいえ、目の前に本物の幽霊がいるのにホッとするというこの状況は、なんだか奇妙だった。
「で、なんでまた来たんだよ。昨日の一件で肝試しは懲りたんじゃなかったのか?」
彼は両手をポケットに突っ込んだまま、まるで世間話でもするように尋ねてくる。
こうして話す様子は教室のクラスメイトたちと何も変わらなくて、彼が幽霊であるのが信じられないくらいだった。
「その……昨日はありがとう。キミのおかげで助かったよ」
僕が素直にお礼を言うと、彼は廊下の先を見つめて「別に」と短く返した。
「体は、大丈夫なの? 昨日はあの悪霊と揉み合いになってたけど」
「まあ、俺はもう死んでるからな。実体がないわけだから、怪我をすることもない。逆に言えば、あの女の幽霊のこともどうすることもできないんだけどな」
改めて説明されると、確かにそれもそうか、と納得した。
なんにせよ、彼が怪我をしていないのなら良かった。
「俺に礼を言うために、わざわざここまで来たのか?」
「それもあるけど……」
彼に感謝を伝えたかったのはもちろんのこと。
僕がもう一つ話したかったのは、これからのことについてだった。
「できるなら僕は、キミが悪霊でないことを周りに証明したいと思ってる」
そんな僕の提案を聞いて、幽霊の彼は探るような視線をこちらへ寄越した。
「証明って、どうやって?」
「それは……これから考える。だから、まずはキミと相談しようと思って」
「つまり具体的な策はないってことか」
ハッと彼は鼻で笑った。
僕も僕で、自分の無謀さと計画性の無さは自覚している。
「確かに有効な策はまだ考えられてないけど……でも、あの女の霊を鎮めることができれば、少なくとも祟りの噂は無くせるんじゃないかと思ってる。お坊さんとかにお祓いを頼めば、少しは効果があるんじゃないかな?」
「お祓いねぇ」
彼はチラチラと辺りを見渡した。
今のところ、近くに女の幽霊の姿は見当たらない。
「そりゃ、悪霊の噂がなくなるなら俺は嬉しいけど。でも大丈夫なのか? あの女の霊と接触して、万が一お前に死なれたら俺も寝覚めが悪いんだが」
最悪の場合、僕も命の保証はない。
目の前の彼はぶっきらぼうな言い方をしているけれど、僕のことを心配してくれているのが伝わってくる。
「わかってる……。でもやっぱり、キミが悪霊だって誤解されてる状況を見て見ぬふりはできないよ」
「昨日の恩返しがしたいってだけならやめとけよ。俺が昨日お前を助けたのは、俺自身がもう失うものは何もなくて、自分の身を案じる必要もなかったからだ。でもお前は違うだろ。お前はまだ生きてる」
あくまでも僕の身の安全を最優先に考える彼は、きっと生前も優しい生徒だったのだろうなと思った。
見た目もイケメンの部類に入るし、体つきからするとスポーツもできるモテ男だったのかもしれない。
そんな彼が青春の真っ只中に亡くなって、しかも悪霊扱いされている現状が残念でならなかった。
本来なら誰よりも愛されて然るべき人間が、こんな暗くじめじめとした場所で怖れられているなんて。
「恩返しがしたいって気持ちも、もちろんあるよ。でも、たとえその気持ちがなくても、僕はキミのことを助けたいと思ってる」
自分でも驚くくらいに素直な言葉が出た。
彼の力になりたい。
誰もが誤解している彼の噂をなんとかしたい。
「なんでそこまでして、俺に協力しようとするんだ?」
つい昨日会ったばかりの相手に、なぜそこまでするのか。
その意思の根底にあるものを、僕は自覚している。
「……僕も昔、人のことを勝手な思い込みで決めつけてしまったことがあるんだ。その時のことは、今でも後悔してる。だから、今ここでキミのことを見捨てたら、僕はまた後悔すると思うんだ」
それは僕がまだ小学校に入ったばかりの頃のことだった。
当時の僕は、その場の空気や自分の持つイメージに流されて、大事な友達を信じることができなかった。
実際に何が起きているのかを知ろうともせず、真実から目を背けていた。
周りから濡れ衣を着せられ、非難を浴びるその子を助けようともしなかった。
「なるほどな。過去の経験を、俺に重ねてるってことか」
「キミのことをあの時の代わりだと思ってるわけじゃないよ。ただ僕は……」
「わかってるよ。もう二度と後悔したくないからってことだろ? 俺からすれば、どんな理由であれ協力してもらえるのはありがたい。それに今はお前にしか頼めないし。お前がそれでいいって言うなら、俺はお前のことを頼るぞ」
言い終えるが早いか、彼はこちらへ右手を差し出してきた。
僕が戸惑っていると、彼は手を揺らしながら「握手だよ」と催促する。
握手なんて、できるのだろうか。
恐る恐る僕も手を伸ばしてみると、お互いの指先が重なって、そのまますり抜けていった。
やっぱり触れられない。
幽霊である彼は実体がないので当たり前だった。
それでも、彼はまるで僕の手を握るように、やんわりと指を曲げる。
「そんじゃ、改めて。俺は坂井だ。坂井翼」
「坂井……くん」
「別に呼び捨てでいいけど」
「でも、一応は先輩でしょ? もし生きてたら、僕よりもずっと年上のはずだし」
亡くなった時の年齢は今の僕に近かったのかもしれないけれど、生年月日で計算すれば十歳以上は離れているはずだ。
「まあ、好きにすればいい。それで、お前の名前は?」
「僕は、市川陸」
「市川か。呼びやすいから陸って呼ぶわ」
こうして話していると、彼が幽霊であることを忘れてしまいそうだった。
陸、なんて下の名前で呼ばれるのはこの高校に入学してから初めてのことだし、クラスメイトの二岡よりもよっぽど距離が近いように感じてしまう。
自己紹介が終わると、坂井くんは右手を引っ込めた。
お互いの手の温度は感じられなかったけれど、重ねられた手が離れていくのはなんとなく名残惜しかった。
「やっぱり、幽霊には触れられないんだね。でも、この場所で祟りが起こるってことは、あの女の幽霊は生きてる人間に干渉できるってことなのかな?」
「悪霊になるとそうなのかもな。俺もこのままずっとここにいたら、いつかあの女の幽霊みたいになるのかも……」
無害な幽霊から、有害な悪霊へ。
強い怨念が積み重なっていけば、いつかは坂井くんもあんな風になってしまうかもしれない。
「俺は悪霊にはなりたくない。今の俺のままで成仏したいって思ってる」
「成仏……か」
幽霊が自ら成仏を望むというのは、なんだか不思議な感覚だった。
「悪霊の噂がなくなって、みんなの誤解を解くことができれば、坂井くんも成仏できるのかな?」
「たぶんな。俺もここ数年はずっとそれだけが気がかりだったし。この世の未練ってやつを解消すれば、俺もこの場所から解放されると思う」
未練を晴らして成仏するということは、彼が今度こそこの世から完全にいなくなるということだ。
そう考えると少し寂しい気もするけれど、彼自身がそれを望んでいるのだから仕方がない。
それに、むしろこんな場所で永遠の孤独を味わう方が悲劇だとも思う。
「わかった。僕にできることならなんでも言ってね、坂井くん」
「悪いな。これから頼むぞ、陸」
相手は幽霊だというのに、こうしてお互いの名前を呼び合うと、まるで新しい友達ができたみたいだ。
こうして、僕ら二人の奇妙な協力関係は始まったのだった。



