波打ち際のチョコレート

帰国

自国に帰ってきた私。
あの街にいた頃は、まるで夢のような世界だった。
自国に戻ると、どんよりと重い空気と古い記憶の中に引きずり込まれそうになりながら、
毎日、あの街での日々を思い返す日々を過ごしていた。


薄れゆく自分

こっちに帰ってきてから、あの街での日々が薄れていくのを感じていた。
記憶の中では鮮明に覚えている。
でも、同じ場所にいない。共通の日常がなくなった私と友人たちとの間の隙間は、日に日に広がっていく。
こっちの写真を送っても、向こうの写真をもらっても、
「私がもう向こうにいない」という事実を突きつけられるだけ。
国が変われば、生活が変われば、共通して話せる話題は自然と減る。
日々、メッセージをやり取りする頻度は少なくなっていった。
あの街と私の国は、地球のほぼ裏側。時差は九時間。
朝八時に私が起きる頃、向こうは夜の十一時。まさに寝る時間だ。
私が仕事を終える頃、向こうはようやく一日を始める。
一日の出来事を伝えたくても、「向こうは寝てるかな」と遠慮して。
仕事が終わっても「彼は起きたばかりで忙しい時間だよな」と遠慮して。
そうこうしているうちに、こっちも寝る時間になる。
この九時間の時差が、連絡の頻度を減らす原因にもなっていた。
彼らとの連絡が減るごとに、自分も忘れられていく気がして、怖かった。
夢のように記憶にははっきりあるのに、あの頃の日々の温度感が失われていく感覚が、
背中をすうっと冷たく撫でる。
頭ではわかっている。自国に戻った友達は多い。
連絡が減るのは、彼らが新しい生活に馴染んでいる証拠だ。いいことなんだと、自分に言い聞かせる。
でも、ただただあの頃の日々が、頭からも心からも離れなかった。
必死に、あの街で少しオープンになった自分を失わないようにしている。
それでも、すぐに殻に閉じこもって元の自分に戻ってしまう頻度が、増えているように感じてしまう。
彼は私の心を和らげてくれた。彼の前で泣けるようになったあの一年。
ここにいることは、私を泣かせるどころか、心を少しずつ乾かしていってしまう。
そんな自分が嫌で。ここにいる自分が嫌で。


How are you が恋しい

"How are you?" が恋しかった。
共通語での "How are you?" は社交辞令で、「おはよう」と同じくらいの重みしかないのはわかっていた。
それでも、「テストが大変でちょっと疲れてる」「元気だよ」と返すだけの、
あのちょっとした会話が、無性に恋しかった。
"How are you?" と聞かれたら、「新しい生活は楽しいし、元気だよ」と答えるだろう。
でも今、誰かに "How are you?" と聞かれたら、泣いてしまいそうだ。
それくらい、あのやり取りが恋しかった。


君はハグをくれたんだ

そんな中で、君だけは連絡の頻度を減らさずにいてくれた。
君は朝起きた時に、「今日はどんな一日だった?」と私に聞いてくれた。
そんな風に、私がまだ君の中に確かに存在していることが、とても心強かった。
電話越しでも、彼は私にエネルギーをくれていた。
彼とのやりとりが、「あの頃の私は夢じゃない」と私に言い聞かせる支えになった。
他の友達との連絡が減るのとは反対に、彼がどんどん心の拠り所になっていった。
多分それは、彼にとっても同じだった。
彼はあの街に残ると決めたけれど、仕事が見つからなかったり、元々の計画で帰国する友達は多く、私たちの共通の友達の中で、あの国に残ったのはほとんどいなかった。
互いに "nobody" じゃなくて "somebody" なんだと、お互いに感じられていたのだと思う。
ある日、この国に一人でいるのが寂しくて、私は神様に願った。
「神様、私を一人にしないでください。誰か、私にハグをくれる人が欲しいです」
その夜、彼は私に電話をかけてきた。
"How are you?" と聞いてくれて、
「私の国に一週間、行こうと思っている」と言った。
その瞬間、心がぎゅっと抱きしめられたような、安心感に満ち溢れた。
ショックですぐに言葉を返せなかった私を前に、
「どう思う?」と聞いて、すぐに君は目を逸らした。私の返事を恐れるかのように。
この日、この瞬間、こんなにも距離は離れているのに、君はハグをくれたんだ。
欲しいと願ったそのハグとは、私を「ここにいるんだ、いていいんだ」と感じさせてくれる感覚。
そして彼は、私がまだここにいて、彼の中にいることを伝えてくれた。
疲れていたのもあって、泣けてしまった。その温かみは、おでんの大根のように、じんわりと染みわたった。
彼はそんな私を見て、焦ったように「どうしたの?」と聞いてきて。
彼は私が落ち着くまで待ち、今日会ったこと、孤独を感じて神様に願ったこと、
そして君が電話をかけてきたことを、順番に静かに話させてくれた。
神様、私の人生の中に彼を存在させてくれてありがとう。
どうか、彼の人生の中で、私も何か意味のある存在でありますように。


オレンジチョコレート

そしてその数ヶ月後、彼は本当に来た。
本当に、本当に、会いに来てくれた。
行ってしまうんじゃなくて、来てくれて、本当にハグをくれた。
そして、たくさんのプレゼントを持ってきてくれた。
いつも私がハグできるように、と蜂のぬいぐるみと、鶏の置物。
そして、私の一番好きなオレンジチョコレートも。
一年前の誕生日。私たちの誕生日は二人とも十二月だった。
私は彼にご飯を作って、好きな映画の原作本を贈った。
残らないものと、残っても人生の糧になるようなストーリーの本。
彼はコップをくれた。「女の子にあげるプレゼントはコップに限る」って。
あの時は他の子と一律のプレゼントだった。
今日は、私だけのためのプレゼント。心が躍った。


一週間

それからの一週間、普通のカップルがするようなことを、いっぱいした。
一緒にディズニーランドに行き、彼は飛行機が好きだから空港近くで飛行機を見て。
美味しいご飯を食べ、店員さんとの会話を私が通訳し、観光名所で一緒に写真を撮った。
ただただ、二人だけの時間だった。
私は一人旅も好きだったけれど、君は教えてくれた。
「大切なのは経験だけじゃなくて、誰と過ごすかだ」と。


小さな気遣い

この一週間、ほとんどの時間を一緒に過ごした。
彼がスマホを見たのは、本当に必要な時だけ。
他の時間は「何したい?」「何がいい?」と私の意見を聞いてくれた。
私が欲しそうにしているものを読み取り、考えて決めてくれた。
言うのを躊躇うと、「なんで言わないの?」とも言われたけど。
考えてくれてるんだって。
小さなことで、こんなにも温かい気持ちになれるなんて、初めてだった。
彼が隣にいるだけで、あんなにどんよりとしていた風景が、穏やかに見えた。
ホテルを予約したって言ったら、"Good job" って褒めてくれた。
ちゃんと気にかけてくれてるんだって感じた。
祝日で観光施設が混んでいても、電車の時間が合わなくても、
行きたい店が予算オーバーしても、ずっと辛抱強くいてくれた。
前に「退屈なやつ」って言われたのが、「楽しい」って言ってくれた。
他の人に好かれるのはストレスに感じるけれど、
私が彼を笑顔にできることが、私をもっと笑顔にした。


これ以上は

この一週間、たくさん話した。
二人とも、先の見えない不安と、でも今確かにある絆を感じていたから。
私から口を開いた。「私からは、これ以上何も言えないって。あなたの幸せを願うから」
互いに「いい人」だから、とか理屈じゃなくて、
私たちの相性は良くて、一緒にいたら互いにより幸せになれるって思える。
でも、二人ともが幸せじゃないといけない。
そんなことは奇跡のようなものかもしれないけれど、私は二人が幸せになれると思う。
でも、それは私の考え。
だから、あなたが「私たちが幸せになれる」とそう思えない間は、私はこれ以上何も言えないって伝えた。
遠距離恋愛。簡単にはいかないことも想像できるから。
一つだけ言えるのは、「一緒になっても、ならなくても、私はずっとあなたのことを care し続けるってことだけ。それだけは心配しないで」
本当に君のことを想い、気にかけ、考えていた子がいたんだと、覚えていてって。
君は私にとって、良き親友で、兄で、弟で、父で、母で……
どの関係性の愛も見せてくれた人だから。例えるなら、『千と千尋の神隠し』のハクと千尋のような。
あなたの隣で、どうでもいいことで笑い合い、深い話をし、ただ互いのためにそこにいる。
そんな一人になりたい。
でも、誰かが君の隣でその役をするのを見る準備もできている。
大事なのは、君の幸せだからって。
そしたら君は言った。
「不要太懂事, 不要太独立, 依赖其他人也是可以的(あまり物事を分かりすぎないで、自立しすぎないで、他の人に頼ってもいいんだよ)」
もっとずっと一緒にいたかった。
次は彼の国に来いよ、って言ってくれた。
彼は「君と一緒だから楽しい」と言ってくれた。
そして、「君は僕にとって特別な存在なんだ」と。
一歩一歩、進んで行こうって。


言語

彼は言った。「私たちが関係を進めていくには、言語を勉強しないとね」
彼は、自分の言ったことが私に理解できない時、すごく悲しくなるという。
互いに理解できない感覚が苦しい、と。
この感覚は、違う言語を話す私たちの間で、より大きな壁となる。
人は自分の中にあることの50〜70%ほどを言語化できると言う。
その中でも、複雑な心情のうち表せるのは、一番強烈な20〜40%ほどなんじゃないだろうか。
そしてそれは、受け取る側のフィルターを通るとき、理解できない部分は削がれ、
全体の10〜20%ほどしか伝わっていない可能性がある。
私たちの場合、彼は私のペースを待ってくれる。
私もそれに応えようと、深く考えて言語化できるよう頑張る。
私の感覚は、自分の考えの30%ほどを共通語で言語化できている。母語よりは簡潔だけれど。
それを彼が聞く時、文化と言語の大きな壁がある。
共通語で聞いたことを彼がどう処理するか定かではないが、その過程には彼の育った環境と母語の影響があり、
私と共通する文化を持たない。
その差を、互いへの想いと、これまでの歳月、そして私たちの繊細さ、
彼が人の微妙な心理の変化に気づくレーダーで、少しだけ補う。
それでも、最終的に伝わっているのは5〜10%ほどだと思う。
でも、それが核心の部分だから、いいんだと私は思う。
他の人と話す時、内向的な私は自分の考えの10%も口に出せない。
その結果5%ほど伝わったとしても、それは私の表面的な部分に過ぎない。
私の内部の5〜10%が伝わっている感覚は、表面の5%が伝わる感覚より、ずっと温かい。
反対に彼は男の子。そもそも心情をあまり口にしない。
彼の気持ちは、電話中は私のレーダーで、会っている時は肌で感じられるけれど、
離れている時、彼が何を考えているかは、話してくれないとわからない。
彼にとって、私がもっと話せる存在になりたいと心から願った。
そして、彼の言葉を勉強すると、深く心に誓った。
それは私たちを阻む障壁ではなく、飛び越えるべきハードルだ。
私が理解を間違えて彼を傷つけてしまうかもしれないから、より慎重に。
それと同時に、私にとっては、たとえ彼が私の言葉を完全に理解しなくても、
悲しんだり動揺したりすることはなかった。
そんなことより、あなたがここにいて、私の話を聞いてくれる、それだけで温かった。
彼は、私を理解できてもできなくても、私らしくいさせてくれる。
もっとありのままの自分を見せたい。あなたの前で本当の自分を見せたい。
新しい私を見てほしい。新しい彼を見たい。
でも愛は、身勝手じゃだめだから。彼の声を、しっかり聞かないと。


Break through

彼は「文化」についても、考えを教えてくれた。
「心を開くか開かないかを決める能力を身につけろ。そのスキルがあれば、
心を開いた状態か、閉じた状態か、自分でコントロールできる」
文化に支配されるのではなく、私が文化を支配し、コントロールできるように。
話し方、振る舞い方、全てにおいて。
もしそれで人々が去ったとしても、それはそれで構わない。
もしかしたら、その心を開く力をコントロールする能力が、
今まで私の世界にいなかった人々を留めておく理由になるかもしれない。
誰かを世界に留めておくために、私が変わる必要はないんだと。
「何かお手伝いできることはありますか?」と尋ねる。
もし彼らが興味を持ち、関わり、新しい世界観を見つけてくれたら素晴らしい。
そうでなくても、それでいい。
大丈夫。
"Break through"。その一歩がどれほど大きいか。
大きければ大きいほど、大きな変化をもたらせる。
「私たちの関係のように」と、彼は悪戯っぽく笑った。
その横顔は、窓から差し込む光に、まぶしく映えた。


空港

別れの時は、すぐにやってきた。一人になったら、きっと泣く。
それでも今は、一緒にいる間は、嬉しそうな君の笑顔に釣られて笑おうと頑張った。
結局、泣いてしまったけれど。
ただ一緒にいたいだけなのに、そんなシンプルなことが、なぜこんなに難しいのだろう。
世界は、広すぎる。
ただあなたと一緒にいたいだけ。ただもっと、一緒にいたいだけ。
でもこの一週間、一緒の時間をくれた。
胸が涙で熱くなって、ただ「ありがとう」しか言えなかった。
空港のベンチで、時間ギリギリまで一緒に座っていると、
彼は尋ねた。「俺の彼女になりたい?」
顔を見つめて、「うん」と答えた。
しばらくして、もう一度「じゃあ、付き合う?」と聞かれ、
「うん」と頷いた。
そんなこんなで、恋人同士の "You and Me" が始まった。