波打ち際のチョコレート

春の訪れと、迫る別れ

季節が静かに一周し、夏の気配を少しだけ運んでくる春。
日差しが少しずつ柔らかくなり、街路樹の芽吹きが鮮やかになってきた頃、私の留学生活は終わりを迎えようとしていた。
帰国しなければならない日が、刻一刻と迫ってくる。
この夢のような日々がいつか終わることは、頭の片隅で分かっていた。
それでも、勉学の終わりという現実が目の前に迫り、それぞれが次の章へ進む準備に追われ、一緒に過ごす時間は自然と減ってしまっていた。


帰国一週間前

帰国への巨大な不安が、胸を押しつぶしそうだった。
元々いた寮から、最後の一週間限定の部屋に移ったばかり。
段ボール箱の埃っぽい匂いと、薄暗い部屋のじめじめした空気が、気分をより憂鬱にさせた。
「今、何してる? 会わない?」
勇気を振り絞って彼にメッセージを送った。
返信はすぐに来たが、内容は「疲れたから、また次回」だった。
こっちだって、一日中荷物を整理し、部屋を移動して、疲れ果てている。
それでも、あなたに会いたい。その一心で連絡したのに。
君にとって私が、そんなに大切な存在ではないのかという、虚しさが込み上げる。
なぜかこんな時に限って、彼は忙しそうだった。アルバイトを始めたらしい。
「仕事が見つかって良かったね」という気持ちは、
「あと何日、あと何時間、一緒にいられるんだろう」という焦りにかき消されそうになる。
それでも、もう一押ししてみた。
「一緒にピザ食べようよ」
彼の返事は冷たかった。「忙しくて時間がないから無理。他の友達を誘いな」
それでもしつこい私に、彼は苛立ったように「何がほしいんだ?」と言ってきた。
もっとあなたと時間を過ごしたかった──その一言を喉まで出しかけて、飲み込んだ。
一緒にいて楽しい友達なら、他にもいる。
ただ時間を潰したいだけなら、君じゃなくてもいい。
でも、心の奥が君を求め始めると、もう止められない。
私があなたを恋しく思う時、魂が彷徨い、居場所を失うような感覚に襲われる。
君は私のソールメイト。私の魂が辿り着いて、安心して休める場所。
私があなたに連絡するのは、誰でもいいから連絡してるんじゃないのに。
「新しいHomeはどう?」
私の返信の空白を埋めるように、彼が聞いてきた。
Home。その言葉に、胸がチクリと痛んだ。
「新しい場所は、まあまあ」と、取り繕って返信する。
Homeと、場所と、家。私は簡単に「Home」という言葉を使えない。
Homeだと感じられたのは、この街で君に出会ったからだ。
それはただの場所じゃなくて、もっと温かい、人の温もりが宿る感覚。
この一年住んだ部屋は私の場所だったけれど、決してHomeではなかった。
一人でいるだけの空間を、Homeとは呼べない。
そうやって悶々と考え込んでいるうちに、彼からは「ok」とだけ返信が来て、会話は終わってしまった。
こんな短いテキストの一言から、あなたの機嫌や温度を読み取れるようになってしまった。
もうこれ以上は連絡できない。あなたのテンションが低いのを悟って、それ以上踏み込めないほどに、私は臆病だった。
彼にとっての私は、一緒にいても「気にならない程度の好き」。
私にとっての彼は、自分の感情をコントロールできなくなるほどの、好き。
一人で薄暗い部屋にいると、不安に押しつぶされそうで、
私は重たい足を引きずるように、学校のキャンパスへと向かった。


ベンチ

私と彼が出会ったあの日、彼が腰掛けていた木製のベンチ。
そこに一人で座った。
春の柔らかな風が髪を揺らし、まだ沈みきらない夕暮れ前の空が、淡いオレンジ色に染まっている。
俯いて涙ぐんでいると、視界の隅に人影が映った。彼だった。
大学のキャンパスに入ろうとして、ベンチに座っている私に気づき、足を止めた。
二度見し、大学に入ろうかどうしようか一瞬迷った後、こっちに向かって歩いてくる。
「何してるの?」
「泣いてるの?」と言われたけれど、何も言い返せず、ただ横を向いた。
彼にもどうしてここにいるのか聞いたけれど、彼は答えず、静かに私の隣に腰を下ろした。
沈黙。私が口を閉ざしたままなのを見て、彼は笑って言った。
「ここでの日々、楽しんだってことじゃん。良かったじゃん」
彼には全てお見通しだった。
「その日々の多くを、俺が占めてるの知ってるよ」と、彼は付け加える。
そうだよ。この一年近くの日々で、どれだけあなたから多くを教わったか。
バカみたいだけれど、一番の親友で、好きな人だった。
どこまで伝わっているか分からないけれど、覚えていてほしい。
これだけ大事に思っている人がいるんだって。それだけ君はいい人なんだって。
続けて彼は、ぽつりと言った。「この街に、もう一年留まることにした。次の一年で、仕事を見つけたい」
彼がずっと帰国するか迷っていたことは知っていた。
決められて良かったね、という気持ちが半分。
もう半分は、彼が人生の大きな岐路に立ち、前に進む過程に、
何も関われなかったこと、相談してくれなかったこと、
私に話せると思わなかったことが、悲しくて。
もっと彼の懐に深く入りたかった、と 少し悲しくなった。
「楽しかったよ」
彼は突然、そう投げかけた。
「よかった」
私は前を見たまま、震える声を必死に抑えて答える。
ずっと聞きたかった。あなたが、過去を振り返ってどう思うのか。
一緒にいた瞬間は楽しかったのか、それは横にいて感じ取れたけれど、
「楽しかった」と 本当に行ってくれるかどうか、直接聞くのは怖かった。
たまに彼が漏らす「つまらない」という言葉に、
自分が負担になっているのではないかと、ずっと怯えていたから。
だから彼が「楽しかった」と言ってくれて、胸の重りが一つ外れたような気がした。
同時に、「楽しかった」と過去形で言う彼に、
もうこれ以上、近い関係でいられないのだと、現実を突きつけられた。
本当は「好きだ」と伝えたくて。
どうして「私も楽しかったよ」としか返せないのか、その理由を説明したくて。
でもこの気持ちを伝えることは、もう二度とないのだろう。
私が気持ちを伝えられるのは、心の整理がついてから。
整理がついた頃には、それはもう過去の話になってしまう。
いつか、「あの時、好きだったんだよ」って伝えられたらいいな。
何年後かに、偶然街角で再会して。
そしてその頃には、私は彼の言葉をマスターしていて、
彼の言いたいことを何でも理解できる力も身につけていて。
そんな風に成長した自分を、彼に見せたいと心から願った。
沈黙が続く中、彼はまた尋ねた。「俺は、君を傷つけた?」
私は地面を睨みつけ、その問いを頭の中で反芻する。
「傷ついた?」と聞かれれば、「傷ついた」と答える。
好きだと言ってくれて、綺麗だねって褒めてくれて、嬉しかったから。
その分、期待もして、裏切られたと感じることもあった。
だけど、「傷つけられた」とは思わない。
あなたと近くにいたのは、私自身の決断。それを彼のせいにはしたくない。
そして、彼に悪意がないのも分かっている。
ただ異国で孤独を抱え、一人で戦っていた青年の一人なのだ。
私も寂しさを彼に埋めてもらっていた。
出会ってなかったら、人を恋しく思うことも、
悔しさじゃなく、想いが募って涙があふれることも知らなかった。
一人で思いを募らせて。
傷ついたのも、傷ついてしまうのも、私の選択。
彼に罪悪感を抱いてほしくない。責めたりしない、できない。
それでも、初めて出会った日に彼と話せた自分で良かったと、心から思う。
初めて連絡が来た時、一対一で会うのは少し怖かった。
今までまともに会話が続いた試しがなかったから。
退屈そうな相手を見て申し訳なくなり、胸がチクチクする時間を持ちたくなかった。
でも、君は一対一で、笑顔で聞いてくれた。
拙い言葉に、忍耐強く耳を傾けてくれた。
だから三時間も、話題が絶えることなく話せた。
それが初めてだったから、ほんとうに嬉しくて。
嬉しくて、また会った。また会って、また話せた。
いつになったら彼は退屈そうにするだろうかと、毎回びくびくしていた。
でも毎回会えば、いつの間にかその不安は消えていた。
沈黙も、君となら怖くなくて。逆に心地よくて。
話さなきゃ、というプレッシャーもなかった。
なんなら家族の話も、心配事も、何でも話せた。
そんな風に彼の前で素直になれる自分を教えてくれて、ありがとう。
だから、私は傷ついた。けれど、それらの想いの底で「ありがとう」が波打っている。
波打ち際で、彼は濡れないように、近づいては離れてを繰り返す。
波は決して彼を捕まえきれない。彼が望まないから、捕まえない。
海底に深く渦巻く想いを抱えながら、行ったり来たりを繰り返す。
そのうち彼の背中は、少しずつ、少しずつ、波側から遠ざかっていく。
神様に頼んだら、この気持ちも取り去ってくれるのだろうか。
だけど、まだ頼めない。まだ大事に、この初恋を抱きしめていたい。
もし手放したら、本当にただの知り合いになりそうで、友達以下になりそうで。
本当に大事だから、離したくない。
彼に出会ったのは、運命だと信じたい。
彼を想う。
想いながら神様に願う。
神様、どうか彼を見守っていて。
何があっても、乗り越えて生きていけますように。
何かあった時に、私は遠く離れて、そこにいられないから。
それでも何か私にできることがあるなら、どうか私を使ってください。


最後の日

別れは、あっさりと、あえなくやってきた。彼は仕事で忙しくなっていた。
でも、最後の日は、奇跡的に一緒に過ごせた。
他の友達も、最後のお別れ会を開いてくれた。
最後に歩いて帰る道で、彼と二人だけになり、小さなバーに寄った。
二人とも、多くを語らない。
隣の席で盛り上がる人々の会話は、意味を持たないBGMのようで、
彼との間の沈黙が、かえって心地よかった。
泣きそうな時に彼を前にすると、本当に涙が零れそうになる。
他の人の前では笑ってごまかせても、彼の前では素直に泣けてしまう。
彼に会う前の私は、一人で大丈夫だった。泣いたりなんてしなかった。
彼に出会って、泣きたい時に駆け込める場所ができた。
泣いている姿を見せられる人ができた。
弱音も、心の奥底も、見せたいと思うようになってしまった。
そんな私の気持ちを察したように、彼はわざとらしく視線を逸らした。
賢い彼に甘えて。感情を悟られまいと、わざと無愛想にしている自分がいる。
本当は全て曝け出したい。でも彼がそれを受け止めきれないこと、
無理やり私の感情に直面させたくないという、彼なりの優しさと悲しみもある。
それでも何も言わずに横にいて、一緒にグラスを傾け、
「久しぶりにいいお酒だな」と笑った彼を、私は一生忘れない。
私にとっての初恋は、好きと愛と結婚を分かつことのできない恋だった。
全てをまとめて、未来まで想像してしまうような恋だった。
もう少し待ってね。そしたら、完全にこの恋を終わらせられる気がするから。
今はまだ好きで、泣かずに伝えられる気がしないから、黙っているしかないの。
伝えたい想いが、胸の中で溢れかえっているから。
七年後、それまでに色々経験を積んで、もっと素敵な女になって会いたい。
ほら、君の女を見る目も、間違ってなかったって証明したい。
もっと君の言葉を勉強して、君の言いたいことを全て理解できるようになってくるから。
明日になれば、彼と私の人生は、交わることなく、それぞれの道を歩んでいく。
楽しいな。悲しいな。
この時間が永遠に続けばいいのに、と心から願ったけれど、
彼は「別れを引き延ばしても、結局別れは来るんだよ」と言って、早々に切り上げた。
別れる直前に、彼は言ってくれた。
「You never gone, stay in everyone’s mind.(君は消えない、みんなの記憶に残る)」
誰かの記憶に、温かな痕跡を残す人になりたかった。
なれたのかな。少しは、あの頃の私から変わることができたのかな。
寂しさの中に、確かな温もりを残してくれた。
私にとって彼は、紛れもない運命の人だった。
彼にとって私は、運命の人ではなかっただけ。
運命の人同士が結ばれるのって、どうしてこんなに難しいんだろう。
悲しいね。もう一緒にいる時には泣けないけれど、一人になると涙が止まらない。
その夜は、意外とよく眠れた。
「別れる男には、花の名前を一つ教えてもらいなさい。花は毎年、必ず咲きますから」
と誰かが言ったらしい。
だけど、それは同じ国にいる時だけの話だ。
国が変われば、咲く花も、香りも、全てが変わってしまう。
皮肉なことに、言葉は一生廃れない。
ましてや彼の教えてくれた言葉は、日常の基礎であり、
誰もが気軽に口にするもの。それを耳にする度に、
教えてくれたあの日の彼の笑顔が、まぶたの裏に焼き付く。
どうせなら、彼の国の、珍しい花の名前を教えて欲しかった。


別れの後

別れは、意外とあっけなかった。
彼は「また一緒に旅行したりして、会えるかもね」と言ってきたけれど、
不必要な優しさってあると思う。彼が来ないことは、分かっている。
繋がりが途切れるのは、簡単なことだ。
全ては彼次第だって、分かっている。
だって、私は彼との繋がりを、何よりも失いたくないから。
人を喜ばせるための、叶うか分からない約束は、一番残酷だ。
嘘じゃないけれど、期待させておいて叶えられない言葉を、彼に言って欲しくなかった。
だから私は、敢えて期待する言葉を口にしなかった。
「私の国に来たら連絡してね」とも、「これからも連絡し合おうね」とも言わなかった。
ただ、「ありがとう」を伝えた。ありがとう、と。
彼と一緒に見ようと言って、途中まで見ていたドラマは、まだ見終わっていない。
結末がどうなったか、とても気になるけれど、これから先、彼なしで一人で見ることはできないのだろう。
彼の国の音楽を聴くたびに、胸が締め付けられ、涙が滲む日々が、しばらく続くんだろう。
それでも、これだけ涙を流しても、「会わなくてよかった」とは、絶対に思わない。
彼に会えてよかった。この一年を彼と過ごせてよかったと、心の底から思う。
失恋は「乗り越える」ものじゃない。
過ぎ去った日々に戻れないという事実を、ただ、受け入れることなんだ。
いつか、完全に受け入れられる日が来ますように。


その後

その後も、私たちは頻繁に連絡を取り合っている。
数ヶ月前、ふとした流れで聞いた。「遠距離恋愛って、できる?」
彼は「できない」と答えた。彼の過去を知っているから、納得した。
私の頭も、それを十分に理解していた。
今、彼と私の答えは、あの時とは真逆になっている。
私は今なら言える。「できるよ。その努力を、してみたいと思える」と。
でもそれ以上に、彼は私にとって、恋人や友達という枠には収まらない存在だ。
もっと大事な、名前のつけられない関係の人。
「好き」と「恋」。それに加えて、もう一つ、
「愛おし、愛し(かなし)」という言葉がある。
たぶん、これが一番、私の彼に対する気持ちを表している。
彼に会いたくて、寂しくて。愛おしい気持ちと、哀しい気持ちが混ざり合う感覚。
人生において、ずっと友達でいたいと思える人。
Indispensable person──なくてはならない人。
だからね、私は前に進める。一歩を踏み出せる。
お互い好きで、国やタイミングさえ違えば、きっと付き合っていたかもしれない。
だけど、タイミングが違えば、決して今のような深くて長い関係にはならなかった。
今の私たちは、存在しなかったかもしれない。
最高のタイミングで、最高の恋をした。
ずっとずっと、ありがとう。
友情は、一生ものだから。
どうかお元気で。どうかまたいつか、会えますように。
どうかまた、この波打ち際に、戻って来られますように。