それでも、私は彼と一緒に住み続け、この一年が必要だったと思うのだ。
毎日家に帰って彼の様子を見る。話しかけて顰めた心底嫌そうな顔で「あ?」って言われる。
その度にもう過去の彼はいないのだと気付かされる。
こんな日々は、私が帰国する直前まで変わることはなかった。
一人
そんな中で、彼のいない生活を彼の国で少しずつ組み立てていく日々は、ゆっくりと一人でも大丈夫なのだという気力と力を取り戻すことの繰り返しだった。
一人で映画を見に行った。
真夜中に。映画館の客はほとんどいなくて。
一人で大画面お真ん中の席を独り占めして、映画の世界に没頭できた。
一人で旅行に行った。
帰国一ヶ月前のことだった。
最後の旅は、全部自分で計画して、全部自分で予約した。旅行中一度も彼に助けを求めることなく、初めて全て自分で完結させることができた旅だった。
これまでこの国に来てからは言語が不自由で、この国のやり方も分からないから彼に頼らないといけない部分が多くて。その分、やっと自分だけの足で立てたことに、とてつもない自由を感じた。
尊敬は、相手を変えるんじゃなくて、自分らしく、相手も相手らしくいられることなんだと。それが受け入れられないのなら、それは相手の限界で。それを受け止めることも愛なのだと。帰ったら彼に怒られる日々に戻るのかと少し怖くなるほどに、開放感を味わえていた。
友達も数人できた。
家までミルクティーとかご飯をデリバリーしてくれたり、自分の恋愛話とか家族の苦悩とかを共有して話してくれたり、一緒に遊びに行ってこの国のことをたくさん教えてくれたり。
色々国関係とかがギスギスしていただけに、彼女たちの暖かさは身に染みていた。
悪夢
今日、悪夢を見た。彼には別の女がいた。結婚はしていない。けれど、彼らの間には愛があった。彼女には彼の子どもがいて、もうすぐ生まれる。
生まれるその日、彼は逃げた。「彼女と一緒に子供を育てることはできない」と言った。
「これはあなたの子供だよ」と言うと、彼は「だから何?」と言った。「俺の子供だからって、俺に自分の人生があっちゃいけないの?家族が俺を必要としてる。叔父が俺を必要としてる。行かないと」
「仕事をしながら子供を育てることはできるよ」と言うと、彼は「時間がない。ちゃんと面倒を見られない」と言った。
でも、彼女は、あなたとの生活を楽しみにしている。あなたと一緒に、これからの毎日を子供と一緒に過ごすことを夢見ている。彼女はもう、あなたとの人生を描いているんだよ。
彼は言った。「金はやれる。家族からもいくらかサポートしてもらえる」
問題は金じゃない。子供には、彼女には、お父さんが、君が必要なんだ。
「俺は彼の父親になれない。彼女はもっといい人を見つけられる。」
彼女が望んでいるのは「あなた」との生活なんだ…。
そこで彼は私を振り切って、行ってしまった。振り返ることなく、車の喧騒に飲まれていってしまった。
ここで目覚めた。目覚めた後も考え続ける。
私は彼女のために、何ができるだろう。彼女に、なんと声をかけられるだろうか。
サッカー選手の妻
新聞の記事を読んだ。彼女は世界レベルのサッカー選手の妻だった。これまで四カ国での出産を経験したらしい。夫がいるはずの国にいたのに、直前での移籍で結局一人での出産になったり、大事な試合で立ち会ってもらえなかったり、フランス語しか通じなくて翻訳アプリに頼りながらの出産だったり。そんな経験をしても、笑顔でまだ彼を支える彼女の強さに、敬服した。
私もそうでなくちゃいけなかったのかな。彼を見て、思う。私が彼の決定にいなくて、人生の全てを彼の決定に従うとしても、それでも一生支えます、一生支えたいです、そんな覚悟が必要だったのだろうか。私を見て欲しいなんて、贅沢だったのだろうか。
その決断に私を入れてくれるなら、それでもよかった。「こう考えてるんだけど、どう思う?」って聞いてくれて。私の考えを我慢強く聞いてくれて。「じゃあこうするね」って、改善案を教えてくれて。その通りにしようって努力してくれて。そんなふうに、お互いに努力し合える関係なら、私だってきっと努力できた。
でも毎回、全部決まってから言ってきて。私が頑張って心を整えて、「分かった」って言うのに、その頑張りが落ち着く前に、もう次のことが決定してしまっている。そんなの、無理だった。それも全部わがままだったのだろうか。
帰国の日は
帰国の日は、一ヶ月後に迫っていた。私は彼に、この日でいいのかって確認して飛行機を取りたかった。彼の休みの日にして、最後はきちんと別れを言いたかったし、彼に空港まで一緒に来て欲しかった。
そういうと彼は、いつでもいいと言い放った。タクシー呼んで、私をそれに乗っけて、バイバイって。それだけだって。
また心が痛かった。
もう会わないかもしれない。次いつ会えるのか会えないのかすら分からない。
これまでの5年間ずっと一緒で君を想ってきた。でも君はどうでもいいという。私がどこにいても、いなくても、生きていても、いなくても、同じだと、それほどまでに私のことを考えても気にしてもいないのかと心が痛くなり、また泣いた。
彼は彼が私を気にかけていないということには賛同も納得もできかねると言っていたけれど。彼がこのまま終わらせる気なのだと、悲しかった。
ちゃんとしたお別れが、したかった。
叔父
彼が急に数日だけ帰ると言った。なんでって聞いたら、また叔父のためだった。
私が帰国する日休めるかどうか、休んでくれるかどうか、なんとも言ってなかったのに、また叔父のためだったらすんなりと休みをとっている。何度も何度も私は最後なのだと思い知らせてくれる。
そして彼が帰ってきた時、彼はスナフキンのコートに厚底の靴を履いていた。彼なりのおしゃれ。何してきたのかと聞くと、会議だという。まだ叔父は彼が必要だったのか。問い詰めると、彼はまた彼の叔父のもとで働くことにしたと言った。
「心配することはない、私が帰国するまでの一ヶ月はここにいるから」と。
呆れて言葉が出なかった。
そんな最低限の配慮に私は感謝しないといけないのかと反吐が出た。
ちょうど彼があの街に来て、2年待ってと言ってから2年が経とうとしている時だった。もしあの時わかったと待っていたら、2年後彼は結局叔父のもとで働いていたのだ。彼を信じて待つって言えなかった自分を、どこかで私はずっと後悔していた。
あの時彼に必要だったのはそんなふうに信じてくれる人の存在だったから。待てなくてごめんっていう気持ちもどこかにあった。でも、待っていたも結局こうなるんだったんだって。結局私は彼の弱さに振り回されるだけなのかと、彼の人生の付属品にしかなれなかったのかなと、愕然とした。
彼が叔父のために働き、彼自身でなくなることは、もういいのだ。
彼自身が選んだ道で、彼自身が納得していたから。以前は彼はその道を選ばされたと思っていたけれど、今回は彼が選んだのだと思う。
彼が条件がいいからと一人で選んで、一人で始めた仕事は、長期休みのたびに授業数が減り、収入もとても少なくなるし、給料は彼が思っていたほどは多くなかったのだと思う。条件も、会社の社員の扱い方も、彼が思っていたほどではなかった。
もういい歳で、金もなく経験もなく、燻っていた。将来に対する漠然とした不安と、かといって以前のようなピュアさももう失った彼には他の選択肢は残されていないのだ。バカだなと思う。両親の言うことを聞いて、何かを守ろうとして、結局全てを失っている彼がそこにいた。もうこうなってしまった彼には神様が彼の心の中に見えなくもなっていた。
だから、この日屋上にまでいって、泣きに泣いたのは、あの日の私とこれまでの自虐と自卑を背負い続けていた私に対する涙だ。
彼を信じたくて、信じられなくて、そんな自分を責めていたけれど、そんな自分の感覚は間違っていなかったのだと、自分を許すために声を出して泣いた。
バー
バーに行った。彼にも、良い時間となったはずだった。脈拍で病気とか性格とかを見てくれるバーで。分からないことを質問して、先生も答えてくれて。とっても楽しかった。彼も通訳してくれて。先生も彼の通訳を褒めてくれるから、彼も上機嫌で通訳してくれてた。
それなのに、私の酒がまだ少し残っているのに、彼は「帰ろう」と言った。明日仕事があるから、と。まだ先生の言ったことを考えたかったし、お酒も残っていたし。楽しみの余韻にまだ浸りたかったけど、彼は帰ると私をせき立てた。彼の歩くのがとても速くて、私を置いてきぼりにして、一人でどんどん先を歩いていく。トイレっていうから、トイレに行ったらゆっくりしてくれるのかと思ったらそうでもなくて。ずっと急いでいた。
家の最寄り駅に着いた。そこに自転車が一台あった。「これで帰ったら?」と彼が聞いてきた。私が「寒い」と言うと、彼は「それじゃ俺が乗って帰る」と言った。彼は鍵を開け、「じゃあ、また明日」と言い、自転車で去っていった。なぜ、そんなに急いで家に帰らなければならなかったのか、本当にわからなかった。
家に着き、ドアを開けると、灯りは消えたままで、誰もいなかった。彼はどこへ行ったのだろう。
彼にメッセージを送った。「どこ行ったの?」
彼は「公園」と返信した。
「何してるの?」と聞くと、「おじさんの電話に出る」と。
胸が痛んだ。またおじさんのために、軽んじられた。
シャワーを浴びて気を紛らわせた。シャワーから出たら、彼が帰ってきた。私は少し酔っていて、黙ってソファに座って彼を橫に座らせた。
「2年前、あなたはあの街に来て『2年待って。2年、家族にできるところを見せて、何か成し遂げて、それから君を迎えに来る。二人の自由を手に入れる』って言ったね。見てよ、今、あなたに自由はある?ずっと、自分で言ったことを裏切り続けてる。もし私があの時のあなたを信じ続け、また裏切られていたら、暗闇の中で絶望してた」
「あの時、あなたがあの街に来なければよかった、ううん、そうじゃなくて、あなたに、私と話し合う能力があってほしかった。あなたがおじさんと働くこと、私に話してほしかった。私は聞かなかったかもしれない。あの時の私は、あなたの話に耳を傾ける寛容さを失っていたかもしれない。」
「でも、あなたが本当に望んでいたことが、私と一緒の人生でなかったなら、自分の道を歩けばよかった。そうじゃなくて、あなたは来た。あなたも私と一緒の人生を願ってた。なのに、来た時も、あまり私とコミュニケーションを取らなかった。どうやってあなたの状況がわかる?一度話しただけ、私は受け入れなかったなら、何度も何度も話してよ!」
「あの時のあなたに、私と話し合い続けてほしかった。私たちが一生、一緒に歩きたいっていう意思を見せてほしかった。あの時、私があなたがおじさんと働くことに反対したのは、あなたにはそのような環境に合わないと思ったから。特に、成長の途中にいるあなたには合わない。あの時じゃなかった。もっと君の成長を完成してから働いたほうがいいと思った」
「そしてあなた自身もあの街に来たいと言った。だから、私は君が叔父のもとで働くことに反対したんだ。何も自分勝手に私だけがあの街で過ごしたかったからじゃない。君があの街に来た後いなくなって、もう私はあの街で仕事を続けていく力も残ってなかったから帰国の道しかなかった。君との生活をあの街で思い描いていたから」
「もし本当にどうしようもなかったなら、『2年後に迎えに来る』なんて。ゼロから起業し、ほとんど経験もないあなたが、どうやってそんな短期間で家族に成功を見せられる?そんな気持ちでビジネスの世界では生き残れない。それに、成功したとしたら、それはそれで叔父はもっと大きなチャンスと成功を訳して君を離さない。君は叔父と彼の子供との間の繋ぎ役。どうしてそれが見えないの」
「だから、あの時に、私と話し合ってほしかった。『2年待って』じゃない。それは私のためではなく、あなたがファンタジーの中で生きているだけだ。私を理想主義だと責めるけれど、私は現実で生きたい。これまでだって、何もできない選択肢も約束もしてこなかった。それをしてばかりなのはあなたじゃない。」
「一緒に今後の計画を、現実的な計画を話し合って欲しかった。そんなあなたでいてほしかった。いつもあなたが決めて、私がそれに従うだけでは、私がいてもいなくても変わらない。だから私がいることで、あなたの選択が制限され、もっと難しくなるなんて感覚になってしまう。違う。私がいて、私たちがいるからこそ、一緒にもっと多くの選択肢と、生き抜く力を持てるはずなのに」
もう終わった。彼には、そんな能力がない人間なのだとわかった。この国に来たのは、あなたと一緒に話し合い、一緒の未来を描きたかったから。彼は、自分の運命を知らないふりをし、自分の人生や選択に無関心な態度を取っている。でも、本当はわかっているのだ。ただ、家族に反発する力も、自分の道を選ぶ勇気も、彼にはない。
彼は黙って私の話を聞き、私の言葉が終わる前に、怒りを抑えた表情で自分の部屋に入って行った。
その翌朝
翌朝、私はお菓子を買いに行った。
彼に、「私の話を聞いてくれてありがとう」と言おうとした。でも結局口には出さなかった。それは普通の状態であって、感謝されることではないと思ったから。
お菓子を渡した時、彼は、「もし機嫌が悪かったら、怒っていた」と言った。その時、私はやはり口にした。「うん、ありがとう、怒らなくて」と。「ありがとう」と言いながらも、心には引っかかりが残ったけれど。
「私の国では、『行って帰ってくるまでが旅』と言うの。理由も言わずに急いで一人で帰るなんて、ダメだよ」と彼に伝えた。
何が一番悲しかったのか伝えたかった。ほんとは「悲しかった」と言いたかったけれど、感情を論争に持ち込むと彼は子供じゃないんだからと怒る。だから、彼の真似をしてダメって言った。
そしたらこの瞬間、彼は怒り出した。彼は言った。私のために時間とお金をかけて、一緒にバーに行った。私がいなければ、行かなかった。全部私のためなのに、どうして私が彼を責められる?って。
私に其他の友達がいないから、彼を誘ったんじゃないのに。ただ、「私たち」がちゃんと終わりを迎えられるように、あなたを誘っただけ。
彼は言った。
「『私たち』って何だ。私たちの間に『私たち』なんてない」
私が言った「私たち」は、この瞬間の「私と彼」、お互いを指す意味だった。でも、私が過去に何度も「私たち」と言ったから、彼はこの言葉にアレルギー反応を起こしていた。彼の大声にまた私は涙を止められなくなっていた。
彼は言った。「感情で話すな」「泣くな。子供じゃないだろ。大人になれ」
彼は私の価値観を押し付けるなと言って怒鳴った。
「私の国では、『行って帰ってくるまでが旅』。これは私の価値観。どうしていつも、あなたの視点を考えるのは私だけで、あなたは私の視点を考えないの?」
私の静かな反撃に、彼は「もういい」とだけ言った。
私は彼の考えを考える。彼の論点を考える。
彼の国ドラマや映画を見て、彼の国の常識や観点も理解しようって頑張ってきた。君が知っているより、私はもっと多くを理解している。
あなたは?私の何を見てくれた?もう疲れたよ。
帰国までの一週間
最後の一週間、彼は私を叱らなくなった。
怒らないようにしてくれて、私のしたいことを一緒にしようとしてくれた。
帰国三日前、彼は突然こう言った。「君が一緒の時間を過ごそうとしている意味がわかる」と。
そして最後の1日。空港の帰国便は夜の6時。それまでの時間、朝から空港まで。一緒にドライブしてくれた。
お花畑
そのうちの一つの目的地。お花畑。オレンジ色の花がたくさん咲いていた。
「見て、めちゃめちゃきれい!」私ははしゃいでた。
そんな私を見て「君の要求は、実はそんなに高くないんだよな」と彼は言った。
そう。私の要求は高くない。ただ、真実でいてほしい。
帰り道に一緒にアイスを買って帰る、そんな小さな楽しみでよかった。ただ一緒に時間を過ごしてくれればよかった。私を見てほしい。私たちを見てほしい。私がここにいることを。あなたのためだけじゃなくて。私たちのために。全部が私のためでなくていい。でも、半分は私のためでいてほしい。一緒にご飯を食べること。ただそこにいるだけじゃなくて、私がそこにいるって感じてほしい。
この三日間、色んなところに行ったのは、一緒にできる何かが欲しかったから。何もない空白の時間を、ただ家で一緒に過ごすことになるのが目に見えていた。ご飯を食べ終わったら、何もすることがなく、彼は「疲れたから寝る」と言って、数時間部屋に閉じこもるだろう。そして、夕飯の時間になったら起きて、一緒にご飯を食べる。
何も話さず、彼の選んだ動画を見る。何か話したくて質問しても、答えてくれるだろうか?食べ終わると、彼は先にソファに行ってしまう。一人取り残された私は、黙ってご飯を食べ続ける。そして、黙って一人で片付ける。ソファに行っても、彼は携帯をいじるだけ。そんな私たちの姿が、簡単に予想できてしまう。そんなふうに傷つく自分が、簡単にイメージできてしまう。そこにいるのに、いてもいなくても同じ感覚。
外に出るとね、初めての場所に行くと、その感覚が軽減されるの。初めてを一緒に経験し、知らない景色を、あなたを見る。私がいなかったら行かなかったであろう景色を、一緒に見る。そんな「私たち」が欲しかったんだ。
そんなたくさんの想いが溢れてきたけど、もう何も言わなかった。ただ、「目の前に綺麗なものがあるのに楽しまなくてどうするの。今を楽しむ、私は君がは楽観主義なんだ」といって笑った。言っても伝わらない。最後の時間はただ楽しく過ごす。それだけでいい。
車
ドライブ中、彼は何度か〇〇の車が欲しいって言っていた。お金を持ったら、買うんだって。
私も知っている有名なブランドの車。でも意外と数百万円で買えるとか。
昔彼は私の国の軽自動車が欲しいねって言ってたのにってその度に少し寂しく感じていた。
そして、花畑を見た帰り。彼は、でも二人とか小さい家族だったら、私の国の軽自動車でもの足りるよねってポツリと言った。
あの時のあなたは、まだそこにいたのかと、少し泣きたくなった。
家族
なんの拍子か、彼の家族の話になっていた。
多分、私が今の私だったらもう少し彼の家族とも話せたのにって、友達になれたのにって言ったからだったと思う。
彼の兄は数年前に結婚して、結婚相手のお姉さんは以前会った時とても優しくしてくれてたから。
そしたら彼は、兄が彼によくするのは、よくしないといけない関係だからだという。彼の兄は叔父の姉の子供で、彼は叔父の兄の子供だから。
今彼らはなんかお金に困っていて。彼が貸したお金も帰ってきてないって。でもどうしてなのか、何にお金がいるのかは聞いてないのだという。聞いても無駄だからって。一緒にどうするか考えないのって言ったら、理想主義だと言われた。
兄の結婚相手のお姉さんも、ずっと一緒に兄と住んでいて、兄のようになっていくって。結婚なんて二人のことなのだから、お互いに影響し合うものじゃないのって言ったら、それも理想主義だと。
もし私たちが結婚していたら、私の貯金もいくらかかせたのになとぼんやりと思った。何に使うのか、どうするのか一緒に考える前提でだけど。それに理想主義がなんだか知らないが、私は一方通行に染まりはしない。だから君とも別れることになったのだなとどことなく思った。
彼が次に見つけて一緒になる子は、簡単に彼の話をうんうんと聞く女なのだ。私より彼を真っ直ぐ見て、愛してってする女は本当に見つからないと思う。より簡単な女は見つかるだろうけど。
彼の兄は彼の叔父のために今までずっと働いてきていた。彼があの街に行って、好き勝手にしていた数年もずっと。
なのに、叔父は新しい起業の機会を彼の兄じゃなくて、彼にあげた。苗字が違うからだという。それで期待の大きさも、家族の枠組みも違うのだと。
彼の国やり方だと分かったけど、彼の両親や叔父の世代がそれをするのは分かったけど、その機会をただ楽しもうとしている彼だけは分からなかった。そんなに金のある叔父のもとで働いていたのに、何年も働いていたのに、そんなふうになるのが分からなかった。
彼らが結婚した頃は、お姉さんが30になる頃で。30の線引きって子供が欲しいから目の前に迫ってくる線じゃなかったのだろうか。お金がなくて、彼らの両親も彼らの兄弟の世話を田舎でしないといけないから都市にまで出てこれない。
子供を持ったとしても世話をしてくれる人がいないという。叔父はとてもいい家に住んでいて、子供はインターナショナルスクールに入れて、お手伝いさんもいる。協力して子育てとか、なんか道はないのかななんて。思ってしまった。私がもし彼と結婚していたら、協力して子育てとかって。理想主義者。でも、私はいつも行動してきたし、考えるよ。それが鬱陶しくもあるのだろうけど。20代、30代、今しかないのに。
はずみでどうして叔父は彼には「いい仕事をあげて」って言っていた。でもそうじゃなかった。
「いい機会をあげて」だ。彼が輝くところはそこじゃなかった。将来、成功しても成功しなくても、彼が彼自身でいられるところはそこじゃない。彼はもう自分自身を失っている。それはもう、失敗。
だから、本当に、彼が成功しようがしまいが、心は空っぽのまま。私は彼に、自分が光れる場所を見つけてほしかった。叔父さんや家族のプレッシャーの中で自分を失うのではなく。だから、「いい仕事をあげて」じゃなかった。側から見たら「いい仕事」でも、彼にとってはそうじゃない。
それでも、彼らが生活を作れることを心から願っている。そして、彼がただ自分の生活を楽しむだけじゃなくて、彼らと助け合って生きる道を選ぶことも。
最後のドライブ 90分
彼が最後に、もう一箇所行こうか、さっき飛ばしたもう一つの場所に行こうか、と提案してくれた。
彼が、能動的に行こうと言ってくれた。私はとても行きたかった。彼のその能動的な気持ちを、現実に変えたかった。
でも、時間を見て、ここから空港までの距離を見て、今から行っても、空港に着く2時間前になってしまう。もう、他の場所に行く時間はなかった。
ちょっとしたやり残し。心に残りそうになって、いらないと、今を楽しもうと、急いで心の焦点を変えた。
「私に何か言いたいこと、ある?」と聞いた。
彼は「ない」とだけ言った。
最後の15分。私は緊張し始めた。
時間がない。
この時間を逃したら、もう彼と話す機会はないかもしれない。
何を聞けばいい?でも、何を言えばいいかわからない。
彼に聞いた。
「この5年間、価値があった?」
ーーあった。
「私たちが出会ったこと、後悔してる?」
ーーしてない。
私の20代の大半に、彼がいた。彼は、大学生だったときより前を除けば、この5年間は彼の人生の70%だと言った。
長い時間。たくさんの時間。私たちは、一緒に過ごした。
もう話すべき言葉も全て語り合っていた。
空港
空港で、チェックインをして。セキュリティゲートで最後の別れを告げる時間。
メッセージカードをあげた。
「覚えておいて。あなたは大切な存在だった。血のつながりや、財産、長い付き合いがあったからではなく、ただ、あなたがあなただったから」ーー彼がそう言ってくれる人を探していた時に私たちは出会ってしまったんだ。
「一番は身体。二番も身体。三番も身体。稼いだお金は、心を養うために使ってね」ーー叔父さんみたいに働いて働いて、心臓発作に倒れるなんてバカすぎる。
一緒にイヤリングをあげた。彼は以前イヤリングの穴を開けたいと言っていた。多分もう開けることはないのだろうと思ったから。彼はいいねって言ってた。
別に高いからとか、クオリティがとかじゃなくてって。
知ってる。小さなプレゼント。君は何も用意してないだろうってのは分かってたし、高いものなら前の彼女があげれるだろう。私の前でも気にせずもらったスタバのカップ使い続けて、お揃いのいいTシャツ着て笑ってたもんね。
私が伝えたいのは、何をするのにも、自分のためにしてってこと。お金を稼いで、人を感心させるためにいいものを身につけるんじゃなくて。自分の心が踊ることをしてって想いを込めてプレゼントした。
彼はこれをつけて、デートして、私が耳元で見守っているなんて冗談めかして笑ってたけど、本当にそうじゃなくて、自分が身につけたいものを身につけて、自信を持っていられることが大事なんだって。心と体は繋がっているから、お金は心を豊かにするために使ってって、伝えたかった。
伝わったのかわからないけど、もう伝わっていなくてもいいと思えるようになっていた。
なぜか分からないけれど、心はとても落ち着いていた。いつかまた、きっと会える。いつなのか、どういう形でなのかは全くわからないけれど、なぜかまた会えると感じていた。
私は「そばにいてくれてありがとう」って言った。彼は「私の忍耐に感謝」と返してきた。
私の世界では、みんな良い人だというけれど、あなたは特別だった。何度言えばわかるの。
最後のハグは3回。あの日と同じように、頭を撫でてくれた。ハグの前は泣いていて、ハグをした瞬間に、大丈夫だって、勇気に変えた。
彼が何度も最後は笑って別れようって言ってたから。
だから、ハグをするたびに心を落ち着かせて、笑顔を作った。
最後の「大丈夫」のハグだった。
毎日家に帰って彼の様子を見る。話しかけて顰めた心底嫌そうな顔で「あ?」って言われる。
その度にもう過去の彼はいないのだと気付かされる。
こんな日々は、私が帰国する直前まで変わることはなかった。
一人
そんな中で、彼のいない生活を彼の国で少しずつ組み立てていく日々は、ゆっくりと一人でも大丈夫なのだという気力と力を取り戻すことの繰り返しだった。
一人で映画を見に行った。
真夜中に。映画館の客はほとんどいなくて。
一人で大画面お真ん中の席を独り占めして、映画の世界に没頭できた。
一人で旅行に行った。
帰国一ヶ月前のことだった。
最後の旅は、全部自分で計画して、全部自分で予約した。旅行中一度も彼に助けを求めることなく、初めて全て自分で完結させることができた旅だった。
これまでこの国に来てからは言語が不自由で、この国のやり方も分からないから彼に頼らないといけない部分が多くて。その分、やっと自分だけの足で立てたことに、とてつもない自由を感じた。
尊敬は、相手を変えるんじゃなくて、自分らしく、相手も相手らしくいられることなんだと。それが受け入れられないのなら、それは相手の限界で。それを受け止めることも愛なのだと。帰ったら彼に怒られる日々に戻るのかと少し怖くなるほどに、開放感を味わえていた。
友達も数人できた。
家までミルクティーとかご飯をデリバリーしてくれたり、自分の恋愛話とか家族の苦悩とかを共有して話してくれたり、一緒に遊びに行ってこの国のことをたくさん教えてくれたり。
色々国関係とかがギスギスしていただけに、彼女たちの暖かさは身に染みていた。
悪夢
今日、悪夢を見た。彼には別の女がいた。結婚はしていない。けれど、彼らの間には愛があった。彼女には彼の子どもがいて、もうすぐ生まれる。
生まれるその日、彼は逃げた。「彼女と一緒に子供を育てることはできない」と言った。
「これはあなたの子供だよ」と言うと、彼は「だから何?」と言った。「俺の子供だからって、俺に自分の人生があっちゃいけないの?家族が俺を必要としてる。叔父が俺を必要としてる。行かないと」
「仕事をしながら子供を育てることはできるよ」と言うと、彼は「時間がない。ちゃんと面倒を見られない」と言った。
でも、彼女は、あなたとの生活を楽しみにしている。あなたと一緒に、これからの毎日を子供と一緒に過ごすことを夢見ている。彼女はもう、あなたとの人生を描いているんだよ。
彼は言った。「金はやれる。家族からもいくらかサポートしてもらえる」
問題は金じゃない。子供には、彼女には、お父さんが、君が必要なんだ。
「俺は彼の父親になれない。彼女はもっといい人を見つけられる。」
彼女が望んでいるのは「あなた」との生活なんだ…。
そこで彼は私を振り切って、行ってしまった。振り返ることなく、車の喧騒に飲まれていってしまった。
ここで目覚めた。目覚めた後も考え続ける。
私は彼女のために、何ができるだろう。彼女に、なんと声をかけられるだろうか。
サッカー選手の妻
新聞の記事を読んだ。彼女は世界レベルのサッカー選手の妻だった。これまで四カ国での出産を経験したらしい。夫がいるはずの国にいたのに、直前での移籍で結局一人での出産になったり、大事な試合で立ち会ってもらえなかったり、フランス語しか通じなくて翻訳アプリに頼りながらの出産だったり。そんな経験をしても、笑顔でまだ彼を支える彼女の強さに、敬服した。
私もそうでなくちゃいけなかったのかな。彼を見て、思う。私が彼の決定にいなくて、人生の全てを彼の決定に従うとしても、それでも一生支えます、一生支えたいです、そんな覚悟が必要だったのだろうか。私を見て欲しいなんて、贅沢だったのだろうか。
その決断に私を入れてくれるなら、それでもよかった。「こう考えてるんだけど、どう思う?」って聞いてくれて。私の考えを我慢強く聞いてくれて。「じゃあこうするね」って、改善案を教えてくれて。その通りにしようって努力してくれて。そんなふうに、お互いに努力し合える関係なら、私だってきっと努力できた。
でも毎回、全部決まってから言ってきて。私が頑張って心を整えて、「分かった」って言うのに、その頑張りが落ち着く前に、もう次のことが決定してしまっている。そんなの、無理だった。それも全部わがままだったのだろうか。
帰国の日は
帰国の日は、一ヶ月後に迫っていた。私は彼に、この日でいいのかって確認して飛行機を取りたかった。彼の休みの日にして、最後はきちんと別れを言いたかったし、彼に空港まで一緒に来て欲しかった。
そういうと彼は、いつでもいいと言い放った。タクシー呼んで、私をそれに乗っけて、バイバイって。それだけだって。
また心が痛かった。
もう会わないかもしれない。次いつ会えるのか会えないのかすら分からない。
これまでの5年間ずっと一緒で君を想ってきた。でも君はどうでもいいという。私がどこにいても、いなくても、生きていても、いなくても、同じだと、それほどまでに私のことを考えても気にしてもいないのかと心が痛くなり、また泣いた。
彼は彼が私を気にかけていないということには賛同も納得もできかねると言っていたけれど。彼がこのまま終わらせる気なのだと、悲しかった。
ちゃんとしたお別れが、したかった。
叔父
彼が急に数日だけ帰ると言った。なんでって聞いたら、また叔父のためだった。
私が帰国する日休めるかどうか、休んでくれるかどうか、なんとも言ってなかったのに、また叔父のためだったらすんなりと休みをとっている。何度も何度も私は最後なのだと思い知らせてくれる。
そして彼が帰ってきた時、彼はスナフキンのコートに厚底の靴を履いていた。彼なりのおしゃれ。何してきたのかと聞くと、会議だという。まだ叔父は彼が必要だったのか。問い詰めると、彼はまた彼の叔父のもとで働くことにしたと言った。
「心配することはない、私が帰国するまでの一ヶ月はここにいるから」と。
呆れて言葉が出なかった。
そんな最低限の配慮に私は感謝しないといけないのかと反吐が出た。
ちょうど彼があの街に来て、2年待ってと言ってから2年が経とうとしている時だった。もしあの時わかったと待っていたら、2年後彼は結局叔父のもとで働いていたのだ。彼を信じて待つって言えなかった自分を、どこかで私はずっと後悔していた。
あの時彼に必要だったのはそんなふうに信じてくれる人の存在だったから。待てなくてごめんっていう気持ちもどこかにあった。でも、待っていたも結局こうなるんだったんだって。結局私は彼の弱さに振り回されるだけなのかと、彼の人生の付属品にしかなれなかったのかなと、愕然とした。
彼が叔父のために働き、彼自身でなくなることは、もういいのだ。
彼自身が選んだ道で、彼自身が納得していたから。以前は彼はその道を選ばされたと思っていたけれど、今回は彼が選んだのだと思う。
彼が条件がいいからと一人で選んで、一人で始めた仕事は、長期休みのたびに授業数が減り、収入もとても少なくなるし、給料は彼が思っていたほどは多くなかったのだと思う。条件も、会社の社員の扱い方も、彼が思っていたほどではなかった。
もういい歳で、金もなく経験もなく、燻っていた。将来に対する漠然とした不安と、かといって以前のようなピュアさももう失った彼には他の選択肢は残されていないのだ。バカだなと思う。両親の言うことを聞いて、何かを守ろうとして、結局全てを失っている彼がそこにいた。もうこうなってしまった彼には神様が彼の心の中に見えなくもなっていた。
だから、この日屋上にまでいって、泣きに泣いたのは、あの日の私とこれまでの自虐と自卑を背負い続けていた私に対する涙だ。
彼を信じたくて、信じられなくて、そんな自分を責めていたけれど、そんな自分の感覚は間違っていなかったのだと、自分を許すために声を出して泣いた。
バー
バーに行った。彼にも、良い時間となったはずだった。脈拍で病気とか性格とかを見てくれるバーで。分からないことを質問して、先生も答えてくれて。とっても楽しかった。彼も通訳してくれて。先生も彼の通訳を褒めてくれるから、彼も上機嫌で通訳してくれてた。
それなのに、私の酒がまだ少し残っているのに、彼は「帰ろう」と言った。明日仕事があるから、と。まだ先生の言ったことを考えたかったし、お酒も残っていたし。楽しみの余韻にまだ浸りたかったけど、彼は帰ると私をせき立てた。彼の歩くのがとても速くて、私を置いてきぼりにして、一人でどんどん先を歩いていく。トイレっていうから、トイレに行ったらゆっくりしてくれるのかと思ったらそうでもなくて。ずっと急いでいた。
家の最寄り駅に着いた。そこに自転車が一台あった。「これで帰ったら?」と彼が聞いてきた。私が「寒い」と言うと、彼は「それじゃ俺が乗って帰る」と言った。彼は鍵を開け、「じゃあ、また明日」と言い、自転車で去っていった。なぜ、そんなに急いで家に帰らなければならなかったのか、本当にわからなかった。
家に着き、ドアを開けると、灯りは消えたままで、誰もいなかった。彼はどこへ行ったのだろう。
彼にメッセージを送った。「どこ行ったの?」
彼は「公園」と返信した。
「何してるの?」と聞くと、「おじさんの電話に出る」と。
胸が痛んだ。またおじさんのために、軽んじられた。
シャワーを浴びて気を紛らわせた。シャワーから出たら、彼が帰ってきた。私は少し酔っていて、黙ってソファに座って彼を橫に座らせた。
「2年前、あなたはあの街に来て『2年待って。2年、家族にできるところを見せて、何か成し遂げて、それから君を迎えに来る。二人の自由を手に入れる』って言ったね。見てよ、今、あなたに自由はある?ずっと、自分で言ったことを裏切り続けてる。もし私があの時のあなたを信じ続け、また裏切られていたら、暗闇の中で絶望してた」
「あの時、あなたがあの街に来なければよかった、ううん、そうじゃなくて、あなたに、私と話し合う能力があってほしかった。あなたがおじさんと働くこと、私に話してほしかった。私は聞かなかったかもしれない。あの時の私は、あなたの話に耳を傾ける寛容さを失っていたかもしれない。」
「でも、あなたが本当に望んでいたことが、私と一緒の人生でなかったなら、自分の道を歩けばよかった。そうじゃなくて、あなたは来た。あなたも私と一緒の人生を願ってた。なのに、来た時も、あまり私とコミュニケーションを取らなかった。どうやってあなたの状況がわかる?一度話しただけ、私は受け入れなかったなら、何度も何度も話してよ!」
「あの時のあなたに、私と話し合い続けてほしかった。私たちが一生、一緒に歩きたいっていう意思を見せてほしかった。あの時、私があなたがおじさんと働くことに反対したのは、あなたにはそのような環境に合わないと思ったから。特に、成長の途中にいるあなたには合わない。あの時じゃなかった。もっと君の成長を完成してから働いたほうがいいと思った」
「そしてあなた自身もあの街に来たいと言った。だから、私は君が叔父のもとで働くことに反対したんだ。何も自分勝手に私だけがあの街で過ごしたかったからじゃない。君があの街に来た後いなくなって、もう私はあの街で仕事を続けていく力も残ってなかったから帰国の道しかなかった。君との生活をあの街で思い描いていたから」
「もし本当にどうしようもなかったなら、『2年後に迎えに来る』なんて。ゼロから起業し、ほとんど経験もないあなたが、どうやってそんな短期間で家族に成功を見せられる?そんな気持ちでビジネスの世界では生き残れない。それに、成功したとしたら、それはそれで叔父はもっと大きなチャンスと成功を訳して君を離さない。君は叔父と彼の子供との間の繋ぎ役。どうしてそれが見えないの」
「だから、あの時に、私と話し合ってほしかった。『2年待って』じゃない。それは私のためではなく、あなたがファンタジーの中で生きているだけだ。私を理想主義だと責めるけれど、私は現実で生きたい。これまでだって、何もできない選択肢も約束もしてこなかった。それをしてばかりなのはあなたじゃない。」
「一緒に今後の計画を、現実的な計画を話し合って欲しかった。そんなあなたでいてほしかった。いつもあなたが決めて、私がそれに従うだけでは、私がいてもいなくても変わらない。だから私がいることで、あなたの選択が制限され、もっと難しくなるなんて感覚になってしまう。違う。私がいて、私たちがいるからこそ、一緒にもっと多くの選択肢と、生き抜く力を持てるはずなのに」
もう終わった。彼には、そんな能力がない人間なのだとわかった。この国に来たのは、あなたと一緒に話し合い、一緒の未来を描きたかったから。彼は、自分の運命を知らないふりをし、自分の人生や選択に無関心な態度を取っている。でも、本当はわかっているのだ。ただ、家族に反発する力も、自分の道を選ぶ勇気も、彼にはない。
彼は黙って私の話を聞き、私の言葉が終わる前に、怒りを抑えた表情で自分の部屋に入って行った。
その翌朝
翌朝、私はお菓子を買いに行った。
彼に、「私の話を聞いてくれてありがとう」と言おうとした。でも結局口には出さなかった。それは普通の状態であって、感謝されることではないと思ったから。
お菓子を渡した時、彼は、「もし機嫌が悪かったら、怒っていた」と言った。その時、私はやはり口にした。「うん、ありがとう、怒らなくて」と。「ありがとう」と言いながらも、心には引っかかりが残ったけれど。
「私の国では、『行って帰ってくるまでが旅』と言うの。理由も言わずに急いで一人で帰るなんて、ダメだよ」と彼に伝えた。
何が一番悲しかったのか伝えたかった。ほんとは「悲しかった」と言いたかったけれど、感情を論争に持ち込むと彼は子供じゃないんだからと怒る。だから、彼の真似をしてダメって言った。
そしたらこの瞬間、彼は怒り出した。彼は言った。私のために時間とお金をかけて、一緒にバーに行った。私がいなければ、行かなかった。全部私のためなのに、どうして私が彼を責められる?って。
私に其他の友達がいないから、彼を誘ったんじゃないのに。ただ、「私たち」がちゃんと終わりを迎えられるように、あなたを誘っただけ。
彼は言った。
「『私たち』って何だ。私たちの間に『私たち』なんてない」
私が言った「私たち」は、この瞬間の「私と彼」、お互いを指す意味だった。でも、私が過去に何度も「私たち」と言ったから、彼はこの言葉にアレルギー反応を起こしていた。彼の大声にまた私は涙を止められなくなっていた。
彼は言った。「感情で話すな」「泣くな。子供じゃないだろ。大人になれ」
彼は私の価値観を押し付けるなと言って怒鳴った。
「私の国では、『行って帰ってくるまでが旅』。これは私の価値観。どうしていつも、あなたの視点を考えるのは私だけで、あなたは私の視点を考えないの?」
私の静かな反撃に、彼は「もういい」とだけ言った。
私は彼の考えを考える。彼の論点を考える。
彼の国ドラマや映画を見て、彼の国の常識や観点も理解しようって頑張ってきた。君が知っているより、私はもっと多くを理解している。
あなたは?私の何を見てくれた?もう疲れたよ。
帰国までの一週間
最後の一週間、彼は私を叱らなくなった。
怒らないようにしてくれて、私のしたいことを一緒にしようとしてくれた。
帰国三日前、彼は突然こう言った。「君が一緒の時間を過ごそうとしている意味がわかる」と。
そして最後の1日。空港の帰国便は夜の6時。それまでの時間、朝から空港まで。一緒にドライブしてくれた。
お花畑
そのうちの一つの目的地。お花畑。オレンジ色の花がたくさん咲いていた。
「見て、めちゃめちゃきれい!」私ははしゃいでた。
そんな私を見て「君の要求は、実はそんなに高くないんだよな」と彼は言った。
そう。私の要求は高くない。ただ、真実でいてほしい。
帰り道に一緒にアイスを買って帰る、そんな小さな楽しみでよかった。ただ一緒に時間を過ごしてくれればよかった。私を見てほしい。私たちを見てほしい。私がここにいることを。あなたのためだけじゃなくて。私たちのために。全部が私のためでなくていい。でも、半分は私のためでいてほしい。一緒にご飯を食べること。ただそこにいるだけじゃなくて、私がそこにいるって感じてほしい。
この三日間、色んなところに行ったのは、一緒にできる何かが欲しかったから。何もない空白の時間を、ただ家で一緒に過ごすことになるのが目に見えていた。ご飯を食べ終わったら、何もすることがなく、彼は「疲れたから寝る」と言って、数時間部屋に閉じこもるだろう。そして、夕飯の時間になったら起きて、一緒にご飯を食べる。
何も話さず、彼の選んだ動画を見る。何か話したくて質問しても、答えてくれるだろうか?食べ終わると、彼は先にソファに行ってしまう。一人取り残された私は、黙ってご飯を食べ続ける。そして、黙って一人で片付ける。ソファに行っても、彼は携帯をいじるだけ。そんな私たちの姿が、簡単に予想できてしまう。そんなふうに傷つく自分が、簡単にイメージできてしまう。そこにいるのに、いてもいなくても同じ感覚。
外に出るとね、初めての場所に行くと、その感覚が軽減されるの。初めてを一緒に経験し、知らない景色を、あなたを見る。私がいなかったら行かなかったであろう景色を、一緒に見る。そんな「私たち」が欲しかったんだ。
そんなたくさんの想いが溢れてきたけど、もう何も言わなかった。ただ、「目の前に綺麗なものがあるのに楽しまなくてどうするの。今を楽しむ、私は君がは楽観主義なんだ」といって笑った。言っても伝わらない。最後の時間はただ楽しく過ごす。それだけでいい。
車
ドライブ中、彼は何度か〇〇の車が欲しいって言っていた。お金を持ったら、買うんだって。
私も知っている有名なブランドの車。でも意外と数百万円で買えるとか。
昔彼は私の国の軽自動車が欲しいねって言ってたのにってその度に少し寂しく感じていた。
そして、花畑を見た帰り。彼は、でも二人とか小さい家族だったら、私の国の軽自動車でもの足りるよねってポツリと言った。
あの時のあなたは、まだそこにいたのかと、少し泣きたくなった。
家族
なんの拍子か、彼の家族の話になっていた。
多分、私が今の私だったらもう少し彼の家族とも話せたのにって、友達になれたのにって言ったからだったと思う。
彼の兄は数年前に結婚して、結婚相手のお姉さんは以前会った時とても優しくしてくれてたから。
そしたら彼は、兄が彼によくするのは、よくしないといけない関係だからだという。彼の兄は叔父の姉の子供で、彼は叔父の兄の子供だから。
今彼らはなんかお金に困っていて。彼が貸したお金も帰ってきてないって。でもどうしてなのか、何にお金がいるのかは聞いてないのだという。聞いても無駄だからって。一緒にどうするか考えないのって言ったら、理想主義だと言われた。
兄の結婚相手のお姉さんも、ずっと一緒に兄と住んでいて、兄のようになっていくって。結婚なんて二人のことなのだから、お互いに影響し合うものじゃないのって言ったら、それも理想主義だと。
もし私たちが結婚していたら、私の貯金もいくらかかせたのになとぼんやりと思った。何に使うのか、どうするのか一緒に考える前提でだけど。それに理想主義がなんだか知らないが、私は一方通行に染まりはしない。だから君とも別れることになったのだなとどことなく思った。
彼が次に見つけて一緒になる子は、簡単に彼の話をうんうんと聞く女なのだ。私より彼を真っ直ぐ見て、愛してってする女は本当に見つからないと思う。より簡単な女は見つかるだろうけど。
彼の兄は彼の叔父のために今までずっと働いてきていた。彼があの街に行って、好き勝手にしていた数年もずっと。
なのに、叔父は新しい起業の機会を彼の兄じゃなくて、彼にあげた。苗字が違うからだという。それで期待の大きさも、家族の枠組みも違うのだと。
彼の国やり方だと分かったけど、彼の両親や叔父の世代がそれをするのは分かったけど、その機会をただ楽しもうとしている彼だけは分からなかった。そんなに金のある叔父のもとで働いていたのに、何年も働いていたのに、そんなふうになるのが分からなかった。
彼らが結婚した頃は、お姉さんが30になる頃で。30の線引きって子供が欲しいから目の前に迫ってくる線じゃなかったのだろうか。お金がなくて、彼らの両親も彼らの兄弟の世話を田舎でしないといけないから都市にまで出てこれない。
子供を持ったとしても世話をしてくれる人がいないという。叔父はとてもいい家に住んでいて、子供はインターナショナルスクールに入れて、お手伝いさんもいる。協力して子育てとか、なんか道はないのかななんて。思ってしまった。私がもし彼と結婚していたら、協力して子育てとかって。理想主義者。でも、私はいつも行動してきたし、考えるよ。それが鬱陶しくもあるのだろうけど。20代、30代、今しかないのに。
はずみでどうして叔父は彼には「いい仕事をあげて」って言っていた。でもそうじゃなかった。
「いい機会をあげて」だ。彼が輝くところはそこじゃなかった。将来、成功しても成功しなくても、彼が彼自身でいられるところはそこじゃない。彼はもう自分自身を失っている。それはもう、失敗。
だから、本当に、彼が成功しようがしまいが、心は空っぽのまま。私は彼に、自分が光れる場所を見つけてほしかった。叔父さんや家族のプレッシャーの中で自分を失うのではなく。だから、「いい仕事をあげて」じゃなかった。側から見たら「いい仕事」でも、彼にとってはそうじゃない。
それでも、彼らが生活を作れることを心から願っている。そして、彼がただ自分の生活を楽しむだけじゃなくて、彼らと助け合って生きる道を選ぶことも。
最後のドライブ 90分
彼が最後に、もう一箇所行こうか、さっき飛ばしたもう一つの場所に行こうか、と提案してくれた。
彼が、能動的に行こうと言ってくれた。私はとても行きたかった。彼のその能動的な気持ちを、現実に変えたかった。
でも、時間を見て、ここから空港までの距離を見て、今から行っても、空港に着く2時間前になってしまう。もう、他の場所に行く時間はなかった。
ちょっとしたやり残し。心に残りそうになって、いらないと、今を楽しもうと、急いで心の焦点を変えた。
「私に何か言いたいこと、ある?」と聞いた。
彼は「ない」とだけ言った。
最後の15分。私は緊張し始めた。
時間がない。
この時間を逃したら、もう彼と話す機会はないかもしれない。
何を聞けばいい?でも、何を言えばいいかわからない。
彼に聞いた。
「この5年間、価値があった?」
ーーあった。
「私たちが出会ったこと、後悔してる?」
ーーしてない。
私の20代の大半に、彼がいた。彼は、大学生だったときより前を除けば、この5年間は彼の人生の70%だと言った。
長い時間。たくさんの時間。私たちは、一緒に過ごした。
もう話すべき言葉も全て語り合っていた。
空港
空港で、チェックインをして。セキュリティゲートで最後の別れを告げる時間。
メッセージカードをあげた。
「覚えておいて。あなたは大切な存在だった。血のつながりや、財産、長い付き合いがあったからではなく、ただ、あなたがあなただったから」ーー彼がそう言ってくれる人を探していた時に私たちは出会ってしまったんだ。
「一番は身体。二番も身体。三番も身体。稼いだお金は、心を養うために使ってね」ーー叔父さんみたいに働いて働いて、心臓発作に倒れるなんてバカすぎる。
一緒にイヤリングをあげた。彼は以前イヤリングの穴を開けたいと言っていた。多分もう開けることはないのだろうと思ったから。彼はいいねって言ってた。
別に高いからとか、クオリティがとかじゃなくてって。
知ってる。小さなプレゼント。君は何も用意してないだろうってのは分かってたし、高いものなら前の彼女があげれるだろう。私の前でも気にせずもらったスタバのカップ使い続けて、お揃いのいいTシャツ着て笑ってたもんね。
私が伝えたいのは、何をするのにも、自分のためにしてってこと。お金を稼いで、人を感心させるためにいいものを身につけるんじゃなくて。自分の心が踊ることをしてって想いを込めてプレゼントした。
彼はこれをつけて、デートして、私が耳元で見守っているなんて冗談めかして笑ってたけど、本当にそうじゃなくて、自分が身につけたいものを身につけて、自信を持っていられることが大事なんだって。心と体は繋がっているから、お金は心を豊かにするために使ってって、伝えたかった。
伝わったのかわからないけど、もう伝わっていなくてもいいと思えるようになっていた。
なぜか分からないけれど、心はとても落ち着いていた。いつかまた、きっと会える。いつなのか、どういう形でなのかは全くわからないけれど、なぜかまた会えると感じていた。
私は「そばにいてくれてありがとう」って言った。彼は「私の忍耐に感謝」と返してきた。
私の世界では、みんな良い人だというけれど、あなたは特別だった。何度言えばわかるの。
最後のハグは3回。あの日と同じように、頭を撫でてくれた。ハグの前は泣いていて、ハグをした瞬間に、大丈夫だって、勇気に変えた。
彼が何度も最後は笑って別れようって言ってたから。
だから、ハグをするたびに心を落ち着かせて、笑顔を作った。
最後の「大丈夫」のハグだった。
