波打ち際のチョコレート

世界の片隅で、恋をした。
違う国から来た君に。違う言葉を話す君に。
ずっと独りだと感じていた私の心のドアを、なぜか君の前ではすんなり開いてしまった。
それが私にとって何を意味するのか、理解しないまま、私たちは距離を縮めた。

必死に共通語を紡ぎ、彼の国の言葉を学びながら。
他の人と話す時の、「会話を続けなくては」という変なプレッシャーが、君といるときは全くなくて。
それがどれだけ尊い時間だったのか、たぶん当時の私ですら、まだわかっていなかった。


第1章 世界の片隅で

世界の片隅で、恋をした。
違う国から来た君に。違う言葉を話す君に。
ずっと独りだと感じていた私の心のドアを、なぜか君の前ではすんなり開いてしまった。
それが私にとって何を意味するのか、理解しないまま、私たちは距離を縮めた。
必死に共通語を紡ぎ、彼の国の言葉を学びながら。
他の人と話す時の、「会話を続けなくては」という変なプレッシャーが、君といるときは全くなくて。
それがどれだけ尊い時間だったのか、たぶん当時の私ですら、まだわかっていなかった。


出会い

「あの人たち、どこから来たんだと思う?」
この何気ない一言が、すべての始まりだった。
夏の日差しが頭上から少し横へ傾き始めた頃、大学の入口脇にある木製のベンチに、彼はいた。
黒い髪に、茶色い瞳。黒いキャップの下から覗く口元は、わずかに横に引かれていた。
オレンジ色に磨きのかかったスニーカーの隣には、小さなピンクのハイヒール。
可愛らしいメイクの似合う、カールした髪の女の子の隣に座る彼は、周りの喧騒から少し距離を置いた、独特の空気を纏っていた。
「どこの人かな? 私たちとは違う雰囲気だよね」
静かな佇まいから、適当に推測する私。
「あー、そうだね」
隣の彼も、適当に相槌を打つ。
「どこから来たの?」と声をかけられたのは、たった二時間前のことだ。
この国に来てから一週間ほど経ったある日。知り合いもほとんどおらず、誰か友達を作りたいと思って初めてキャンパスに足を運んだものの、どう声をかけていいか悩んでいるところに、声をかけられたのだった。
慣れない共通語を使いながら、必死に会話を繋ごうとしたが、限界だった。
もともと会話が得意でない上に、私の語学力は彼のそれを大きく下回っている。
せっかく何か話してくれても、私がうまく返せずに沈黙が訪れる。彼の退屈そうな空気が横から伝わり、申し訳なさで胸が苦しくなる。
「聞いてみよっか」
隣の彼の「早くこの気まずい空間から抜け出したい」という思いに押されるように、私は尋ねた。
違う国から来た私と、この国出身の彼。同じ言葉を使わない私たちは、不慣れな私のために共通語で会話している。彼をこれ以上縛り付けておくのが、申し訳なかった。
彼は私に目線もくれずに頷き、木陰の方へ歩き出した。取り残されまいと、私は焦って荷物をまとめて追う。
「Hello」
私が追いつくか追いつかないかのタイミングで、彼は口を開いた。
声をかけられて、君の茶色い瞳が上を向く。
「どこから来たの?」「いつ来たの?」「何を勉強してるの?」——。
彼はスムーズに質問を重ねる。そんな会話を聞きながら、私は横で曖昧な笑みを浮かべていた。
彼の共通語は流暢で、君の返答もまた、時折詰まりながらもスムーズだった。
「ごめん、なんて?」——君が聞き返す度に、君の語学レベルはどれくらいなんだろうと考えた。話すのは上手いのに、リスニングは私の方が聞き取れてるななんて。
そんな会話を聞きながら、会話の邪魔にならないよう、私は静かに微笑みを保つしかなかった。
「君は?」
時々、君は私にも話を振ってくれた。でも、うまく答えられずに言葉が続かない。
「あなたは?」と、私は君の隣の彼女に話を振るしかなかった。
しばらくすると、彼女が君に何か囁き、君は「We have to go now」と話を切り上げた。
ほんの五分程度の会話だったが、連絡先をなんとなく交換し、皆で「Bye」と別れた。
私と彼も、自然な流れでその場を後にした。
うまく話せなかった情けなさに苛まれながらも、腹の底に「次こそは頑張ろう」というやる気を無理やり奮い立たせて、私はキャンパスを後にした。


レストラン

最初の出会いがあんなだったから、まさか君から連絡が来るとは思っていなかった。
「俺のこと覚えてる?」
会った数日後、携帯にそのメッセージが届いた。
あんなに会話が続かなかったのに、連絡をくれたことが嬉しくて、すぐに返信した。
「もちろん、覚えてるよ。最近どう」
「元気だよ、君は?」
返信したら、すぐに返事が来る。その流れで「時間あったら会う?」となり、あっさりと今日の夜会うことが決まった。
自分で作れた、この国での最初の友達かもしれない——。
期待と、果たして会話が続くのかという不安が脳裏に浮かんだ。それでも、ここに来たのは自分を変えるためだ、これはその第一歩だ、と自分を奮い立たせて約束の場所へ向かった。
「どうしてここに来たの?」「何を勉強してるの?」
表面上の会話から、少しずつお互いの話へと深まっていく。
君が水泳部のトライアルに行くと言ったら、私も昔水泳を習っていたと伝えた。
「共通点だね」と笑い合った。共通点が見つかれば、距離を縮めるのは意外と簡単だった。「今度一緒に泳ぎに行けるかもね」と、笑顔を交わす。
私の共通語も、君の共通語も、どちらもまだ不自由だったけれど、会話は途切れなかった(君は君の共通語の方が上手かったと言うだろうけど)。
私たちは一生懸命に言葉を紡ぎ、互いの話を笑顔で聞き合った。後で君は「会話の半分は想像で補ってた」と言ったけれど、君が真剣に聞いてくれるからこそ、私は話し続けられた。私が笑うと、君も笑顔になった。
会ったばかりのはずなのに、なぜか心を許せそうな、そんな不思議な安心感を互いに感じていた。
「夕飯、何食べるの?」
会話が途切れそうな瞬間、君がさりげなく聞いてきた。
「まだ決めてない」
「だったら、一緒に何か食べに行く?」
なんとなく流れが良かったし、このまま別れたくないという軽いノリで、
「うん、いいよ」
と少し迷いながら頷いた。帰りたくない気持ちが半分、会話が続くか不安な気持ちが半分だった。
私がこの辺りの店を知らないと言うと、君は「この辺で一番いいって聞いてる」という君の国の料理店に案内してくれた。彼はこの国に三ヶ月もいて、大学周辺のレストランはほぼ制覇していたらしい。
店は賑わっていて、お客さんの大半は彼の国の人たち。円卓が並び、ウェイターは彼に君の国言葉で話しかけている。私はまた別の国に迷い込んだような気分に陥った。
君がメニューをさっとチェックし、おすすめを教えてくれる。メニューは共通語と君の国の言葉で書かれていて、どんな料理か全く想像がつかない。だから、君のおすすめに従って注文した。
何を使って食べるのか、好きな料理は何か、料理はするのか——。
他愛のない会話が続く。君も「俺も共通語に不慣れなのに、笑顔で聞いてくれるから話せる」と言った。
本当は、頭の中の半分は料理の辛さで占められていた。
君の国の料理は、辛さに慣れていない私には刺激が強すぎた。
でも、水を頼んでもなかなか来ない。残すのは申し訳ないから、涙が出そうになるのをこらえて食べ続けた。それでも、美味しくて、楽しかった。
「いっぱい食べれるんだな」
驚いた顔で、それでいてどこか嬉しそうに、君は私を見た。
そんな君の笑顔に後押しされて、私はどんどん食べ続けた。
「普段は節約してて、ろくなもの食べてないから」と笑ってごまかす。それは本当だ。
辛さを悟られまいと笑顔を保つのも、本当だった。
この日から、私は「よく食べる子」というレッテルを貼られた。
加えて、君は「君が食べてるのを見るのが好きだ。幸せな気分になる」と言ってくれた。
そのせいで食べ過ぎて少し太ったのは、また別の話だ。
バーで会ってから四時間。ビール一杯から始まり、夕食まで。
会話が不自然に途切れずに続いたことが嬉しくて、その夜の日記はびっくりマークで溢れた日。
「また会おうね」と約束して別れたあの日から、私たちは頻繁に連絡を取る仲になっていった。
言葉が二人とも流暢ではないのに、初めて会った日から温もりに満ちていた。
いつも他人との会話の中で、自分が取るに足らない存在だと感じていた私。
なのに、君と話す時だけは、私はそこにいるべき存在で、君の目の前にいてもいいのだと、初めて思わせてくれた。


隣町のお城

一緒に隣町のお城へ行った。
バスで君は少し酔い気味だった。私は気まずい沈黙を埋めようと喋り続けたが、「酔ったから少し静かにして」と止められてしまった。
お城に着いたら水を飲んで休もうかと思ったが、君は「大丈夫、見学しよう」と先へ進んで、バスの中の沈黙を埋めるように、私を促してくれた。
私は記憶に留めるためだけに、適当にたくさんの写真を撮った。後で見返して、この日を思い出せるように。
君は反対に、写真をほとんど撮らなかった。本当に心が動いたものにだけ、カメラを向ける。
だから、君が私と一緒に写真を撮ってくれた時、私はとても嬉しかった。
この日の思い出で、最も鮮明に覚えているのは、その一枚の写真だ。
お城は確かに綺麗で広かった。展示してあった昔の衣装も興味深かった。
でも、私の心に一番深く刻まれたのは、二人で写ったあの写真だった。
そして、私たちの住む街に戻ってきた時、なぜか「帰ってきた」と感じた。
この街に来てまだ二ヶ月。なのに、もうこの街が「帰る場所」に思えた。
それまで、家に帰っても「帰ってきた」という実感はほとんどなかった。
学校に行き、家に帰り、自分の部屋に閉じこもる。家は親の気配を感じると、監視されているような、責められているような気がして、肩が縮こまる——それだけの空間だったから。
「HOMEって、なんだと思う?」
私は君に尋ねた。この「帰ってきた感覚」の正体が知りたくて。
君は言った。「僕にとってのHOMEは、母がいる場所だよ」と。
場所じゃない、人なんだと。国を離れ、街を移り住んでも、お母さんがいる場所が、彼にとってのHOMEなのだと。
その考え方は、私にとって新鮮だった。場所ではなく、人がHOMEの感覚を与えてくれる——。
そして、この異国の地で、私にとって君が、まさにそんな存在になりつつあった。




彼にHOMEの感覚を与えられる人とは、どんな人なのだろう。
家族に、子供に、安らぎを与えられる人。
私が「母」を思い浮かべると、決まって幼い頃よく見た夢を思い出す。
暗闇を一人で歩いていると、後ろから母の声が追ってくる。何を言っているかわからないけれど、怒っている声。私はその声に捕らわれまいと、必死に歩き続けるーー。
父と母はよく喧嘩をしていた。彼らの怒鳴り合う声で目が覚めることもあった。
仲が悪いというより、母に余裕がなかったからだと思う。
私には弟が一人いる。母にとって弟は可愛くて、私は頑固でうるさい存在。
母の中には、父と弟と私、三人分の居場所はなく、私がいなければ家はもう少し平和だったのかもしれない、と感じていた。
一方、君は一人っ子だった。君の父は兄弟の長男。長男の元に生まれた一人の男の子。
一人っ子として、親の愛情とプレッシャーを一身に受けて育った彼に、HOMEの感覚を与えられる人——。
いつか会ってみたいと、本気で思った。


曖昧な始まり

何度か会った後の帰り道。なぜかテンションの高かった君が、突然「好き」と言った。
私はその言葉の意味が飲み込めず、ただ君を見返した。
数回しか会っていない。恋愛なんてしたことも、告白されたこともない私の脳は、フリーズした。
「でも……」
凍りついた頭に浮かんだのは、素朴な疑問だった。
「あなたは、私のこと、知らない」
まだ数ヶ月しか経っていない。
私という人間を知ったら、きっと君も離れていく。つまらない、面白くない、と。
昔からそうだった。人と話す時はいつも聞き役。話すのが得意じゃない。
沈黙が怖くて、友達も私が相槌を打つのを当然のように、自分の話ばかりする。意見を言っても軽く流されるから、最近はもう頷いて聞くだけにしていた。そんな私だ。
今は会ったばかりだから、まだ新鮮でいられる。
これから回数を重ねたら、何を話していいかわからなくなり、同じ話を繰り返すのが怖くなり、やがて何も言えなくなる。
君はまだ、そんな私を知らない。
そんな私の疑問に、君は的外れな答えをした。
「でも、真剣な関係にはなれないし。お互い、出身国も違うし」
「好きだけじゃ、ダメ?」
なんとなく悲しそうな顔をする君を見て、私まで悲しくなった。悪いことをしたような気がした。
「どこが好きなの?」
答える前に間を持たそうと、聞いてみる。
「顔」
性格でも中身でもなく、顔。
「人懐っこそうで、ほんわかした感じが……」
拙い言葉で説明してくれるが、ピンとこない。
困った私を見て、君は続けた。
「あと、突っ込んでこないところ」
さらにハテナが頭に浮かぶ。それは、褒め言葉なのだろうか。
不自由な言葉と、それ以上は語らない君との隙間を、想像で埋めようとする。
でも、恋愛経験がない私には、補う材料すらない。
「そっか」
間抜けな返事をして、
「まだ、友達でいたいかな」
と付け加えた。
恋愛経験ゼロで奥手な私は、ピンとこない告白をあまり深刻に受け止められなかった。
好きだと言ってくれたことは嬉しかったけれど、ホッとした——嫌われていなかった、という安堵感が大きかった。
でも今思えば、この曖昧な始まりが良かったのだ。
曖昧だったからこそ、スペースがたくさんあって、私は息詰まることなく、ゆっくりと入っていくことができた。


ハロウィンの夜

なのにその後、君の少し悲しそうな顔が頭から離れなかった。
恋愛とは何なのか、君の「好き」とは何なのか、考え始めてしまった。
私はこれまで、恋愛をしたことが一度もない。
男の子に声をかけられても、周りにどう思われるかが怖くて、言葉を交わそうとしなかった。
友達ですら数人。人に自分を知られ、評価されることが、ただただ怖かった。
でも、そんな疑問とは裏腹に、君といると不思議と安心しきってしまう。
君にどう思われるかよりも、「私を知ってほしい、見てほしい」という気持ちが勝ってしまう。
ハロウィンの夜、私はそんな風に思いを巡らせていたら、無性に君に会いたくなった。
この日は友達と仮装して、サークルの大規模なパーティーに参加していた。
五十人以上の人が集まり、バーは熱気に包まれていた。次から次へと新しい人と会い、話す。
皆テンションが高く、たくさんの人が話しかけてくれるから、沈黙はなかった。
なのに、なぜか頭から君のことが離れない。
君がここにいないことに、猛烈な寂しさを感じた。
私はまるで、クリスマスの売れ残りの熊のぬいぐるみのよう。皆見に来てくれるけれど、誰も家に連れて帰ってはくれない。他のぬいぐるみを抱えて店を出ていく人々の笑顔を、静かに眺めているだけ——。
そんな感覚に襲われ、猛烈に君に会いたくなった。今までこんなに誰かを恋しく思ったことはなかった。
誰も見ていない隙を見て、君にメッセージを送った。
「今、何してる?」
数分後、すぐに返事が来る。
「寮で友達の誕生日パーティーしてる」
「じゃあ、終わったら会いに行ってもいい?」
「今どこ?どうしたの?」
「君の寮から歩いて20分くらいのとこ」
「じゃあ、今来ていいよ」
理由も深く聞かずに、「来ていいよ」と言ってくれた。
普段の私なら、「迷惑をかけないか」と躊躇する。この日、ためらいなくメッセージを送った自分に、今でも驚いている。
そして私は君に会いに行った。
君は玄関の門のところまで出てきて、笑顔で迎えてくれた。
私はその温かな笑顔に飛び込み、ハグした。
君の服の匂いを嗅ぐと、なぜか一瞬で落ち着いた。
なぜか安心しきって、少し泣いてしまったけれど。
外でたくさんの人と会い、話し、疲れ果てて消耗していた私を、君は瞬時に充電してくれた。
ここにいてもいいんだ——。
無条件に、ここにいてもいいんだと思わせてくれた。
初めて会ってから数ヶ月。
私に「HOME」という概念を、そして「HOMEは人である」という答えを教えてくれた。
二人とも言葉は不自由だったけれど、君は私に、ここにいてもいいのだと感じさせてくれた。

これが、私たちの、出会いだった。