君の眩しさが、僕の暗闇を上書きするまで

 一階のリビングには、冷たい沈黙が落ちていた。
「お母さん、信じてよ。本当に有喜が気味の悪いバケモノに襲われそうになって……!」
 紫乃は必死に声を張り上げた。しかし、買い出しから帰ってきた母親は、深くため息をついて困ったように眉を下げている。騒ぎを聞きつけて帰宅した義父も、腕を組みながら呆れた顔を紫乃に向けていた。
「紫乃くん、落ち着きなさい。君の部屋を確認したけど、何もいなかったじゃないか」
「でも、本当に……どろどろとした肉片みたいなのが、這っていて……!」
「最近、翔琉くんと夜遅くまでゲームをしているんだろう? 変なホラー映画の見過ぎか、ただの寝ぼけじゃないのか」
 義父の言葉は、極めて理性的で現実的だった。傍らでは、母親に抱きしめられた有喜が、恐怖の余韻でぐすんぐすんと泣いている。紫乃が何を訴えようと、彼らの中では紫乃の見間違いという結論で完全に完結してしまっていた。
 紫乃は奥歯を噛み締め、俯いた。この人たちには、何を言っても通じない。親との間にある見えない壁が、また一段と高く分厚くなったように感じた。
「……ごめんなさい。見間違いでした」
 早々に諦めの言葉を口にし、紫乃は逃げるように二階の自室へと戻った。部屋のドアを閉め、荒い呼吸を整える。机の上に置かれたパソコンのモニターは、ただの黒い画面に戻っており、気味の悪い青白い光も、這いずり回る肉片の姿も、粘液も跡形もなく消え失せていた。だが、部屋の空気は淀み、まとわりついた恐怖の感触だけが、紫乃の肌にべっとりと張り付いていた。

 多くの学生が給食を食べて、穏やかな時間を過ごす一方で、紫乃から昨夜の出来事を聞かされた翔琉は血の気を失って立ち尽くしていた。
「マジかよ……動画を見てない有喜くんまで狙われたってのか?」
「うん。僕が飛び込んだからなんとかなったけど、一歩遅かったら取り返しがつかないことになっていたかもしれない」
 紫乃が淡々と事実を告げると、翔琉は自分の腕をギュッと抱きしめ、唇を震わせた。
「親や先生に言っても、誰も信じてくれない。大人の力を借りることは、もう完全に不可能だ」
「じゃあ、どうすんだよ紫乃。俺たちだけじゃ、もうどうにも……」
「一人だけ、思い当たる人がいる」
 紫乃の脳裏に、不気味な笑みを浮かべる長身の先輩の姿がよぎった。気が進まないが、もう手段を選んでいる余裕はない。二人は足早に校舎を移動し、三年生の教室が並ぶ廊下へと向かった。
 幸いなことに、目的の人物はすぐに見つかった。窓辺に寄りかかり、一人で黒い手帳をめくっている朱藤劾だ。
「朱藤先輩……」
 紫乃が声をかけると、朱藤は前髪の奥から覗く両目を細め、面白がるように口角を上げた。
「おや、深山くんに瑠璃川くん。どうしたの、二人揃って真っ青な顔をして。ついに、見えないものが見えちゃった感じかな?」
「……助けてほしいんです。先輩の知識を、貸してください」
 紫乃が頭を下げると、翔琉も慌てて「お願いします!」と深く一礼した。
 朱藤はパタンと手帳を閉じ、ねっとりとした足取りで二人に近づいてくる。
「いいよ。じゃあ放課後、オレの家においで。じっくり話を聞かせてもらおうじゃないか」

 授業を終えた二人が案内された朱藤の家は、立派な門構えを持つ広大な豪邸だった。
 通されたアンティーク調の応接室で、紫乃と翔琉はこれまでに起きた事象のすべてを語った。リサイクルショップで買ったパソコン一式のこと。焼け跡で見つけた青白く光る残骸。動画を見た友人たちが次々と倒れたこと。そして昨夜、動画を見ていない紫乃の部屋に、気味の悪い肉片の塊が現れたこと。
 ソファに深く腰掛けた朱藤は、手帳にペンを走らせながら静かに耳を傾けていた。
「なるほどね。動画を見た人間だけじゃなく、見ていない人物の家族にまで物理的な干渉をしてきたか」
 朱藤はペンを止め、探るような視線を二人に向ける。
「おそらく原因は、動画そのものじゃなくて、あの肉片そのものじゃないのかな?」
と朱藤は言う。
「肉片……?」
 翔琉が呟く。
「そう。動画が呪われているなら、初期化したり上書きしたりすれば終わるはずだ。でも、電源を抜いても怪異は現れたんだろう? 深山くんが焼け跡で残骸を見たということは、怪異は一度焼けたモニターから、君たちが買ったあのモニターへと物理的に移動した可能性が高い。元の持ち主の執着が、どろどろの肉片や体液となって、モニターの液晶そのものに焼き付いているんだよ」
 朱藤の考察は、紫乃の頭の中で散らかっていた矛盾のピースを、見事に一つの絵へと繋ぎ合わせた。
「モニターそのものが、呪いの媒体……」
「そういうこと。君たちの手に負える相手じゃない。オレが地下室に設備を用意してあげるから、そこにパソコン一式を持ち込んでおいで。オレも手伝ってあげるよ」
 朱藤の頼もしい提案に、翔琉の顔にパァッと明るい光が戻った。
「マジですか!? 朱藤先輩、すげえ頼りになります! ありがとうございます!」
 翔琉が安堵の笑顔を浮かべて頭を下げる。その光景を見つめながら、紫乃は口元にぎこちない笑みを張り付けていた。
 ――結局、僕は翔琉を助ける解決策を何一つ出せなかった。 怪異の正体を見抜いたのも、安全な場所を用意してくれたのも、すべて他人の力だ。
 翔琉の隣で必死にもがいてみたところで、自分は何もできない無力な存在なのだという現実が、紫乃の胸を鋭く抉る。
「……僕は何なんだ」
 紫乃はほかの二人に聞き取れないほど小さな声でつぶやく。少しの安堵と引き換えに、紫乃の心の奥底に、再び冷たくて卑屈な泥水が満ち始めていた。

 翌日が休日だったため、紫乃と翔琉は、朝早くから電車を乗り継ぎ、あの大型リサイクルショップの前に立っていた。上りかけの太陽が、ガラス張りの自動ドアを白く染め上げている。休日の朝ということもあり、広い店内には数人の客がまばらにいるだけだった。
 二人は足早にパソコンコーナーへ向かった。あの日、モニターの映りが独特だと忠告してきた店員が、陳列棚の埃をモップで払っている。
「すいません、先日お伺いした件でまた聞きたいことが」
 翔琉が迷うことなく歩み寄り、店員に声をかけた。
「はい、……あ。ですから個人情報はお教えできないと前回も……」
 店員が困惑の愛想笑いを浮かべて振り返る。
「いや……どんな人が売りに来たのか言えないのは分かりました。なら、あのパソコンが一体いつ頃持ち込まれたものなのか、その時期だけでも少し教えてもらえませんか」
 紫乃が真剣な眼差しで訴えかけるが、店員は相も変わらず困った表情を浮かべる。
「いや……その時期と言われましても、うちでは買取時に動作確認をして、初期化も済ませてから店頭に出していますので……」
 これ以上店員を困らせても、ルールである以上は答えてくれないだろう。ここで粘っても時間の無駄だ。紫乃が諦めて引き下がろうとした、その時だった。
「あっ……」
 店員がふと、店舗の入り口の自動ドアの方へ視線を向け、小さな声を漏らした。
「……どうかしたんですか?」
「いえ……」
 紫乃が尋ねると、店員は少しだけ顔をしかめて小声で答えた。その顔には面倒な客への対応とは別の、明らかな警戒の色が浮かんでいる。
 店員が見ていた方向。紫乃と翔琉が同時に振り返り、入り口のガラス戸の向こう側を見た。朝の光の中、店舗の少し離れた歩道に、一人の男が立っていた。ひどくやつれた顔。目の下には濃い隈が落ち、神経質そうに店の様子を窺っている。その顔を見た瞬間、紫乃の脳内に電流のような衝撃が走った。
 ――あの日、ここでパソコンを買って店を出ようとした時、自動ドア付近でぶつかりそうになった男だ。
 紫乃の頭の中で、いくつかの記憶の断片がフラッシュバックする。男のポケットから滑り落ち、アスファルトに転がった運転免許証。そこに記されていた、『十六島(うっぷるい)』という珍しい苗字。
 そして、火事のあったアパートの焼け跡。瓦礫の中に転がっていた、半分炭化した『十六』とあった木製の表札の残骸。
 すべてのピースが、紫乃の頭の中でカチリと音を立てて噛み合った。
「……十六島さん」
 紫乃の口から、無意識にその名前が零れ落ちる。
「ありがとうございます。もう大丈夫です!」
 紫乃は店員に手短に礼を言うと、弾かれたように駆け出した。
「えっ、おい紫乃!? どこ行くんだよ!」
「行くよ、翔琉! あの男を追うんだ!」
 紫乃と翔琉は自動ドアを抜け、急いで外に飛び出した。しかし、ガラス越しに見えていた十六島の姿は、すでになかった。駅の方へ向かう通りにも、路地の奥にも、あのやつれた背中は見当たらない。
「見失った……」
 翔琉が息を切らしながら周囲を見回す。
「あの人が、どうしたって言うんだよ紫乃!」
「元の持ち主の関係者だ。あの日、僕たちが店に入る時にぶつかった男。彼が落とした免許証の名前と、焼け跡にあった表札の苗字が一致しているんだ。『十六島』という名前だ」
「うっぷる……い?」
「店員さんが入り口を見てたのは、単にパソコンを売った本人が、その後も何度も店の前をうろついていたから不審に思っていただけなんだ」
「マジか……! じゃあ、あの十六島ってひとを探し出せば、何か分かるかもしれないんだな!」
「名前と元の住所は分かったけど、あのアパートはもう全焼して存在しない。新しい居場所を見つけるなんて、僕たち中学生の力じゃ……」
 紫乃が思考を巡らせたその時、制服のポケットの中でスマートフォンが短く振動した。画面を見ると、朱藤劾からのメッセージが届いている。
『やあ深山くん。昨日話した元の持ち主の件だけど、オレが独自に調べておいたよ。火事になったアパートの管理会社に、少しだけ融通を利かせてね。彼の遺族の引っ越し先の住所だ』
 画面には、見知らぬアパートの住所と部屋番号が添えられていた。
 紫乃は小さく息を吐き出した。朱藤の財力や情報網、そして大人の世界に平然と介入できる不気味なほどの行動力。結局、自分は論理を組み立てるだけで、肝心な実働部分は他人の力に頼るしかない。その事実が、またしても紫乃の胸に無力感という名の棘を刺す。
「……朱藤先輩からだ。十六島の今の住所が分かった」
「マジで!? 朱藤先輩、すげえ! よっしゃ、すぐ行こうぜ!」
 無邪気に喜んで駆け出す翔琉の背中を見つめ、紫乃は微かなため息をこぼしながら、送られてきた住所の地図アプリを開いた。

 目的の場所は、リサイクルショップのある駅から電車でさらに二駅ほど離れた、寂れた住宅街の片隅にあった。
 錆びついた鉄階段が特徴的な、築年数の古い二階建てのアパート。夕闇に包まれたその建物は、どこか周囲から隔絶されたような、重苦しい空気を纏っていた。
 二階の一番奥、204号室。紫乃と翔琉は顔を見合わせ、無言で頷き合う。翔琉が迷うことなく、くすんだインターホンのボタンを押した。ジリリリリ、と耳障りな音が響く。
 しばらくの沈黙の後、ガチャリとチェーン錠が外れる音がして、重い鉄扉が数センチだけ開いた。隙間から覗いたのは、あの日の男――十六島だった。
 入り口でぶつかった時よりも、さらにひどくやつれている。目の下の隈はどす黒く沈殿し、落ちくぼんだ眼窩の奥で、神経質そうな双眸が二人の少年をギロリと睨みつけた。
「……誰だ、君たちは」
 掠れた、警戒心に満ちた声。紫乃が口を開くより早く、翔琉が一歩前に出た。
「俺たち、駅前の大型リサイクルショップで、あのデスクトップパソコンとモニターを買ったんです!」
 モニター、という単語が出た瞬間。十六島の肩がビクッと大きく跳ねた。扉を閉めようとする強い力が働く。しかし、翔琉が素早くつま先を扉の隙間に滑り込ませ、強引にそれを阻止した。
「痛っ……! お願いです、話を聞かせてください! 俺の友達も、こいつの弟も、あのモニターのせいで酷い目に遭ってるんです!」
 翔琉の痛みを堪えた必死な叫びが、薄暗い廊下に響き渡る。十六島は扉を押し返す手を止め、目を見開いて翔琉と紫乃を交互に見つめた。その顔には、恐怖と、深い絶望、そしてわずかな安堵が入り交じっていた。
「……そうか。やはり、あの子は……まだあの中にいるのか」
 十六島は力なく呟き、ゆっくりとドアノブから手を離した。
「入りなさい。……ここで話そう」
 案内された部屋の中は、生活感が極端に薄かった。引っ越してきてから荷解きをしていないのか、あるいは最初から持ち物が少ないのか。部屋の隅には段ボール箱がいくつか積まれ、中央には安っぽいローテーブルが一つ置かれているだけだ。薄暗い蛍光灯の光が、十六島のやつれた顔に深い影を落としている。
 紫乃と翔琉は、出された座布団に正座し、十六島と対峙した。
「あのパソコンとモニターは……死んだ息子のものだ」
 十六島はテーブルの上に視線を落とし、乾いた唇を舐めてから重々しく語り始めた。
「私は五年前に妻と離婚してね。あの子は、高校を中退してから、あのアパートで一人暮らしをしていた。……いや、一人暮らしというより、単に社会から逃げて、あの一室に引きこもっていただけだ」
 十六島の声には、父親としての深い後悔と、どうにもならなかった徒労感が滲んでいた。
「離婚……」
 紫乃がか細い声でつぶやく。形が違えど元の家族が壊れるという点で、元の持ち主にシンパシーを感じるようだった。
「あの子は……」
 十六島がふと顔を上げ、じっと翔琉を見つめた。
「君みたいに明るくて、誰とでもすぐ打ち解けられそうな子に、ずっと憧れていたんだ。小学生の頃は、運動場で君のように笑って、友達の中心にいるような子になりたいと、よく言っていたよ」
「お、俺みたいに?」
 翔琉が驚いたように目を瞬かせる。
「でも、決してその輪には入れなかった。不器用で、卑屈で、他人の些細な言葉に傷ついて……いつしか自分から分厚い壁を作り、誰も近づけないようにしてしまった。親である私とさえ、まともに目を合わせようとしなくなった」
 ギュッ、と。紫乃の心臓が誰かに握られたように縮み上がる。
 ――僕と、同じだ。家族の輪に入れず、義父や母親の優しささえも拒絶して、自分から壁を作っている自分。太陽のように眩しい翔琉に憧れながらも、絶対に彼と同じようにはなれないというコンプレックスを抱え、弱気な心の中に沈み込んでいる自分。
 十六島の語る息子の姿は、紫乃自身と酷似していた。いや、紫乃よりもさらに深く、絶望的なほどに孤立していたのだ。
「部屋に引きこもったあの子にとって、唯一の社会との繋がりが、あのパソコンだった」
 十六島が両手で顔を覆う。
「SNSや、動画配信サイト。あの子は、顔も知らない誰かに向かって動画を作り、発信し続けた。現実世界で誰にも必要とされない分、ネットの世界で誰かからのいいね、やコメントを渇望していたんだ。……自分がここにいるという証明をするために」
 紫乃は息を呑んだ。画面の向こう側にしか自分の存在価値を見出せず、たった一つの反応にすがりつく哀れな魂。それは、翔琉という絶対的な居場所を持たない、もう一つの自分、深山紫乃の末路に思えてならなかった。
「……でも、ある夏の日」
 十六島の声が、微かに震え始める。
「あの子は、不意の事故で死んだ。持病の心臓の発作だったと、後から警察に言われた。私が電話をかけても出ないのを不審に思い、アパートを訪ねた時には……もう、手遅れだった」
 部屋の空気が、急激に冷え込んだように感じた。翔琉が固唾を呑み、紫乃も無意識に拳を強く握り締める。
「真夏の猛暑だった。クーラーもつけていない、締め切った部屋の中で……あの子の遺体は、発見が遅れたせいで、ひどく……腐敗してしまっていた」
 十六島が両手で顔を覆ったまま、嗚咽を漏らす。
「発見された時、あの子は……あの黒いモニターに、もたれかかるようにして、覆い被さって死んでいたそうだ。顔が、液晶にべったりと張り付いて……ドロドロに溶けた体液が、モニターの隙間から内部にまで入り込んで……」
 生々しく、残酷な死の情景。紫乃と翔琉は絶句していた。同時に紫乃の脳裏に、朱藤の言葉がフラッシュバックした。
『元の持ち主の執着が、どろどろの肉片や体液となって、モニターの液晶そのものに焼き付いているんだよ』
 朱藤が想像していた推理と今聞いた真実が、すべて繋がった。真夏の猛暑。腐敗した遺体。遺体から溶け出した体液や脂質が、モニター内部の液晶に浸透し、夏の異常な室温による高熱で、電子回路とタンパク質が物理的に焼き付いてしまったのだ。
 ーーそんなことが、本当にあるのか……。
 紫乃に恐ろしい思考が浮かぶ。彼の誰かからの反応を待ち続ける、という異常なほどの情念や孤独、執着が、電源を切っても終わらないスタンバイ状態として固定され、そのままこの世に留まり続けているのではないかと。
 だから、あの怪異はキラキラとした世界で生きる翔琉の友人たちを憎み、襲った。だから、同じように卑屈な孤独を抱える紫乃の部屋に現れた、そう紫乃は考える。
「私は……あの子の部屋を片付ける時、遺品整理業者に任せきりにしてしまった。あのパソコンも、ろくに確認せずに売り払ってしまったんだ」
 十六島が顔を上げ、充血した目で二人を見つめる。
「あの子が死んだ後、火事があってアパートは全焼した。あのパソコンだけが奇跡的に持ち出され、リサイクルショップに並んだと知った時……私は、恐ろしくなった。あの子が、まだあの中にいるんじゃないかって。寂しがって、誰かの反応を求めて、あの暗い画面の中で泣いているんじゃないかって……」
 後悔の涙が、十六島の頬を伝う。
「だから、買い戻そうとした。だが、店に行っても、どうしても踏ん切りがつかなかった。あの子と向き合うのが恐ろしくて……店の周りをうろつくことしかできなかった。私は、父親失格だ……」
 十六島はテーブルに突っ伏し、子供のように声を上げて泣き崩れた。あの日、リサイクルショップの周りに十六島がいた理由。そして店員が外を気にしていた理由。すべてが、一人の父親の底知れない後悔と恐怖によるものだった。
「……おじさん」
 沈黙を破ったのは、翔琉だった。翔琉は十六島を見据え、真っ直ぐで嘘のない済んだ瞳を向けた。
「俺の友達も、紫乃の弟も、そのモニターのせいで酷い目に遭ってる。だから、絶対に許せない。……でも、おじさんの息子のこと、なんだか少し可哀想に思えてきたよ」
 翔琉の素直な言葉に、十六島はビクッと肩を震わせ、さらに激しく嗚咽を漏らした。紫乃は静かに、泣き崩れる十六島を見つめていた。
 ――十六島の息子は、僕だ。誰にも必要とされないと思い込み、世界に絶望し、孤独の中で執着だけを抱えて死んでいった、僕の影だ。もし、僕の隣に翔琉がいなかったら。もし、僕がブロックのおもちゃを壊して泣いていたあの日に、彼が新しい形を作り上げてくれなかったら。僕も間違いなく、あのモニターの奥で青白い光を放つ、ドロドロの怨念の塊になっていた。
 だからこそ、逃げるわけにはいかない。他人の力に頼るのではなく、僕自身の意思で、僕の影であるあの怪異と決着をつけなければならない。
「……十六島さん」
 紫乃は静かに、しかし強さを含んだ声で告げた。
「あなたの息子さんの執着は、僕たちが終わらせます。これ以上、誰かを傷つける前に」
 十六島は顔を上げ、涙で濡れた目で紫乃を見つめる。その目には、恐怖から解放されることへの微かな安堵が浮かんでいた。アパートを出ると、部屋の中と打って変わって昼の光が周囲を包み込んでいる。
 暖かい光が体中に当たる。紫乃は隣を歩く翔琉の横顔を見上げた。彼の瞳には、怪異に対する恐怖よりも、十六島の息子に対する哀れみと、彼を止めなければならないという強い意志が宿っていた。
 二人だけで立ち向かう、絶望的で理不尽な恐怖。しかし紫乃の心の中にあった泥水は、いつの間にか綺麗に干上がり、代わりに熱く鋭い闘志が満ちていた。

 十六島のアパートを出た紫乃たちは朱藤と情報共有をするため、家の最寄り駅に戻っていた。そのまま朱藤の家に向かう道すがら、コンビニの前でたむろしている見慣れた人影があった。
「あ、あれ灰村じゃん」
 翔琉が声を上げる。塾帰りなのか遊び帰りなのか、灰村が片手にジュースを持ちながら立っていた。だが、その様子がどこかおかしい。左手首の時計を、しきりに気にしている。
「……?」
 灰村がウォッチを耳に近づけたり、腕ごとブンブンとウォッチを振る。その姿は習ったばっかのパントマイムのようだった。
「おーい灰村、なにしてんのん?」
 翔琉が小走りで駆け寄り、灰村に尋ねる。
「いや、なんかさ、変な音が聞こえる気が……」
 翔琉が灰村に尋ねていると、不意に灰村の左手が爆炎に包まれる。ドァンッ! という鼓膜を破るような凄まじい破裂音。
「!?」
 紫乃と翔琉は目の前の出来事に、時が止まったような感覚に陥った。灰村は声にならない叫びを放ち、その場でうずくまる。左手からは黒煙が上がり、血潮がしたたり落ちる。
「おい大丈夫か!?」
 周囲の通行人が悲鳴を上げ、全員が立ち尽くす中、翔琉が真っ先に向かった。翔琉の姿を見て、紫乃も弾かれたように駆け寄る。
「誰か、氷と水をもらってきて! 早く冷やさないと!」
 迷いのない、場を統率する強い声。持ち前の行動力で瞬時に大人たちすら動かす翔琉の姿を見て、紫乃も自らのできることをしようとする。ポケットから清潔なハンカチを取り出し、灰村の左腕の傷口より少し上の部分を強く縛り、冷静に圧迫止血を試みた。
「救急車呼ぶ!」
「頼む!」
 紫乃がスマホに119と入力して、電話をかける。すぐに電話がつながり、紫乃が少し息を荒げながら応答する。
「もしもし、火事ですか、救急ですか?」
「救急です!」
「状況を教えてください」
「同級生のスマートウォッチみたいなのが、急に爆発して、それで……」
 紫乃は冷静に状況を伝えながら、ふと足元に散らばった残骸に視線を落とした。爆散したウォッチに目を配ると、やけに濡れていた。そしてウォッチから肉片みたいなものが動いているように見えた。
「……っ!」
 紫乃は息を呑んだ。アスファルトの上に散乱したプラスチックとガラスの破片。その隙間で、どろりとした赤黒い肉片が、まるで虫のように脈打ちながら蠢いていたのだ。あの日の夜、自室で弟の有喜を襲おうとした、あの気味の悪い怪異の塊と全く同じものだった。
「もしもし! どうされましたか!?」
 スマホのスピーカーから、オペレーターの焦った声が響く。紫乃はハッとして、強引に視線を引き剥がした。
「! すいません、場所は……」
 紫乃は震える声で近くの電柱の住所を読み上げ、通話を終えた。やがて遠くから、サイレンの音が近づいてくる。

 灰村は救急車で近くの総合病院に搬送された。連絡を受けた灰村の両親が駆けつけ、紫乃と翔琉も待合室で事情聴取を受けることになった。
 警察や消防の初動調査では、爆発の原因はスマートウォッチの電池によるものだと。安価なリチウムイオン電池の異常発熱による爆発事故として処理される方向だった。
 待合室の隅で、野次馬としてついてきたらしいクラスメイトや、別のクラスの生徒たちが、ヒソヒソと噂話をしているのが聞こえてくる。
「灰村どうなの?」
「なんか手首がめっちゃ焼けたらしいよ」
「手首が! なんか……デスゲームみたいだな」
「そういうこと言うなよー」
「あれだろ、最近ニュースでやってんじゃん、モバイルバッテリーが爆発するやつ」
「リチウムイオン電池のこと?」
「そう! それそれ! やっぱり安物ってヤバいのか~」
 無責任な憶測が耳を撫でる。
 ――違う。あれはただの事故じゃない。
 紫乃は固く拳を握り締めた。あの日、翔琉の部屋で動画を見た時、灰村はあの偽物のスマートウォッチをパソコンのUSBポートに繋いで充電していた。朱藤が言っていた電子機器を媒体にする、という怪異の性質が、最悪の形で証明されたのだ。怪異はケーブルを伝い、灰村の身に着けていたデバイスへと確実に伝染し、潜伏していた。
 ようやく解放された二人は、重い足取りで病院から家路についていた。街灯の冷たい光が、二人の影を長く伸ばす。
「灰村くん……命に別状はなくてよかったね」
 紫乃が努めて平坦な声で言うと、隣を歩く翔琉が力なく頷いた。
「……うん」
 普段と違って、翔琉の様子が明らかにおかしい。足取りは重く、ずっと俯いたままだ。
「大丈夫? 灰村くんの血を見て、気分が悪くなった?」
 紫乃が気遣うように尋ねると、翔琉は立ち止まり、首を横に振った。
「そうじゃなくてさ……俺、見ちゃったんだ」
「何を?」
「灰村の……まぁ吹っ飛んだ……腕というか皮というか」
 翔琉が言いよどむ。
「とにかく体の一部だと思ったけど、肉っぽい部分が動いてんのを」
 翔琉の声は微かに震えていた。爆発の混乱の中でも、翔琉の目は確かにあの異様な光景を捉えていたのだ。
「……僕も、見たよ」
「! 紫乃も!?」
「おそらくあれは人間の肉なんかじゃない。僕の部屋に出たのと同じ、怪異の肉片だ」
 紫乃が静かに答えると、翔琉は両腕を抱きかかえるようにして身震いした。
「やっぱり……。じゃあ、俺のパソコンからあの時計に移ってたってことかよ。クソッ……俺のせいだ……!」
「翔琉のせいじゃない。それに、今は落ち込んでいる暇はないよ」
 紫乃の言葉に、翔琉が顔を上げる。その時、病院の外に出た紫乃のスマートフォンに着信が入る。画面を見ると、『朱藤劾』の文字が表示されている。紫乃は眉をひそめながら、通話ボタンを押した。
「……はい」
『やあ、深山くん。灰村くんの騒ぎ、こっちにも情報が入ったよ。大変だったね』
 電話越しに聞こえる朱藤の声は、相変わらずどこか楽しげな響きを帯びていた。
『君たちも、あれがただの事故だとは思っていないだろう? 灰村くんの件でハッキリした。あの怪異は、家の電源線や家庭内LANを経由して、繋がっている他の家電――テレビやスマホにまで伝染する可能性がある』
「伝染……」
 紫乃の背筋に、冷たい汗が伝う。もし翔琉の部屋のパソコンから、家のネットワークを通じて他の機器に呪いが広がってしまえば、被害は翔琉の家族全員に及ぶことになる。
『今すぐ、問題のPC一式を持ってオレの家においで。オレの家の地下室なら、外部への電波や霊的エネルギーを完全に遮断できる。物理的にも頑丈だからね』
「……分かりました。すぐに行きます」
 通話を切り、紫乃は翔琉に朱藤の言葉を伝えた。
「マジかよ……急いで持って行かないと、父さんや母さんのスマホまで爆発するかもしれないってことか!」
「……急ごう」
 翔琉が血相を変えて走り出す。その背中を追いかけながら、紫乃は唇を強く噛み締めた。自身が怪異に対して無力であること、一方で朱藤が怪異に対して何らかの策をすでに打ってあることに対して。

 紫乃と翔琉が友達の家に泊まると言って家を出て、朱藤の元についた頃には、夜の帳がおりていた。応接室で、三人は向かい合ってソファに腰を下ろす。紫乃と翔琉の足元には、翔琉の部屋から急いで回収してきたパソコンとモニターの入った段ボール箱が置かれている。
 紫乃は、灰村のスマートウォッチが爆発した顛末を静かに語った。
「なるほどね。安物のリチウムイオン電池の異常発熱に見せかけた物理干渉か」
 朱藤はマグカップの紅茶をすすりながら、面白がるように目を細める。
「ええ。ですが、一番の問題はそこじゃありません」
 紫乃の紫色の瞳が、鋭く研ぎ澄まされる。
「爆発した時計の残骸から、赤黒い肉片のようなものが這い出てきました。それは先日、僕の部屋に現れて弟の有喜を襲おうとしたものと、似てました」
「……肉片」
「そうです。動画を見た鍋島くんや大浦くん、灰村くんが狙われたのは論理的に説明がつきます。でも、有喜はあの動画を一切見ていない。それなのに襲われた」
 紫乃は思考の糸を紡ぎ、一つの結論へと到達する。
「呪いの元凶は、あの動画のデータじゃないんです。物理的に機械から機械へと侵入し、這い回るあの肉片そのものが、怪異の正体なんじゃないかと思います」
「なるほどね、元の持ち主である十六島の息子は、真夏の猛暑の中で孤独死し、遺体が酷く腐敗していたんだったね。彼が顔を押し付けていたモニターの液晶には、溶け出した体液や脂質が焼き付いてしまった」
 朱藤は不敵な笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「現実世界で誰とも繋がれなかった彼の執着が、モニターに留まり続けている。それが具現化したのが、あの肉片というわけか……うん、まさに念による実体化そのものだね」
「じゃあ、呪いは動画のデータじゃなくて、このモニターそのものに憑いてるってことか……!」
 翔琉はうんうんと頷くも、急に動きを止めて、首をかしげる。
「でも、なんでわざわざ別のモニターなんかに移ったんだ? 無事だったパソコンの中に引きこもってりゃよかったじゃんか!」
「それは奴の執着の本質を考えれば、必然の行動だよ」
 朱藤が面白そうに口角を上げ、独自の推測を語り始める。
「奴が待ち続けていたのは、誰かからの反応だ。PC本体はただの計算機であり、いわば内臓に過ぎない。誰かの視線を受け止め、自分という存在を外界にアピールするための顔であり窓になるのは、いつだって画面、モニターなんだよ」
 翔琉が床に置かれた段ボール箱を見て、ハッと息を呑んだ。瞳には明らかな恐怖と焦燥が浮かぶ。
「待ってくれよ。物理的に機械から機械へ侵入できるなら、ケーブルとか家のWiFiを伝って、俺の父さんや母さんのスマホ、家の家電にも伝染するってことだろ!? 俺のせいで、家族が危ないんじゃ……!」
 翔琉が頭を抱え、自分の髪を乱暴に掻きむしる。
「そこは心配しなくていいじゃないかな、瑠璃川くん」
 朱藤が落ち着いた声で宥めた。
「怪異は手当たり次第に呪いを振りまくわけじゃない。話を聞く限り奴の本質は、誰かからの反応を求める異常な承認欲求と、キラキラした人間への嫉妬だと思われる。だから、動画を見て、騒いでいた君の友人たちを優先的に狙った。大元のPCを電源から切り離し、ここに持ってきた以上、奴に無関係な家族のデバイスまで手を伸ばす余裕はないはずだ」
「じゃあ、俺は? そうだったら俺が最初に襲われるんじゃないの?」
朱藤は紅茶のカップをソーサーに置き、面白そうに唇の端を歪めた。
「それはね、奴がキミに憧れていたと同時に、強烈な嫉妬を抱いていたからだろうね」
「憧れ……?」
「そう。誰とでも打ち解けられて、常に輪の中心にいる太陽のような存在。奴はキミみたいになりたかったんだ。でも決してなれず、暗い部屋で一人、誰かの反応を待ち続けて孤独に死んだ。……だから、キミを真っ先に殺して終わらせるのではなく、キミの周りにいるキラキラした友人たちを次々と奪うことで、キミを自分と同じ孤独に突き落とそうとしたんじゃないかな」
 朱藤の推理に、翔琉が息を呑む。
「それに、承認欲求の塊である奴にとって、一番の観客であるキミを最後まで特等席に残しておきたかったんだろう」
 翔琉の顔から、さっと血の気が引いた。そのままソファに深く背中を預けた。
「……朱藤先輩の推測が正しいなら、矛盾が生じます」
 紫乃は冷ややかな視線を朱藤に向ける。
「僕の部屋に出た理由です。僕は動画を直接見ていませんし、翔琉たちのようにキラキラもしていません。それなのに、なぜ怪異はわざわざ僕の部屋に現れ、有喜を襲ったんですか?」
 紫乃の問いに、朱藤はカップを置き、探るような視線を紫乃へと向けた。
「怪異は強い情念の塊だ。当然、自分と同じ波長を持つ人間に引き寄せられやすい」
「波長……?」
「そう。深山くん、キミは自分と世界との間に分厚い壁を作っているんじゃないかな?」
「……そうかもしれません」
「十六島の息子も、同じように深い孤独と疎外感を抱えていたはずだ。その卑屈で冷たい波長が、怪異をキミの部屋に招き入れたんだよ」
 ――図星だった。
 ずっと隠してきた心の奥底の闇を、正確にえぐり出された。紫乃は言葉を失い、膝の上で拳を強く握り締める。
「じゃあ、なんで有喜が……!」
「怪異がキミの部屋に顕現した際、たまたまそこにいたのが弟くんだ。怪異にとって、無邪気で幸せの象徴のような弟くんは、自分とキミとの繋がりを邪魔する目障りな存在に見えたんだろう。あるいは、大切なものを壊して、キミを自分と同じ完全な孤独に引きずり込もうとしたのかもしれないね」
 朱藤の冷酷なまでの論理的推測が、紫乃の心を重く打ち据える。
 ――僕が、あいつを呼び寄せた。僕が心の奥で抱えていた卑屈な影が、あの醜い肉片と共鳴してしまったのだ。有喜が襲われそうになったのは、他でもない僕のせいだったのか。
「紫乃……」
 隣に座る翔琉が、心配そうに声をかけてくる。しかし、今の紫乃にはその温かい声すらも、自分が彼とは違う暗い世界の住人なのだと突きつけられているようで痛かった。
「……納得しました。理にかなっています」
 紫乃は努めて無機質な声で答え、深く俯いた。
 あの怪異は、僕の影だ。だからこそ、他人の力に頼るのではなく、僕自身の手で決着をつけなければならない。紫乃の紫色の瞳の奥に、暗く鋭い決意の炎が静かに灯っていた。
「とりあえず、それらは君たちの家に置いておくには危険すぎる。さあ、オレの地下室へ案内しよう」
 朱藤が立ち上がり、二人を促した。

 屋敷の奥にある重厚な鉄扉を開け、冷たいコンクリートの階段を下りた先。そこには、朱藤が趣味で作り上げたという異質な空間が広がっていた。
「ここは外部への電波を完全に遮断し、霊的エネルギーも通さない特殊なシールドを施してある。物理的にも頑丈だから、少しくらい怪異が暴れても外には一切影響が出ない」
 朱藤の誇らしげな説明を聞きながら、紫乃と翔琉は中央の金属製のテーブルへと向かった。
「翔琉、一緒に置こう」
「おう」
 二人は段ボール箱からパソコン本体と、あの黒いモニターを取り出し、テーブルの上にそっと置こうとする。
 ドサッ。
 響いたのは、プラスチックと金属がぶつかる硬質な音ではなかった。まるで、水気をたっぷりと含んだ重たい生肉の塊を、高いところから床に叩きつけたような、ひどく湿った嫌な音が鳴る。
「うわっ……!」
 翔琉が悲鳴を上げて手を離し、数歩後ずさる。
「な、なんだよ今の音。重さも、すげえ気味悪かったし……」
 翔琉が自分の手のひらをズボンで何度も擦る。紫乃も同じだった。あの時、翔琉の部屋で箱を持ち上げようとした時に感じた、あの異常な重みと水っぽさ。それが今は、さらに質量を増しているように感じられた。
「ほぉ、いいね。さあ、こちらへ」
 朱藤に促され、三人はテーブルのある空間から分厚い防弾ガラスで仕切られた、別室のモニタールームへと移動する。ガラス越しに、パソコンとモニターがポツンと置かれているのが見える。電源ケーブルは繋いでおらず、完全に沈黙しているはずだ。
 三人はモニタールームのパイプ椅子に腰を下ろし、じっとガラスの向こうを観察し始めた。十分。二十分。しかし、何も起きない。張り詰めていた緊張の糸が少しずつ緩み、三人の間に妙な手持ち無沙汰の空気が流れ始めた。
「……なんも、起きねーな」
 翔琉が肩の力を抜き、大きく背伸びをする。
「電波も遮断されているからね。完全に孤立して、大人しくなっているのかもしれない」
 朱藤が持参したコーヒーの入った水筒を開け、紙コップに注ぎながら答える。
「なあ、朱藤先輩って普段、休日とか何してんの? ずっとこんなオカルトの研究?」
 翔琉が持ち前の人懐っこさで、軽い雑談を振り始めた。
「まあね。あとは古い文献を漁ったり、廃墟を巡ったりかな。瑠璃川くんは?」
「俺はゲームするか、友達とカラオケとかっすね! あ、でも最近は……」
 翔琉が朱藤と話している間、紫乃は黙って朱藤の横顔を見つめていた。的確な知識と、充実した設備。彼がいなければ、紫乃たちは為す術もなく全滅していただろう。だが、それほどの労力とリスクを背負ってまで、なぜ見ず知らずの後輩にここまで手を貸してくれるのか。
「……先輩」
 紫乃は静かに口を開いた。
「なぜ、そこまで手助けしてくれるんですか。ただのオカルトへの好奇心だとしても、リスクが高すぎます。それに、こんな大掛かりな設備を使わせてくれるなんて……並大抵の執着じゃない」
 紫乃の鋭い問いに、朱藤はコーヒーを口に運ぶ手を止め、自嘲気味に口角を上げた。
「……鋭いね、深山くん」
 朱藤は紙コップを机に置き、前髪の奥の瞳を伏せた。
「オレの家は、無駄に裕福でね。両親は仕事ばかりで家を空け、オレは幼い頃からこの広い屋敷でずっと一人だった。孤独で、誰にも必要とされていないような気がしていた」
 その言葉に、紫乃の胸が小さく跳ねる。
「そんなオレの唯一の話し相手であり、理解者だったのが、住み込みで働いていた若い家庭教師だった。彼はオレを子供扱いせず、一人の人間として真っ直ぐに向き合ってくれたんだ。……でも、オレが小学生の時。彼は不自然な交通事故で命を落とした」
 朱藤の声が、微かに震えていた。
「見通しの良い直線道路。ブレーキ痕もなし。警察は居眠り運転だと処理したけれど、オレには分かっていた。彼がオレの誕生日に渡すプレゼントを急いで買いに行こうとして、無理をしたんだと。……オレのせいで、彼は死んだんだ」
 重苦しい沈黙が、モニタールームに降り積もる。
「説明のつかない、理不尽な死。自分の存在が、大事な人を殺してしまったという後悔。……オレは、その答えを求めてオカルトにのめりこんだ。論理で割り切れない何かがあると思わなければ、狂ってしまいそうだったからね」
 朱藤が静かに息を吐き出す。
 ――僕と、同じだ。
 紫乃は雷に打たれたような衝撃を受けていた。大事な人を失い、それが自分のせいだと感じている絶望。そして、自分は誰にも必要とされていないという孤独。朱藤の抱える心の闇は、紫乃が心の奥底に隠し続けてきた傷と、寸分違わず重なり合っていた。
「……分かります」
 紫乃の口から、無意識のうちに言葉が零れ落ちていた。
「え?」
 朱藤が顔を上げる。紫乃は自分の膝を強く握り締め、震える声で紡いだ。
「僕の父親も、死にました。……僕が、飛び出したせいです」
 翔琉がハッとして紫乃を見る。紫乃は誰の目も見ず、ただ床の一点を見つめながら告白を続ける。
「幼い頃、僕が不注意で道路に飛び出したのを、お父さんが庇って……そのまま、車に。僕のせいで、お父さんは死んで、お母さんの幸せを一度完全に壊してしまったんです」
 絞り出すような声が、静かな部屋に響く。
「義父も、今の家族も間違いなく優しい。でも、僕は彼らの輪の中に入れない。自分のせいで大事な人を失ったという罪悪感が、ずっと僕を縛り付けている。……頭で考えてもどうにもならない、黒くて重い後悔。先輩のその痛み、僕には痛いほど分かります」
 紫乃が顔を上げると、朱藤の瞳には明らかな驚きと、深い共感の色が浮かんでいた。
「そうか……キミも、オレと同じだったんだね」
 朱藤が優しく微笑み、紫乃も小さく頷き返す。
 二人の間に、同じ傷を持つ者同士にしか分からない、深く静かな共感の空気が満ちていた。互いの魂の形を理解し合い、分厚い壁が取り払われたような、確かな結びつき。
 その光景を、隣で見ていた翔琉は、ただ無言で唇を噛み締めていた。膝の上で握りしめた拳が、白くなるほど強く震えている。
 紫乃の父親が事故で死んだことは知っていた。だが、紫乃がそこまで深い自責の念に囚われ、家族の中で孤独を感じていたことなど、翔琉は今の今まで全く気づいていなかった。
『ジリッ……』
 ガラスの向こうのモニターから、微かな耳鳴りのようなノイズが鳴った。それを聞いた翔琉が、ビクッと肩を震わせた。翔琉の耳元で、何者かが甘く囁くような幻聴が響く。
『お前は必要ない……』
『あいつらだけで楽しんでいる……』
 翔琉の胸の奥で、黒く冷たい感情が渦巻く。あの日、ぐちゃぐちゃになったブロックを前に泣いていた紫乃を救ったのは、自分だったはずだ。ずっと隣にいて、ずっと光を与え続けてきたつもりだった。それなのに、紫乃は肝心な心の傷には絶対に触れさせてくれなかった。
 それなのに今、昨日今日会ったばかりの朱藤には、あんなにあっさりとトラウマを共有し、共感し合っている。
『ジリジリッ……!』
 ノイズが大きくなるのに比例して、翔琉の自分だけが完全に蚊帳の外に置かれているという感覚が大きくなっていく。翔琉の心に、強烈な嫉妬と、置いてけぼりにされたような惨めな疎外感が黒い染みのように広がっていく。
「…………っ」
 翔琉は誰にも聞こえないような小さな声で舌打ちをし、ガラスの向こうの沈黙するモニターを、ただ苛立たしげに睨みつけることしかできなかった。