君の眩しさが、僕の暗闇を上書きするまで

 翔琉と別れた紫乃は自らの家へと帰宅した。玄関のドアを開けると、ちょうど母親がコートを羽織り、出かける準備をしているところだった。
「あ、紫乃。おかえりなさい」
 母親が慌ただしく靴を履きながら声をかける。
「ただいま。どっか行くの?」
「ええ、ちょっと夕飯の買い出しにね。すぐ戻るから、それまで有喜のこと見ててくれない?」
 紫乃が短く頷くと、母親は「サンキュー」と言い残し、足早に家を出ていった。
 自室に向かった紫乃は、机の前で調査のために図書館から借りた本を読む。この土地に関わるものかも、という可能性から借りてきたものだった。弟の有喜は、ベッドの上に広げたおもちゃに夢中になっている。昨日、紫乃が直してあげたロボットだ。
「お兄ちゃん、見て! かっこいい基地ができたよ!」
「うん、すごいね」
 有喜の無邪気な笑顔に、紫乃は小さく息を吐いた。義父や母親との間にある見えない壁も、この純粋な弟の前では少しだけ薄れる気がする。
「有喜、何か飲む? 冷たい麦茶でも持ってくるよ」
「うん! 飲む!」
 紫乃は本を机の上に置き、部屋を後にする。一階のキッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、麦茶の入った容器を取り出す。グラスを二つ出し、麦茶を注いでいく。カラン、と氷の涼しげな音が静かなキッチンに響いた。お盆にグラスを乗せ、階段のほうへ向き直った、その時。
 ドゴォンッ!
 二階から、家全体を揺るがすような物音が響き渡った。
「え……?」
 紫乃の手からお盆が滑り落ち、ガチャンと派手な音を立ててグラスが砕け散る。足元に飛び散る破片や冷たい液体など気にする余裕もない。紫乃は弾かれたように階段を駆け上がった。
「有喜!」
 悲鳴に近い声で呼びかけ、自室のドアを乱暴に開け放つ。そこに広がっていたのは、常軌を逸した光景だった。
 ずるり、ずるりと、赤黒い肉片のような塊が這っていた。粘液のような物に覆われて、気持ち悪い、グロテスクといった言葉そのものの姿。這った跡にも粘液が付いており、紫乃が普段使っている机から続いていた。
 ーーなんだあれ……? 見た瞬間、全身の毛が逆立った。映画とかじゃあ、悲鳴を上げたりするけど、とっさに声なんかでない。だってそこにいるものが理解できない。考えがまとまらない。
 机の上に置かれた、紫乃の普段使いのパソコンモニター。電源など入っていないはずのその黒い液晶画面が、どろりとした不気味な青白い光を放っていた。机の下には図書館で借りてきた本が落ちていた。
 部屋の空気が、凍りつくように冷たい。紫乃が脳内であの塊について理解しようとすると、別のことに気づく。
 ーー心臓の鼓動のようなものが聞こえる。だが、その鼓動は僕の中から聞こえてくるものじゃない。明らかに体の外から聞こえる。
 ドクン、ドクンという湿った脈動音とともに、肉片は触手のように蠢き、床にへたり込んで震える有喜の小さな身体にべったりと絡みつこうとしていた。
「ううっ、あぁ……」
 有喜の顔から血の気が失せ、声にならない掠れた悲鳴が漏れている。肉片は容赦なく有喜の身体に向かい、這い寄っていた。
 その姿を見た瞬間、紫乃は帰り道で聞いた、翔琉の言葉を思い出した。
『俺のせいで、全然関係ない人が呪われるなんて、絶対に嫌だ』
「うわぁぁぁぁあぁ!!!」
 部屋を壊す勢いの雄叫びが響いた。それは、紫乃自身の口から出たものだった。
 理解を超えた事態に一瞬たじろいだ紫乃だったが、次の瞬間、彼の身体は弾かれたように動いていた。論理も計算もない。大事な家族が傷つくくらいなら、自分が盾になる。その心情が、彼を恐怖のどん底へ迷いなく飛び込ませた。
「有喜に触るな!!」
 紫乃は近くにあったバッグを持ちながら、おぞましい肉片の塊へと真正面から飛びかかり、渾身の力で振り下ろした。
 どろどろとした粘液が服や、紫乃の腕に付着する。だが、そんなことを考えている余裕など紫乃にはなかった。
「ぐっ……ああっ!」
 顔を歪めながらも、紫乃は肉片のような塊を有喜から遠ざけるように吹き飛ばす。そのまま有喜を自分の背中側へと庇うように力強く抱き寄せた。
 目の前の光景を目の当たりにし、紫乃の脳裏に戦慄が走る。
 ーー動画を見たやつを襲うんじゃないのか……? なぜ、僕の部屋に出てきたのか。論理的な思考が完全に追いつかない。動画そのものが呪われているのか、それとも何か別の要因があるのか。理解不能な理不尽さが、得体の知れない恐怖となって紫乃の身体を氷のように凍りつかせる。
「お兄ちゃん」
 有喜が涙声で紫乃を呼ぶ。ハッとなり、紫乃は自室のドアに手をかける。部屋を出る瞬間、紫乃は震える拳を強く握り締め、有喜を抱き寄せたまま、肉片を真っ直ぐに睨みつけた。