君の眩しさが、僕の暗闇を上書きするまで

 傾きかけた西日が、住宅街のアスファルトを赤く染めている。隣を歩く翔琉の足取りは、いつになく重かった。持ち前の明るく跳ねるような茶髪も、今は心なしか生気を失って俯いているように見える。
 ――僕たちだけで、やるしかない。
 紫乃は自分の鞄の持ち手をギュッと握り締め、隣を歩く親友の横顔を見上げた。
「ねえ、翔琉」
「ん……?」
 翔琉が力なくこちらを向く。瞳の奥に、不安と恐怖の影が揺れている。
「あのパソコンのことなんだけど、……どうする? リサイクルショップに返しに行くとか、いっそどこかに捨ててる?」
 紫乃が現実的な提案を口にする。怪異が物理的なデバイスに憑いているのであれば、手元から離してしまうのが一番の自衛手段だ。しかし、翔琉はすぐに首を横に振った。
「……だめだ。手放せない」
「なんで? あんな気味の悪いもの、家に置いておいたら危ないよ」
「俺が手放したら、別の誰かがアレを持って帰って、被害に遭うかもしれないだろ。俺のせいで、全然関係ない人が呪われるなんて、絶対に嫌だ」
 翔琉の言葉には、強い責任感が滲んでいた。
「それにさ……鍋島のことだ。あいつが休んで連絡が取れなくなったのは、あの動画を見た直後からだ。もしも、もしもだけど……あのパソコンが、鍋島の意識みたいなものを取り込んでいるんだとしたら?」
 翔琉が立ち止まり、自分の腕を強くさすった。
「もしそうなら、パソコンを手放したり、むやみに壊したりしたら……鍋島は二度と戻ってこられなくなるかもしれない。だから、俺の手元に置いておくしかないんだ」
 理屈ではない。ただの想像に過ぎない。しかし、翔琉のその無鉄砲なほどの優しさと責任感は、紫乃の胸を強く打った。
 ――君は、どこまでも真っ直ぐだな。
 自分なら、迷わず捨てて逃げていたかもしれない。自分が助かればそれでいいと、打算的に考えていたはずだ。しかし翔琉は、顔の見えない誰かや、友人の命のために恐怖を背負おうとしている。
 紫乃は小さく息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……そうだね」
「紫乃……」
「原因が断定できない今の状態で、不用意に処理するのは危ない。壊したことで呪いが暴走する可能性もあるしね。……とりあえず、今日は君の部屋に行って、システム的にどうにかできないか試してみよう」
 紫乃が同意すると、翔琉はホッとしたように顔をほころばせ力強く頷いた。

 西日が沈む頃、紫乃と翔琉は翔琉の部屋に入る。部屋の明かりは点いているはずなのに、どこか薄暗く感じる。淀んだ空気の中心にある机の上で、黒い液晶モニターが底知れない不気味さを出して二人を待っていた。
「貸して。僕がやってみる」
 紫乃はパソコンの前に座り、マウスを握った。翔琉の指示に従って、『無題』とだけ名付けられたその動画ファイルのフォルダにたどり着く。その漆黒のサムネイルは動画を開いていないにもかかわらず、異質な存在として存在感を放っていた。カーソルを合わせ、右クリックから削除を選択する。しかし、画面中央に冷たいシステムダイアログが弾き出された。
『アクセスが拒否されました。このファイルは別のプログラムによって開かれています』
「俺もやったけど、こんな感じで消せないんだよ」
「そうか、だったら……」
 紫乃がキーボードの『Shiftキー』と『Deleteキー』を同時に叩き込む。強制削除のコマンドだ。しかし、ブッという無機質なエラー音が部屋に響くだけで、ダイアログは嘲笑うように消えずに残っている。紫乃はタスクマネージャーを開き、コマンドプロンプトからの削除も試みたが、結果は同じだった。まるでシステムの中に根を張り巡らせ、完全に同化しているかのようだ。
「……どうやっても、システム上からは消せないみたいだ。初期化しようにも、設定画面すらフリーズして開かない」
 紫乃が首を振ると、翔琉は苛立たしげに舌打ちをした。
「なら、電源落としとく、コンセントも」
 翔琉がパソコン本体の電源ボタンを長押しし、強引にシャットダウンさせる。画面がプツンと音を立てて真っ黒になり、ファンの回転音が静かに止まった。さらに翔琉は、壁のコンセントから太いプラグを乱暴に引き抜いた。
 これで、ただのプラスチックの箱になったはずだ。そう思っていたのもつかの間、翔琉はコンセントを抜いたままのプラグを手に、震える声で呟いた。
「……なあ、紫乃」
「……なに?」
「気のせいか? なんか……すげー見られてる気がするんだけど」
 紫乃も、同じことを感じていた。電源は入っていない。画面は漆黒だ。それなのに、黒いガラスの向こう側から、無数の不気味な視線がこちらを這いずり回っているような感覚がある。暗い画面の奥のほうで、血の気がないような青白い光が、まるで呼吸をするように微かに脈打っているのが見えた。
「……もうここから離れた方がいい」
 紫乃は椅子から立ち上がり、翔琉の腕を引いた。
「電源も切ったし、ひとりでに動くなんてことはない、とは思いたいけど……念のために部屋で寝ない方が良いかもね……」
「……うん。そうだな。今日は1階で寝ていいか親に聞いてみるわ」
 翔琉も冷や汗を拭いながら、大きく頷いた。これ以上、この澱んだ空気の中にいれば、自分たちの精神が取り込まれてしまいそうだった
「何かあったらすぐに電話して」
 紫乃は翔琉にそう言い残し、彼の家を後にした。

 紫乃が家に帰ると、一階のリビングからは、テレビの音と義父たちの笑い声が微かに聞こえてくる。静かに階段を上り、二階にある自分の部屋に戻った紫乃は、ベッドに座り込み、自らのスマートフォンを握りしめていた。
 翔琉の部屋で起きている、消すことのできない動画ファイルと、得体の知れない怪奇現象。あれがもし、怨念とか心残りのようなものだとしたら。そして、その曰く付きの品が、中古のパソコンとしてあの店に持ち込まれたのだとしたら。
 ――普通、家族が使っていたPCなら初期化くらいするはずだ。そのまま売りに出されるということは、持ち主が突然亡くなり、業者が遺品整理としてまとめて店に持ち込んだ可能性が高いんじゃないか。
「……調べてみる価値は、ある」
 紫乃は検索ブラウザを開き、あの大型リサイクルショップがある地域に当たりをつけ、検索窓に『市内』『事件』『孤独死』『変死』などのキーワードを打ち込んでいった。無数の検索結果をスクロールし、情報の波を掻き分けていく。
 数十分後、あるニュースサイトの過去記事一覧の中に、一つの短い見出しを見つけた。
『〇〇市内の木造アパートで原因不明の火災。焼け跡から住人と見られる遺体を発見』
 記事の日付は、数週間前。出火原因は調査中だが、真夏の猛暑の中で発見が遅れ、遺体の損傷が激しかったとある。さらに、火事の現場はあの中古パソコンを買ったリサイクルショップのすぐ近くの町内であると。
 ドクン、と心臓が鳴った。記事に載っている住所の地図を確認する。
 ――ここだ。あの日、僕と翔琉が行った、少し離れた駅にある大型リサイクルショップ。そのすぐ近くだ。
 ネットの地図を開き、住所や具体的な場所をメモする紫乃。すぐさま通話アプリを開き、翔琉にメッセージを打ち込んだ。
『元の持ち主の足取りが分かったかもしれない。明日、リサイクルショップの近くにあったアパートの跡地に行こう』
 送信ボタンを押した、その時だった。トントン、と。部屋のドアが、控えめにノックされた。
「!?……」
 紫乃が肩をビクッと跳ねさせると、ドアの隙間から小さな顔が覗いていた。母親と義父の間に生まれた弟、有喜だった。
「お兄ちゃん……?」
「有喜……ど、どうしたの? こんな時間に」
 有喜はモジモジとしながら部屋に入ってくると、背中に隠していた両手を前に差し出した。彼の手には、見事にバラバラになったロボットのおもちゃが握られていた。つい先日、義父が有喜の誕生日に買い与えたばかりの、高価で複雑な変形機構を持つおもちゃだ。
「これ、壊れちゃったの。変なふうに曲げたら、バキって言っちゃって……」
 有喜の目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいる。
「パパに言ったらね、『また新しいのを買ってあげるから大丈夫だよ』って言ってくれたんだけど……」
 有喜はギュッと唇を噛み締め、壊れたパーツを愛おしそうに撫でた。
「でも、僕はこれがいいの。パパが僕のために選んでくれた、これじゃなきゃ嫌なんだ。……お兄ちゃん、直せる?」
 純粋な瞳で、紫乃を見上げてくる。新しいのを買えばいい。義父のその言葉は、大人としての優しい配慮だ。義父はいつもそうだ。波風が立たないように、誰も悲しまないように、最適なルートを用意して家族の形を保とうとしてくれる。
 ーー僕の居場所だって、あの人にとっては家族という枠組みの中で用意された、ただの一つのパーツに過ぎないのではないか。胸の奥に、チクリとした痛みが走る。
「……貸してごらん」
 紫乃は複雑な感情を押し殺し、有喜から壊れたおもちゃを受け取った。机の引き出しから小さなドライバーと瞬間接着剤を取り出し、作業を始める。複雑なジョイント部分が折れているだけだった。細かい作業は、昔から得意だった。昔、翔琉が隣に座り、壊れたパーツから新しい秘密基地を作り上げてくれたことを思い出す。
 紫乃の細い指先が、迷いなくパーツを組み合わせ、接着し、元の形へと修復していく。十分ほどで作業を終え、紫乃がおもちゃを差し出すと、有喜は顔をパァッと輝かせた。
「ほら、直った。しばらくは強く動かさないでね」
「わあ! すごい、元通りだ! ありがとう、お兄ちゃん!」
 有喜が満面の笑みで紫乃に抱きついてくる。その小さな体温が、紫乃の胸にじんわりと伝わってきた。
「……うん。気をつけて遊ぶんだよ」
 紫乃は有喜の背中を優しくポンと叩き、部屋から送り出した。パタン、とドアが閉まる。一人になった部屋で、紫乃は自分の手のひらをじっと見つめた。
 有喜の純粋な笑顔。頼りにされたことの喜び。それは嘘偽りのない感情だ。だが同時に、義父が言っていた「新しいものを買えばいい」という言葉が、呪いのように紫乃の頭の隅にこびりついている。
 家族の輪の中で、有喜のように無邪気に振る舞うことができない自分。義父の優しさに素直に甘えられず、壁を作って「自分は要らない存在だ」と卑屈になっている自分。
 ――直せたのはおもちゃだけだ。僕自身の心は、バラバラのままだ。
 紫乃は何とも言えない顔をして、目を伏せる。机の上に置いたスマートフォンが短く振動し、翔琉からの返信を知らせる画面が光った。今の僕にできるのは、自分を必要としてくれる翔琉のために、気味の悪い怪異の正体を暴き、彼を守り抜くことだけだった。

 放課後のチャイムが鳴り響くと同時、紫乃と翔琉は逃げるように教室を飛び出す。二人は足早に駅へと向かい、電車に飛び乗った。
 数十分後、傾きかけた西日がガラス張りの自動ドアを赤く染め上げる中、二人は大型リサイクルショップの店内へと足を踏み入れる。平日の夕方ということもあり、広い店内には数人の客がまばらにいるだけだった。無機質な蛍光灯の光が、所狭しと並べられた中古の家具や家電を冷たく照らし出している。パソコンコーナーへ向かうと、あの日対応した店員が、陳列棚の埃をモップで払っていた。
「いらっしゃいませ」
「すいません、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
 翔琉が迷うことなく歩み寄り、店員に声をかける。
「はい、……あ、この前パソコンを買っていただいたお客さんですね。どうされました? 何か不具合でもありましたか」
 店員が愛想の良い笑みを浮かべて振り返る。
「いや、パソコン自体は動いてるんですけど……その、どんな人があれを売りに来たのか、少しだけ教えてもらえませんか」
「……売りに来た人、ですか?」
「はい。実は、あのパソコンを使ってから、ちょっとおかしなことが続いてて。元の持ち主の事情とか、何か知っていることがあれば教えてほしいんです」
 翔琉が真剣な眼差しで訴えかけるが、店員は困惑したように眉をひそめた。
「いや……おかしなことと言われましても、うちでは買取時に動作確認をして、初期化も済ませてから店頭に出していますので……」
「そうじゃなくて! データのウイルスとかそういう話じゃなくて、もっとヤバいっていうか……!」
「翔琉、落ち着いて」
 必死になるあまり声が大きくなりかけた翔琉を、紫乃が横から制する。そして一歩前に出ると、極めて冷静な眼差しで店員を見据えた。
「無理を言っているのは承知しています。ただ、僕たちの友人が一人、あのパソコンに触れてから原因不明の体調不良で寝込んでいるんです。警察沙汰にする前に、どうしても確認しておきたいことがありまして」
 嘘ではない。鍋島の件は事実だ。適度な緊張感を孕んだ紫乃の言葉に、店員は困ったように眉尻を下げた。
「警察沙汰って……困りますよ、そういうの。それに、どんな事情があろうと、お客様の買取に関する個人情報はお教えできない決まりなんです。ルールですので」
 頑なな拒絶。マニュアル通りの対応をして、これ以上は絶対に口を割る気がないことは明白だった。紫乃の追及に対しても、店員はただ面倒な客の対応に困惑しているだけで、パソコンの元の持ち主について何か特別な事情を知っているような素振りは微塵もない。単純に、会社のルールとして情報を出せないというだけに見えた。
 紫乃は黙って店員の様子を観察し続けた。重苦しい沈黙が数秒間流れる。それに耐えきれなくなったのか、店員がふと、無意識のうちにチラッとドアの近く、店舗の入り口の自動ドア付近へと視線を向けた。
 誰かを探すような、あるいは外にいる何者かを気にするような、一瞬の視線の動き。紫乃の観察眼は、その微かな違和感を確実にとらえた。だが、これ以上この店員を問い詰めても、意味のある情報は引き出せそうにない。
「……分かりました。お手数をおかけしてすみません」
 紫乃は短く告げると、軽くお辞儀をする。そのまままだ不満そうに食い下がろうとする翔琉の腕を強く引き、パソコンコーナーを後にした。
「えっ、おい紫乃!」
「行くよ、翔琉。これ以上聞いても無駄だ」
 食い下がる翔琉の腕を引き、紫乃は足早に店を出た。
「なんだよ、せっかくここまで来たのに!」
 外に出るなり、翔琉が不満げに声を荒げる。
「十分な収穫はあったよ」
 紫乃は夕日に染まるアスファルトを見つめながら、淡々と答えた。
「あの店員、情報を隠しているわけじゃなく本当にルールで言えないだけだった。でも、少しだけ外を気にしてただろ。もしかしたら、あのパソコンを持ち込んだ本人が、今もこの店の近くをうろついているのかもしれない」
「マジか……。でも、それと呪いがどう繋がるんだよ?」
「ネットで見つけた、近くのアパートの火事の記事。真夏の猛暑の中で、損傷の激しい遺体が見つかったってやつだよ」
 紫乃がスマートフォンで事前に集めたアパートの情報メモを開き、翔琉に見せる。スマートフォンの画面には目的地が表示された。

 リサイクルショップから、目的の住所までは歩いて十数分の距離だった。夕闇が徐々に街を飲み込み始めている。オレンジ色だった空は、血のような赤紫を帯び、長く伸びた二人の影をアスファルトの隅へと溶かしていく。
 住宅街の奥へと進むにつれ、周囲の景色から徐々に生活感が薄れていくのを感じた。すれ違う人もなく、ただ風が吹き抜ける音だけが耳に響く。隣を歩く翔琉は、真剣な表情で前を見据えていた。その横顔には、いつもの眩しい笑顔はなく、未知の恐怖に立ち向かおうとする強い緊張が張り付いている。沈黙の中、重い空気が流れていると、不意に翔琉が口を開いた。
「紫乃、なんか中学に上がってからなんか変じゃね? 家でなんかあったか?」
「っ……別に。そんなつもりはないけど」
 紫乃は不意を突かれたように、一瞬、言葉が詰まるもすぐに返事をする。しかし翔琉のしっかりとした視線に自然と本音が漏れる。
「……ただ、家にいると息が詰まる時があるんだ」
「新しい父親の人と、上手くいってないのか?」
「あの人は優しい人だよ。気を遣ってくれてるし。……でも、なんていうかあの中にいると、僕が無理やりはめ込まれているみたいでさ。家族というシステムの中で、僕はいつでも新しいものと交換できる、不要な部品なんじゃないかって」
「紫乃……」
 翔琉が真剣な表情で紫乃を見つめていたが、もの言いたげな目に変わる。
「……お前、それ中二病じゃね?」
「なっ……!」
 翔琉の思いがけない言葉に紫乃が動揺する。本心を打ち明けて、まさかそんな言葉が返ってくるとは想像もしていなかったのだった。
「考えすぎじゃね」
「……翔琉には、この疎外感は分からないよ。それに僕たちは実際、中二だし」
「うまく言えないけどさ、お前は機械の部品かなんかじゃないよ。代わりが利く人間なんていないっしょ」
「……でも」
「少なくとも俺にとって、紫乃の代わりになる奴なんて、世界中どこ探したって絶対にない」
「……翔琉」
「お前は俺の幼馴染で、一人じゃ上手く笑うこともできない面倒くさい奴だけど、俺にとってはたった一人の深山紫乃だろ。勝手に自分の価値下げちゃダメダメ」
「……恥ずかしいこと言わないでよ」
「本当のことだろ! ほら、暗い顔すんな! あとでコンビニ寄って肉まん奢ってやるから!」
 太陽のように笑う彼の隣だけが、唯一息ができる居場所なのだと、紫乃は改めて実感していた。だからこそ、彼を脅かす得体の知れない怪異を排除しなければならない。紫乃はそう心に決めなおした。
「あれ、かな? 紫乃」
 翔琉の強張った声で、紫乃は思考の海から引き戻された。顔を上げると、路地の突き当たりに、ぽっかりと空いた巨大な黒い口のような空間があった。見ただけで火事のひどさを思い浮かべる焦げた塊。
 かつて木造アパートだったと思われるその建物は、黒焦げになった無残な骨組みだけを残して崩落していた。建物の周囲には、警察が張った黄色い規制線のテープが風に揺れている。
「うわ……マジで全部燃えてる」
 翔琉が息を呑む。紫乃はテープの前に立ち、周囲を慎重に観察した。ふと、焼け残った門柱の根元に、半分炭化した木製の立て札が転がっているのが目に留まった。表札の残骸だ。身を屈め、スマートフォンのライトでそれを照らし出す。
 黒く焼け焦げた木肌に、辛うじて『十六……』という文字の輪郭がわずかに残っていた。紫乃はそれを一瞥してから、スマートフォンのメモと現在地を確認する。
「間違いない。ここがネットの記事にあった火事のアパート跡地だ」
 紫乃が呟くと、翔琉がごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
 ―ーここが、すべての発端かもしれない。翔琉の部屋のパソコンに潜む、あの不気味な動画ファイルの原因、もしくは関係する場所。
「……少しだけ、見てくる。ここで待ってて」
 紫乃は立ち上がり、黄色い規制線のテープの下をくぐろうとした。
「おい、紫乃! 危ないって! 俺も行く!」
「だめだ。何かあった時に、二人とも巻き込まれたら逃げられない。翔琉は外で見張ってて」
 紫乃が強い口調で制止すると、翔琉は不満そうに唇を噛んだが、やがて「……わかった。すぐ戻れよ」と引き下がった。
 紫乃は一人、焼け跡へと足を踏み入れた。靴の裏で、炭化した木材や砕けたガラスが嫌な音を立てる。焦げた匂いが鼻腔を突き刺し、胃の奥がムカムカとした。
 夕闇はさらに深さを増し、足元すらおぼつかない。紫乃はスマートフォンのライトを頼りに、瓦礫の山を慎重に掻き分けながら、部屋の中心だったと思われる場所へと進んでいった。
 ――記事によれば、この部屋の住人はここで死んだ。
 真夏の猛暑の中、発見が遅れ、遺体は酷く損傷していたという。火事で燃えたはずだが、それでも単なる焼死とは考えにくいほど、周囲に異常な量の体液が溶け出したような生々しい痕跡が残っていたらしい。
 もし、僕たちが買ったあの中古パソコンが、この部屋にあった遺品なのだとしたら? 火災に巻き込まれたはずのものが、なぜ無傷でリサイクルショップに並んでいたのか。
 ーーおそらく、奇跡的に焼け残ったパソコンの本体だけが売られたのだろう。いくら削除しても消えない動画データが残っている以上、呪いの根源はその本体のハードディスクに深く根付いているに違いない。
 思考を巡らせながら、紫乃はスマートフォンのライトを足元に滑らせる。辺りを照らすもただただ黒い炭があるだけだった。
「ん? あれは……ゴミの山?」
 紫乃が進んでいくと、業者が回収し忘れたであるゴミ山にたどり着いた。迂回して進んでいくと不意に、光の先が何か異質なものを捉えた。煤だらけの地面。炭化した木材の間に、不自然な形をした黒い塊が転がっている。紫乃は息を詰め、身を屈めてそれを覗き込んだ。
 プラスチックの塊だ。高熱によって完全にどろどろに溶け、無残にひしゃげて原形をとどめていない。しかし、その背面の形状から、それが液晶モニターだと判別できた。
「モニターの、残骸……?」
 紫乃は眉をひそめた。元の持ち主の部屋にあったモニターは、ここで焼けて完全に溶けている。ならば、僕たちがリサイクルショップで買い、今、翔琉の部屋にあるあのモニターは一体何だ? 本体は無事でも、モニターだけは焼失したため、業者が適当な別のものとすり替えてセット販売したということか。
 ーーならば、やはり呪われているのはすり替えられたモニターなんかじゃない。あの異常な動画データが詰まったパソコン本体だ。
 紫乃がそう確信し、ライトの光を溶けた画面の表面に当てた。その瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。溶けて原形をとどめないプラスチックの塊。でも、その表面だけが、まるで濡れたようにぬらぬらと青白く光っていたのだ。
 ーー知っている。この光を、僕は知っている。あの日、リサイクルショップの店頭で、電源も入っていない黒い画面の奥に見た青白い光。待て。どういうことだ? 呪いの根源は本体じゃないのか? なぜ、ここで焼けたはずのモニターの残骸が、同じ光を放っているんだ?
 紫乃が思考を巡らせている、その瞬間だった。紫乃の首筋を、氷のように冷たく、どろどろとした気配が撫でた。 背後に「誰か」がいる。
 ーーいや、人間なのか? 論理的には人間以外ありえないはずなのに、ただなんとも言い難い、圧倒的な気にようなものが感じる。
 背中を向けたままの紫乃の体温が、急激に奪われていく。周囲の空気が重くなり、まるで真冬の氷水に全身を沈められたかのような感覚に陥る。
 ――振り返ってはいけない。本能がそう警鐘を鳴らしている。もし今振り返って、その何かと目を合わせてしまえば、確実に狂わされる。
 恐怖で心臓が早鐘を打ち、喉が干からびる。紫乃は、足元に落ちているモニターの残骸の詳細を確認することも、証拠として写真を撮ることも完全に放棄した。論理も、観察眼も、すべてが恐怖の前に吹き飛んだ。
「う、ああっ……!」
 紫乃は喉の奥から悲鳴にも似た声を絞り出し、弾かれたように立ち上がった。後ろを一度も振り返ることなく、瓦礫を蹴散らしながら、無我夢中で黄色いテープの方向へと走り出す。
「紫乃!?」
 テープの外で待っていた翔琉が、血相を変えて飛び出してきた紫乃を慌てて受け止める。
「ど、どうした!? 顔、真っ青だぞ!」
「いいから! 走って!」
 紫乃は翔琉の腕を強く掴み、有無を言わさず道路を駆け出した。背中に張り付いた、あの冷たくて粘り気のある視線の感触。それが、夕闇に沈む街角を曲がるまで、いつまでもいつまでも紫乃の背中を這いずり回っていた。
 駅まで戻ると、紫乃と翔琉はホームのベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。
「……マジで何があったんだよ、あんな真っ青な顔して飛び出してきて……」
「……焼け跡に、どろどろに溶けたプラスチックの残骸があったんだ」
 紫乃は乱れた呼吸を何とか整えながら、乾いた喉から絞り出すように口を開いた。
「残骸って、何のだよ」
「背面の形状からして、間違いなく液晶モニターだった。元の持ち主の部屋で。モニターは完全に焼けて溶けていたんだ」
「モニターが? あれってパソコンとセットじゃなかった?」
「モニターは火事で焼失して、奇跡的に無事だったパソコン本体だけが売りに出された。そしてリサイクルショップの業者が、適当な別のモニターとセットにして店頭に並べたんだろうって。だから、呪いの元凶はあのパソコンなんだって、思ってたんだ」
「……だったら、なんでお前はあんなにパニックになって逃げてきたんだよ」
 翔琉の問いに、紫乃は息も絶え絶えで答える。
「その溶けたモニターの表面が、不気味に青白く光っていたんだ」
「……光ってた? 電源なんてあるわけないのに?」
「そうだよ。しかも、あの日、リサイクルショップの店頭で見たのと同じ光だ」
「待ってくれ、意味が分かんねえよ」
 紫乃は顔を上げ、冷や汗を流す翔琉の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「僕たちが追っているのは、想像以上に得体の知れない何か、かもしれない……」
 翔琉が青ざめて絶句する。夕闇に包まれた駅のホームに、重苦しい沈黙が降りた。

 アパートから帰った翌朝、学校の教室には、いつものように無邪気な中学生たちの喧騒が満ちていた。窓から差し込む明るい朝日も、黒板の前に集まってスマートフォンを覗き込む生徒たちの笑い声も、今の紫乃と翔琉にとっては、自分たちだけを隔絶する分厚いガラスの壁の向こう側の出来事のように感じられた。その壁をなんとか叩き割ろうと、教室の中心で翔琉が必死の形相で声を張り上げている。
「だから、マジなんだって! あのパソコンには絶対ヤバいのが憑いてる! 鍋島が休んでるのも、ただの風邪じゃない! お前らもあの日、俺の部屋であの隠し動画見ただろ? 頼むから気をつけてくれよ!」
 目を見開き、身振り手振りを交えて訴えかける翔琉。しかし、彼の前に立つ友人たちの反応は、残酷なほど冷ややかなものだった。
「もういいって、翔琉のホラー劇場。鍋島が休んでるからって、お前ビビりすぎだろ」
 大浦が呆れたようにため息をつき、隣に立つ灰村が左手首の偽物スマートウォッチをいじりながら鼻で笑う。
「違う! 現に俺の部屋で、おかしなことが起きてるんだ! 気味の悪い光が見えたり、人がいるような感じがしたり……」
「はいはい、わかったわかった。ゲームのやりすぎだっての」
 灰村が肩をすくめ、周囲にいた別の友人たちも同調するようにゲラゲラと声を上げた。
「だいたいさ。俺、動画見てたとき、お前のPCにこの時計繋いで充電したけど、全然なんともねーぞ? 呪いなんてあるわけないじゃん」
 灰村が左手首を突き出し、得意げに笑う。その言葉を聞いた瞬間、紫乃の背筋を冷たい鉄の刃で撫でられたような悪寒が駆け抜けた。物理的に接続されたケーブルを伝い、別のデバイスへと侵食していく可能性は十分にあり得る。
 紫乃は静かに席を立ち、真っ直ぐに灰村たちの元へと歩み寄った。そして、冷ややかな視線を彼らにぶつける。
「……灰村くん。念のため、その時計はもう外したほうがいい」
「はあ? なんだよ深山まで。お前、完全に翔琉の冗談に感化されてんじゃん」
「冗談じゃない。大浦くんも灰村くんも、あの日、動画を見たなら無関係じゃない」
 紫乃が淡々と、しかし強い語気で事実を話す。だが、大浦も灰村も顔を見合わせ、まるで可哀想なものを見るような目を紫乃に向けた。
「お前ら、マジでちょっと頭冷やせよ。そんなヤバいなら、先生に言えば? 『先生、呪いのパソコンが出ましたー!』ってさ」
 灰村が呆れたような笑みを浮かべながら、大浦と共に教室の隅へと歩き去っていく。非科学的な脅威など、誰も真剣に取り合おうとせず、誰も信じなかった。その中で、紫乃と翔琉は完全に孤立していた。
 昼休みになり、二人は藁にも縋る思いで、担任教師の元へ向かった。賑やかな廊下を抜け、冷暖房の効いた職員室の扉を開ける。部屋の奥、山積みになったプリントの裏でパソコンに向かっている担任に、紫乃は今までの状況を説明した。
 「先生、信じてください。翔琉のパソコンから不審な人影が出たんです」
「本当なんだよ、先生! 俺の部屋で、急に画面が光って、気持ち悪い気配がして……!」
 紫乃の説明に、翔琉が切羽詰まった声で同調する。だが、腕を組んだ担任教師は、深くため息をついて呆れたような顔を向けた。
「あのなぁ、お前ら。ただのパソコンのウイルスか何かだろ。瑠璃川、どうせ変なサイトでも踏んだんじゃないのか?」
「サイトは見たけど……違います! そんなんじゃなくて――」
「先生、ただのウイルスや見間違いじゃありません」
 翔琉を横から制し、紫乃は極めて真剣な紫色の瞳で教師を見据えた。
「実際、鍋島くんが、あのパソコンに触れた直後から不自然な体調不良で休んでいます。あれだけ健康だった彼が、突然原因不明で学校に来られなくなるなんて、偶然にしては出来過ぎています」
「鍋島はただの風邪だろ。たまたま時期が重なっただけだ」
「だからこそ、調べてほしいんです。大人の力で、警察か専門の機関に調査を依頼してください!」
 大人の力で、警察か専門の機関に調査を依頼してほしい。それが紫乃の狙いだった。
 しかし、プリントから顔を上げた担任の口から出たのは、冷酷なほど現実的で、つまらない言葉だけだった。
「変なサイトを見てウイルスに感染したのを、呪いのせいにしたいだけだろ。いい加減にしろ」
 担任は赤ペンを苛立たしげに机に放り投げ、深くため息をついた。
「本当なんです! 現に鍋島だって体調崩して休んでるし、俺たち……!」
「瑠璃川、授業中も上の空でそんなバカみたいなことを考えていたのか? ほかの先生方からも、お前が集中していないと聞いている。深山も深山だ、こいつの悪ふざけに付き合ってないで真面目に勉強しろ」
「……ですが、先生」
「もういい、教室に戻れ」
 一蹴。大人の持つ常識という名の盾は、二人の訴えをあっさりと跳ね返してしまった。職員室を追い出され、静まり返った廊下に出る。
「……クソッ!」
 翔琉が苛立たしげに、壁を強く殴りつけた。ドンッ、という鈍い音が響き、拳の関節がうっすらと赤くにじむ。
「誰も信じない……俺たちがいくら言っても、誰も……!」
 肩を震わせる翔琉の背中を、紫乃は静かに見つめた。
「……翔琉」
 紫乃は静かに声をかけ、振り返った親友の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「誰も信じなくてもいい。僕がいる。大人や周りが信じてくれないなら、僕たち二人でなんとかするしかないんだ」
 紫乃の静かだが力強い言葉に、翔琉の目が僅かに見開かれる。やがて彼は、強く、深く頷いた。
「……うん。そうだな」
 二人だけの秘密の戦い。その連帯感が、冷え切っていた紫乃の心を確かに温めていた。

 午後の歴史の授業は、視聴覚室で行われた。カーテンが引かれた薄暗い室内。何列にも並んだ長机の先、教卓の横には、映像資料を流すための大型液晶モニターが設置されている。
 授業が始まり、教師がDVDプレイヤーの再生ボタンを押す。画面には古い白黒の記録映像が映し出され、くぐもったナレーションが室内に響き始めた。一番後ろの席に座った紫乃は、ノートを開きながらも、焼け跡で見た矛盾について堂々巡りの思考を続けていた。
 ――モニター……本体が原因のはずなのに、なぜ残骸が光っていたのか。
 隣に座る翔琉も、ペンを握る手に力を込め、俯いたまま虚空を見つめている。張り詰めた緊張感が、二人の間に漂う。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえ、紫乃も翔琉も体をこわばせている、その時だった。
 ブツッ、と耳障りなノイズが室内に響き渡った。モニターの記録映像が唐突にフリーズする。次の瞬間、画面の色彩が反転し、どろりとした不気味な赤いノイズが画面全体を覆い尽くした。
「きゃっ!?」
 最前列の女子生徒が短い悲鳴を上げる。
 ――呪いの動画か! まさか……学校で!?
 紫乃の全身の毛穴が粟立ち、心臓が早鐘を打つ。あの部屋で翔琉を襲った霊障。それが、ついに学校のネットワークまで侵食したのか。
 翔琉がガタッと椅子を蹴立てて立ち上がり、拳を構えた。紫乃も反射的に身を乗り出し、皆に逃げるよう叫ぼうと息を吸い込む。
「あー、ごめんごめん。HDMIケーブルの接触が悪いな、これ」
 教師がのんきな声で言いながら、教卓の裏に潜り込んで太いケーブルを弄り始めた。数秒後。ノイズはあっさりと消え、画面には再び白黒の記録映像が映し出された。
「なんだよ、ビビらせんなよー」
「マジでホラーかと思ったし」
 教室中が安堵の笑い声に包まれる。
「…………」
 紫乃と翔琉は顔を見合わせ、同時に全身の力を抜いて椅子に崩れ落ちた。
「……なんだよ」
 翔琉が額の汗を拭いながら、力なく笑う。
「馬鹿みたいだね、僕たち」
 紫乃も思わず、小さく吹き出してしまった。張り詰めていた糸が少しだけ緩み、二人の間にささやかな安堵の時間が流れた。しかし、その安堵は翌朝、無残に打ち砕かれることになる。
 そうして迎えた朝、教室の空気が昨日とは全く違っていた。ざわざわとした不安の波が、生徒たちの間で伝播している。誰もが顔を寄せ合い、ヒソヒソと声を潜めている。
「おい、聞いたか? 大浦のやつ……」
 紫乃は自分の席で、斜め前の男子生徒たちの会話に聞き耳を立てる。
「ああ。昨日の夜、自分の部屋で倒れてたらしいぞ。救急車で運ばれたって」
「倒れてた? なんで?」
「なんか、全身に変な液体みたいなのがベトベトについてて、意識不明だったらしい。しかも、うわ言でずっと『来るな……来るな』って叫んでたって……」
 ドクッ、ドクッと紫乃の胸の奥で、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。教室の中心。いつもの指定席にいる翔琉の顔から、さっと血の気が引いているのが見えた。紫乃は無言で席を立ち、翔琉の元へと歩み寄った。
「……紫乃。大浦のやつ、昨日……」
 翔琉の声が微かに震えている。大浦。あの日、翔琉の部屋で一緒にあの『無題』の隠し動画を見た友人の一人だ。警告は間に合わなかった。大浦は襲われたのだ。あのパソコンの画面を見たことで、彼もまた、怪異の標的にされてしまった。
 機材トラブルで笑い合っていた昨日の安堵など、もはやどこにもない。
 ――怪異は、確実に僕たちのすぐ後ろまで迫ってきている。
 日常がひびが入り、むき出しの恐怖が二人を飲み込もうとしている。逃げ場はない。覚悟を決めた紫乃の紫色の瞳と、恐怖を責任感で塗り潰そうとする翔琉の琥珀色の瞳が、静かに交錯した。

 授業が終わり、二人は息を切らしながら翔琉の家に駆け込む。ドアを開けた瞬間、紫乃は部屋の淀んだ空気に息が詰まりそうになった。机の上に置かれたパソコンたちが、まるで意思を持った一つの生き物のように、底知れないオーラを放って二人を待っている。
「貸して。僕がやる」
 紫乃がパソコンの前に向かおうと一歩踏み出した、その時だった。
「だめだ!」
 翔琉が鋭い声を上げ、紫乃の肩を強く突き飛ばした。
「痛っ……何するんだよ、翔琉!」
「紫乃はそこから動くな。絶対に画面を見るな!」
 翔琉は紫乃を背中で完全に庇うように立ち塞がり、一人で机の前に座った。その必死な剣幕に、紫乃は息を呑む。
 ――僕を、守ろうとしている。あの動画を見た人間が次々と呪いに倒れている。だから、まだ直接動画を見ていない紫乃だけは巻き込まれないようにと、翔琉は自分一人で矢面に立つ覚悟を決めたのか。
「クソッ、ふざけんな!」
 翔琉が苛立ちに任せてパソコンの側面をバンバンと強く叩く。しかし、画面の光は嘲笑うように明滅を続けている。
「翔琉、叩いても直らないよ。……もう一度電源を入れて。別の方法で消去を試そう」
 紫乃の指示で翔琉が再びパソコンを起動する。
「セーフモードで立ち上げて。それからコマンドプロンプトで、システムの深層から直接強制削除するんだ」
 背中越しに紫乃が指示を出し、翔琉が必死にキーを叩く。しかし、画面には無機質なエラーが弾き出されるだけだった。
「……だめだ。どうしても消せない」
 翔琉が力なく肩を落とす。絶望的な状況だ。紫乃の知識を総動員してアプローチを何度試みても、システムに根を張った怪異を排除する手段が何一つ見つからない。
 ――やっぱり、僕たちだけじゃどうにもならない。
 紫乃が諦めかけた、その時だった。翔琉がふと、自分のポケットからスマートフォンを取り出した。
「……なぁ、紫乃」
 翔琉がモニターを睨みつけたまま、紫乃に問いかける。
「こいつが削除できないならさ。別のデータで、強引に上書きするのはどう?」
「上書き?」
 突拍子もない提案に、紫乃は目を丸くした。
「うん。朱藤先輩が言ってたじゃん、怪異は強い情念の塊って。だったら、こいつの陰湿で気味の悪い執着より、もっと強くて、もっと明るくて、最高に楽しい思い出の動画を上書き保存し続けるんだ。俺たちの楽しい時間で、この黒い呪いごと全部塗り潰してやるんだよ!」
 論理的思考の欠片もない。ただの力技で、精神論丸出しの提案だった。だがその無茶苦茶な理屈が、なぜか確かな希望の光のように感じられた。
「……試す価値は、あるかもしれない」
「よし、決まりだ! 最高に楽しい動画を撮りに行こうぜ!」
 向かった先は、駅前にある大型のアミューズメント施設だった。
 けたたましい電子音、色鮮やかなネオンの明滅、そして若者たちの弾けるような笑い声が満ちている。圧迫感のある翔琉の部屋とは対極にある空間だ。
「っしゃあ! まずは格ゲーで、俺が紫乃をボコボコにする動画からだ!」
「……あぁ、受けて立つよ……」
 二人はスマートフォンのカメラをセットし、録画ボタンを押した。クレーンゲームで無駄遣いをして頭を抱える翔琉。バッティングセンターで豪快な空振りをして尻餅をつく姿。カメラに向かって、あるいは互いに向かって、心からの笑い声を上げる。 死の恐怖も忘れ、ただ楽しい、という純粋な感情だけがスマートフォンのメモリに刻み込まれていく。
 2時間後、動画データを手に、二人は再び翔琉の部屋へと戻ってきた。
「よっしゃ! 行くぞ!」
 翔琉がパソコンにスマートフォンを接続する。紫乃には絶対に画面を見せないように自らの身体で覆い隠しながら、翔琉は最も容量の大きな動画ファイルの名前を『無題』に変更し、怪異のファイルへと直接ドロップした。
『既存のファイルを置き換えますか?』というダイアログに対し、エンターキーを叩き込む。
 ブツッ、ブブブッ……!
 スピーカーから不快なノイズが鳴り響く。パソコン本体からも、怪異が抵抗しているのか、騒々しくファンが回転する音がした。
「負けるかよ……っ!」
 翔琉が力任せにマウスを握りしめる。
 ピーーッ! という甲高い電子音と共にプログレスバーが100%に到達し、上書きされた動画がフルスクリーンで再生され始めた。
『うるせー! 今の球が悪いんだよ!』
 バッティングセンターで笑い転げる二人の声が、スピーカーから明るく響き渡る。部屋に充満していた気は完全に消え去り、いつもの生活感のある空気が戻ってきた。
「……成功だ!」
 翔琉が歓喜の叫びを上げ、振り返って紫乃の肩をガシッと抱き寄せて飛び跳ねた。
「見たか紫乃! 俺たちの勝ちだ!」
「うん……すごいよ、翔琉」
 紫乃は安堵の息を吐きながらも、その顔にはどこかぎこちない笑みが張り付いていた。
 ――僕の推理も、システムへの知識も、結局何の役にも立たなかった。僕が必死に理屈をこね回して絶望していた横で、翔琉は自分の力と明るさだけで、あの得体の知れない呪いをあっさりと跳ね除けてしまった。太陽のような彼には、暗闇を自力で照らす力がある。それに引き換え、自分は彼に背中で守られ、怯えていただけだ。
「なんだよ紫乃~もっと喜べよ~!」
「……ちょっと拍子抜けしてさ、思ったより簡単で……」
「何言ってんだよ~紫乃がいろいろとアドバイスしてくれた、上書きするって思いついたんじゃん」
翔琉が満開の笑顔を向けるも、紫乃はうつむき気味に笑う。
 ーー僕がいなくても、翔琉は大丈夫だったんだ。やっぱり、僕は彼の隣にいらない存在なのではないか。
 解決したはずの安堵感とは裏腹に、紫乃の胸の奥に、再び冷たくて卑屈な泥水が満ち始めていた。部屋の空気を入れ替えるため、二人は少し外を歩くことにした。

 夜になったばかりの街の通りを、並んで歩く。翔琉は上機嫌で、さっきのバッティングセンターでの空振りの言い訳をまだ熱く語っている。
 紫乃は生返事を返しながら、ふと駅前の商店街にある古びた玩具店の前で足を止めた。ショーウィンドウの中に、カラフルなブロックのおもちゃが飾られている。
「……紫乃? どしたん?」
 数歩先を歩いていた翔琉が振り返る。紫乃の視界が、ふいに過去の記憶で滲んだ。
 ――実の父親が、交通事故で死んだ後のこと。僕が飛び出したせいでお父さんが死んだという自責の念に押し潰され、僕は部屋で一人、お父さんと一緒に遊んだ思い出のブロックを、めちゃくちゃに壊して泣いていた。
 その時、翔琉は何も言わずに僕の隣に座った。そして、僕が壊したぐちゃぐちゃのパーツを拾い集め、全く別のカッコいい形に作り替えてみせたのだ。
『紫乃、これは新しい基地の材料になるじゃん』
 そう言って笑った翔琉の顔が、どれほど眩しかったか。
「……ねえ、翔琉」
 紫乃はショーウィンドウを見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「昔、僕がブロックをバラバラにして泣いてた時のこと、覚えてる?」
「うーん……ああ! 紫乃が珍しく大泣きしてたな」
「あの時、翔琉が新しい秘密基地を作ってくれた。……あれに、僕はどれだけ救われたか」
 紫乃は視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。
「だから僕は、翔琉のことをずっと尊敬してる。……でも、今日みたいに君が一人で何でも解決しちゃうのを見るとさ。やっぱり僕は、君の隣にいらないんじゃないかって、ちょっと思っちゃうんだよね」
 紫乃は自分の醜い卑屈さを、そのまま言葉にして吐き出した。どうせ、面倒くさい奴だと呆れられるだろう、また中二病かと言われるだろう。そう思った。翔琉は呆れるどころか、目を丸くしてぽかんと口を開けていた。
「はぁ? 何言ってんだよ紫乃」
「え?」
「あのさぁ。あの動画、俺一人でバッティングセンターで空振りして転んでるだけの動画だったら、ただの痛い奴だろ。怪異の呪いなんて上書きできるわけないじゃん」
 翔琉がずいっと顔を近づけ、紫乃の額を軽く指で弾いた。
「痛っ……」
「お前がカメラ回して、腹抱えて笑ってくれたから、めちゃくちゃ最高に楽しい動画になったんだろ。お前がいなきゃ、あの呪いは解けなかった」
 真っ直ぐな琥珀色の瞳が、紫乃を射抜く。
「俺一人じゃ、ただの空回りしているだけ。紫乃がいるから、俺は大丈夫なんだよ。お前がいないとダメだって、何回言えばわかんだよ」
「翔琉……」
 理屈じゃない。ただの感情論だ。だが、その底抜けの肯定が、紫乃の胸の奥にこびりついていた冷たい泥を、温かく溶かしていく。
「……ふふっ」
「なんだよ、人が真面目に言ってんのに!」
「いや、ごめん。翔琉は本当に……バカだなって思って」
 紫乃が堪えきれずに吹き出すと、翔琉もつられたように「うるせー!」と言いながら、ニカッと歯を見せて笑った。
 夜の商店街に、二人の笑い声が響き渡る。世界中が僕を拒絶しても、彼だけは僕を必要としてくれる。この絶対的な居場所を守るためなら、どんな恐怖にも立ち向かえる。紫乃の心の中に、確かな熱が灯っていた。