日が落ちはじめ、生徒たちの喧騒が遠ざかっていく中、紫乃と翔琉は並んで廊下を歩いていた。二人で怪異に立ち向かうと決めたものの、具体的な解決策があるわけではない。ただ、翔琉の顔からは先ほどの絶望感が消え、持ち前の意志の強さを感じさせる琥珀色の瞳に確かな光が戻っていた。それとは対照的に、隣を歩く紫乃の胸の中には、重たい泥のような不安が渦巻いている。
――僕たちだけでどうにかなるのか。そんな考えを振り払うように小さく息を吐いた時だった。
「やあ、瑠璃川くん」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには見覚えのある長身の男子生徒が立っていた。少し猫背気味の姿勢と、前髪の奥から覗く見開かれた双眸。紫乃の記憶が、数日前の土曜日に引き戻される。
――リサイクルショップの近くで、虚空を睨みつけていた不審人物。
「あ、朱藤先輩……」
翔琉が驚いたように目を丸くする。三年生の朱藤劾。オカルトやホラーの愛好家にして変人。 朱藤は気味の悪い笑みを口元に張り付けたまま、ぬらりとした足取りで二人に近づいてきた。
「昼休みに瑠璃川くんが騒いでるのが耳に入ってね。なんでも、キミがホラー劇場を熱演したとか」
「そ、それは……」
翔琉が言い淀む。朱藤は面白がるように首を傾げた。
「オレは信じるよ、瑠璃川くん。キミ、何かヤバいモノと縁ができたんじゃないか? キミの周りだけ、どうも空気の密度が違うなぁってね」
探るような朱藤の視線が、這うように翔琉から紫乃へと移る。紫乃は眉をひそめ、無意識に翔琉を庇うように半歩前に出た。冷ややかな視線を朱藤にぶつける。
「……なんの用ですか。僕たちはこれから用事があるんですけど」
「そんなに睨まないでくれよ。アドバイスをあげようと思っただけさ」
朱藤は肩をすくめ、手の中に持っていた黒い手帳をパラパラと弄り始めた。
「怪異っていうのは、基本的には強い情念の塊なんだよ。それがこの物理世界に干渉するには、波長の合う媒体が必要になる。古い人形とか、鏡とか……最近だと電子機器とかね。」
電子機器。その単語に、紫乃の心臓が嫌な音を立てた。
「未練や執着がこびりつくと、電源なんてなくても関係なく現れる。しかも、そういう怪異は性質が悪い。自分と同じ波長を持つ人間を引きずり込もうとするんだよ」
的を射すぎている。紫乃は奥歯を噛み締めた。朱藤の言葉は、紫乃が先ほど論理的に導き出そうとしていた怪異の正体を、あっさりと暴き立てている。しかし、その語り口には、他人の不幸を対岸の火事として楽しむような、無責任な好奇心が透けて見えた。
――信用できない。紫乃の警戒心は、限界まで跳ね上がっていた。
「……なるほど。ホラー愛好家らしい、面白い考察ですね。でも、僕たちには関係のない話です」
紫乃が冷たく切り捨てようとすると、朱藤はピタリと手帳を閉じた。
「強がらないほうがいいよ。そっちの……深山くん、だっけ?」
朱藤の好奇心に満ちた目が、紫乃を真っ直ぐに射抜く。
「キミ、自分と世界との間に分厚い壁を作ってるんじゃない?」
「……は?」
「そういう自分なんていてもいなくてもいいみたいな、スタンスのやつは、あっちの世界から見れば格好の容れ物なんだよ。お前みたいな卑屈なやつが一番、怪異に引っ張られやすいと思うなぁ」
――心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃だった。義父や母親、妹が作る幸せな家族の輪。そこに入り込めず、自分だけが色の違う異物として浮いている疎外感。ずっと隠してきた心の奥底の卑屈さを、見ず知らずの他人に土足で踏み荒らされた。
「っ……」
紫乃の口が歪み、言葉が詰まる。言い返せない。それが紛れもない本心だからだ。
「ちょっと朱藤先輩……」
沈黙を破ったのは、翔琉の静かに怒る声だった。翔琉が紫乃の前に立ち塞がり、朱藤を強く睨みつける。
「適当なこと言ってんじゃねえよ! 紫乃が空っぽなわけないだろ!」
「翔琉……」
「紫乃は……紫乃は俺に絶対必要なんだよ! いなくなっていいわけない! 紫乃がいないと、俺は一人で何もできないし、こんなヤバい状況、乗り越えられるわけないんだからな!」
廊下に、翔琉の必死な声が響き渡る。真っ直ぐで、一片の嘘も混じっていない言葉。それが痛いほど胸に突き刺さる。嬉しい、けど同時にひどく惨めだった。翔琉はいつだって光の中にいて、暗闇に沈む僕を無条件で肯定してくれる。だが、彼のその眩しさが、僕の抱える卑屈な影をより一層濃くしてしまう。
「もういいよ、翔琉」
紫乃は冷え切った声で、翔琉の背中を引っ張った。
「紫乃……?」
「行くよ。こんな人の話、聞く必要ない」
紫乃は朱藤に鋭い一瞥をくれ、踵を返した。
「あららのコアラ……ま、気が向いたら来てくれ。いつでも相談に乗ってあげるよ」
背後から投げかけられる朱藤の声を無視して、紫乃は足早に廊下を歩き出す。
――誰かに必要とされて欲しい。そんな身勝手な気持ちを、翔琉の言葉は確かに満たしてくれたはずだった。それなのになぜ、こんなにも心が重いのか。紫乃は自分の弱さを隠すように俯きながら、逃げるようにその場から立ち去った。
――僕たちだけでどうにかなるのか。そんな考えを振り払うように小さく息を吐いた時だった。
「やあ、瑠璃川くん」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには見覚えのある長身の男子生徒が立っていた。少し猫背気味の姿勢と、前髪の奥から覗く見開かれた双眸。紫乃の記憶が、数日前の土曜日に引き戻される。
――リサイクルショップの近くで、虚空を睨みつけていた不審人物。
「あ、朱藤先輩……」
翔琉が驚いたように目を丸くする。三年生の朱藤劾。オカルトやホラーの愛好家にして変人。 朱藤は気味の悪い笑みを口元に張り付けたまま、ぬらりとした足取りで二人に近づいてきた。
「昼休みに瑠璃川くんが騒いでるのが耳に入ってね。なんでも、キミがホラー劇場を熱演したとか」
「そ、それは……」
翔琉が言い淀む。朱藤は面白がるように首を傾げた。
「オレは信じるよ、瑠璃川くん。キミ、何かヤバいモノと縁ができたんじゃないか? キミの周りだけ、どうも空気の密度が違うなぁってね」
探るような朱藤の視線が、這うように翔琉から紫乃へと移る。紫乃は眉をひそめ、無意識に翔琉を庇うように半歩前に出た。冷ややかな視線を朱藤にぶつける。
「……なんの用ですか。僕たちはこれから用事があるんですけど」
「そんなに睨まないでくれよ。アドバイスをあげようと思っただけさ」
朱藤は肩をすくめ、手の中に持っていた黒い手帳をパラパラと弄り始めた。
「怪異っていうのは、基本的には強い情念の塊なんだよ。それがこの物理世界に干渉するには、波長の合う媒体が必要になる。古い人形とか、鏡とか……最近だと電子機器とかね。」
電子機器。その単語に、紫乃の心臓が嫌な音を立てた。
「未練や執着がこびりつくと、電源なんてなくても関係なく現れる。しかも、そういう怪異は性質が悪い。自分と同じ波長を持つ人間を引きずり込もうとするんだよ」
的を射すぎている。紫乃は奥歯を噛み締めた。朱藤の言葉は、紫乃が先ほど論理的に導き出そうとしていた怪異の正体を、あっさりと暴き立てている。しかし、その語り口には、他人の不幸を対岸の火事として楽しむような、無責任な好奇心が透けて見えた。
――信用できない。紫乃の警戒心は、限界まで跳ね上がっていた。
「……なるほど。ホラー愛好家らしい、面白い考察ですね。でも、僕たちには関係のない話です」
紫乃が冷たく切り捨てようとすると、朱藤はピタリと手帳を閉じた。
「強がらないほうがいいよ。そっちの……深山くん、だっけ?」
朱藤の好奇心に満ちた目が、紫乃を真っ直ぐに射抜く。
「キミ、自分と世界との間に分厚い壁を作ってるんじゃない?」
「……は?」
「そういう自分なんていてもいなくてもいいみたいな、スタンスのやつは、あっちの世界から見れば格好の容れ物なんだよ。お前みたいな卑屈なやつが一番、怪異に引っ張られやすいと思うなぁ」
――心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃だった。義父や母親、妹が作る幸せな家族の輪。そこに入り込めず、自分だけが色の違う異物として浮いている疎外感。ずっと隠してきた心の奥底の卑屈さを、見ず知らずの他人に土足で踏み荒らされた。
「っ……」
紫乃の口が歪み、言葉が詰まる。言い返せない。それが紛れもない本心だからだ。
「ちょっと朱藤先輩……」
沈黙を破ったのは、翔琉の静かに怒る声だった。翔琉が紫乃の前に立ち塞がり、朱藤を強く睨みつける。
「適当なこと言ってんじゃねえよ! 紫乃が空っぽなわけないだろ!」
「翔琉……」
「紫乃は……紫乃は俺に絶対必要なんだよ! いなくなっていいわけない! 紫乃がいないと、俺は一人で何もできないし、こんなヤバい状況、乗り越えられるわけないんだからな!」
廊下に、翔琉の必死な声が響き渡る。真っ直ぐで、一片の嘘も混じっていない言葉。それが痛いほど胸に突き刺さる。嬉しい、けど同時にひどく惨めだった。翔琉はいつだって光の中にいて、暗闇に沈む僕を無条件で肯定してくれる。だが、彼のその眩しさが、僕の抱える卑屈な影をより一層濃くしてしまう。
「もういいよ、翔琉」
紫乃は冷え切った声で、翔琉の背中を引っ張った。
「紫乃……?」
「行くよ。こんな人の話、聞く必要ない」
紫乃は朱藤に鋭い一瞥をくれ、踵を返した。
「あららのコアラ……ま、気が向いたら来てくれ。いつでも相談に乗ってあげるよ」
背後から投げかけられる朱藤の声を無視して、紫乃は足早に廊下を歩き出す。
――誰かに必要とされて欲しい。そんな身勝手な気持ちを、翔琉の言葉は確かに満たしてくれたはずだった。それなのになぜ、こんなにも心が重いのか。紫乃は自分の弱さを隠すように俯きながら、逃げるようにその場から立ち去った。
