多くの学生が部活動に励んだり、塾に行っているころ、紫乃と翔琉はゲームセンターにいた。様々なゲームの画面がけたたましく明滅し、無数の電子音と若者の笑い声と叫び声が響く。紫乃にとってはひたすらに騒がしいだけの空間だが、隣に座る翔琉は水を得た魚のように生き生きとしていた。
「あっ……と、やべぇ~」
翔琉は対戦型格闘ゲームの筐体に向かい、目まぐるしい手付きでスティックを弾いている。紫乃はただ、画面の中で繰り広げられる派手なエフェクトと、それに照らされてくるくると表情を変える翔琉の横顔をぼんやりと眺めていた。激しいコンボが決まり、画面の中央に大きく『Finish』の文字が映り、翔琉が操作していたキャラクターが勝利の舞を踊る。翔琉は満足げに大きく息を吐き出すと、勢いよく紫乃の方を振り向いた。
「そうだ、紫乃ぉ、今度の土日空いてる?」
「うん空いてる。なんかあるの?」
対戦に勝利した高揚感からか、琥珀色の瞳をひときわ輝かせながら翔琉が問いかけてくる。紫乃は特に予定もなかったため、短く頷いてみせた。
「朝言ったさ、パソコンの件なんだけど」
パソコン。唐突な単語に、紫乃が一瞬フリーズし、記憶の中からパソコンの件を探し出す。その中から朝の教室での騒々しい会話を引っぱり出し、思い返した。
『うーん、そういうのより、今は自分のPC欲しいんだよなぁー。紫乃、やっぱり安く済ませるならリサイクルショップとかかなぁ』
ーー確か、灰村くんと話したときに言ってた……かも?
あの時、クラスの輪の中心にいた翔琉は、いつものように周囲を巻き込んで笑っていた。一歩引いて見ていた紫乃は適当な相槌を打ってやり過ごしていたが、どうやら単なる思いつきではなかったらしい。
「……あれ、本気だったんだ」
「あったり前じゃん! 今の時代、ゲームはパソコンでやるもんだろ?」
紫乃が周りを見回す。紫乃と翔琉以外、同じゲームをやっている人は誰もいなかった。手軽にやるならスマホ、しっかりやるならという今、わざわざゲームセンターで筐体に向かうのはごく一部の層だけだ。
「それにさゲーム実況で色々ゲームやってんじゃん。あれ見ててさ俺もやりてーって思ったわけ!」
無邪気な笑顔で新しい夢を語る翔琉。相変わらず、思い立ったらすぐに行動に移そうとする。その眩しすぎるほどのバイタリティに、紫乃は隠れるように小さくため息をついた。情報も集めず、見通しもないまま突っ走る。自分とは正反対だ。
「……やりたいのは分かったけど、パソコンってそんな安くないよ。どれくらい予算あるの?」
紫乃が冷や水を浴びせるように現実的な問いを投げかけると、翔琉は「うっ」と喉を詰まらせ、あからさまに視線を泳がせた。
「そ、それは……これからお小遣いを貯めるっていうか……。だから、まずはなるべく安く手に入れたいわけよ」
やっぱり、全く何も考えていなかった。見切り発車にもほどがある。紫乃は呆れ半分に、脳内でいくつかの選択肢をリストアップし始めた。
「とにかく安く済ませたいなら、中古品を狙うしかないね。ネットのフリマアプリを使うとか、あとは少し手間だけど、官公庁の合同オークションに出品されるリース落ちのパソコンを落札するとか……」
「かんこうちょう? なんそれ?」
「国や自治体が差し押さえたり、いらなくなって回収した家電とかおもちゃをインターネットでオークションして買えるんだよ。……ただオークションだからほかの人に買われることがあるけどね」
「うーん、なんか難しそ。フリマアプリもさ、アカウント作んないといけないんだろ? すげー面倒くさそうじゃん。もっとこう、パッと行ってサクッと手に入る方法ないの?」
案の定、翔琉は顔をしかめて首を激しく横に振った。彼にとって、面倒な手続きや待機時間は何よりも耐え難い天敵なのだ。
「サクッと手に入るって……。それなら、やっぱり店舗で買うしかないんじゃない?」
「おおっ、それだ!」
翔琉がバンッと勢いよく手を叩き、立ち上がった。周囲の客が数人、チラッとこちらを見たが、本人は全く気にする素振りを見せない。
「朝も言ったけど、やっぱリサイクルショップだよな! 実物見れるし、その場で買えてすぐ持ち帰れるし、最高じゃん。紫乃、ちょっと付き合ってくれよ」
「だからさっき土日空いてるって……」
「善は急げって言うだろ! 土曜か日曜、どっちか付き合ってくれよ。少し足を延ばせば何軒かあるはずだから、とりあえずそこ回ってみようぜ」
翔琉は身を乗り出し、期待に満ちた目で紫乃を覗き込んでくる。強引な提案だが、そこに悪意は微塵もない。彼の態度はいつも迷いがなく、薄暗い場所にいる紫乃を、無理やりにでも日の当たる場所へと引っ張り出そうとする。
――僕が断れるわけないって、分かってるくせに。紫乃は心の内で呟きながらも、小さく息を吐き出した。
「……わかった。土曜ならいいけど」
「よっしゃ、決まりな!」
翔琉が無邪気に笑い、満足げにゲームのスティックから手を離す。
その後、キリのいいところで騒がしいゲームセンターを出ると、傾きかけた西日が二人の影をアスファルトに長く伸ばす。光の中を軽快に進む翔琉の背中を追いかけるように、紫乃は足を一歩一歩、前に踏み出した。
中学生にとっては待ちに待った休日の土曜日。紫乃と翔琉は、近所にあるこぢんまりとしたリサイクルショップのパソコンコーナーに立っていた。
「うーん、やっぱ駄目だな。どれも型落ちすぎるか、予算オーバーだ」
陳列された数台の中古パソコンとスペック表を見比べながら、紫乃は小さく息を吐いた。隣で食い入るようにモニターを見つめていた翔琉が、あからさまに肩を落とす。
「まじかー。せっかく来たのに」
「ここは元々、家具や古着がメインだからね。パソコン目当てなら、電車に乗って数駅先にある大型の店舗に行った方がいい。あそこなら電化製品を多く取り扱ってるはずだから」
「おっ、さすが紫乃! 情報通! じゃあ早速そこ行こうぜ!」
すっかり立ち直った翔琉が、パッと表情を輝かせる。彼の切り替えの早さには、相変わらず感心するしかない。
――僕だったら、無駄だったことにもう少し落ち込むのに。内心で苦笑しつつ、紫乃は翔琉の後に続いて外に出た。
リサイクルショップから出てきて、紫乃がふと、通りの向こうを見る。何やら不気味な人影がうごめくのを捉えた。
「なにしてんだろあれ?」
思わず口から呟きが漏れた。
「うん?」
翔琉が釣られて視線を向ける。紫乃は車道を挟んで、向かいの歩道を見やった。そこにいる同年代と思わしき少年が、電柱の陰に身を隠すように立ち、何もない虚空をじっと睨みつけたかと思えば、突然持っていた手帳に何かを猛スピードで書き殴っている。まさしく挙動不審そのものだ。
「あれ朱藤先輩じゃね?」
と翔琉が言った。
「……誰?」
「三年の朱藤劾先輩。なんかホラーとかオカルトとか、そっち系にすげー詳しいらしくてさ。いっつも一人で変なこと調べてるから、学校じゃちょっと浮いてるっていうか、変人っていうの」
「……へえ」
紫乃は冷ややかな目を向ける。オカルトや怪異。そんな非科学的なものにのめり込んで、白昼堂々奇行に走るなんて、紫乃の理解できなかった。しかし、そんな紫乃の嫌悪感などお構いなしに、翔琉は興味津々に目を輝かせていた。
「声かけてこよっか?」
「いや、話したいわけじゃないし……」
持ち前の好奇心と人懐っこさで、翔琉が軽い足取りで車道に歩み出ようとするも、紫乃は慌てて翔琉の腕を掴み、引き止めた。これ以上、得体の知れない面倒事には絶対に関わりたくない。
「行こう」
紫乃は半ば強引に視線を切り、翔琉の腕を掴んだまま、足早に駅へと向かって歩き出した。
電車内は買い物客や部活帰りの学生たちで、そこそこに混み合っていた。紫乃と翔琉は運良く並んで座席に腰を下ろしていた。ガタンゴトンという規則正しい揺れが、心地よく足元から伝わってくる。途中の駅でドアが開き、人の波に押されるようにして白髪の老夫婦が乗車してきた。周囲の乗客たちはスマートフォンに目を落としたままで、誰も気づかないふりをしている。
紫乃は小さく息を吐き、腰を浮かせようと足に力を入れた。すると隣に座っていた翔琉も、全く同じタイミングで立ち上がっていた。
「ここ、どうぞ!」
翔琉が屈託のない笑顔で声をかける。紫乃も無言のまま席を譲り、翔琉と共にドアの近くへと移動した。老夫婦は「すいませんねえ、ありがとう」と何度もお辞儀をしながら、二人の空けた席に腰を下ろした。少し離れた場所に立ち、紫乃は吊り革に腕を伸ばす。
「紫乃、いい子ぶっちゃって~」
翔琉がニヤニヤと笑いながら、肘で紫乃の脇腹を小突いてきた。
「……そっちこそ」
紫乃は表情を変えずに短く返し、視線を窓の外へ逸らした。
――僕は、ただ気まずかっただけだ。本当に純粋な善意で動ける翔琉と違い、自分は周りの目を気にして、あるいは打算で動いているだけのような気がしてならない。翔琉の裏表のない真っ直ぐさは、時々ひどく眩しくて、心の奥の薄暗い部分を照らし出されるようで居心地が悪かった。
数駅を過ぎ、目的の駅で降りた二人は、駅から歩いて数分の場所にある大型のリサイクルショップへと向かった。
「おっ、ここデカいじゃん! 期待できそう!」
翔琉が足早にガラス張りの自動ドアへと向かう。その時、店内から小走りで出てきた男性と、入り口の真正面で危うく衝突しそうになった。
「っと!」
翔琉が素早く身を躱すが、男性の肩が翔琉の腕に軽くぶつかった。その拍子に、男性のポケットから小さなカードが滑り落ち、乾いた音を立ててアスファルトの上に転がる。紫乃は無意識に身を屈め、それを拾い上げた。 運転免許証だった。顔写真の横にある名前の欄に視線が落ちる。
――『十六島』……うっぷるい? 珍しい苗字だ。写真に写っているのは、目の前にいる男性と同じ人物のはずだが、今の男の顔はひどくやつれていた。目の下には濃い隈が落ち、何かに怯えているような、血の気の引いた顔色をしている。
「……すいません」
十六島は紫乃の手から免許証をひったくるように奪い取ると、一度も目を合わせることなく、足早に駅の方向へと歩き去っていった。
「なんだあの人。ハライタかな」
翔琉が不思議そうに首を傾げる。紫乃も十六島の遠ざかる背中を見つめながら、どこか得体の知れない違和感を覚えた。しかし、見ず知らずの他人の事情に深入りする気などなく、紫乃は思考を切り替えて店の中へと足を踏み入れた。
店内は広く、奥のフロアには電化製品が所狭しと並べられていた。
「おおっ! さっきの店よりめっちゃあんじゃん!」
目当てのパソコンコーナーに向かうと、かなりの台数が陳列されており、翔琉のテンションが跳ね上がる。その姿を見て、紫乃はほほ笑んだ。
「これ良くね?」
翔琉がいわゆる、ゲーミングパソコンを持ちながら尋ねる。紫乃が見るや否や、翔琉の死角についていた値札を指さす。
「……あぁー無理だな」
翔琉は値段を見て、そっとパソコンを戻す。
二人がパソコンコーナーで30分ほど物色していると、
「おっ、これなんかどう? 値段も予算内だし!」
翔琉が目を輝かせて指差したのは、少し型落ちだが状態の良さそうなデスクトップパソコンだった。紫乃は横からスペック表のポップを覗き込む
「……うん。動画を見たり、そこそこのゲームをやるくらいなら十分な性能だと思うよ。値段もかなり抑えられてる」
紫乃が太鼓判を押すと、翔琉は「よし、本体はこれに決定!」と即決した。
続いて、キーボードやマウスなどの周辺機器を物色していく。
「あとはモニターか。あ、これいいじゃん!」
翔琉が足を止めたのは、黒いフレームのシンプルな液晶モニターの前だった目立った傷も見当たらない。しかし値段が張っていなかった。近くにいた店員を呼び止め、購入の意思を伝える。
「ああ、こちらはですね……このデスクトップパソコンとセットで販売させていただいております」
と店員が言いながら、先ほど選んだデスクトップパソコンを触る。
「ってことはこの値段でパソコンとモニターが買えるんですか?」
「そうですね」
「えっ! マジっすか! やった、超ラッキーじゃん!」
翔琉が人目もはばからず、大きな声で叫ぶ。
「ただ、状態は良いんですが……このモニター、なんか映りが独特なんですよね」
店員が伝票にペンを走らせながら、何気ない様子でぽつりと言った。
「映りが独特?」
翔琉が聞き返すと、
「ええ、前の持ち主さんがどう使っていたかは分からないんですけど、少し色味が冷たいというか……まあ、使用には全く問題ありませんよ」
と愛想笑いを浮かべた。これで充分じゃないか、と翔琉が満足げに笑う横で、紫乃はふと、並べられたモニターの黒い画面を覗き込んだ。その瞬間、画面の奥で、一瞬だけ青白い光が反射したように見えた。
――ん? 目を凝らす。電源も入っていないはずの黒い画面に、紫乃自身の顔が薄っすらと映り込んでいる。だが、その映り込みには、どこかぬめるような青白さがあった。まるで、暗く冷たい水の底から自分を見つめ返されているような、奇妙で不快な感覚。
まぁ、見間違いだろう。紫乃は小さく首を振り、視線を外した。少し疲れているのかもしれない。ただの中古品だ、それ以上の意味なんてあるはずがない。会計を済ませ、本体とモニター、周辺機器の入った大きな紙袋と段ボールを受け取る。「ありがとうございましたー!」という店員の声に見送られ、二人は再び外の空気を吸った。
両手いっぱいの荷物を前にして、紫乃はふと現実的な疑問に行き当たる。
「……ねえ。これ、どうやって持ち帰るの?」
ここから駅まで歩き、さらに電車に乗って、翔琉の家まで運ぶのだ。どう考えても大荷物すぎる。紫乃の冷ややかな問いかけに対し、翔琉はニッと歯を見せて笑うと、空いた手でポンポンと自分の足と胸を叩いた。
「これがあんじゃん!」
「……要するに、気合いと体力ってことね」
「正解! ほら、紫乃も半分持ってくれよ!」
全く悪びれる様子のない翔琉に、紫乃は少しため息をついた。こうなることは少しわかっていた。
「よし行くぞー!」
気合いを入れて一歩を踏み出そうとする翔琉。その瞬間、紫乃の視界の端に異様なものが飛び込んできた。 「待って!」
紫乃の鋭い声に、翔琉がビクッと体を震わせて足を止める。
「な、なんだよ急に大声出して……」
「足元、見て」
翔琉が恐る恐る視線を落とす。彼のスニーカーのつま先から数センチ先の舗装路に、それはあった。
「うわっ、きっしょ!」
翔琉が悲鳴のような声を上げ、勢いよく後ろに飛び退いた。アスファルトの上に、黒や灰色の細かい鳥の羽が大量に散らばっている。それだけではない。羽に混じって、どろりとした透明な粘液のようなものが、べっとりと地面にへばりついていた。
乾燥した路面の中で、そこだけが異様に生々しく濡れている。不自然に散らばった羽と粘液は、何かの儀式の跡か、あるいは得体の知れない生物が這いずった痕跡のようにも見えた。紫乃は眉をひそめ、その不快な飛沫を冷静に観察する。
――何だ、これ。周囲を見回しても、上空に鳥の姿はない。それにこの粘液。ただの排泄物には思えず、こんなもの今まで見たことない。
「紫乃、早く行こうぜ。なんか気味悪いし……」
翔琉が顔を引きつらせて、粘液を避けるようにして大回りで歩き出す。
「……そうだね」
紫乃はもう一度だけその粘液を一瞥すると、不快な感覚を振り払うように踵を返した。手の中にある荷物が、心なしか不自然に重く冷たく感じられたが、紫乃はそれを自らの気のせいだと言い聞かせながら、翔琉と共に駅へと向かって歩き出した。
大荷物を抱えて電車を乗り継ぎ、なんとか翔琉の家までたどり着いた頃には、すっかり日が傾きかけていた。二階にある翔琉の部屋のドアを開けるなり、翔琉がベッドに勢いよくダイブした。
「……早く組み立てようよ」
紫乃が呆れ声で促すと、翔琉は「わかってるって!」とすぐに跳ね起きた。彼の切り替えの早さには、本当にいつも驚かされる。
床に置かれたいくつかの段ボール箱を開封していく。
「よっしゃー! ついに俺のマイPC! テンション上がるわー!」
翔琉が目を輝かせながら、緩衝材を乱暴に引っ張り出している。その様子を横目で見ながら、紫乃は比較的軽そうな周辺機器の箱から手を付けた。キーボードやマウスは箱ごと持ち上げても軽く、あっさりと取り出して机の上に並べていく。各種ケーブルの束も解き、接続の準備を整える。
「じゃあ、次はモニターだな。紫乃、そっちお願い!」
「うん」
本体のセッティングに手を取られている翔琉に頼まれ、紫乃はモニターの入った薄型の段ボール箱に手をかけた。両手でしっかりと箱の端を掴み、持ち上げようと力を込める。
――重い。思わず、紫乃の手がピタリと止まった。ただの中古の液晶モニターのはずだ。それなのに、箱越しに伝わってくるその感触は、やけにずしりとしていた。まるで、中に水でも詰まっているような、異様で不自然な重さだった。
紫乃が眉をひそめ、もう一度力を込めようとした、その時だった。
「おっ、悪い! やっぱり俺がやるわ。重いのを人にやらせるなんていかんでしょ、ってね!」
横からすっと伸びてきた翔琉の手が、紫乃の持っていた段ボール箱を横取りした。
「え……」
紫乃が止める間もなく、翔琉は軽い掛け声とともに、さっさとモニターを持ち上げてしまった。彼の腕がプルプルと震えている様子もない。そのまま流れるような動作で箱からモニター本体を引きずり出し、机の中央にドンと設置してしまう。
「よし! 完璧な配置!」
腰に手を当てて満足げに笑う翔琉の背中を、紫乃はただ見つめることしかできなかった。
「……それ重くなかった?」
「ん? 給食の鍋に比べりゃ全然軽いって!」
翔琉は全く気にする素振りを見せず、さっそくモニターの背面にケーブルを繋ぎ始めている。
――気のせい、か? 紫乃は自分の手のひらをじっと見下ろした。しかし、あの時感じた奇妙な重みは、確かに腕に感触として残っている。店先で一瞥した粘液の気持ち悪さが、まだ感覚として尾を引いているだけなのかもしれない。胸の奥に落ちた小さな違和感が残るが、嬉しそうに作業を進める翔琉の邪魔をする気になれず、紫乃は口を噤み、それ以上は何も言わなかった。
一晩明けて、紫乃が翔琉の部屋のドアを開けると、むせ返るような熱気と笑い声が鼓膜を打った。
「おし、次これいこうぜ!」
「うわっ、ヤベェ!」
部屋の中央に設置された真新しいモニターの前に、翔琉と灰村、それに同じクラスの鍋島と大浦が群がり、身を乗り出すようにして画面を覗き込んでいる。彼らの視線の先にあるのは……アダルトサイトだった。紫乃は部屋の入り口に立ち尽くしたまま、その光景を冷めた目で見つめていた。
――僕がいなくても、翔琉は楽しそうだな。
胸の奥に、じわりと嫌な感覚が広がる。もやもやとした、黒く濁った感情。それは紛れもない嫉妬心だった。翔琉の周りにはいつも人が集まる。太陽のように明るく、誰とでも分け隔てなく接する彼に惹かれて、皆が自然と集まってくるのだ。その眩しい輪の中に、僕の居場所はあるのだろうか。自分の家の中で感じる疎外感と同じ、自分だけが色の違う異物になってしまったような息苦しさが、紫乃の胸をぎゅっと締め付ける。
「……ねえ。そういうの見てるけど、ちゃんとウィルス用のソフトとか入れてるの?」
疎外感を振り払うように、紫乃はあえて水を差すような、冷ややかな声を投げかけた。ビクッと肩を震わせた翔琉たちが、一斉にこちらを振り向く。
「おお、紫乃! やっと来た!」
翔琉が全く悪びれる様子もなく、人懐っこい笑顔を向けてくる。その横で、灰村が左腕の偽物スマートウォッチを見せびらかすように腕を組み、得意げに鼻を鳴らした。
「心配すんなって、ちゃんとシークレットウィンドウで見てるから大丈夫だし!」
「……え? シークレットウィンドウは、閲覧履歴が残らないってだけで、セキュリティ機能じゃないよ。ウィルスとかは普通に入るから」
紫乃が淡々と事実を突きつけると、部屋の空気が一瞬だけピタリと止まった。
「……え、マジで?」
「うん」
「うわっ、ヤバいヤバい! 俺のスマホ繋いでるんだけど!」
「翔琉、早く消せって!」
止まったのは一瞬だけで、すぐに彼らはおちゃらけた様子で騒ぎ始めた。翔琉が待って待って、と大げさに叫び、灰村たちがゲラゲラと笑いながらマウスを奪い合う。パニックを装いながらも、その実、彼らはこの状況すらも楽しんでいるのだ。
その輪の中で、翔琉の瞳が楽しげに細められている。
――なんか、息苦しい。彼らの賑やかな声が、僕と彼らとの間にある見えない壁をより高く、分厚くしていくように感じられた。これ以上、ここにいたくないな。 紫乃は静かに背を向けると、騒がしい部屋からそっと抜け出した。背後から聞こえる笑い声から逃げるように、重たい足取りで階段を降りる。
翔琉の部屋からそっと立ち去った夜、部屋の明かりを落とし、紫乃はベッドに力なく横たわっていた。胸の内には、昼間翔琉の部屋から逃げ帰った時の、黒く濁った感情が渦巻いている。それに暗闇の中で自分の存在がどんどん薄れ、影すら残らなくなっていくような感覚も。ふと、机の上を見ると、スマートフォンが短い振動音を立てた。画面に浮かび上がったのは『瑠璃川翔琉』の文字。昼間の気まずさから、一瞬ためらいが生まれる。しかし、指先は思考よりも早く応答ボタンをスワイプしていた。ワンコールにも満たない早さだった。
「……もしもし」
『紫乃! 助けて!』
聞こえてきたのは、普段の余裕など微塵もない、切羽詰まったような翔琉の叫びだった。
「? どうしたの、いきなり」
『パソコンが! なんか調子がおかしいんだ! 早く来てくれ!』
悲鳴に近い声に、紫乃は反射的にベッドから跳ね起きていた。
翔琉の家は歩いて数分の距離にある。夜の冷たい空気を切り裂くように走り、勝手知ったる幼馴染の家のインターホンを鳴らす。翔琉の親に軽く挨拶を済ませ、階段を駆け上がって二階の部屋へと飛び込んだ。
「翔琉!」
ドアを開けると、部屋は薄暗かった。天井の照明は点いておらず、机に置かれた真新しいモニターの放つ青白い光だけが、部屋の中央で不気味に浮かび上がっている。翔琉はベッドの隅に身を寄せ、膝を抱えるようにして座り込んでいた。いつものような明るい彼はそこにはいない。血の気の引いた顔で、翔琉が縋るように視線を向けてくる。
「紫乃……」
「何があったの。パソコンがどうしたって?」
紫乃が傍に歩み寄ると、翔琉は震える声で事の顛末を語り始めた。紫乃が部屋を出た後、灰村たちとしばらくネットサーフィンを続けていた。その最中、あるフォルダに見慣れない隠しファイルがあることに灰村が気づいたという。『無題』とだけ名付けられた動画ファイル。
「俺たち、てっきり前に使ってた奴の消し忘れの動画か何かだと思って……面白半分で再生してみたんだ」
動画が映し出したのは暗闇だけだった。そして、スピーカーから聞こえてきたのは、水の中にいるような、ぐちゃぐちゃとこもった不気味な声。何を言っているのか全く聞き取れなく、気味が悪くなり、すぐにファイルを閉じた。その後、夕飯前には灰村たちも帰り、翔琉は一人になるも、夜になって一人で再びパソコンを使おうとモニターの前に座った時にい問題が起きた。
「うまく言えないんだけど……なんか変な感じがして。それに、背後に誰かの気配がしたんだ」
翔琉は自分の腕をさすりながら、怯えた目で黒いモニターを見る。
「モニターにさぁ、不気味な人影が映った気がしたんだよ。でも、振り返っても誰もいなくて……」
誰もいないのに人影。普通なら鼻で笑い飛ばすような与太話だ。しかし、紫乃の脳裏に、リサイクルショップで見た青白い光や、モニターの入った段ボール箱の不自然な重さが一瞬、フラッシュバックする。だが、紫乃は小さく首を振り、しっかりとしたまなざしで翔琉に向かいなおす。
「……昼間、シークレットウィンドウでアダルトサイトを見てたよね」
紫乃が冷徹な声で事実を突きつけると、翔琉はビクッと肩を跳ねさせた。
「その時に、悪質なウイルスを踏んだんだよ。隠しファイルもそれに付随してたスパムか何かでしょ」
「ま、まじか……?」
「画面がフリーズしたり、変なノイズが出たりするのも、よくあるウイルスの症状。誰かの気配とか人影なんて、暗い部屋で不気味な現象が起きたから、怖くなっていないものを見た気がしただけだと思う」
紫乃の淡々とした説明に、翔琉は食い入るように耳を傾けている。
「ウイルス対策ソフト、入れてないって言ってたよね。このまま不調が続くようなら、とりあえずパソコンを初期化させるしかないよ。工場出荷時の状態に戻せば、大抵のプログラムは消えるから」
理詰めの提案。それは紫乃なりの、親友を安心させるための精一杯の言葉だった。
初期化。その言葉の意味を理解したのか、翔琉はしばらく呆然と瞬きを繰り返していた。そして大げさなほど長く、深い息を吐き出し、顔を上げる。
「なんだよ~初期化すればいいのか!」
先ほどまでの血の気の引いた表情は嘘のように消え去り、いつもの屈託のない笑顔が戻っていた。
「よく考えたら買ったばっかだから、消えて困るようなデータなんて一つも入ってないしな。逆に、今気づけて、まぁ、ラッキーだな!」
ぽかん、と紫乃は口を半開きにしてしまった。ウイルスに感染し、得体の知れない現象に震え上がっていたというのに、ラッキーの一言で片付けてしまう。その底抜けのポジティブさと無鉄砲さ。
「……っ、ふ、あはははっ」
気がつけば、紫乃の口から笑い声が吹き出していた。
「おい、なんだよ紫乃! 人がせっかく立ち直ったのに!」
「いや……ごめん。翔琉は本当に、ポジティブだなって思って」
腹を抱えて笑う紫乃を、翔琉は不満そうに、しかしどこか嬉しそうに見つめている。昼間に感じていた息の詰まるような疎外感や、黒く濁った嫉妬心。それらはいつの間にか跡形もなく溶けて消え去っていた。
「あっ……と、やべぇ~」
翔琉は対戦型格闘ゲームの筐体に向かい、目まぐるしい手付きでスティックを弾いている。紫乃はただ、画面の中で繰り広げられる派手なエフェクトと、それに照らされてくるくると表情を変える翔琉の横顔をぼんやりと眺めていた。激しいコンボが決まり、画面の中央に大きく『Finish』の文字が映り、翔琉が操作していたキャラクターが勝利の舞を踊る。翔琉は満足げに大きく息を吐き出すと、勢いよく紫乃の方を振り向いた。
「そうだ、紫乃ぉ、今度の土日空いてる?」
「うん空いてる。なんかあるの?」
対戦に勝利した高揚感からか、琥珀色の瞳をひときわ輝かせながら翔琉が問いかけてくる。紫乃は特に予定もなかったため、短く頷いてみせた。
「朝言ったさ、パソコンの件なんだけど」
パソコン。唐突な単語に、紫乃が一瞬フリーズし、記憶の中からパソコンの件を探し出す。その中から朝の教室での騒々しい会話を引っぱり出し、思い返した。
『うーん、そういうのより、今は自分のPC欲しいんだよなぁー。紫乃、やっぱり安く済ませるならリサイクルショップとかかなぁ』
ーー確か、灰村くんと話したときに言ってた……かも?
あの時、クラスの輪の中心にいた翔琉は、いつものように周囲を巻き込んで笑っていた。一歩引いて見ていた紫乃は適当な相槌を打ってやり過ごしていたが、どうやら単なる思いつきではなかったらしい。
「……あれ、本気だったんだ」
「あったり前じゃん! 今の時代、ゲームはパソコンでやるもんだろ?」
紫乃が周りを見回す。紫乃と翔琉以外、同じゲームをやっている人は誰もいなかった。手軽にやるならスマホ、しっかりやるならという今、わざわざゲームセンターで筐体に向かうのはごく一部の層だけだ。
「それにさゲーム実況で色々ゲームやってんじゃん。あれ見ててさ俺もやりてーって思ったわけ!」
無邪気な笑顔で新しい夢を語る翔琉。相変わらず、思い立ったらすぐに行動に移そうとする。その眩しすぎるほどのバイタリティに、紫乃は隠れるように小さくため息をついた。情報も集めず、見通しもないまま突っ走る。自分とは正反対だ。
「……やりたいのは分かったけど、パソコンってそんな安くないよ。どれくらい予算あるの?」
紫乃が冷や水を浴びせるように現実的な問いを投げかけると、翔琉は「うっ」と喉を詰まらせ、あからさまに視線を泳がせた。
「そ、それは……これからお小遣いを貯めるっていうか……。だから、まずはなるべく安く手に入れたいわけよ」
やっぱり、全く何も考えていなかった。見切り発車にもほどがある。紫乃は呆れ半分に、脳内でいくつかの選択肢をリストアップし始めた。
「とにかく安く済ませたいなら、中古品を狙うしかないね。ネットのフリマアプリを使うとか、あとは少し手間だけど、官公庁の合同オークションに出品されるリース落ちのパソコンを落札するとか……」
「かんこうちょう? なんそれ?」
「国や自治体が差し押さえたり、いらなくなって回収した家電とかおもちゃをインターネットでオークションして買えるんだよ。……ただオークションだからほかの人に買われることがあるけどね」
「うーん、なんか難しそ。フリマアプリもさ、アカウント作んないといけないんだろ? すげー面倒くさそうじゃん。もっとこう、パッと行ってサクッと手に入る方法ないの?」
案の定、翔琉は顔をしかめて首を激しく横に振った。彼にとって、面倒な手続きや待機時間は何よりも耐え難い天敵なのだ。
「サクッと手に入るって……。それなら、やっぱり店舗で買うしかないんじゃない?」
「おおっ、それだ!」
翔琉がバンッと勢いよく手を叩き、立ち上がった。周囲の客が数人、チラッとこちらを見たが、本人は全く気にする素振りを見せない。
「朝も言ったけど、やっぱリサイクルショップだよな! 実物見れるし、その場で買えてすぐ持ち帰れるし、最高じゃん。紫乃、ちょっと付き合ってくれよ」
「だからさっき土日空いてるって……」
「善は急げって言うだろ! 土曜か日曜、どっちか付き合ってくれよ。少し足を延ばせば何軒かあるはずだから、とりあえずそこ回ってみようぜ」
翔琉は身を乗り出し、期待に満ちた目で紫乃を覗き込んでくる。強引な提案だが、そこに悪意は微塵もない。彼の態度はいつも迷いがなく、薄暗い場所にいる紫乃を、無理やりにでも日の当たる場所へと引っ張り出そうとする。
――僕が断れるわけないって、分かってるくせに。紫乃は心の内で呟きながらも、小さく息を吐き出した。
「……わかった。土曜ならいいけど」
「よっしゃ、決まりな!」
翔琉が無邪気に笑い、満足げにゲームのスティックから手を離す。
その後、キリのいいところで騒がしいゲームセンターを出ると、傾きかけた西日が二人の影をアスファルトに長く伸ばす。光の中を軽快に進む翔琉の背中を追いかけるように、紫乃は足を一歩一歩、前に踏み出した。
中学生にとっては待ちに待った休日の土曜日。紫乃と翔琉は、近所にあるこぢんまりとしたリサイクルショップのパソコンコーナーに立っていた。
「うーん、やっぱ駄目だな。どれも型落ちすぎるか、予算オーバーだ」
陳列された数台の中古パソコンとスペック表を見比べながら、紫乃は小さく息を吐いた。隣で食い入るようにモニターを見つめていた翔琉が、あからさまに肩を落とす。
「まじかー。せっかく来たのに」
「ここは元々、家具や古着がメインだからね。パソコン目当てなら、電車に乗って数駅先にある大型の店舗に行った方がいい。あそこなら電化製品を多く取り扱ってるはずだから」
「おっ、さすが紫乃! 情報通! じゃあ早速そこ行こうぜ!」
すっかり立ち直った翔琉が、パッと表情を輝かせる。彼の切り替えの早さには、相変わらず感心するしかない。
――僕だったら、無駄だったことにもう少し落ち込むのに。内心で苦笑しつつ、紫乃は翔琉の後に続いて外に出た。
リサイクルショップから出てきて、紫乃がふと、通りの向こうを見る。何やら不気味な人影がうごめくのを捉えた。
「なにしてんだろあれ?」
思わず口から呟きが漏れた。
「うん?」
翔琉が釣られて視線を向ける。紫乃は車道を挟んで、向かいの歩道を見やった。そこにいる同年代と思わしき少年が、電柱の陰に身を隠すように立ち、何もない虚空をじっと睨みつけたかと思えば、突然持っていた手帳に何かを猛スピードで書き殴っている。まさしく挙動不審そのものだ。
「あれ朱藤先輩じゃね?」
と翔琉が言った。
「……誰?」
「三年の朱藤劾先輩。なんかホラーとかオカルトとか、そっち系にすげー詳しいらしくてさ。いっつも一人で変なこと調べてるから、学校じゃちょっと浮いてるっていうか、変人っていうの」
「……へえ」
紫乃は冷ややかな目を向ける。オカルトや怪異。そんな非科学的なものにのめり込んで、白昼堂々奇行に走るなんて、紫乃の理解できなかった。しかし、そんな紫乃の嫌悪感などお構いなしに、翔琉は興味津々に目を輝かせていた。
「声かけてこよっか?」
「いや、話したいわけじゃないし……」
持ち前の好奇心と人懐っこさで、翔琉が軽い足取りで車道に歩み出ようとするも、紫乃は慌てて翔琉の腕を掴み、引き止めた。これ以上、得体の知れない面倒事には絶対に関わりたくない。
「行こう」
紫乃は半ば強引に視線を切り、翔琉の腕を掴んだまま、足早に駅へと向かって歩き出した。
電車内は買い物客や部活帰りの学生たちで、そこそこに混み合っていた。紫乃と翔琉は運良く並んで座席に腰を下ろしていた。ガタンゴトンという規則正しい揺れが、心地よく足元から伝わってくる。途中の駅でドアが開き、人の波に押されるようにして白髪の老夫婦が乗車してきた。周囲の乗客たちはスマートフォンに目を落としたままで、誰も気づかないふりをしている。
紫乃は小さく息を吐き、腰を浮かせようと足に力を入れた。すると隣に座っていた翔琉も、全く同じタイミングで立ち上がっていた。
「ここ、どうぞ!」
翔琉が屈託のない笑顔で声をかける。紫乃も無言のまま席を譲り、翔琉と共にドアの近くへと移動した。老夫婦は「すいませんねえ、ありがとう」と何度もお辞儀をしながら、二人の空けた席に腰を下ろした。少し離れた場所に立ち、紫乃は吊り革に腕を伸ばす。
「紫乃、いい子ぶっちゃって~」
翔琉がニヤニヤと笑いながら、肘で紫乃の脇腹を小突いてきた。
「……そっちこそ」
紫乃は表情を変えずに短く返し、視線を窓の外へ逸らした。
――僕は、ただ気まずかっただけだ。本当に純粋な善意で動ける翔琉と違い、自分は周りの目を気にして、あるいは打算で動いているだけのような気がしてならない。翔琉の裏表のない真っ直ぐさは、時々ひどく眩しくて、心の奥の薄暗い部分を照らし出されるようで居心地が悪かった。
数駅を過ぎ、目的の駅で降りた二人は、駅から歩いて数分の場所にある大型のリサイクルショップへと向かった。
「おっ、ここデカいじゃん! 期待できそう!」
翔琉が足早にガラス張りの自動ドアへと向かう。その時、店内から小走りで出てきた男性と、入り口の真正面で危うく衝突しそうになった。
「っと!」
翔琉が素早く身を躱すが、男性の肩が翔琉の腕に軽くぶつかった。その拍子に、男性のポケットから小さなカードが滑り落ち、乾いた音を立ててアスファルトの上に転がる。紫乃は無意識に身を屈め、それを拾い上げた。 運転免許証だった。顔写真の横にある名前の欄に視線が落ちる。
――『十六島』……うっぷるい? 珍しい苗字だ。写真に写っているのは、目の前にいる男性と同じ人物のはずだが、今の男の顔はひどくやつれていた。目の下には濃い隈が落ち、何かに怯えているような、血の気の引いた顔色をしている。
「……すいません」
十六島は紫乃の手から免許証をひったくるように奪い取ると、一度も目を合わせることなく、足早に駅の方向へと歩き去っていった。
「なんだあの人。ハライタかな」
翔琉が不思議そうに首を傾げる。紫乃も十六島の遠ざかる背中を見つめながら、どこか得体の知れない違和感を覚えた。しかし、見ず知らずの他人の事情に深入りする気などなく、紫乃は思考を切り替えて店の中へと足を踏み入れた。
店内は広く、奥のフロアには電化製品が所狭しと並べられていた。
「おおっ! さっきの店よりめっちゃあんじゃん!」
目当てのパソコンコーナーに向かうと、かなりの台数が陳列されており、翔琉のテンションが跳ね上がる。その姿を見て、紫乃はほほ笑んだ。
「これ良くね?」
翔琉がいわゆる、ゲーミングパソコンを持ちながら尋ねる。紫乃が見るや否や、翔琉の死角についていた値札を指さす。
「……あぁー無理だな」
翔琉は値段を見て、そっとパソコンを戻す。
二人がパソコンコーナーで30分ほど物色していると、
「おっ、これなんかどう? 値段も予算内だし!」
翔琉が目を輝かせて指差したのは、少し型落ちだが状態の良さそうなデスクトップパソコンだった。紫乃は横からスペック表のポップを覗き込む
「……うん。動画を見たり、そこそこのゲームをやるくらいなら十分な性能だと思うよ。値段もかなり抑えられてる」
紫乃が太鼓判を押すと、翔琉は「よし、本体はこれに決定!」と即決した。
続いて、キーボードやマウスなどの周辺機器を物色していく。
「あとはモニターか。あ、これいいじゃん!」
翔琉が足を止めたのは、黒いフレームのシンプルな液晶モニターの前だった目立った傷も見当たらない。しかし値段が張っていなかった。近くにいた店員を呼び止め、購入の意思を伝える。
「ああ、こちらはですね……このデスクトップパソコンとセットで販売させていただいております」
と店員が言いながら、先ほど選んだデスクトップパソコンを触る。
「ってことはこの値段でパソコンとモニターが買えるんですか?」
「そうですね」
「えっ! マジっすか! やった、超ラッキーじゃん!」
翔琉が人目もはばからず、大きな声で叫ぶ。
「ただ、状態は良いんですが……このモニター、なんか映りが独特なんですよね」
店員が伝票にペンを走らせながら、何気ない様子でぽつりと言った。
「映りが独特?」
翔琉が聞き返すと、
「ええ、前の持ち主さんがどう使っていたかは分からないんですけど、少し色味が冷たいというか……まあ、使用には全く問題ありませんよ」
と愛想笑いを浮かべた。これで充分じゃないか、と翔琉が満足げに笑う横で、紫乃はふと、並べられたモニターの黒い画面を覗き込んだ。その瞬間、画面の奥で、一瞬だけ青白い光が反射したように見えた。
――ん? 目を凝らす。電源も入っていないはずの黒い画面に、紫乃自身の顔が薄っすらと映り込んでいる。だが、その映り込みには、どこかぬめるような青白さがあった。まるで、暗く冷たい水の底から自分を見つめ返されているような、奇妙で不快な感覚。
まぁ、見間違いだろう。紫乃は小さく首を振り、視線を外した。少し疲れているのかもしれない。ただの中古品だ、それ以上の意味なんてあるはずがない。会計を済ませ、本体とモニター、周辺機器の入った大きな紙袋と段ボールを受け取る。「ありがとうございましたー!」という店員の声に見送られ、二人は再び外の空気を吸った。
両手いっぱいの荷物を前にして、紫乃はふと現実的な疑問に行き当たる。
「……ねえ。これ、どうやって持ち帰るの?」
ここから駅まで歩き、さらに電車に乗って、翔琉の家まで運ぶのだ。どう考えても大荷物すぎる。紫乃の冷ややかな問いかけに対し、翔琉はニッと歯を見せて笑うと、空いた手でポンポンと自分の足と胸を叩いた。
「これがあんじゃん!」
「……要するに、気合いと体力ってことね」
「正解! ほら、紫乃も半分持ってくれよ!」
全く悪びれる様子のない翔琉に、紫乃は少しため息をついた。こうなることは少しわかっていた。
「よし行くぞー!」
気合いを入れて一歩を踏み出そうとする翔琉。その瞬間、紫乃の視界の端に異様なものが飛び込んできた。 「待って!」
紫乃の鋭い声に、翔琉がビクッと体を震わせて足を止める。
「な、なんだよ急に大声出して……」
「足元、見て」
翔琉が恐る恐る視線を落とす。彼のスニーカーのつま先から数センチ先の舗装路に、それはあった。
「うわっ、きっしょ!」
翔琉が悲鳴のような声を上げ、勢いよく後ろに飛び退いた。アスファルトの上に、黒や灰色の細かい鳥の羽が大量に散らばっている。それだけではない。羽に混じって、どろりとした透明な粘液のようなものが、べっとりと地面にへばりついていた。
乾燥した路面の中で、そこだけが異様に生々しく濡れている。不自然に散らばった羽と粘液は、何かの儀式の跡か、あるいは得体の知れない生物が這いずった痕跡のようにも見えた。紫乃は眉をひそめ、その不快な飛沫を冷静に観察する。
――何だ、これ。周囲を見回しても、上空に鳥の姿はない。それにこの粘液。ただの排泄物には思えず、こんなもの今まで見たことない。
「紫乃、早く行こうぜ。なんか気味悪いし……」
翔琉が顔を引きつらせて、粘液を避けるようにして大回りで歩き出す。
「……そうだね」
紫乃はもう一度だけその粘液を一瞥すると、不快な感覚を振り払うように踵を返した。手の中にある荷物が、心なしか不自然に重く冷たく感じられたが、紫乃はそれを自らの気のせいだと言い聞かせながら、翔琉と共に駅へと向かって歩き出した。
大荷物を抱えて電車を乗り継ぎ、なんとか翔琉の家までたどり着いた頃には、すっかり日が傾きかけていた。二階にある翔琉の部屋のドアを開けるなり、翔琉がベッドに勢いよくダイブした。
「……早く組み立てようよ」
紫乃が呆れ声で促すと、翔琉は「わかってるって!」とすぐに跳ね起きた。彼の切り替えの早さには、本当にいつも驚かされる。
床に置かれたいくつかの段ボール箱を開封していく。
「よっしゃー! ついに俺のマイPC! テンション上がるわー!」
翔琉が目を輝かせながら、緩衝材を乱暴に引っ張り出している。その様子を横目で見ながら、紫乃は比較的軽そうな周辺機器の箱から手を付けた。キーボードやマウスは箱ごと持ち上げても軽く、あっさりと取り出して机の上に並べていく。各種ケーブルの束も解き、接続の準備を整える。
「じゃあ、次はモニターだな。紫乃、そっちお願い!」
「うん」
本体のセッティングに手を取られている翔琉に頼まれ、紫乃はモニターの入った薄型の段ボール箱に手をかけた。両手でしっかりと箱の端を掴み、持ち上げようと力を込める。
――重い。思わず、紫乃の手がピタリと止まった。ただの中古の液晶モニターのはずだ。それなのに、箱越しに伝わってくるその感触は、やけにずしりとしていた。まるで、中に水でも詰まっているような、異様で不自然な重さだった。
紫乃が眉をひそめ、もう一度力を込めようとした、その時だった。
「おっ、悪い! やっぱり俺がやるわ。重いのを人にやらせるなんていかんでしょ、ってね!」
横からすっと伸びてきた翔琉の手が、紫乃の持っていた段ボール箱を横取りした。
「え……」
紫乃が止める間もなく、翔琉は軽い掛け声とともに、さっさとモニターを持ち上げてしまった。彼の腕がプルプルと震えている様子もない。そのまま流れるような動作で箱からモニター本体を引きずり出し、机の中央にドンと設置してしまう。
「よし! 完璧な配置!」
腰に手を当てて満足げに笑う翔琉の背中を、紫乃はただ見つめることしかできなかった。
「……それ重くなかった?」
「ん? 給食の鍋に比べりゃ全然軽いって!」
翔琉は全く気にする素振りを見せず、さっそくモニターの背面にケーブルを繋ぎ始めている。
――気のせい、か? 紫乃は自分の手のひらをじっと見下ろした。しかし、あの時感じた奇妙な重みは、確かに腕に感触として残っている。店先で一瞥した粘液の気持ち悪さが、まだ感覚として尾を引いているだけなのかもしれない。胸の奥に落ちた小さな違和感が残るが、嬉しそうに作業を進める翔琉の邪魔をする気になれず、紫乃は口を噤み、それ以上は何も言わなかった。
一晩明けて、紫乃が翔琉の部屋のドアを開けると、むせ返るような熱気と笑い声が鼓膜を打った。
「おし、次これいこうぜ!」
「うわっ、ヤベェ!」
部屋の中央に設置された真新しいモニターの前に、翔琉と灰村、それに同じクラスの鍋島と大浦が群がり、身を乗り出すようにして画面を覗き込んでいる。彼らの視線の先にあるのは……アダルトサイトだった。紫乃は部屋の入り口に立ち尽くしたまま、その光景を冷めた目で見つめていた。
――僕がいなくても、翔琉は楽しそうだな。
胸の奥に、じわりと嫌な感覚が広がる。もやもやとした、黒く濁った感情。それは紛れもない嫉妬心だった。翔琉の周りにはいつも人が集まる。太陽のように明るく、誰とでも分け隔てなく接する彼に惹かれて、皆が自然と集まってくるのだ。その眩しい輪の中に、僕の居場所はあるのだろうか。自分の家の中で感じる疎外感と同じ、自分だけが色の違う異物になってしまったような息苦しさが、紫乃の胸をぎゅっと締め付ける。
「……ねえ。そういうの見てるけど、ちゃんとウィルス用のソフトとか入れてるの?」
疎外感を振り払うように、紫乃はあえて水を差すような、冷ややかな声を投げかけた。ビクッと肩を震わせた翔琉たちが、一斉にこちらを振り向く。
「おお、紫乃! やっと来た!」
翔琉が全く悪びれる様子もなく、人懐っこい笑顔を向けてくる。その横で、灰村が左腕の偽物スマートウォッチを見せびらかすように腕を組み、得意げに鼻を鳴らした。
「心配すんなって、ちゃんとシークレットウィンドウで見てるから大丈夫だし!」
「……え? シークレットウィンドウは、閲覧履歴が残らないってだけで、セキュリティ機能じゃないよ。ウィルスとかは普通に入るから」
紫乃が淡々と事実を突きつけると、部屋の空気が一瞬だけピタリと止まった。
「……え、マジで?」
「うん」
「うわっ、ヤバいヤバい! 俺のスマホ繋いでるんだけど!」
「翔琉、早く消せって!」
止まったのは一瞬だけで、すぐに彼らはおちゃらけた様子で騒ぎ始めた。翔琉が待って待って、と大げさに叫び、灰村たちがゲラゲラと笑いながらマウスを奪い合う。パニックを装いながらも、その実、彼らはこの状況すらも楽しんでいるのだ。
その輪の中で、翔琉の瞳が楽しげに細められている。
――なんか、息苦しい。彼らの賑やかな声が、僕と彼らとの間にある見えない壁をより高く、分厚くしていくように感じられた。これ以上、ここにいたくないな。 紫乃は静かに背を向けると、騒がしい部屋からそっと抜け出した。背後から聞こえる笑い声から逃げるように、重たい足取りで階段を降りる。
翔琉の部屋からそっと立ち去った夜、部屋の明かりを落とし、紫乃はベッドに力なく横たわっていた。胸の内には、昼間翔琉の部屋から逃げ帰った時の、黒く濁った感情が渦巻いている。それに暗闇の中で自分の存在がどんどん薄れ、影すら残らなくなっていくような感覚も。ふと、机の上を見ると、スマートフォンが短い振動音を立てた。画面に浮かび上がったのは『瑠璃川翔琉』の文字。昼間の気まずさから、一瞬ためらいが生まれる。しかし、指先は思考よりも早く応答ボタンをスワイプしていた。ワンコールにも満たない早さだった。
「……もしもし」
『紫乃! 助けて!』
聞こえてきたのは、普段の余裕など微塵もない、切羽詰まったような翔琉の叫びだった。
「? どうしたの、いきなり」
『パソコンが! なんか調子がおかしいんだ! 早く来てくれ!』
悲鳴に近い声に、紫乃は反射的にベッドから跳ね起きていた。
翔琉の家は歩いて数分の距離にある。夜の冷たい空気を切り裂くように走り、勝手知ったる幼馴染の家のインターホンを鳴らす。翔琉の親に軽く挨拶を済ませ、階段を駆け上がって二階の部屋へと飛び込んだ。
「翔琉!」
ドアを開けると、部屋は薄暗かった。天井の照明は点いておらず、机に置かれた真新しいモニターの放つ青白い光だけが、部屋の中央で不気味に浮かび上がっている。翔琉はベッドの隅に身を寄せ、膝を抱えるようにして座り込んでいた。いつものような明るい彼はそこにはいない。血の気の引いた顔で、翔琉が縋るように視線を向けてくる。
「紫乃……」
「何があったの。パソコンがどうしたって?」
紫乃が傍に歩み寄ると、翔琉は震える声で事の顛末を語り始めた。紫乃が部屋を出た後、灰村たちとしばらくネットサーフィンを続けていた。その最中、あるフォルダに見慣れない隠しファイルがあることに灰村が気づいたという。『無題』とだけ名付けられた動画ファイル。
「俺たち、てっきり前に使ってた奴の消し忘れの動画か何かだと思って……面白半分で再生してみたんだ」
動画が映し出したのは暗闇だけだった。そして、スピーカーから聞こえてきたのは、水の中にいるような、ぐちゃぐちゃとこもった不気味な声。何を言っているのか全く聞き取れなく、気味が悪くなり、すぐにファイルを閉じた。その後、夕飯前には灰村たちも帰り、翔琉は一人になるも、夜になって一人で再びパソコンを使おうとモニターの前に座った時にい問題が起きた。
「うまく言えないんだけど……なんか変な感じがして。それに、背後に誰かの気配がしたんだ」
翔琉は自分の腕をさすりながら、怯えた目で黒いモニターを見る。
「モニターにさぁ、不気味な人影が映った気がしたんだよ。でも、振り返っても誰もいなくて……」
誰もいないのに人影。普通なら鼻で笑い飛ばすような与太話だ。しかし、紫乃の脳裏に、リサイクルショップで見た青白い光や、モニターの入った段ボール箱の不自然な重さが一瞬、フラッシュバックする。だが、紫乃は小さく首を振り、しっかりとしたまなざしで翔琉に向かいなおす。
「……昼間、シークレットウィンドウでアダルトサイトを見てたよね」
紫乃が冷徹な声で事実を突きつけると、翔琉はビクッと肩を跳ねさせた。
「その時に、悪質なウイルスを踏んだんだよ。隠しファイルもそれに付随してたスパムか何かでしょ」
「ま、まじか……?」
「画面がフリーズしたり、変なノイズが出たりするのも、よくあるウイルスの症状。誰かの気配とか人影なんて、暗い部屋で不気味な現象が起きたから、怖くなっていないものを見た気がしただけだと思う」
紫乃の淡々とした説明に、翔琉は食い入るように耳を傾けている。
「ウイルス対策ソフト、入れてないって言ってたよね。このまま不調が続くようなら、とりあえずパソコンを初期化させるしかないよ。工場出荷時の状態に戻せば、大抵のプログラムは消えるから」
理詰めの提案。それは紫乃なりの、親友を安心させるための精一杯の言葉だった。
初期化。その言葉の意味を理解したのか、翔琉はしばらく呆然と瞬きを繰り返していた。そして大げさなほど長く、深い息を吐き出し、顔を上げる。
「なんだよ~初期化すればいいのか!」
先ほどまでの血の気の引いた表情は嘘のように消え去り、いつもの屈託のない笑顔が戻っていた。
「よく考えたら買ったばっかだから、消えて困るようなデータなんて一つも入ってないしな。逆に、今気づけて、まぁ、ラッキーだな!」
ぽかん、と紫乃は口を半開きにしてしまった。ウイルスに感染し、得体の知れない現象に震え上がっていたというのに、ラッキーの一言で片付けてしまう。その底抜けのポジティブさと無鉄砲さ。
「……っ、ふ、あはははっ」
気がつけば、紫乃の口から笑い声が吹き出していた。
「おい、なんだよ紫乃! 人がせっかく立ち直ったのに!」
「いや……ごめん。翔琉は本当に、ポジティブだなって思って」
腹を抱えて笑う紫乃を、翔琉は不満そうに、しかしどこか嬉しそうに見つめている。昼間に感じていた息の詰まるような疎外感や、黒く濁った嫉妬心。それらはいつの間にか跡形もなく溶けて消え去っていた。
