柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から紫乃の自室に差し込んでいた。紫乃は静かに目を覚ました。枕元で鳴り始めたスマートフォンのアラームを止め、ゆっくりと身を起こす。嫌な汗も、心臓の嫌な動悸もない。ひどく穏やかな、ごく普通の朝だった。制服に着替え、鞄を手に取って部屋を出る。
階段の前に立つと、一階のリビングからテレビの音声と、家族の笑い声が聞こえてきた。義父と母親、そして弟の有喜の明るい声。
かつての紫乃にとって、この階段は分厚い壁だった。下から聞こえるその声は、完成された幸せな家族の輪を象徴しており、そこに入り込めない自分だけが、色の違う異物なのだと突きつけられているような気がして、いつも息を潜めて逃げるように通り過ぎていた。
紫乃は階段の前で一瞬だけ足を止めた。しかし、もう逃げない。
紫乃は小さく息を吸い込み、堂々とした足取りで階段を降り、リビングのドアを開けた。
「……おはよう」
紫乃が自分から声をかけた。
朝食の準備をしていた母親の動きがピタリと止まり、コーヒーカップを口に運ぼうとしていた義父が驚いたように目を丸くした。普段、自分から進んで挨拶をすることなどなかった紫乃の思いがけない行動に、二人は一瞬あっけにとられていた。
「あ、お、おはよう、紫乃くん」
義父が少し慌てたように笑顔を取り繕って挨拶を返す。
「おはよう、紫乃。……朝ご飯、できてるわよ」
母親も目を瞬かせながら、嬉しそうに目尻を下げた。
「お兄ちゃん、おはよ!」
有喜だけは何も気にすることなく、口の周りにジャムをつけながら無邪気な笑顔を向けてくる。
紫乃は静かに椅子を引き、食卓についた。
――この気持ちが、完全に消え去ったわけではない。自分のせいで実の父親が死んだという過去も変わらない。
でも、それでいいのだと紫乃は思えるようになっていた。無理にこの完成されたパズルのピースとして自分をはめ込もうとするから、苦しかったのだ。義父や妹に対して過度に卑屈にならず、一人の人間としての適切な距離と敬意を持って接していく。そうやって、新しい関係の形を少しずつ作っていけばいい。
今の紫乃には、翔琉の隣という、誰にも脅かされることのない絶対的な居場所があるのだから。
それから数週間後。あの理不尽な恐怖の夜が嘘だったかのように、紫乃たちは平穏な学校生活を取り戻していた。
「うおー! そこだ、右! 右!」
「クソッ、避けられた! もう一回だ!」
休日の駅前にある大型アミューズメント施設。けたたましい電子音とネオンの明滅に包まれた空間で、翔琉の大きな声が響き渡っている。彼が向かっている対戦格闘ゲームの筐体の横には、灰村と大浦、そして鍋島が群がるようにして画面を覗き込み、ゲラゲラと笑い声を上げていた。
あの日、呪いの動画によって意識不明の重体に陥った大浦も、原因不明の体調不良で寝込んでいた鍋島も、爆発事故で左腕に大火傷を負った灰村も、今ではすっかり元通りになっていた。大元の怪異が浄化されたことで、彼らに取り憑いていた物理的な干渉や呪いも綺麗に霧散したのだ。
今日は彼らの快気祝いと称して、あの日、翔琉の部屋で動画を上書きするための素材を撮影したこの場所に、五人で集まって遊んでいた。
「紫乃! 次お前な! 俺の連勝記録、止めてみろよ!」
翔琉が振り返り、挑戦的な笑みを浮かべてスティックを指差す。
「はいはい。手加減しないからね」
紫乃はクレーンゲームの景品が入った袋を肩に掛け直し、呆れたようにため息をつきながらも、その足取りは軽かった。以前の紫乃なら、翔琉の周りに集まる彼らの眩しい輪を見て、嫉妬や疎外感に胸を締め付けられていただろう。
だが、今は違う。翔琉がどれだけ多くの友人に囲まれ、光の中心にいようとも、彼の隣という特等席は誰にも譲る気はない。紫乃の紫色の瞳には、揺るぎない自信と穏やかな光が宿っていた。
アミューズメント施設を出る頃には、空はすっかりオレンジ色に染まり、長い影がアスファルトの上に落ちていた。他の三人とはすでに別れ、紫乃と翔琉は二人並んで住宅街への帰路についていた。
「いやー、食った食った。快気祝いだからって、灰村たちに奢らせすぎたかな」
翔琉が満足げに腹をさすりながら笑う。
「自業自得だよ。シークレットウィンドウなら安全だなんて、よく分からない理屈で怪しいサイトを踏んだんだから」
紫乃が冷ややかにツッコミを入れると、翔琉は「うっ」と痛いところを突かれたように言葉を詰まらせた。心地よい夕風が吹き抜ける。紫乃はふと、ずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、翔琉……」
「? なに?」
「朱藤先輩の地下室に閉じ込められた時、君が言ってたことなんだけど」
「ん? なんだっけ」
「僕が君を助けたって言ってたやつ。……あれ、いつの話?」
翔琉はキョトンと目を丸くした後、声を上げて笑った。
「あはは、なんだよ忘れたのか? 俺が、クラスのやつらにハブられそうになった時のことだよ」
紫乃の記憶の糸が、少し前の過去へと巻き戻る。翔琉の誰にでも分け隔てなく接する人たらしな性格が災いし、彼を取り囲むグループ内で嫉妬や派閥争いのような陰湿なトラブルが起きたことがあった。そしてなぜか、中心にいた翔琉自身が標的にされ、孤立状態に追い込まれそうになったのだ。
「……あぁ、あの時のことか」
紫乃は視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。
「あの時、僕は君を感情的に庇ったりなんてしなかったよ。翔琉をいじめるな、みたいな熱い言葉、一言も言ってない」
「そうだけどさ、あのとき黒板の前に立って、話し始めたじゃん。いつもはそんな注目されることしないのに」
「僕はただ、主犯格の言い分の矛盾を指摘して、適当な理屈を並べて論破しただけだ。君が昨日言っていたことと、今日の主張は全然違う、冷静になるべきだ、って。気持ちがぐちゃぐちゃに混ざっていた彼らを、パズルを解くみたいに整理して黙らせただけ。大したことしてないよ」
紫乃が事実を淡々と告げると、翔琉は紫乃の肩を軽く小突いた。
「それが良かったんじゃん」
「え?」
「みんなが感情的になってぐちゃぐちゃだった時に、紫乃だけがスパーンって理屈でぶち壊してくれた。俺、あの時マジで救われたんだ」
夕日に照らされた翔琉の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに紫乃を見つめている。
「紫乃が隣で冷静に突っ込んでくれるから、俺は安心してバカになれる。だから、紫乃のその理屈っぽさも、冷たいところも、全部俺には必要なんだよ」
――僕の力が、彼を救っていた。
紫乃の心臓が、温かな鼓動を打つ。ずっと、翔琉の眩しさにコンプレックスを抱いていた。自分は太陽の隣にある、暗くて醜い影なのだと。
だが、光が強すぎれば、時にはその光が暴走しないための冷静な影の存在が必要になる。紫乃の卑屈さから生まれた分析力や観察眼も、決して無駄なものではなかった。
紫乃の胸の奥に残っていた最後のコンプレックスが、綺麗な夕風に溶けて完全に消え去っていく。
「……翔琉は本当に、都合のいい解釈をするよね」
紫乃がふっと微笑むと、翔琉は「なんだよそれ!」と笑って言い返した。
二人の影が、長く連なって夕暮れの道に伸びていく。明日もまた、変わらない日常がやってくる。だが、紫乃の歩むその道は、暗闇に続くものではなかった。
階段の前に立つと、一階のリビングからテレビの音声と、家族の笑い声が聞こえてきた。義父と母親、そして弟の有喜の明るい声。
かつての紫乃にとって、この階段は分厚い壁だった。下から聞こえるその声は、完成された幸せな家族の輪を象徴しており、そこに入り込めない自分だけが、色の違う異物なのだと突きつけられているような気がして、いつも息を潜めて逃げるように通り過ぎていた。
紫乃は階段の前で一瞬だけ足を止めた。しかし、もう逃げない。
紫乃は小さく息を吸い込み、堂々とした足取りで階段を降り、リビングのドアを開けた。
「……おはよう」
紫乃が自分から声をかけた。
朝食の準備をしていた母親の動きがピタリと止まり、コーヒーカップを口に運ぼうとしていた義父が驚いたように目を丸くした。普段、自分から進んで挨拶をすることなどなかった紫乃の思いがけない行動に、二人は一瞬あっけにとられていた。
「あ、お、おはよう、紫乃くん」
義父が少し慌てたように笑顔を取り繕って挨拶を返す。
「おはよう、紫乃。……朝ご飯、できてるわよ」
母親も目を瞬かせながら、嬉しそうに目尻を下げた。
「お兄ちゃん、おはよ!」
有喜だけは何も気にすることなく、口の周りにジャムをつけながら無邪気な笑顔を向けてくる。
紫乃は静かに椅子を引き、食卓についた。
――この気持ちが、完全に消え去ったわけではない。自分のせいで実の父親が死んだという過去も変わらない。
でも、それでいいのだと紫乃は思えるようになっていた。無理にこの完成されたパズルのピースとして自分をはめ込もうとするから、苦しかったのだ。義父や妹に対して過度に卑屈にならず、一人の人間としての適切な距離と敬意を持って接していく。そうやって、新しい関係の形を少しずつ作っていけばいい。
今の紫乃には、翔琉の隣という、誰にも脅かされることのない絶対的な居場所があるのだから。
それから数週間後。あの理不尽な恐怖の夜が嘘だったかのように、紫乃たちは平穏な学校生活を取り戻していた。
「うおー! そこだ、右! 右!」
「クソッ、避けられた! もう一回だ!」
休日の駅前にある大型アミューズメント施設。けたたましい電子音とネオンの明滅に包まれた空間で、翔琉の大きな声が響き渡っている。彼が向かっている対戦格闘ゲームの筐体の横には、灰村と大浦、そして鍋島が群がるようにして画面を覗き込み、ゲラゲラと笑い声を上げていた。
あの日、呪いの動画によって意識不明の重体に陥った大浦も、原因不明の体調不良で寝込んでいた鍋島も、爆発事故で左腕に大火傷を負った灰村も、今ではすっかり元通りになっていた。大元の怪異が浄化されたことで、彼らに取り憑いていた物理的な干渉や呪いも綺麗に霧散したのだ。
今日は彼らの快気祝いと称して、あの日、翔琉の部屋で動画を上書きするための素材を撮影したこの場所に、五人で集まって遊んでいた。
「紫乃! 次お前な! 俺の連勝記録、止めてみろよ!」
翔琉が振り返り、挑戦的な笑みを浮かべてスティックを指差す。
「はいはい。手加減しないからね」
紫乃はクレーンゲームの景品が入った袋を肩に掛け直し、呆れたようにため息をつきながらも、その足取りは軽かった。以前の紫乃なら、翔琉の周りに集まる彼らの眩しい輪を見て、嫉妬や疎外感に胸を締め付けられていただろう。
だが、今は違う。翔琉がどれだけ多くの友人に囲まれ、光の中心にいようとも、彼の隣という特等席は誰にも譲る気はない。紫乃の紫色の瞳には、揺るぎない自信と穏やかな光が宿っていた。
アミューズメント施設を出る頃には、空はすっかりオレンジ色に染まり、長い影がアスファルトの上に落ちていた。他の三人とはすでに別れ、紫乃と翔琉は二人並んで住宅街への帰路についていた。
「いやー、食った食った。快気祝いだからって、灰村たちに奢らせすぎたかな」
翔琉が満足げに腹をさすりながら笑う。
「自業自得だよ。シークレットウィンドウなら安全だなんて、よく分からない理屈で怪しいサイトを踏んだんだから」
紫乃が冷ややかにツッコミを入れると、翔琉は「うっ」と痛いところを突かれたように言葉を詰まらせた。心地よい夕風が吹き抜ける。紫乃はふと、ずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、翔琉……」
「? なに?」
「朱藤先輩の地下室に閉じ込められた時、君が言ってたことなんだけど」
「ん? なんだっけ」
「僕が君を助けたって言ってたやつ。……あれ、いつの話?」
翔琉はキョトンと目を丸くした後、声を上げて笑った。
「あはは、なんだよ忘れたのか? 俺が、クラスのやつらにハブられそうになった時のことだよ」
紫乃の記憶の糸が、少し前の過去へと巻き戻る。翔琉の誰にでも分け隔てなく接する人たらしな性格が災いし、彼を取り囲むグループ内で嫉妬や派閥争いのような陰湿なトラブルが起きたことがあった。そしてなぜか、中心にいた翔琉自身が標的にされ、孤立状態に追い込まれそうになったのだ。
「……あぁ、あの時のことか」
紫乃は視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。
「あの時、僕は君を感情的に庇ったりなんてしなかったよ。翔琉をいじめるな、みたいな熱い言葉、一言も言ってない」
「そうだけどさ、あのとき黒板の前に立って、話し始めたじゃん。いつもはそんな注目されることしないのに」
「僕はただ、主犯格の言い分の矛盾を指摘して、適当な理屈を並べて論破しただけだ。君が昨日言っていたことと、今日の主張は全然違う、冷静になるべきだ、って。気持ちがぐちゃぐちゃに混ざっていた彼らを、パズルを解くみたいに整理して黙らせただけ。大したことしてないよ」
紫乃が事実を淡々と告げると、翔琉は紫乃の肩を軽く小突いた。
「それが良かったんじゃん」
「え?」
「みんなが感情的になってぐちゃぐちゃだった時に、紫乃だけがスパーンって理屈でぶち壊してくれた。俺、あの時マジで救われたんだ」
夕日に照らされた翔琉の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに紫乃を見つめている。
「紫乃が隣で冷静に突っ込んでくれるから、俺は安心してバカになれる。だから、紫乃のその理屈っぽさも、冷たいところも、全部俺には必要なんだよ」
――僕の力が、彼を救っていた。
紫乃の心臓が、温かな鼓動を打つ。ずっと、翔琉の眩しさにコンプレックスを抱いていた。自分は太陽の隣にある、暗くて醜い影なのだと。
だが、光が強すぎれば、時にはその光が暴走しないための冷静な影の存在が必要になる。紫乃の卑屈さから生まれた分析力や観察眼も、決して無駄なものではなかった。
紫乃の胸の奥に残っていた最後のコンプレックスが、綺麗な夕風に溶けて完全に消え去っていく。
「……翔琉は本当に、都合のいい解釈をするよね」
紫乃がふっと微笑むと、翔琉は「なんだよそれ!」と笑って言い返した。
二人の影が、長く連なって夕暮れの道に伸びていく。明日もまた、変わらない日常がやってくる。だが、紫乃の歩むその道は、暗闇に続くものではなかった。
