周りが煙と火花が充満する中、我に返り、ひときわ冷静になった紫乃は、翔琉に語り掛ける。
「翔琉、聞いて。あいつがなんでこの地下室の機材をショートさせ、電球まで割ったか分かる?」
「……俺たちを閉じ込めるため……じゃねーの?」
「それもある。でも、一番の理由は別だと思う。外部への電波を遮断するこの地下室に閉じ込められて、逃げ場のないあいつは今、あのモニターを自分の絶対的な体として定着させるしかないんだよ」
「体……ってことは、壊せるのか?」
「うん。ただ確実に仕留めるには、あいつの意識を完全にモニターから引き剥がす必要があるんだ」
紫乃は、十六島のアパートで聞いた、悲痛な父親の声を思い出す。
『現実世界で誰にも必要とされない分、ネットの世界で誰かからのいいね、やコメントを渇望していたんだ』
『誰かからの反応を、24時間、あのモニターの前で待ち続けていたんだ』
「十六島さんの話を聞いて、あいつを動かしてるのは極限まで煮詰まった承認欲求と孤独だと思う」
「それで?」
「だから、ただ物理的にあのモニターを破壊するだけじゃダメだ。中途半端に壊せば、怨念があたりにまき散らされて別の電子機器に這い移るか、最悪の場合、行き場を失った力で暴走してこの部屋ごと僕たちを……殺す」
「やべl……じゃあどうする?」
「確実に仕留めるには、あいつの執着を満足させてやる必要がある。あいつの欲しいものを与えて、根付いた意識と実体のすべてをあのモニターの表面へと完全に引きずり出すんだ。そこを、一撃で叩き潰す」
「満足させるって……どうやって?」
翔琉がむせながら、真剣な顔で尋ねる。
紫乃は迷いなく、自分のズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。画面のロックを解除し、光る液晶画面を翔琉に向ける。
「あいつが求めているのは、自分への注目だ。だからそれを作る」
紫乃はスマートフォンの設定画面を素早く開き、画面の輝度を最大まで引き上げた。さらに、ライト機能をオンにし、動画配信アプリを起動させる。実際に配信をするわけではない。だが、画面上に流れる無数のコメントのダミーや、通知音が連続して鳴り響くテストモードを起動し、音量も最大に設定した。
「これだけの反応を見せつければ、あいつは必ずこの光に目を奪われて、モニターの奥から完全に実体を現すはずだ」
紫乃の瞳は、モニターをまっすぐに見据えていた。
「完全に実体を現したところを、僕があいつの意識を一点に釘付けにする。……その瞬間に翔琉。君があのモニター、あいつの心臓といえるところを完全に破壊してほしい」
紫乃の言葉に、翔琉の目が大きく見開かれた。
「俺が……ぶっ壊す?」
「うん。中途半端なダメージじゃだめだ。粉々に砕き散らすんだ」
紫乃は、足元に転がっていたパイプ椅子の残骸を拾い上げ、翔琉へと差し出した。先ほどの機材のショートと炎でひしゃげているが、鈍器としては十分すぎるほどの重量と強度を持っている。
「……あくまでも僕の憶測だから、絶対……っていう保証はないけどね……」
「……!」
紫乃はしっかりとした目つきをするが、体が震えているのが翔琉にもすぐわかった。
翔琉は黙ってその鉄パイプを受け取った。熱のせいか、彼の顔が僅かに苦痛に歪む。だが、その瞳から決意の光が消えることはなかった。
「……わかった。俺がやる」
翔琉が力強く頷き、鉄パイプを構える。
「……翔琉」
作戦を決行する直前、紫乃は静かに口を開いた。炎の爆ぜる音に掻き消されそうになるほど小さな声だったが、翔琉はピクリと肩を揺らし、真っ直ぐに紫乃を見た。
「さっきは……ひどいことを言って、本当にごめん」
「紫乃……」
「僕はいつも、自分の殻に閉じこもって、君の優しさに甘えていた。君が光に溢れているから、自分が影でもいい、いなくてもいいと自分勝手に思ってたんだ」
紫乃は、煤で汚れた自分の両手をギュッと握り締めた。
「でも、違った。君は僕を置いていくんじゃなくて、いつも僕の隣にいてくれた。僕が暗闇に沈もうとするたびに、泥だらけになって手を伸ばしてくれた」
紫乃の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。翔琉が泣いてた自分の隣で、新しいブロックの秘密基地を作り上げて笑ってくれたことを思い出す。
『紫乃、これは新しい基地の材料になるじゃん』
太陽のように笑って、新しい形を作り上げてくれたのだ。
――僕はあの日、自分の手で大事なものを壊して、終わらせてしまったと思っていた。でも、翔琉はそのぐちゃぐちゃのパーツから、新しい世界を見せてくれた。……壊すことは、終わりじゃないんだ。壊れてしまったなら、また新しい形に組み上げればいい。過去の傷も、醜い心残りも、一度粉々に打ち砕くことで、そこから新しい何かを始めることができる。十六島さんの息子が抱えていた、怨念の塊も同じだ。彼を孤独の檻から解放してやるためには、彼を縛り付けているあの容れ物を、完全に壊してやらなければならないのだ。
「翔琉」
紫乃は顔を上げ、
「僕も翔琉の事を、僕が僕でいていいって思わせてくれる、たった一人の居場所だと思ってる」
紫乃の口から紡がれた、一切の嘘偽りもない本心。
翔琉の目が、驚きに大きく見開かれた。次の瞬間、彼の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、煤と汗にまみれた頬に綺麗な筋を作った。
「……っ、バカ! 今そんなこと言うなよ……泣くだろ!」
翔琉が袖口で乱暴に涙を拭い、鼻をすする。そして、ニカッと歯を見せて、最高に眩しい笑顔を浮かべた。
「当たり前だろ! 俺たちはずっと、最強のコンビなんだからな!」
二人の間にあった見えない壁が、完全に崩れ去った瞬間だった。もう、家族の中での疎外感も、自分だけが色の違う異物だという卑屈さも、紫乃の心には微塵も残っていない。
「行こう、翔琉。あの怪異を終わらせるんだ」
「おう!」
紫乃は大きく息を吸い込み、扉を開け放つ。途端に真冬の氷室に飛び込んだかのような異常な冷気が、紫乃の全身に突き刺さった。足元を這い回っていた赤黒い粘液が、新たな獲物の侵入に気づき、ずるりと身を震わせる。
紫乃は一切の恐怖を見せず、真っ黒なモニターの真正面へと進み出た。
「お前が欲しかったのは、これだろ!」
紫乃は右手に持ったスマートフォンを、モニターに向かって高く掲げた。
ピコン、ピコン、ピコピコピコピコン!! 最大音量で設定された大量の通知音が、地下室の冷たい空気を切り裂く。同時に、スマートフォンのフラッシュライトが強烈な白い光を放ち、暗闇に沈んでいたモニターの表面を眩しく照らし出した。
画面に設定された擬似的な配信画面には、無数のいいねのアイコンと、賞賛のコメントが滝のように流れ続けている。
『……あ……』
モニターの奥から、ノイズ混じりのくぐもった声が漏れた。這い回っていた肉塊の動きがピタリと止まる。
『……みて……俺を……みてる……?』
「そうだ! みんなお前を見ている! お前の欲しかった反応は、ここにあるぞ!」
紫乃が叫ぶと、モニターの画面に映る青白い光が、爆発的な輝きを放ち始めた。
液晶の表面が水面のように波立ち、中からどろどろとした赤黒い粘液が大量に溢れ出してくる。承認欲求という名の果てしない執着。それが、スマートフォンの放つ擬似的な視線の光に完全に魅了され、モニターを守っていた呪いのオーラすらもすべて肉塊の方へと集約されていく。
『……もっと……もっと、見て……』
肉塊が集まり、やがて人間の上半身のような歪な形を形成していく。顔にあたる部分には目も鼻もないが、ぽっかりと空いた黒い穴のような口だけが、スマートフォンの光に向かって貪欲に開かれていた。モニターのフレームに手をかけるようにして、その醜い巨体を画面の外へと完全に乗り出す。
異常な冷気と、血と腐肉の混じったような生臭い匂いが、紫乃の顔をまともに叩きつける。恐怖で足がすくみそうになるが、紫乃は一歩も引かなかった。
「今だ! 翔琉!」
紫乃が喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「うおおおおおおおおっ!!」
紫乃の背後から、炎と煙を突き破って、翔琉が弾丸のように飛び出してきた。
火傷だらけの手で、ひしゃげた鉄パイプを上段に構えている。その周囲の火が映った琥珀色の瞳は、太陽のプロミネンスのように熱く激しく燃え盛っていた。
『……!?』
肉塊が翔琉の殺気に気づき、振り返ろうとする。しかし紫乃がスマートフォンのフラッシュを肉塊の顔面に直接浴びせ、その意識を完全に光の束へと釘付けにしていた。
「君は孤独じゃない! 僕が見てるから、もう……終わってくれ!」
紫乃の叫びと同時。翔琉が跳躍し、全体重を乗せた鉄パイプを、怪異の背後にあるモニターの中心――液晶の心臓部に向かって、渾身の力で振り下ろした。
バキィィィィィィィィィッ!!
鼓膜を破るような、凄まじい轟音が地下室に響き渡った。鉄パイプがモニターの液晶を物理的に粉砕し、内部の基盤ごと真っ二つに叩き割る。
『ア……アァァァァァァァァァッ!!』
怪異の口から、無数の男女の悲鳴が混ざり合ったような、おぞましい断末魔の叫びが上がった。
モニターという物理的な容れ物、この世に留まり続けるための顔が破壊された怪異は、その存在を維持できなくなった。実体化していた赤黒い肉塊が、まるで急速に乾燥していく泥水のように、ボロボロと崩れ落ち始める。
「……っ!」
紫乃と翔琉は、腕で顔を覆って爆風と破片から身を守った。
砕け散ったモニターの破片が、スローモーションのように宙を舞う。それは、気味の悪い肉片や、どろどろとした体液ではなかった。飛び散ったのは、キラキラと眩い光を反射する、細かい液晶のガラス片だった。
オレンジ色の炎と、スマートフォンの白いライトに照らされたその破片は、まるで夜空に散りばめられた星屑のように、あるいは太陽の光を浴びて輝く朝露のように、この上なく美しく煌めいていた。
「……」
紫乃が、その光景をただただ黙って見ていた。
シャラシャラと、微かな音を立てて液晶の破片が床に降り注ぐ。それと同時に、地下室を満たしていた異常な冷気と、気味の悪い気配が嘘のようにフッと消え去った。
ショートして燃え上がっていた機材の炎も、怪異のエネルギーが霧散したことで急激に勢いを失い、チロチロとした小さな種火へと変わっていく。
「……終わったか……?」
翔琉が、肩で荒い息をしながら、手にした鉄パイプをカランと床に取り落とした。紫乃はスマートフォンのライトを消し、ゆっくりと翔琉に歩み寄る。
「うん。終わったよ、翔琉」
紫乃が微笑みかけると、翔琉はその場にへたり込み、大の字になって仰向けに倒れ込んだ。
「ははっ……マジか~。俺たち、勝ったのか」
「勝ったんだよ。君の無茶苦茶な力技のおかげでね」
紫乃も翔琉の隣に座り込み、深く、深い息を吐き出した。全身の筋肉が鉛のように重く、今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。
だが、まだやるべきことが残っている。
「先輩を……朱藤先輩を助けないと」
紫乃が立ち上がろうとした、その時だった。
「……う、ううん……」
モニタールームの隅から、掠れたうめき声が聞こえた。
「先輩!」
紫乃と翔琉が慌てて駆け寄る。コンクリートの床に倒れていた朱藤が、ゆっくりと身じろぎをして目を開けた。
彼の顔を覆っていたあの気味の悪い粘液は、完全に跡形もなく消え去っている。肌には所々、火傷のような赤い爛れやただれが残っており痛々しいが、呼吸は安定しており、命に別状はないようだった。
「……深山くん……瑠璃川くん……」
朱藤が、目をぱちくりさせながら、焦点の定まらない目で二人を見上げる。
「オレは……どうなったんだ……?」
「先輩! よかった、生きてた!」
翔琉が朱藤の体を抱き起し、泣き笑いのような顔で肩を叩いた。
「痛っ……痛いよ、瑠璃川くん。加減してくれ」
朱藤が顔をしかめながらも、ふっと自嘲気味な笑みをこぼす。
「あの化け物に顔を覆われた時は、オレもついに彼方に連れて行かれるかと思ったよ。……どうやら、君たちがオレを現実世界に引き留めてくれたみたいだね」
「先輩がこの地下室を提供してくれなかったら、僕たちはとっくに全滅していました。……ありがとうございます」
紫乃が深々と頭を下げる。朱藤は痛む頬を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。彼の視線の先には、完全に粉砕され、ただのガラクタと化した黒いモニターの残骸があった。
「……見事だ。君たちは、自分たちの手であいつを打ち破ったんだね」
朱藤の言葉には、かつて己の過去を呪い、オカルトに傾倒するしかなかった彼自身の救いも含まれているように聞こえた。
三人は支え合うようにして、重い鉄扉を開けた。冷たいコンクリートの階段を上り、一階の応接室へと戻る。長い、本当に長い夜だった。朱藤の家の玄関のドアを開けると、そこには信じられないほど眩しい光が溢れていた。
「うわっ……まぶし……」
翔琉が目を細め、手で光を遮る。いつの間にか、夜は完全に明け切っていた。東の空から昇る真新しい太陽が、住宅街の屋根を黄金色に染め上げ、澄んだ朝の空気を暖めている。
鳥のさえずりが聞こえる。遠くで、始発の電車が走る微かな音がする。ごく当たり前の、平凡で、退屈な日常の朝。だが、極限の死地をくぐり抜けてきた紫乃たちにとって、これほど美しく光景は他になかった。
「……朝だね」
「……朝だな」
紫乃が呟くと、翔琉が短く応えた。
翔琉の横顔は、朝日を浴びてキラキラと輝いている。その隣に立つ紫乃の心には、もう彼を遠ざけるような卑屈な影は一切ない。二人は並んで、新しい世界を告げる太陽の光を、静かに見つめ続けていた。
地下室での出来事から数日が経とうとしていた。紫乃と翔琉は、十六島の住む、古いアパートへと足を運んでいた。
錆びついた鉄階段を上り、二階の一番奥、204号室の前に立つ。
翔琉が迷いなくくすんだインターホンのボタンを押すと、ジリリリリという耳障りな音が響いた。しばらくして、ガチャリとチェーン錠が外れる音がし、重い鉄扉がゆっくりと開く。隙間から顔を出したのは、十六島だった。
ひどく落ちくぼんだ眼窩や、どす黒く沈殿した目の下の隈は、数日前に会った時と変わらない。しかし、扉の前に立つ二人の姿を認めた瞬間、その神経質そうな目が驚いたように丸く見開かれた。
「君たちは……」
「おじさん、こんにちは」
翔琉が、いつもと変わらない屈託のない笑顔で挨拶をする。その両手には、地下室で負った火傷の治療のための真っ白な包帯が巻かれていた。
十六島は翔琉の包帯に視線を落とし、ハッとしたように息を呑む。
「……終わりました。あなたの息子の執着は、もうどこにもありません」
紫乃の静かではっきりとした報告が、薄暗い廊下に響き渡る。
十六島は扉のノブを握る手を震わせ、ゆっくりとドアを大きく開け放った。
「終わった……とは? あの子は……どうなったんだ」
「息子さんの……思いが入ったものは、完全に破壊しました。……でも、最期は気味の悪い呪いなんかじゃなく、とても綺麗な光になって、消えていきましたよ」
紫乃の言葉を引き継ぐように、翔琉がニッと歯を見せて笑う。
「あいつが欲しがってた反応を、俺たちが思いっきり見せつけてやったんです。だから、最後はちゃんと満足してくれたみたいです」
擬似的な光と大量の反応によって浄化されたこと。その突拍子もない経緯を、十六島がどこまで正確に理解できたかは分からない。だが、翔琉の迷いのない明るい笑顔と、紫乃の静かな眼差し。そして、二人の纏う空気が、かつてこの場所を訪れた時のピリピリとした緊張感から解放されているのを見て、十六島はすべてを悟ったようだった。
「そうか……あの子は、もう……」
十六島の口から、ふうっ、と長く震えるような息が漏れ出た。途端に、十六島の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。彼は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。
「ああ……っ、ああぁっ……!」
嗚咽がアパートの廊下に響く。しかし、それは数日前にこの部屋で聞いた、深い絶望と底知れない恐怖に満ちた泣き声とは全く違っていた。張り詰めていた糸が切れ、重くのしかかっていた底知れない重圧からようやく解放された、魂の底からの安堵の涙だった。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
十六島は何度も何度も、床に額を擦りつけるようにして二人に頭を下げた。紫乃は静かに、泣き崩れる十六島の姿を見つめていた。
「おじさん、もう泣かないでよ。これからは、息子の分までしっかり生きてくれよな」
翔琉が屈み込み、包帯を巻いた手で十六島の背中を優しくぽんぽんと叩く。
「……ああ。そうだな。君たちの言う通りだ」
十六島は袖口でぐしゃぐしゃになった顔を拭い、ゆっくりと顔を上げた。涙に濡れたその顔にはもう、以前のような怯えや神経質な影は微塵も残っていない。憑き物が取れたような、ただの一人の穏やかな父親の顔があった。
「ありがとう。君たちには……一生、感謝する」
十六島の深く温かい感謝の言葉を背に受けながら、紫乃と翔琉は静かにアパートを後にした。空には、雲一つない青空がどこまでも高く澄み渡っていた。
「翔琉、聞いて。あいつがなんでこの地下室の機材をショートさせ、電球まで割ったか分かる?」
「……俺たちを閉じ込めるため……じゃねーの?」
「それもある。でも、一番の理由は別だと思う。外部への電波を遮断するこの地下室に閉じ込められて、逃げ場のないあいつは今、あのモニターを自分の絶対的な体として定着させるしかないんだよ」
「体……ってことは、壊せるのか?」
「うん。ただ確実に仕留めるには、あいつの意識を完全にモニターから引き剥がす必要があるんだ」
紫乃は、十六島のアパートで聞いた、悲痛な父親の声を思い出す。
『現実世界で誰にも必要とされない分、ネットの世界で誰かからのいいね、やコメントを渇望していたんだ』
『誰かからの反応を、24時間、あのモニターの前で待ち続けていたんだ』
「十六島さんの話を聞いて、あいつを動かしてるのは極限まで煮詰まった承認欲求と孤独だと思う」
「それで?」
「だから、ただ物理的にあのモニターを破壊するだけじゃダメだ。中途半端に壊せば、怨念があたりにまき散らされて別の電子機器に這い移るか、最悪の場合、行き場を失った力で暴走してこの部屋ごと僕たちを……殺す」
「やべl……じゃあどうする?」
「確実に仕留めるには、あいつの執着を満足させてやる必要がある。あいつの欲しいものを与えて、根付いた意識と実体のすべてをあのモニターの表面へと完全に引きずり出すんだ。そこを、一撃で叩き潰す」
「満足させるって……どうやって?」
翔琉がむせながら、真剣な顔で尋ねる。
紫乃は迷いなく、自分のズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。画面のロックを解除し、光る液晶画面を翔琉に向ける。
「あいつが求めているのは、自分への注目だ。だからそれを作る」
紫乃はスマートフォンの設定画面を素早く開き、画面の輝度を最大まで引き上げた。さらに、ライト機能をオンにし、動画配信アプリを起動させる。実際に配信をするわけではない。だが、画面上に流れる無数のコメントのダミーや、通知音が連続して鳴り響くテストモードを起動し、音量も最大に設定した。
「これだけの反応を見せつければ、あいつは必ずこの光に目を奪われて、モニターの奥から完全に実体を現すはずだ」
紫乃の瞳は、モニターをまっすぐに見据えていた。
「完全に実体を現したところを、僕があいつの意識を一点に釘付けにする。……その瞬間に翔琉。君があのモニター、あいつの心臓といえるところを完全に破壊してほしい」
紫乃の言葉に、翔琉の目が大きく見開かれた。
「俺が……ぶっ壊す?」
「うん。中途半端なダメージじゃだめだ。粉々に砕き散らすんだ」
紫乃は、足元に転がっていたパイプ椅子の残骸を拾い上げ、翔琉へと差し出した。先ほどの機材のショートと炎でひしゃげているが、鈍器としては十分すぎるほどの重量と強度を持っている。
「……あくまでも僕の憶測だから、絶対……っていう保証はないけどね……」
「……!」
紫乃はしっかりとした目つきをするが、体が震えているのが翔琉にもすぐわかった。
翔琉は黙ってその鉄パイプを受け取った。熱のせいか、彼の顔が僅かに苦痛に歪む。だが、その瞳から決意の光が消えることはなかった。
「……わかった。俺がやる」
翔琉が力強く頷き、鉄パイプを構える。
「……翔琉」
作戦を決行する直前、紫乃は静かに口を開いた。炎の爆ぜる音に掻き消されそうになるほど小さな声だったが、翔琉はピクリと肩を揺らし、真っ直ぐに紫乃を見た。
「さっきは……ひどいことを言って、本当にごめん」
「紫乃……」
「僕はいつも、自分の殻に閉じこもって、君の優しさに甘えていた。君が光に溢れているから、自分が影でもいい、いなくてもいいと自分勝手に思ってたんだ」
紫乃は、煤で汚れた自分の両手をギュッと握り締めた。
「でも、違った。君は僕を置いていくんじゃなくて、いつも僕の隣にいてくれた。僕が暗闇に沈もうとするたびに、泥だらけになって手を伸ばしてくれた」
紫乃の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。翔琉が泣いてた自分の隣で、新しいブロックの秘密基地を作り上げて笑ってくれたことを思い出す。
『紫乃、これは新しい基地の材料になるじゃん』
太陽のように笑って、新しい形を作り上げてくれたのだ。
――僕はあの日、自分の手で大事なものを壊して、終わらせてしまったと思っていた。でも、翔琉はそのぐちゃぐちゃのパーツから、新しい世界を見せてくれた。……壊すことは、終わりじゃないんだ。壊れてしまったなら、また新しい形に組み上げればいい。過去の傷も、醜い心残りも、一度粉々に打ち砕くことで、そこから新しい何かを始めることができる。十六島さんの息子が抱えていた、怨念の塊も同じだ。彼を孤独の檻から解放してやるためには、彼を縛り付けているあの容れ物を、完全に壊してやらなければならないのだ。
「翔琉」
紫乃は顔を上げ、
「僕も翔琉の事を、僕が僕でいていいって思わせてくれる、たった一人の居場所だと思ってる」
紫乃の口から紡がれた、一切の嘘偽りもない本心。
翔琉の目が、驚きに大きく見開かれた。次の瞬間、彼の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、煤と汗にまみれた頬に綺麗な筋を作った。
「……っ、バカ! 今そんなこと言うなよ……泣くだろ!」
翔琉が袖口で乱暴に涙を拭い、鼻をすする。そして、ニカッと歯を見せて、最高に眩しい笑顔を浮かべた。
「当たり前だろ! 俺たちはずっと、最強のコンビなんだからな!」
二人の間にあった見えない壁が、完全に崩れ去った瞬間だった。もう、家族の中での疎外感も、自分だけが色の違う異物だという卑屈さも、紫乃の心には微塵も残っていない。
「行こう、翔琉。あの怪異を終わらせるんだ」
「おう!」
紫乃は大きく息を吸い込み、扉を開け放つ。途端に真冬の氷室に飛び込んだかのような異常な冷気が、紫乃の全身に突き刺さった。足元を這い回っていた赤黒い粘液が、新たな獲物の侵入に気づき、ずるりと身を震わせる。
紫乃は一切の恐怖を見せず、真っ黒なモニターの真正面へと進み出た。
「お前が欲しかったのは、これだろ!」
紫乃は右手に持ったスマートフォンを、モニターに向かって高く掲げた。
ピコン、ピコン、ピコピコピコピコン!! 最大音量で設定された大量の通知音が、地下室の冷たい空気を切り裂く。同時に、スマートフォンのフラッシュライトが強烈な白い光を放ち、暗闇に沈んでいたモニターの表面を眩しく照らし出した。
画面に設定された擬似的な配信画面には、無数のいいねのアイコンと、賞賛のコメントが滝のように流れ続けている。
『……あ……』
モニターの奥から、ノイズ混じりのくぐもった声が漏れた。這い回っていた肉塊の動きがピタリと止まる。
『……みて……俺を……みてる……?』
「そうだ! みんなお前を見ている! お前の欲しかった反応は、ここにあるぞ!」
紫乃が叫ぶと、モニターの画面に映る青白い光が、爆発的な輝きを放ち始めた。
液晶の表面が水面のように波立ち、中からどろどろとした赤黒い粘液が大量に溢れ出してくる。承認欲求という名の果てしない執着。それが、スマートフォンの放つ擬似的な視線の光に完全に魅了され、モニターを守っていた呪いのオーラすらもすべて肉塊の方へと集約されていく。
『……もっと……もっと、見て……』
肉塊が集まり、やがて人間の上半身のような歪な形を形成していく。顔にあたる部分には目も鼻もないが、ぽっかりと空いた黒い穴のような口だけが、スマートフォンの光に向かって貪欲に開かれていた。モニターのフレームに手をかけるようにして、その醜い巨体を画面の外へと完全に乗り出す。
異常な冷気と、血と腐肉の混じったような生臭い匂いが、紫乃の顔をまともに叩きつける。恐怖で足がすくみそうになるが、紫乃は一歩も引かなかった。
「今だ! 翔琉!」
紫乃が喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「うおおおおおおおおっ!!」
紫乃の背後から、炎と煙を突き破って、翔琉が弾丸のように飛び出してきた。
火傷だらけの手で、ひしゃげた鉄パイプを上段に構えている。その周囲の火が映った琥珀色の瞳は、太陽のプロミネンスのように熱く激しく燃え盛っていた。
『……!?』
肉塊が翔琉の殺気に気づき、振り返ろうとする。しかし紫乃がスマートフォンのフラッシュを肉塊の顔面に直接浴びせ、その意識を完全に光の束へと釘付けにしていた。
「君は孤独じゃない! 僕が見てるから、もう……終わってくれ!」
紫乃の叫びと同時。翔琉が跳躍し、全体重を乗せた鉄パイプを、怪異の背後にあるモニターの中心――液晶の心臓部に向かって、渾身の力で振り下ろした。
バキィィィィィィィィィッ!!
鼓膜を破るような、凄まじい轟音が地下室に響き渡った。鉄パイプがモニターの液晶を物理的に粉砕し、内部の基盤ごと真っ二つに叩き割る。
『ア……アァァァァァァァァァッ!!』
怪異の口から、無数の男女の悲鳴が混ざり合ったような、おぞましい断末魔の叫びが上がった。
モニターという物理的な容れ物、この世に留まり続けるための顔が破壊された怪異は、その存在を維持できなくなった。実体化していた赤黒い肉塊が、まるで急速に乾燥していく泥水のように、ボロボロと崩れ落ち始める。
「……っ!」
紫乃と翔琉は、腕で顔を覆って爆風と破片から身を守った。
砕け散ったモニターの破片が、スローモーションのように宙を舞う。それは、気味の悪い肉片や、どろどろとした体液ではなかった。飛び散ったのは、キラキラと眩い光を反射する、細かい液晶のガラス片だった。
オレンジ色の炎と、スマートフォンの白いライトに照らされたその破片は、まるで夜空に散りばめられた星屑のように、あるいは太陽の光を浴びて輝く朝露のように、この上なく美しく煌めいていた。
「……」
紫乃が、その光景をただただ黙って見ていた。
シャラシャラと、微かな音を立てて液晶の破片が床に降り注ぐ。それと同時に、地下室を満たしていた異常な冷気と、気味の悪い気配が嘘のようにフッと消え去った。
ショートして燃え上がっていた機材の炎も、怪異のエネルギーが霧散したことで急激に勢いを失い、チロチロとした小さな種火へと変わっていく。
「……終わったか……?」
翔琉が、肩で荒い息をしながら、手にした鉄パイプをカランと床に取り落とした。紫乃はスマートフォンのライトを消し、ゆっくりと翔琉に歩み寄る。
「うん。終わったよ、翔琉」
紫乃が微笑みかけると、翔琉はその場にへたり込み、大の字になって仰向けに倒れ込んだ。
「ははっ……マジか~。俺たち、勝ったのか」
「勝ったんだよ。君の無茶苦茶な力技のおかげでね」
紫乃も翔琉の隣に座り込み、深く、深い息を吐き出した。全身の筋肉が鉛のように重く、今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。
だが、まだやるべきことが残っている。
「先輩を……朱藤先輩を助けないと」
紫乃が立ち上がろうとした、その時だった。
「……う、ううん……」
モニタールームの隅から、掠れたうめき声が聞こえた。
「先輩!」
紫乃と翔琉が慌てて駆け寄る。コンクリートの床に倒れていた朱藤が、ゆっくりと身じろぎをして目を開けた。
彼の顔を覆っていたあの気味の悪い粘液は、完全に跡形もなく消え去っている。肌には所々、火傷のような赤い爛れやただれが残っており痛々しいが、呼吸は安定しており、命に別状はないようだった。
「……深山くん……瑠璃川くん……」
朱藤が、目をぱちくりさせながら、焦点の定まらない目で二人を見上げる。
「オレは……どうなったんだ……?」
「先輩! よかった、生きてた!」
翔琉が朱藤の体を抱き起し、泣き笑いのような顔で肩を叩いた。
「痛っ……痛いよ、瑠璃川くん。加減してくれ」
朱藤が顔をしかめながらも、ふっと自嘲気味な笑みをこぼす。
「あの化け物に顔を覆われた時は、オレもついに彼方に連れて行かれるかと思ったよ。……どうやら、君たちがオレを現実世界に引き留めてくれたみたいだね」
「先輩がこの地下室を提供してくれなかったら、僕たちはとっくに全滅していました。……ありがとうございます」
紫乃が深々と頭を下げる。朱藤は痛む頬を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。彼の視線の先には、完全に粉砕され、ただのガラクタと化した黒いモニターの残骸があった。
「……見事だ。君たちは、自分たちの手であいつを打ち破ったんだね」
朱藤の言葉には、かつて己の過去を呪い、オカルトに傾倒するしかなかった彼自身の救いも含まれているように聞こえた。
三人は支え合うようにして、重い鉄扉を開けた。冷たいコンクリートの階段を上り、一階の応接室へと戻る。長い、本当に長い夜だった。朱藤の家の玄関のドアを開けると、そこには信じられないほど眩しい光が溢れていた。
「うわっ……まぶし……」
翔琉が目を細め、手で光を遮る。いつの間にか、夜は完全に明け切っていた。東の空から昇る真新しい太陽が、住宅街の屋根を黄金色に染め上げ、澄んだ朝の空気を暖めている。
鳥のさえずりが聞こえる。遠くで、始発の電車が走る微かな音がする。ごく当たり前の、平凡で、退屈な日常の朝。だが、極限の死地をくぐり抜けてきた紫乃たちにとって、これほど美しく光景は他になかった。
「……朝だね」
「……朝だな」
紫乃が呟くと、翔琉が短く応えた。
翔琉の横顔は、朝日を浴びてキラキラと輝いている。その隣に立つ紫乃の心には、もう彼を遠ざけるような卑屈な影は一切ない。二人は並んで、新しい世界を告げる太陽の光を、静かに見つめ続けていた。
地下室での出来事から数日が経とうとしていた。紫乃と翔琉は、十六島の住む、古いアパートへと足を運んでいた。
錆びついた鉄階段を上り、二階の一番奥、204号室の前に立つ。
翔琉が迷いなくくすんだインターホンのボタンを押すと、ジリリリリという耳障りな音が響いた。しばらくして、ガチャリとチェーン錠が外れる音がし、重い鉄扉がゆっくりと開く。隙間から顔を出したのは、十六島だった。
ひどく落ちくぼんだ眼窩や、どす黒く沈殿した目の下の隈は、数日前に会った時と変わらない。しかし、扉の前に立つ二人の姿を認めた瞬間、その神経質そうな目が驚いたように丸く見開かれた。
「君たちは……」
「おじさん、こんにちは」
翔琉が、いつもと変わらない屈託のない笑顔で挨拶をする。その両手には、地下室で負った火傷の治療のための真っ白な包帯が巻かれていた。
十六島は翔琉の包帯に視線を落とし、ハッとしたように息を呑む。
「……終わりました。あなたの息子の執着は、もうどこにもありません」
紫乃の静かではっきりとした報告が、薄暗い廊下に響き渡る。
十六島は扉のノブを握る手を震わせ、ゆっくりとドアを大きく開け放った。
「終わった……とは? あの子は……どうなったんだ」
「息子さんの……思いが入ったものは、完全に破壊しました。……でも、最期は気味の悪い呪いなんかじゃなく、とても綺麗な光になって、消えていきましたよ」
紫乃の言葉を引き継ぐように、翔琉がニッと歯を見せて笑う。
「あいつが欲しがってた反応を、俺たちが思いっきり見せつけてやったんです。だから、最後はちゃんと満足してくれたみたいです」
擬似的な光と大量の反応によって浄化されたこと。その突拍子もない経緯を、十六島がどこまで正確に理解できたかは分からない。だが、翔琉の迷いのない明るい笑顔と、紫乃の静かな眼差し。そして、二人の纏う空気が、かつてこの場所を訪れた時のピリピリとした緊張感から解放されているのを見て、十六島はすべてを悟ったようだった。
「そうか……あの子は、もう……」
十六島の口から、ふうっ、と長く震えるような息が漏れ出た。途端に、十六島の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。彼は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。
「ああ……っ、ああぁっ……!」
嗚咽がアパートの廊下に響く。しかし、それは数日前にこの部屋で聞いた、深い絶望と底知れない恐怖に満ちた泣き声とは全く違っていた。張り詰めていた糸が切れ、重くのしかかっていた底知れない重圧からようやく解放された、魂の底からの安堵の涙だった。
「ありがとう……本当に、ありがとう……」
十六島は何度も何度も、床に額を擦りつけるようにして二人に頭を下げた。紫乃は静かに、泣き崩れる十六島の姿を見つめていた。
「おじさん、もう泣かないでよ。これからは、息子の分までしっかり生きてくれよな」
翔琉が屈み込み、包帯を巻いた手で十六島の背中を優しくぽんぽんと叩く。
「……ああ。そうだな。君たちの言う通りだ」
十六島は袖口でぐしゃぐしゃになった顔を拭い、ゆっくりと顔を上げた。涙に濡れたその顔にはもう、以前のような怯えや神経質な影は微塵も残っていない。憑き物が取れたような、ただの一人の穏やかな父親の顔があった。
「ありがとう。君たちには……一生、感謝する」
十六島の深く温かい感謝の言葉を背に受けながら、紫乃と翔琉は静かにアパートを後にした。空には、雲一つない青空がどこまでも高く澄み渡っていた。
