「クソッ、開け! 開けよ!」
朱藤が血走った目で電子ロックのパネルを叩き続ける。しかし、システムを完全に掌握した怪異の前に、分厚い鉄扉はピクリとも動かない。
その背後で、ずるり、と嫌な音が鳴った。防弾ガラスの隙間から溢れ出した赤黒い粘液の肉塊が、床を這う蛇のような滑らかさで朱藤の足元へと迫る。
紫乃は煙にむせながら、必死に喉から声を絞り出した。
「朱藤先輩、後ろっ!」
朱藤がハッとして振り返るより早く、肉塊が跳躍した。ボチャッ、と水風船を顔面に叩きつけたような、ひどく湿った破裂音が地下室に響く。
「がっ……あ、あぁぁぁっ!?」
朱藤の顔面に、肉塊がべったりと張り付いた。
目、鼻、口。人間の感覚器官をすべて塞ぎ、内側へと侵食しようとするように、粘液が朱藤の頭部全体を覆い尽くしていく。朱藤の身体が痙攣したように跳ね、両手が自らの顔を掻きむしるが、粘液はぴったりと張り付いて剥がれない。
「先輩!」
翔琉が炎を躱し、迷わず朱藤へと飛びついた。翔琉が素手で朱藤の顔を覆う肉塊に指を立て、力任せに引き剥がそうとする。
「紫乃、手伝え! このままじゃ先輩が窒息する!」
紫乃も弾かれたように駆け寄った。肉塊の表面に触れた瞬間、真冬の氷水を素手で掴んだような、骨の髄まで凍りつく異常な冷気が腕を這い上がってきた。それに加え、まるで何万匹もの虫が手のひらを蠢いているような、おぞましい感触。恐怖で紫乃の歯の根がカチカチと鳴る。それでも、翔琉と共に肉塊を掴み、必死に体重をかけて後方へ引いた。
「……っ、剥がれろっ!」
翔琉の怒声と共に、ベリッという悍ましい音を立てて肉塊が朱藤の顔から剥がれ落ちた。
直後、朱藤の身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、冷たいコンクリートの床に倒れ伏す。
「先輩! しっかりしてくれ!」
翔琉が朱藤の胸ぐらを掴んで揺さぶるが、反応はない。顔中が粘液でただれ、白目を剥いたまま完全に意識を失っている。呼吸こそ辛うじてしているものの、彼らを導いてくれた唯一の希望が消え去った。
「う、あ……」
翔琉の絶望に満ちた呻き声が響く。紫乃は震える足で後ずさった。
朱藤から剥がれ落ちた肉塊は、まるで自分の役目を終えたかのように、スルスルと床を這い退がっていく。ガラスの隙間を抜け、モニタールームの中心に鎮座するモニターの中へと、ずるずると吸い込まれていった。
パチパチと機材が燃える音と、息苦しい煙だけが室内に残される。そして、真っ黒だったモニターの画面が、これまでと異なり、淡く青白く光を放ち始めた。
紫乃は、吸い寄せられるようにその光を見つめた。電源も入っていない画面の奥に、紫乃自身の疲れ切った顔が薄っすらと映り込んでいる。だが、その映り込みは次第に輪郭を歪め、深い隈を作り、怯えたような表情へと変わっていく。
――あの日、リサイクルショップの店先で見た光。そして、僕自身の顔だ。
『……おいで……』
ぶつぶつとしたノイズ混じりの声が、耳からではなく、紫乃の脳髄に直接響き渡った。紫乃たちと同年代、あるいは少し上の低い声。
『お前は、どこにも居場所がない』
モニターの青白い光が、紫乃の心を強制的にこじ開けていく。
『お前はただの代わりの利く部品だ。義父も、母親も、お前がいなくても幸せな輪を作れる。お前はただの、色の違う異物だ』
「……ちがう」
『違わない。お前のせいで、本当の父親は死んだ。お前が飛び出したからだ。お前は、生きているだけで誰かを不幸にする』
紫乃の心臓が激しく痛む。ずっと目を背け、隠し続けてきた罪悪感。義父たちの優しい笑顔を見るたびに感じていた、自分だけが許されていないという絶望的な疎外感。
『それに、翔琉もお前を不要だと言っている』
「っ……!」
『あんなに眩しい光の隣に、お前のような暗い影がいる資格なんてない。さっき、彼を傷つけただろ? 一番残酷な言葉で、唯一の理解者を自分から切り捨てただろ?』
脳裏に、先ほど翔琉に向けた言葉と、彼が傷つき絶望した顔がフラッシュバックする。
『あの時、翔琉がPCを買おうなんて言わなければ、こんなことにはならなかったんだ!』
あんな言葉をぶつけておいて、今更どの面を下げて彼に助けを求められるというのか。翔琉だって、本心ではもう僕のことなど見限っているに違いない。僕のせいでこんな目に遭い、僕のせいで死ぬかもしれないのだから。
『もう、無理をするな。苦しむな』
モニターの画面から、どろりとした青白い粘液が再び溢れ出し、紫乃に向かってゆっくりと伸びてくる。
『このモニターの中なら、誰にも疎外されずに済む。ずっと僕が一緒にいてあげる。全部僕が肯定してあげる』
自分はいなくてもいい存在だ。その感情を、怪異は甘く、優しく肯定してくる。紫乃の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
ーーそうだ。僕は、初めからどこにもいらない存在だったんだ。翔琉の隣にも、家族の中にも。
紫乃はふらふらと歩み寄った。モニタールームの扉が一人でに開き、そのままモニターのある部屋へ一歩ずつ向かう。そして青白く光るモニターの真正面へと立つ。
画面から伸びてきた肉塊が、紫乃の頬に優しく触れた。異常な冷たさが、今の紫乃にはひどく心地よく感じられた。肉塊が首筋を這い上がり、顔全体を包み込もうと伸びてくる。紫乃は抵抗することなく、目を閉じた。
――これでいい。これで、全部終わる。
「……ざけんな」
炎の爆ぜる音を切り裂いて、怒気に満ちた声が響いた。直後、紫乃の肩を、信じられないほどの強い力が乱暴に後ろへと引き倒した。
「わっ……!」
体勢を崩し、尻餅をつく紫乃。顔を覆おうとしていた肉塊が、空を斬る。目を開けた紫乃の視界に飛び込んできたのは、息を荒くして立つ翔琉の背中だった。
「翔琉……?」
翔琉の姿は、ボロボロだった。朱藤を助けた際にショートした機材の火花を浴びたのか、着崩していたパーカーは焼け焦げ、頬には煤と擦り傷が滲んでいる。そのまま紫乃を連れて、モニタールームへ一度、避難する。息も絶え絶えながら、翔琉は紫乃に視線を注ぐ。
「勝手に……いなくなろうとしてんじゃねえよ!」
翔琉が血を吐くような声で叫んだ。
「僕は……っ、僕はお前をひどい言葉で傷つけた! 全部お前のせいだって、見限った! なのに、なんで……!」
「んなこと、どうでもいいんだよ! 紫乃が俺を突き放したって、俺はお前を絶対に見捨てるつもりなんてない!」
翔琉の言葉が、冷え切った紫乃の心に真っ直ぐに突き刺さる。
「俺がなんにもできなくて、ただ空回りしてバカみたいに孤立してた時、お前が俺を助けてくれただろ! お前がいなきゃ、俺はあの時ダメになってた!」
翔琉の叫びが、地下室に反響する。
「だから、俺には紫乃が必要なんだよ! お前が俺の隣で冷静に突っ込んでくれないと、俺はダメなんだよ!」
「……っ!」
「紫乃がいないと、俺はダメなんだ!」
――紫乃がいないと、俺はダメなんだ。
その一片の嘘もない、圧倒的な肯定。怪異が囁いた甘い絶望の肯定とは違う。泥だらけで、血まみれで、不器用で、熱すぎるほどの生きた肯定だった。
紫乃の目から、熱い涙が止めどなく溢れ出した。
ーー彼は再び、僕のバラバラになりかけた心を、力ずくで拾い集めて繋ぎ止めようとしている。翔琉という絶対的な光が、僕という人間を必要だと言ってくれている。それ以上の存在証明が、どこにあるというのか。
紫乃は両手で顔を覆い、しゃくり上げながらも、瞳には光が完全に戻っていた。
「……翔琉、離れろ!」
紫乃は床を蹴立てて立ち上がり、翔琉の腕を掴んで強引に肉塊から引き剥がした。
「紫乃……!」
「ごめん、翔琉。僕が間違ってた。……もう絶対に、諦めない」
紫乃は真っ直ぐにモニターを見据えた。そこにはもう、自分を誘惑する卑屈な影は映っていない。ただの、物理的な質量を持った電子機器と、そこに縋り付く哀れな残骸があるだけだった。
朱藤が血走った目で電子ロックのパネルを叩き続ける。しかし、システムを完全に掌握した怪異の前に、分厚い鉄扉はピクリとも動かない。
その背後で、ずるり、と嫌な音が鳴った。防弾ガラスの隙間から溢れ出した赤黒い粘液の肉塊が、床を這う蛇のような滑らかさで朱藤の足元へと迫る。
紫乃は煙にむせながら、必死に喉から声を絞り出した。
「朱藤先輩、後ろっ!」
朱藤がハッとして振り返るより早く、肉塊が跳躍した。ボチャッ、と水風船を顔面に叩きつけたような、ひどく湿った破裂音が地下室に響く。
「がっ……あ、あぁぁぁっ!?」
朱藤の顔面に、肉塊がべったりと張り付いた。
目、鼻、口。人間の感覚器官をすべて塞ぎ、内側へと侵食しようとするように、粘液が朱藤の頭部全体を覆い尽くしていく。朱藤の身体が痙攣したように跳ね、両手が自らの顔を掻きむしるが、粘液はぴったりと張り付いて剥がれない。
「先輩!」
翔琉が炎を躱し、迷わず朱藤へと飛びついた。翔琉が素手で朱藤の顔を覆う肉塊に指を立て、力任せに引き剥がそうとする。
「紫乃、手伝え! このままじゃ先輩が窒息する!」
紫乃も弾かれたように駆け寄った。肉塊の表面に触れた瞬間、真冬の氷水を素手で掴んだような、骨の髄まで凍りつく異常な冷気が腕を這い上がってきた。それに加え、まるで何万匹もの虫が手のひらを蠢いているような、おぞましい感触。恐怖で紫乃の歯の根がカチカチと鳴る。それでも、翔琉と共に肉塊を掴み、必死に体重をかけて後方へ引いた。
「……っ、剥がれろっ!」
翔琉の怒声と共に、ベリッという悍ましい音を立てて肉塊が朱藤の顔から剥がれ落ちた。
直後、朱藤の身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、冷たいコンクリートの床に倒れ伏す。
「先輩! しっかりしてくれ!」
翔琉が朱藤の胸ぐらを掴んで揺さぶるが、反応はない。顔中が粘液でただれ、白目を剥いたまま完全に意識を失っている。呼吸こそ辛うじてしているものの、彼らを導いてくれた唯一の希望が消え去った。
「う、あ……」
翔琉の絶望に満ちた呻き声が響く。紫乃は震える足で後ずさった。
朱藤から剥がれ落ちた肉塊は、まるで自分の役目を終えたかのように、スルスルと床を這い退がっていく。ガラスの隙間を抜け、モニタールームの中心に鎮座するモニターの中へと、ずるずると吸い込まれていった。
パチパチと機材が燃える音と、息苦しい煙だけが室内に残される。そして、真っ黒だったモニターの画面が、これまでと異なり、淡く青白く光を放ち始めた。
紫乃は、吸い寄せられるようにその光を見つめた。電源も入っていない画面の奥に、紫乃自身の疲れ切った顔が薄っすらと映り込んでいる。だが、その映り込みは次第に輪郭を歪め、深い隈を作り、怯えたような表情へと変わっていく。
――あの日、リサイクルショップの店先で見た光。そして、僕自身の顔だ。
『……おいで……』
ぶつぶつとしたノイズ混じりの声が、耳からではなく、紫乃の脳髄に直接響き渡った。紫乃たちと同年代、あるいは少し上の低い声。
『お前は、どこにも居場所がない』
モニターの青白い光が、紫乃の心を強制的にこじ開けていく。
『お前はただの代わりの利く部品だ。義父も、母親も、お前がいなくても幸せな輪を作れる。お前はただの、色の違う異物だ』
「……ちがう」
『違わない。お前のせいで、本当の父親は死んだ。お前が飛び出したからだ。お前は、生きているだけで誰かを不幸にする』
紫乃の心臓が激しく痛む。ずっと目を背け、隠し続けてきた罪悪感。義父たちの優しい笑顔を見るたびに感じていた、自分だけが許されていないという絶望的な疎外感。
『それに、翔琉もお前を不要だと言っている』
「っ……!」
『あんなに眩しい光の隣に、お前のような暗い影がいる資格なんてない。さっき、彼を傷つけただろ? 一番残酷な言葉で、唯一の理解者を自分から切り捨てただろ?』
脳裏に、先ほど翔琉に向けた言葉と、彼が傷つき絶望した顔がフラッシュバックする。
『あの時、翔琉がPCを買おうなんて言わなければ、こんなことにはならなかったんだ!』
あんな言葉をぶつけておいて、今更どの面を下げて彼に助けを求められるというのか。翔琉だって、本心ではもう僕のことなど見限っているに違いない。僕のせいでこんな目に遭い、僕のせいで死ぬかもしれないのだから。
『もう、無理をするな。苦しむな』
モニターの画面から、どろりとした青白い粘液が再び溢れ出し、紫乃に向かってゆっくりと伸びてくる。
『このモニターの中なら、誰にも疎外されずに済む。ずっと僕が一緒にいてあげる。全部僕が肯定してあげる』
自分はいなくてもいい存在だ。その感情を、怪異は甘く、優しく肯定してくる。紫乃の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
ーーそうだ。僕は、初めからどこにもいらない存在だったんだ。翔琉の隣にも、家族の中にも。
紫乃はふらふらと歩み寄った。モニタールームの扉が一人でに開き、そのままモニターのある部屋へ一歩ずつ向かう。そして青白く光るモニターの真正面へと立つ。
画面から伸びてきた肉塊が、紫乃の頬に優しく触れた。異常な冷たさが、今の紫乃にはひどく心地よく感じられた。肉塊が首筋を這い上がり、顔全体を包み込もうと伸びてくる。紫乃は抵抗することなく、目を閉じた。
――これでいい。これで、全部終わる。
「……ざけんな」
炎の爆ぜる音を切り裂いて、怒気に満ちた声が響いた。直後、紫乃の肩を、信じられないほどの強い力が乱暴に後ろへと引き倒した。
「わっ……!」
体勢を崩し、尻餅をつく紫乃。顔を覆おうとしていた肉塊が、空を斬る。目を開けた紫乃の視界に飛び込んできたのは、息を荒くして立つ翔琉の背中だった。
「翔琉……?」
翔琉の姿は、ボロボロだった。朱藤を助けた際にショートした機材の火花を浴びたのか、着崩していたパーカーは焼け焦げ、頬には煤と擦り傷が滲んでいる。そのまま紫乃を連れて、モニタールームへ一度、避難する。息も絶え絶えながら、翔琉は紫乃に視線を注ぐ。
「勝手に……いなくなろうとしてんじゃねえよ!」
翔琉が血を吐くような声で叫んだ。
「僕は……っ、僕はお前をひどい言葉で傷つけた! 全部お前のせいだって、見限った! なのに、なんで……!」
「んなこと、どうでもいいんだよ! 紫乃が俺を突き放したって、俺はお前を絶対に見捨てるつもりなんてない!」
翔琉の言葉が、冷え切った紫乃の心に真っ直ぐに突き刺さる。
「俺がなんにもできなくて、ただ空回りしてバカみたいに孤立してた時、お前が俺を助けてくれただろ! お前がいなきゃ、俺はあの時ダメになってた!」
翔琉の叫びが、地下室に反響する。
「だから、俺には紫乃が必要なんだよ! お前が俺の隣で冷静に突っ込んでくれないと、俺はダメなんだよ!」
「……っ!」
「紫乃がいないと、俺はダメなんだ!」
――紫乃がいないと、俺はダメなんだ。
その一片の嘘もない、圧倒的な肯定。怪異が囁いた甘い絶望の肯定とは違う。泥だらけで、血まみれで、不器用で、熱すぎるほどの生きた肯定だった。
紫乃の目から、熱い涙が止めどなく溢れ出した。
ーー彼は再び、僕のバラバラになりかけた心を、力ずくで拾い集めて繋ぎ止めようとしている。翔琉という絶対的な光が、僕という人間を必要だと言ってくれている。それ以上の存在証明が、どこにあるというのか。
紫乃は両手で顔を覆い、しゃくり上げながらも、瞳には光が完全に戻っていた。
「……翔琉、離れろ!」
紫乃は床を蹴立てて立ち上がり、翔琉の腕を掴んで強引に肉塊から引き剥がした。
「紫乃……!」
「ごめん、翔琉。僕が間違ってた。……もう絶対に、諦めない」
紫乃は真っ直ぐにモニターを見据えた。そこにはもう、自分を誘惑する卑屈な影は映っていない。ただの、物理的な質量を持った電子機器と、そこに縋り付く哀れな残骸があるだけだった。
