「ふわぁ……チョーねみー」
夜も深まった丑三つ時。閉め切られたワンルームの部屋で、男がヘッドフォンをつけながら作業をしている。部屋の明かりは点いていない。ただ一つ、机の上に置かれたパソコンのモニターだけが、暗闇の中で青白い光を放っている。その画面に映るのは、和気あいあいとした男女が海で遊ぶ動画や画像だった。
その男はあくびをしながら、キーボードとマウスに置かれた指をせわしなく動かす。画面では楽しそうな動画が再生されて、途中途中でテロップや効果音が挿入される。
「あいつ……このままじゃモロ見えじゃん」
笑いながら、マウスを操作する男。動画で水着がずれているところをモザイクで覆うように編集する。
「んー、今日はこれでいいだろ……」
データを保存して、上半身と両腕をストレッチするように伸ばす。ふぅ……と一息つき、マウスでパソコンの電源を切る……はずだった。
グチョと耳障りも悪い音が部屋に響く。
「うぇっ!」
男がそっと視線を落とすと滲み出したかのような粘り気が、男の右手にぬめぬめと絡みついていた。
「んだよコレ、気ん持ちわりぃな」
気味悪そうに男があたりを見回す。何もないことを確認し、顔を上げようとすると、どこからともなく現れた肉片が、音もなく男の顔へと降りかかる。ぬめる質感でべったりと張りついた肉片が、頬や額へと這い広がり、逃げ場を塞ぐ。
ひしゃげたような、声にもならない呻きが漏れる。抗おうとするように手足が痙攣するが、肉片が容赦なく男をモニターへと引き寄せていく。
次の瞬間、グチャッ、と鈍い破壊音が部屋に響き渡つ。 男は、勢いよくパソコンのモニターへと頭を突っ込んでいた。 バキリと液晶が割れる音が響き、画面の隙間から不気味な青白い光が漏れ出す。男は頭を突っ込んだまま、うごめていていたが、やがてピクリとも動かなくなった。
視界の端で、原色のブロックがバラバラに弾け飛んだ。
鼓膜を破るような急ブレーキの音と、激しい衝撃。誰かの大きな手が、自分の体を乱暴なほど強く突き飛ばす。浮遊感のあと、硬いアスファルトに叩きつけられた衝撃で息が止まった。
顔を上げると、そこには歪んだボンネットと、動かなくなった背中があった。
――また、あの夢だ。……僕のせいで、お父さんは。
けたたましいアラームの音が鳴り、跳ね起きると、心臓が早鐘を打っていた。シーツを握りしめる指先が、嫌な汗で湿っている。
朝、うっすらと雲が浮かぶも、太陽が昇りはじめ街を照らす。そんな爽やかな外と打って変わって、部屋の中で不機嫌な表情を浮かべる少年、深山紫乃がベッドから起き上がる。枕元には充電が完了したのスマートフォンからアラームが鳴りっぱなしになっていた。
小さく息を吐き、スマートフォンのアラームを止める。
「またか……」
身支度を整え、バッグを持って紫乃が部屋を出る。そのまま階段に足をかけるも、階段下からは楽しそうな声が聞こえ、彼の顔がこわばった。
ーー僕がいなくても楽しそうだな……。
1階には今、完成された幸せな家族の形がある。義父と、母さんと、まだ幼い妹の有海。僕は、その完成されたパズルのピースに紛れ込んだ、色の違う異物のような気がしてならない。
紫乃は力を込めて手すりを握る。重めのマッシュヘアが視界を遮り、家族の笑い声を少しだけ遠ざけてくれる気がした。
ーー義父は悪い人ではない。むしろ再婚して、僕たちが引っ越しをしなくて済むようにわざわざこっちに来てくれた人だ。いい人だ。それはわかってる。
世の中にはもっとひどい環境で、自分は客観的に見れば十分に恵まれている。それもわかってる。でも、わかってはいるが。
消えたい。誰にも望まれていないのに、自分のせいで父さんは死んだのだ。母さんの幸せを一度壊した僕が、この新しく眩しい輪の中に、土足で踏み込んでいいはずがない。
ため息を一息つき、紫乃が階段を降りていった。ゆっくりと音を立てないようにして、1階にたどり着く。そのまま洗面所へ向かおうとすると、
「おわぁ! ビックリした~。音立てずに現れないでよ!」
朝食の準備をしていた母親が、紫乃の存在に気づいて肩を跳ねた。その声に、食卓を囲んでいた義父と義父との間に生まれた妹の有海も、紫乃の方へ視線を向ける。
「……おはよう紫乃くん」
「おはよう……ござっす……」
義父に軽く会釈して、紫乃は視線を落とした。
「お兄ちゃん! おはよ」
「おはよ……」
「ちょっと、ご飯は? ちゃんと食べなさいよ」
母親の呼びかけを背中に受けながら、紫乃は玄関へと急ぐ。
「時間ないから……」
靴を履き、逃げるようにドアを開けた。外の空気は冷たくて、リビングの暖かな温度とは対照的だった。
――僕は別に、この世にいてもいなくても変わんない。
そう呟いた言葉は、誰に届くこともなく、朝の光の中に溶けて消えた。
通い始めて2年目の道、見慣れた鮮やかな茶色が視界を揺らしていた。
「おはよ」
歩幅を早め、紫乃は努めて平坦な声で声をかける。
「紫乃、おはよん」
振り返った瑠璃川翔琉は、朝の光をそのまま反射させたような眩しい笑みを浮かべた。
ーー相変わらず、僕とは正反対の髪質をしてる。
翔琉の髪は、部活で動くたびに元気よく跳ねるような、無造作で躍動感のある明るい茶色だ。まるで重力なんて無視しているみたいに軽やかで、彼の自由奔放な性格をそのまま形にしたように見える。
翔琉は着崩した制服の上に派手なパーカーを重ね、軽快な足取りで紫乃の隣に並んだ。
「聞いてくれよ~駅前のゲーセンで新作の格ゲーやったんだけど、あと一撃ってところでボタン押し間違えて逆転負けしちゃってさ。あーマジで昨日の俺を殴り飛ばしてぇ~」
翔琉が矢継ぎ早に話し始める。紫乃はその言葉の波を浴びせられるも、嫌な顔をせず翔琉に視線を固定する。
ーーそれに比べて、僕の髪は重くて、暗い。
翔琉の輝きを吸い込んで、濁らせてしまうんじゃないかと時々不安になる。でも、彼はそんな僕の卑屈さなんて気にも留めず、当然のようにパーソナルスペースを突破してくる。ほかの人ならイヤだと思うことでも、翔琉なら大丈夫、むしろ落ち着く。
「てか聞いた? 昨日の夜に、SNSで回ってきた動画のニュース」
翔琉がスマートフォンを操作しながら、軽い口調で切り出した。
「ニュース? どんなやつ?」
「なんか、一人でパソコンいじってた人が、いきなり倒れたらしいよ。ネットだと、顔に何かが張り付いてた跡があったとか」
「何かって……何がついてたんだよ」
「さぁね。変な液体が付いてて、顔中がヌルヌルだったとか。あとパソコンに頭を突っ込んだ状態で発見されたとか……。ちょっと怖くない?」
翔琉が自らのスマートフォンを操作し、紫乃に見せる。見せてきた画面には、夜の住宅街にパトカーの赤色灯が反射している動画が載っていた。警察官がブルーシートで仕切りをつくり、出たり入ったりせわしなく動いている。動画とニュースに書かれていることを一通り見て、紫乃は翔琉に視線を戻す。
「嘘くさいな。どうせ悪質ないたずらか、フェイクニュースじゃないの。今の時代、動画なんていくらでも加工できるし」
ーーそんなオカルトじみたことが、現実に起きるはずがない。たとえその動画の男が本当に死んでいたとしても、それは何かの急病か、あるいは物理的な事故の類。僕には関係のない話だ。
情報を集めてから動くのが僕の性分だが、この件に関しては調べる価値すら感じなかった。
「そっかー。それよりさ、今日の放課後、例のゲーセン寄ってかない? 新しい格ゲー入ったって俊平が言ってたんだよ」
「いいけど」
「よっしゃ、決まり! 紫乃、勉強教えてくれる時の顔、マジで怖いから手加減してくれよな?」
翔琉が子供のように笑い、紫乃の肩を軽く叩いた。そのまま手を振りながら、少し歩調を早める。紫乃はその背中を追うように、少しだけ背中を丸めて歩き続けた。学校の校舎が見えてくる。
教室のドアを開けると、そこはすでに賑やかな空間になっていた。
「お、翔琉! おはよ!」
「翔琉ー、今日の放課後どうする? また駅前?」
「おはよー。お前ら朝から飛ばしすぎだって」
一歩足踏み入れた瞬間に、翔琉に向かったて明るい声が降りかかる。
翔琉が教室に入れば、そこが中心になったかのように、自然と人が集まってくる。運動部の連中、同じ趣味を持つ奴ら、ただなんとなく彼の明るさに惹かれるクラスメイトたち。その中で、翔琉は朝の光を宿したような琥珀色の瞳を細めて、誰にでも分け隔てなく眩しい笑みを振りまいていた。
ーー学校はともかく、彼がクラスの人気者であるのは確かだ。絶対そう言える。
太陽のような彼に群がる人たちから一歩引いて、僕はその光をただ見つめることしかできない。
翔琉と僕は、生まれた時からずっと一緒にいるような幼馴染だ。けれど、今の彼を見ていると、本当に僕の知っているあの日の翔琉なのだろうかと、時々分からなくなる。
「よう翔琉、深山。これ見てくれよ」
人混みを割って、灰村俊平がニヤニヤしながら近寄ってきた。彼は周囲、特に教卓の方を気にするように素早く視線を走らせると、制服の袖を少しだけ捲り上げ、左手首を僕らにだけ見えるように突き出した。そこには、某有名メーカーのロゴに酷似したスマートウォッチが巻き付けられている。
「本物の林檎時計にそっくりだろ? フリマアプリで激安だったんだわ」
「うお、マジか! ……って、お前それ、先生に見つかったら即没収じゃん。チャレンジャーすぎ」
翔琉が声を潜めながらも、面白そうに身を乗り出して灰村の時計を覗き込む。
「わかってるって。だからこうして隠してんじゃん。翔琉もさ、こういうの買えば?」
「うーん、そういうのより、今は自分のPC欲しいんだよなぁー。紫乃、やっぱり安く済ませるならリサイクルショップとかかなぁ」
翔琉が僕の方を振り返り、同意を求めるように首を傾げた。
ーー僕は、翔琉のこういうところが、心底羨ましくて、そして眩しい。
自分から誰かの懐に飛び込んで、場の中心を作り出せる力。迷わずに率先して物事を動かせる強さ。
僕には到底できないことだ。情報を集め、周囲を伺い、波風を立てないように息を潜めることしかできない僕とは、魂の作りが根本から違うのだと思う。翔琉へのリスペクトは、いつの間にか、自分自身へのどろどろとしたコンプレックスに形を変えていた。
彼が輝けば輝くほど、僕の影は濃くなっていく。いや、影すら残らないかもしれない。彼が正解なら、僕は間違いなんじゃないか。彼が必要とされるなら、僕は不要な存在なんじゃないか。
「……まぁ、一番手軽なのはそうかもね」
「だよなー!」
色々と考えているうちに翔琉からの問いかけを適当に答えてしまった。僕は灰村の偽物ウォッチから視線を外し、自分の席へと移動してバッグを下ろした。 翔琉は灰村たちとさらに盛り上がっていく。その輪を、僕は教科書を広げることで視界から追い出した。彼が優しくなればなるほど、僕の心はモヤモヤと曇っていく。
ーー結局、ここも家と同じなんだ。
あの一階のリビングで、義父さんと母さんと有海が笑っていた、あの光景。完成された、あたたかくて眩しい輪。僕を助けてくれたあの日の翔琉は、もう僕だけの居場所じゃない。
大勢の誰かに囲まれて、屈託なく笑う彼の横顔を見ていると、家にいる時に感じるあの息の詰まるような感覚が、押し寄せてくるのが分かった。
そして、そういうことを考えてしまう自分に対して、どうしようもなくムカつく。
夜も深まった丑三つ時。閉め切られたワンルームの部屋で、男がヘッドフォンをつけながら作業をしている。部屋の明かりは点いていない。ただ一つ、机の上に置かれたパソコンのモニターだけが、暗闇の中で青白い光を放っている。その画面に映るのは、和気あいあいとした男女が海で遊ぶ動画や画像だった。
その男はあくびをしながら、キーボードとマウスに置かれた指をせわしなく動かす。画面では楽しそうな動画が再生されて、途中途中でテロップや効果音が挿入される。
「あいつ……このままじゃモロ見えじゃん」
笑いながら、マウスを操作する男。動画で水着がずれているところをモザイクで覆うように編集する。
「んー、今日はこれでいいだろ……」
データを保存して、上半身と両腕をストレッチするように伸ばす。ふぅ……と一息つき、マウスでパソコンの電源を切る……はずだった。
グチョと耳障りも悪い音が部屋に響く。
「うぇっ!」
男がそっと視線を落とすと滲み出したかのような粘り気が、男の右手にぬめぬめと絡みついていた。
「んだよコレ、気ん持ちわりぃな」
気味悪そうに男があたりを見回す。何もないことを確認し、顔を上げようとすると、どこからともなく現れた肉片が、音もなく男の顔へと降りかかる。ぬめる質感でべったりと張りついた肉片が、頬や額へと這い広がり、逃げ場を塞ぐ。
ひしゃげたような、声にもならない呻きが漏れる。抗おうとするように手足が痙攣するが、肉片が容赦なく男をモニターへと引き寄せていく。
次の瞬間、グチャッ、と鈍い破壊音が部屋に響き渡つ。 男は、勢いよくパソコンのモニターへと頭を突っ込んでいた。 バキリと液晶が割れる音が響き、画面の隙間から不気味な青白い光が漏れ出す。男は頭を突っ込んだまま、うごめていていたが、やがてピクリとも動かなくなった。
視界の端で、原色のブロックがバラバラに弾け飛んだ。
鼓膜を破るような急ブレーキの音と、激しい衝撃。誰かの大きな手が、自分の体を乱暴なほど強く突き飛ばす。浮遊感のあと、硬いアスファルトに叩きつけられた衝撃で息が止まった。
顔を上げると、そこには歪んだボンネットと、動かなくなった背中があった。
――また、あの夢だ。……僕のせいで、お父さんは。
けたたましいアラームの音が鳴り、跳ね起きると、心臓が早鐘を打っていた。シーツを握りしめる指先が、嫌な汗で湿っている。
朝、うっすらと雲が浮かぶも、太陽が昇りはじめ街を照らす。そんな爽やかな外と打って変わって、部屋の中で不機嫌な表情を浮かべる少年、深山紫乃がベッドから起き上がる。枕元には充電が完了したのスマートフォンからアラームが鳴りっぱなしになっていた。
小さく息を吐き、スマートフォンのアラームを止める。
「またか……」
身支度を整え、バッグを持って紫乃が部屋を出る。そのまま階段に足をかけるも、階段下からは楽しそうな声が聞こえ、彼の顔がこわばった。
ーー僕がいなくても楽しそうだな……。
1階には今、完成された幸せな家族の形がある。義父と、母さんと、まだ幼い妹の有海。僕は、その完成されたパズルのピースに紛れ込んだ、色の違う異物のような気がしてならない。
紫乃は力を込めて手すりを握る。重めのマッシュヘアが視界を遮り、家族の笑い声を少しだけ遠ざけてくれる気がした。
ーー義父は悪い人ではない。むしろ再婚して、僕たちが引っ越しをしなくて済むようにわざわざこっちに来てくれた人だ。いい人だ。それはわかってる。
世の中にはもっとひどい環境で、自分は客観的に見れば十分に恵まれている。それもわかってる。でも、わかってはいるが。
消えたい。誰にも望まれていないのに、自分のせいで父さんは死んだのだ。母さんの幸せを一度壊した僕が、この新しく眩しい輪の中に、土足で踏み込んでいいはずがない。
ため息を一息つき、紫乃が階段を降りていった。ゆっくりと音を立てないようにして、1階にたどり着く。そのまま洗面所へ向かおうとすると、
「おわぁ! ビックリした~。音立てずに現れないでよ!」
朝食の準備をしていた母親が、紫乃の存在に気づいて肩を跳ねた。その声に、食卓を囲んでいた義父と義父との間に生まれた妹の有海も、紫乃の方へ視線を向ける。
「……おはよう紫乃くん」
「おはよう……ござっす……」
義父に軽く会釈して、紫乃は視線を落とした。
「お兄ちゃん! おはよ」
「おはよ……」
「ちょっと、ご飯は? ちゃんと食べなさいよ」
母親の呼びかけを背中に受けながら、紫乃は玄関へと急ぐ。
「時間ないから……」
靴を履き、逃げるようにドアを開けた。外の空気は冷たくて、リビングの暖かな温度とは対照的だった。
――僕は別に、この世にいてもいなくても変わんない。
そう呟いた言葉は、誰に届くこともなく、朝の光の中に溶けて消えた。
通い始めて2年目の道、見慣れた鮮やかな茶色が視界を揺らしていた。
「おはよ」
歩幅を早め、紫乃は努めて平坦な声で声をかける。
「紫乃、おはよん」
振り返った瑠璃川翔琉は、朝の光をそのまま反射させたような眩しい笑みを浮かべた。
ーー相変わらず、僕とは正反対の髪質をしてる。
翔琉の髪は、部活で動くたびに元気よく跳ねるような、無造作で躍動感のある明るい茶色だ。まるで重力なんて無視しているみたいに軽やかで、彼の自由奔放な性格をそのまま形にしたように見える。
翔琉は着崩した制服の上に派手なパーカーを重ね、軽快な足取りで紫乃の隣に並んだ。
「聞いてくれよ~駅前のゲーセンで新作の格ゲーやったんだけど、あと一撃ってところでボタン押し間違えて逆転負けしちゃってさ。あーマジで昨日の俺を殴り飛ばしてぇ~」
翔琉が矢継ぎ早に話し始める。紫乃はその言葉の波を浴びせられるも、嫌な顔をせず翔琉に視線を固定する。
ーーそれに比べて、僕の髪は重くて、暗い。
翔琉の輝きを吸い込んで、濁らせてしまうんじゃないかと時々不安になる。でも、彼はそんな僕の卑屈さなんて気にも留めず、当然のようにパーソナルスペースを突破してくる。ほかの人ならイヤだと思うことでも、翔琉なら大丈夫、むしろ落ち着く。
「てか聞いた? 昨日の夜に、SNSで回ってきた動画のニュース」
翔琉がスマートフォンを操作しながら、軽い口調で切り出した。
「ニュース? どんなやつ?」
「なんか、一人でパソコンいじってた人が、いきなり倒れたらしいよ。ネットだと、顔に何かが張り付いてた跡があったとか」
「何かって……何がついてたんだよ」
「さぁね。変な液体が付いてて、顔中がヌルヌルだったとか。あとパソコンに頭を突っ込んだ状態で発見されたとか……。ちょっと怖くない?」
翔琉が自らのスマートフォンを操作し、紫乃に見せる。見せてきた画面には、夜の住宅街にパトカーの赤色灯が反射している動画が載っていた。警察官がブルーシートで仕切りをつくり、出たり入ったりせわしなく動いている。動画とニュースに書かれていることを一通り見て、紫乃は翔琉に視線を戻す。
「嘘くさいな。どうせ悪質ないたずらか、フェイクニュースじゃないの。今の時代、動画なんていくらでも加工できるし」
ーーそんなオカルトじみたことが、現実に起きるはずがない。たとえその動画の男が本当に死んでいたとしても、それは何かの急病か、あるいは物理的な事故の類。僕には関係のない話だ。
情報を集めてから動くのが僕の性分だが、この件に関しては調べる価値すら感じなかった。
「そっかー。それよりさ、今日の放課後、例のゲーセン寄ってかない? 新しい格ゲー入ったって俊平が言ってたんだよ」
「いいけど」
「よっしゃ、決まり! 紫乃、勉強教えてくれる時の顔、マジで怖いから手加減してくれよな?」
翔琉が子供のように笑い、紫乃の肩を軽く叩いた。そのまま手を振りながら、少し歩調を早める。紫乃はその背中を追うように、少しだけ背中を丸めて歩き続けた。学校の校舎が見えてくる。
教室のドアを開けると、そこはすでに賑やかな空間になっていた。
「お、翔琉! おはよ!」
「翔琉ー、今日の放課後どうする? また駅前?」
「おはよー。お前ら朝から飛ばしすぎだって」
一歩足踏み入れた瞬間に、翔琉に向かったて明るい声が降りかかる。
翔琉が教室に入れば、そこが中心になったかのように、自然と人が集まってくる。運動部の連中、同じ趣味を持つ奴ら、ただなんとなく彼の明るさに惹かれるクラスメイトたち。その中で、翔琉は朝の光を宿したような琥珀色の瞳を細めて、誰にでも分け隔てなく眩しい笑みを振りまいていた。
ーー学校はともかく、彼がクラスの人気者であるのは確かだ。絶対そう言える。
太陽のような彼に群がる人たちから一歩引いて、僕はその光をただ見つめることしかできない。
翔琉と僕は、生まれた時からずっと一緒にいるような幼馴染だ。けれど、今の彼を見ていると、本当に僕の知っているあの日の翔琉なのだろうかと、時々分からなくなる。
「よう翔琉、深山。これ見てくれよ」
人混みを割って、灰村俊平がニヤニヤしながら近寄ってきた。彼は周囲、特に教卓の方を気にするように素早く視線を走らせると、制服の袖を少しだけ捲り上げ、左手首を僕らにだけ見えるように突き出した。そこには、某有名メーカーのロゴに酷似したスマートウォッチが巻き付けられている。
「本物の林檎時計にそっくりだろ? フリマアプリで激安だったんだわ」
「うお、マジか! ……って、お前それ、先生に見つかったら即没収じゃん。チャレンジャーすぎ」
翔琉が声を潜めながらも、面白そうに身を乗り出して灰村の時計を覗き込む。
「わかってるって。だからこうして隠してんじゃん。翔琉もさ、こういうの買えば?」
「うーん、そういうのより、今は自分のPC欲しいんだよなぁー。紫乃、やっぱり安く済ませるならリサイクルショップとかかなぁ」
翔琉が僕の方を振り返り、同意を求めるように首を傾げた。
ーー僕は、翔琉のこういうところが、心底羨ましくて、そして眩しい。
自分から誰かの懐に飛び込んで、場の中心を作り出せる力。迷わずに率先して物事を動かせる強さ。
僕には到底できないことだ。情報を集め、周囲を伺い、波風を立てないように息を潜めることしかできない僕とは、魂の作りが根本から違うのだと思う。翔琉へのリスペクトは、いつの間にか、自分自身へのどろどろとしたコンプレックスに形を変えていた。
彼が輝けば輝くほど、僕の影は濃くなっていく。いや、影すら残らないかもしれない。彼が正解なら、僕は間違いなんじゃないか。彼が必要とされるなら、僕は不要な存在なんじゃないか。
「……まぁ、一番手軽なのはそうかもね」
「だよなー!」
色々と考えているうちに翔琉からの問いかけを適当に答えてしまった。僕は灰村の偽物ウォッチから視線を外し、自分の席へと移動してバッグを下ろした。 翔琉は灰村たちとさらに盛り上がっていく。その輪を、僕は教科書を広げることで視界から追い出した。彼が優しくなればなるほど、僕の心はモヤモヤと曇っていく。
ーー結局、ここも家と同じなんだ。
あの一階のリビングで、義父さんと母さんと有海が笑っていた、あの光景。完成された、あたたかくて眩しい輪。僕を助けてくれたあの日の翔琉は、もう僕だけの居場所じゃない。
大勢の誰かに囲まれて、屈託なく笑う彼の横顔を見ていると、家にいる時に感じるあの息の詰まるような感覚が、押し寄せてくるのが分かった。
そして、そういうことを考えてしまう自分に対して、どうしようもなくムカつく。
