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大通りから農道に入り、雑木林の中を抜けて、廃校舎になんとかたどり着く。雨足は弱くなっていたものの、予想通りに雑木林の中の小道は雨で小さな川でも出来たかのように泥水が流れていて、酷い有様だった。やはり長靴で来て正解である。
玄関ドアをガラガラと開け、埃の積もった傘立てにびしょ濡れのビニール傘を放った。
「麻生ー、いるかー?」
グチュグチュと水気を含んだ長靴を踏み鳴らしながら、下駄箱の林を奥へと進む。
呼びかけに答える声はなく、雨音だけが校舎内で薄暗く響いていた。
「……まだ来てない、か」
カバンからタオルを取り出し、濡れた身体を拭きながら呟く。
遅れるかも、と事前連絡のあった通り、麻生はまだ辿り着いていないようだ。
俺は携帯電話で『先についたから準備しとく』とメッセージを送ると、下駄箱に立て掛けるように置いていた小さな箒を手に取り、いつもの『おままごと』をする場所の埃を掃く。ここは二週間に一度しか来ないので、来る度に掃除をしないとあっという間に埃や砂まみれになってしまうのだ。
ほんの少ししか滞在しない場所ではあるが、汚いよりは綺麗なほうがいい。
ザッザッと床板を掃いていると、どこからかポタンポタンと雫の滴れる音が聞こえてくる。どこかで雨漏りをしているようだ。だからと言って、取り壊し予定でもある校舎を修繕しようという気はないし、正直『おままごと』に使っている正面玄関以外の場所は、床板に穴が空いたり崩れているので危なっかしくて近寄る気にもなれない。
あらかた掃き掃除を終えると、今度は下駄箱にしまっておいたレジャーシートをエントランスホールに広げた。これでようやく長靴が脱げる。
靴下まで脱いだ素足でギシギシと床板を踏み鳴らしながら、今度はおままごとの道具をレジャーシートの上に出していく。
小さな子どもが遊ぶようなオモチャのガスコンロと流し台を置き、ちゃぶ台やペラペラの板でしかないミニテレビなんかも並べた。これでちょっとしたダイニングキッチンの出来上がりである。
「……こんなもんかな」
ここで『おままごと』をするようになった当初は、その辺の石や木の板をテーブルなんかに見立ててやっていたのだが、そのうち麻生が「汚れたりケガすると良くないから」と、レジャーシートやオモチャを持ち込むようになった。
最初はシートとちゃぶ台だけだったが、リサイクルショップなんかであれこれ見つけてくるらしく、今ではなかなかの充実ぶりである。ヘタをすると、その辺の小さい子どもがいる家より揃っているかもしれない。
「……『呪い』か」
帰り際、クラスメイトに言われた言葉が、思いの外引っかかっていた。
確かにこれは『呪い』のようなものかもしれない。何せこの廃校舎は、取り壊そうと工事しようとする度に事故が起き、呪われていると言われた場所だからだ。
俺はエントランスホールからまっすぐ伸びる廊下の先を見つめる。天井近くに掲げられた室名札は、手前から校長室、職員室、用務員室と並んでおり、その先に男女で入り口の分かれたトイレ。
この茶番のような儀式は、あそこに足を踏み入れてから始まった。
全ては、お化けをなめていた自分のせいである。
俺はため息をついて、レジャーシートの上に仰向けに寝転がった。
ちょうどエントランスホールは二階まで吹き抜けになっていて、天井が高い。小さなヒビやシミが、お化けみたいな模様になっている。
この『おままごと』を始めたばかりの時は、この廃校舎の不気味な雰囲気に飲まれて、内心怯えながら過ごしていた。
けれど自分以上にブルブルに震えていた麻生を、なんとか励ましてやり過ごしていたら、今ではすっかり慣れたものである。
最初は俺と一緒でないと廃校舎まで行けなかった麻生も、通っているうちにだんだん平気になってきて、一人で準備をして待っているくらいになったのだから、人間はやっぱり成長するものだ。
今ではすっかり、放課後のクラブ活動のような体を成している。
しかしこのクラブ活動は、一人きりでは成立しない。
もう一人が来なければ、始められないからだ。
俺はうつ伏せに寝転がると、携帯電話を取り出して適当にゲームをしたり、電子書籍の漫画を読んだりして時間を潰す。
時間をチェックして、到着した時に麻生宛に送ったメッセージを見返すと、まだ既読のマークが付いていなかった。
いつもならすぐ返信してくれるのに、何かあったのだろうか。
窓の外がふっと暗くなり、静かだった外がまたザーザーとうるさくなって、窓に当たる雨音が強くなってきた。
落ち着いたと思っていたが、また荒れてきたようだ。もしかしたら麻生は、どこかで足止めを喰らっているのかもしれない。
――きっとそうだ。
ギュッと携帯電話を握りしめていたら、突然ガラガラと玄関ドアの開く音がした。ハッとして顔を上げる。
「スギくん、いるー?」
続けて聞こえたいつもの声に、俺はホッとして返事をした。
「おー! いるぞ!」
慌てて声のする方へ移動すると、麻生が肩で息をしながらこちらに歩いてくるところで。
「ごめんね。電車もバスもすごい混んでて、返信できなくって」
そう言う麻生は、足元こそ長靴を履いているものの、頭から全身ぐっしょり濡れていた。
「おう、気にすんな。それより、なんかスゲー濡れてるじゃん。どうした?」
「あー、来る途中で傘が壊れちゃって」
そう言って麻生が右手に持っていた、ビニール傘だったものを見せる。銀色の骨が綺麗に反り返って、透明のビニールがぐちゃぐちゃに破けていた。
「まぁとりあえず、先に身体拭けよ」
「うん。あー、タオル無事かな……」
麻生が無事だったらしいタオルをカバンから取り出し、メガネを外して顔や頭を拭き始めたので、俺は自分のタオルで麻生の肩や背中を拭いてやる。
「……ごめんね、ありがと」
「どーいたしまして」
背丈もそうだが、麻生は肩幅も腕もだいぶ大きくなった。猫背は治ってないけど。俺ももっと背が高くなって、肩とかももっとがっしりしてくるはずだったのに、残念ながら麻生に追いつきそうもない。ちぇ。
「また雨が強くなってきたから、どこかで足止めくってるかと思ってたわ」
「んー、バス降りた時は大丈夫だったんだけど。雑木林のとこまで来た途端に強くなってきて、そこで傘も壊れちゃって」
「あぁ、そこからならこっち来たほうがいいな」
麻生はここに来る時はいつも、駅から大通りにある農道に入る別れ道近くのバス停までバスで来ていると言っていた。
大通りから農道を通ってここまで来る道には、周囲を畑に囲まれていることもあって、雨宿りできるような場所がない。来た時に息を切らしていたのは、雑木林の辺りから走ってきたせいだろう。
「とりあえず、今日は短めにやろうぜ。遅くなっちまったし」
「そうだね。花子さんには申し訳ないけど……」
ただでさえ集まるのに時間がかかった上、天気が悪いせいで辺りはもうすでに薄暗い。念の為ちゃぶ台の上に電池式のロウソクを置いて、明かりを点けた。
それから一通り濡れた身体を拭き終わった麻生と俺は、いつものようにレジャーシートの上で向き合って座る。
小さな深呼吸を一つして、雨音の隙間を縫うように口を開いた。
「はーなこさん、遊びましょう」
「遊びの続きをいたしましょう」
「はーなこさん、遊びましょう」
「ままごと続きをいたしましょう」
麻生と交互に、薄暗い中で童謡を歌うように花子さんに呼びかける様は、どこか呪いの儀式じみて見えるかもしれないな、と俺は心の中で苦笑する。
そして、いつもの声に応えるように、廊下の先の、昔トイレのあった辺りから、ギィィとドアの開く音がして、辺りの気温が少しだけ下がった。
〈はーあーい〉
囁くような女の子の声がして、二人しかいないはずの空間に、いつのまにか増えるもう一人の気配。
彼女が揃えば『おままごと』の始まりだ。
俺と麻生は互いに視線を交わすと、頷き合って、短く終わらせるための会話を始める。
「“おかえりなさい、お父さん。今日は遅かったですね”」
「“ただいま、母さん”……えーと、“今日は新人さんが来たから、その指導で遅くなっちゃって”」
いつもなら『仕事がなかなか終わらなくて残業だった』と返すところだったのだが、つい全然違うことが口をついて出た。
「……“新人さん?”」
「“そうそう。すごい有能な奴でさ、あれこれ教えてたら遅くなったんだ”」
「“あら、そうだったんですね。あなたの仕事がこれから楽になるといいですね”」
麻生は少し戸惑ったようだったが、やはり頭がいい奴は違う。すぐに合わせて答えてくれるから本当に助かる。
俺はホッとしつつ、家族の会話として花子さんに話題を振った。
「“花子は、今日は学校でどんなことをしたんだい?”」
〈今日は図工の時間に『絵本』を作ったのよ〉
彼女の口にした『絵本』という単語に、俺と麻生に緊張が走る。
なんだか嫌な予感がする。
「へ……“へー、どんな絵本を作ったんだ?”」
〈持って帰ってきたから読んであげるね!〉
麻生のほうをチラリと見ると、同じように少し気まずそうに、眉毛を八の字にしていた。
花子さんが『絵本を読んであげる』と言い出した場合、彼女の読み聞かせが終わるまではずっと聞いていないといけないのである。
こちらとしては演技をすることなく、相槌を打っていればいいだけなので楽ではあるが、この絵本を読む時間が、とんでもなく長い。
しかもこれを下手に中断させようとすると、ものすごい駄々を捏ねた上に、機嫌を直してもらうために『最初から読んでもらう』必要があるのだ。
「……ま、“まぁ嬉しい。聞かせてくれる?”」
〈うん!〉
麻生が困ったように笑いつつ言うと、花子さんは意気揚々と架空の絵本の話を始めた。



