◇
ちょうど風呂から上がったところで、父親がぐったりした様子で帰ってきた。
「ただいま〜〜」
「あ、おかえり」
頭を拭きながら俺がリビングに向かうと、父親は深いため息をつきながら後ろをついてきて、そのままリビングのソファに座る。
キッチンにいる母親に「夕飯、軽く食べてきたから少なめにして」と伝えてネクタイを緩めていた。
大人というのは、なんだかいつも疲れているような気がする。
「今日は何? 残業?」
風呂上がりの牛乳をコップに注ぎながら父親に尋ねたが、そういえば今日は電車が止まったのだと麻生が言っていたのを思い出した。
「あ、電車止まってたらしいし、そのせいか」
「ん? いや、今日の電車は、止まったり遅延したりもしてなかったと思うぞ」
俺の言葉に、父親はテレビのリモコンを探していた手を止めて、キョトンとした顔で返す。
「……え?」
「運転見合わせや遅延があればアナウンスがあっただろうけど、今日はなかったし。残念ながら今日は普通に残業で遅くなっただけだ」
心臓が大きくドクンと波打った。牛乳の入ったコップを握る手が小さく震える。
父親の顔はいつも通りで、テレビをつけてそちらに視線を向けてしまった。嘘をついているようには見えない。
「そ、そっか。俺の勘違い、だったかも……」
俺はそう言って牛乳を一気に飲み干すと、階段を駆け上がって自分の部屋に戻る。そしてそのまま部屋の奥にあるベッドに、飛び込むように寝転がった。
――どういうことだ?
でも、まさか、なんで、と色んな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
心臓がまだバクバクとうるさい。
気になって仕方なくて、携帯電話で最寄り駅の遅延情報を調べてみたら、父親の言うとおり、そんな情報はなかった。
ただそうなると、麻生が嘘をついたことになる。
――でも、何のために?
だって今日は、絶対に廃校舎に行かないといけない日だった。それは麻生だって分かっていたはず。
なのに、嘘までついて遅れてきた理由ってなんだ?
麻生に何の得がある?
俺は携帯電話のメッセージアプリを開く。
夕方送ったメッセージには、まだ既読マークがついていない。きっとまだ新しい携帯電話の設定が終わっていないのだろう。
「……麻生」
携帯電話をじっと見つめた。
麻生のことだ、色んな設定が終わったらすぐ連絡が来るはず。
――連絡が来たら、真っ先に聞いてみないと。
……そう、ついさっきまでそう思っていたはずなのに、ハッと気付けば時計の針が深夜二時を指していた。
ベッドで麻生からの連絡を待っている間に、どうやらそのまま寝入ってしまったらしい。
今日はいつもより歩き回ったし、考え込んだせいもあるだろうか。
携帯電話を見ると、案の定、麻生から連絡が来ていた。
麻生《ケータイ復活したよ!》
麻生《今日はごめんね。メッセージ今見れた》
麻生 猫が謝っているスタンプ
メッセージの内容は至って普通。いつも通りすぎて、自分の考えすぎだったんじゃないかとさえ思う。
さすがに今返信するのもな、と携帯電話をそのまま放って、俺は改めて就寝する前に歯磨きをしようと階下に移動した。
廊下もリビングも真っ暗で静かで、家族はすでに全員寝てしまったらしい。こんな時間なのだからそれもそうだろう。
洗面台に向かってぼんやりしながら歯磨きをしていると、目の前にある鏡の中の、隅のほうで何かが揺らめいた気がしてハッとした。開けっぱなしにしてある引き戸の、真っ暗な廊下が映っているはずのその奥に、白っぽい人影が佇んでいる。
「……っ!」
俺はすぐに振り返ったが、廊下には誰もいない。
改めて鏡を見ると、やはりそこには何も映っていなかった。
口を濯ぎ、歯ブラシを戻したらザバザバと顔を洗う。
「……やっぱ、今日行けなかったからかな」
びしょ濡れの顔で鏡を見つめた。
やっぱりまだ花子さんは、俺と麻生を手放す気がないんだ。
しかも、本物かもしれない霊能者――自分とお気に入りの人間を引き離すことができる存在を連れて行こうとしてるんだから、いい気はしないだろう。
もし鷹村が解決できなかったら、きっともうしばらくは『おままごと』を続けなきゃいけない。
――麻生だけでも、解放してやりたいのにな。
もう受験のことを考えないといけない時期だ。アイツの足を引っ張りたくないのに。
俺はタオルで顔を拭いた。
――花子さんに頼んで、俺だけ行けば済むようにならないかな。
とはいえ『おままごと』の時は姿を見せてくれないのだ。話し合いなどできるんだろうか。
そんなことを考えながらため息をつき、階段を上がろうとして、ハッとする。
階段の踊り場に、こちらに背を向けた半透明の人間がいたのだ。
おかっぱくらいの黒髪なのは分かるが、背中を向けて座っているのか、いつもの赤いスカートは見えない。
でも、おそらく、花子さんだ。
きっと今日、俺と麻生が廃校舎に行かなかったから拗ねていて、ああして背中を向けているのだ。
「ご、ごめんなさい!」
俺はその場でしゃがみ込むように、踊り場に向かって土下座する。
「金曜に! 金曜に絶対行くから!」
顔を上げて叫ぶようにそう言った。
白い人影は身じろぎすることなく、ぼんやりと光ったまま。
けれどそのうち、電灯のスイッチがパチンと切り替わるみたいに、その人影は何も言わずにすっと消えた。
俺はその場に座り込んだまま、はぁ〜〜と脱力したように息を吐く。
――花子さんに、ちゃんと謝らなきゃ。
俺はもう一度だけため息をついてから立ち上がると、階段を上がって自分の部屋に戻った。
ちょうど風呂から上がったところで、父親がぐったりした様子で帰ってきた。
「ただいま〜〜」
「あ、おかえり」
頭を拭きながら俺がリビングに向かうと、父親は深いため息をつきながら後ろをついてきて、そのままリビングのソファに座る。
キッチンにいる母親に「夕飯、軽く食べてきたから少なめにして」と伝えてネクタイを緩めていた。
大人というのは、なんだかいつも疲れているような気がする。
「今日は何? 残業?」
風呂上がりの牛乳をコップに注ぎながら父親に尋ねたが、そういえば今日は電車が止まったのだと麻生が言っていたのを思い出した。
「あ、電車止まってたらしいし、そのせいか」
「ん? いや、今日の電車は、止まったり遅延したりもしてなかったと思うぞ」
俺の言葉に、父親はテレビのリモコンを探していた手を止めて、キョトンとした顔で返す。
「……え?」
「運転見合わせや遅延があればアナウンスがあっただろうけど、今日はなかったし。残念ながら今日は普通に残業で遅くなっただけだ」
心臓が大きくドクンと波打った。牛乳の入ったコップを握る手が小さく震える。
父親の顔はいつも通りで、テレビをつけてそちらに視線を向けてしまった。嘘をついているようには見えない。
「そ、そっか。俺の勘違い、だったかも……」
俺はそう言って牛乳を一気に飲み干すと、階段を駆け上がって自分の部屋に戻る。そしてそのまま部屋の奥にあるベッドに、飛び込むように寝転がった。
――どういうことだ?
でも、まさか、なんで、と色んな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
心臓がまだバクバクとうるさい。
気になって仕方なくて、携帯電話で最寄り駅の遅延情報を調べてみたら、父親の言うとおり、そんな情報はなかった。
ただそうなると、麻生が嘘をついたことになる。
――でも、何のために?
だって今日は、絶対に廃校舎に行かないといけない日だった。それは麻生だって分かっていたはず。
なのに、嘘までついて遅れてきた理由ってなんだ?
麻生に何の得がある?
俺は携帯電話のメッセージアプリを開く。
夕方送ったメッセージには、まだ既読マークがついていない。きっとまだ新しい携帯電話の設定が終わっていないのだろう。
「……麻生」
携帯電話をじっと見つめた。
麻生のことだ、色んな設定が終わったらすぐ連絡が来るはず。
――連絡が来たら、真っ先に聞いてみないと。
……そう、ついさっきまでそう思っていたはずなのに、ハッと気付けば時計の針が深夜二時を指していた。
ベッドで麻生からの連絡を待っている間に、どうやらそのまま寝入ってしまったらしい。
今日はいつもより歩き回ったし、考え込んだせいもあるだろうか。
携帯電話を見ると、案の定、麻生から連絡が来ていた。
麻生《ケータイ復活したよ!》
麻生《今日はごめんね。メッセージ今見れた》
麻生 猫が謝っているスタンプ
メッセージの内容は至って普通。いつも通りすぎて、自分の考えすぎだったんじゃないかとさえ思う。
さすがに今返信するのもな、と携帯電話をそのまま放って、俺は改めて就寝する前に歯磨きをしようと階下に移動した。
廊下もリビングも真っ暗で静かで、家族はすでに全員寝てしまったらしい。こんな時間なのだからそれもそうだろう。
洗面台に向かってぼんやりしながら歯磨きをしていると、目の前にある鏡の中の、隅のほうで何かが揺らめいた気がしてハッとした。開けっぱなしにしてある引き戸の、真っ暗な廊下が映っているはずのその奥に、白っぽい人影が佇んでいる。
「……っ!」
俺はすぐに振り返ったが、廊下には誰もいない。
改めて鏡を見ると、やはりそこには何も映っていなかった。
口を濯ぎ、歯ブラシを戻したらザバザバと顔を洗う。
「……やっぱ、今日行けなかったからかな」
びしょ濡れの顔で鏡を見つめた。
やっぱりまだ花子さんは、俺と麻生を手放す気がないんだ。
しかも、本物かもしれない霊能者――自分とお気に入りの人間を引き離すことができる存在を連れて行こうとしてるんだから、いい気はしないだろう。
もし鷹村が解決できなかったら、きっともうしばらくは『おままごと』を続けなきゃいけない。
――麻生だけでも、解放してやりたいのにな。
もう受験のことを考えないといけない時期だ。アイツの足を引っ張りたくないのに。
俺はタオルで顔を拭いた。
――花子さんに頼んで、俺だけ行けば済むようにならないかな。
とはいえ『おままごと』の時は姿を見せてくれないのだ。話し合いなどできるんだろうか。
そんなことを考えながらため息をつき、階段を上がろうとして、ハッとする。
階段の踊り場に、こちらに背を向けた半透明の人間がいたのだ。
おかっぱくらいの黒髪なのは分かるが、背中を向けて座っているのか、いつもの赤いスカートは見えない。
でも、おそらく、花子さんだ。
きっと今日、俺と麻生が廃校舎に行かなかったから拗ねていて、ああして背中を向けているのだ。
「ご、ごめんなさい!」
俺はその場でしゃがみ込むように、踊り場に向かって土下座する。
「金曜に! 金曜に絶対行くから!」
顔を上げて叫ぶようにそう言った。
白い人影は身じろぎすることなく、ぼんやりと光ったまま。
けれどそのうち、電灯のスイッチがパチンと切り替わるみたいに、その人影は何も言わずにすっと消えた。
俺はその場に座り込んだまま、はぁ〜〜と脱力したように息を吐く。
――花子さんに、ちゃんと謝らなきゃ。
俺はもう一度だけため息をついてから立ち上がると、階段を上がって自分の部屋に戻った。



