「ねえっ……どこまで行くのっ、会長……!」
「安全なところまで」
部下をまくためか、会長はあちこちで道を曲がって走り続ける。
走って走って、さすがに息が上がっていき……
「ま、待って……もう走れないっ……!」
音を上げた俺はかすれた悲鳴を絞り出して足を止めた。
会長も足を止め、周囲に視線を走らせる。
「……もう大丈夫か」
「はぁっ……大丈夫だろ……たぶん……」
(もし大丈夫じゃなかったとしても、もう無理……)
いつの間にかまったく知らない景色の中にいる。駅から離れたようで、のどかな住宅街だ。近くに小さな神社があった。
「あそこで休むか」
会長が、荒い息を吐く俺を支えるようにして神社へと促す。境内に入り、社殿前の石段に腰を下ろした。
人気はなく、敷地はしんと静まり返っている。
(ていうか……)
呼吸が落ち着くにつれ、徐々に冷静さも戻ってきた。
(勢いで逃げてきちゃったけど、どう考えてもまずいよな)
俺だけじゃなく会長もだ。むしろ、会長のほうがヤバい。
「……なんでこんなことしたんだよ」
「もちろん行かせないためだ」
尋ねた俺に、会長はためらいもなく答えた。
「おまえのクラスメイトに風邪で欠席だと聞いたが、本当だとは思えない。状況を考えれば、このまま登校させられるかもしれないことは予想がついた。俺が立ち入って迷惑をかけてはいけないと思っていたが、これきりになるなら話は別だ。だから、阻止するために来た」
「阻止って……そんなことできるわけないじゃん」
迎えの部下からは逃げられた。でも、それがせいぜいだ。
相手は父親で、大人で、金と権力だけはやたら持ってる政治家で。
(逆らったところで、勝てるわけがない……)
「今日だけだよ。会長が来てくれても、結局はなんにもなんない」
しかもさらに悪いことに、会長は部下にはっきりと名乗っていた。制服を着ている時点で身元は割れてるけど、ご丁寧にフルネームと、生徒会長だということまで。
「会長、どんだけまずいことしたかわかってる? あの状況で身元明かしたりして……政治家敵に回して、何をされるか……」
「かまわない」
「かまわないわけないだろ! 悪徳政治家だぞ、その気になったら大概のことできるよ。お父さん社長なんだよな? 圧力かけて、その会社を陥れることもできるかもしれないんだぞ!」
語気荒く訴えると、会長の表情がわずかに動いた。眉を寄せ、痛みを堪えるような顔をする。
けれどそれも一瞬で、すぐにまっすぐ俺を見ると、毅然とした声で言った。
「わかっている。俺だって家族に迷惑はかけたくない。だが、その思いで行動を止めることはできなかった」
腕が伸びてくる。強い力で抱き寄せられた。
「俺には、おまえのほうが大事だった」
息苦しくなるくらいぎゅっと、腕に力がこもる。
「なんで……家族より大事とか、ありえないだろ……」
会長は俺とは違う。ちゃんと愛されていて……会長も家族のこと、大好きなくせに。
(その家族より、知り合って数年の俺が大事? まさか)
「恋は盲目っていうけど。気の迷いにしてもバカすぎだよ、会長……」
「気の迷いなんかじゃない」
会長が抱擁を解いて体を引く。俺の肩に手を置いて、再び射貫くような眼差しで俺を見た。
「俺は本気でおまえを愛してる。俺にはおまえが必要だ。だから、他の何を犠牲にしても離れるなんてできない」
「……!」
俺は胸を突かれたように息をのむことしかできなかった。
いつものように落ち着いた、理知的な表情。それでも黒い瞳と断固とした口調には、揺るぎのない想いがこもっている。波動のように、それがはっきり伝わってくる。
「子供の時から好きだった。俺は、これからもおまえと一緒にいたい」
(……え?)
「子供の頃から……?」
「そうだ。昔からずっと、俺の中にはおまえがいた。会えなかった間もずっと」
(昔? どういうこと?)
「……俺たち、去年会ったのが初めてじゃないの?」
混乱しながら問う俺に、会長はふっと笑った。
「そうだよ。俺の初恋は幼稚園の時だ」
「は……幼稚園!?」
思わず声のボリュームが跳ね上がる。
(幼稚園の頃に会長と会ってるってことか? でも俺が通ってたのは……)
「小学生の時、一家でこちらに引っ越してきたんだ」
疑問に先回りして、会長が言葉を補う。
「それじゃあ……」
(もしかして、同じ幼稚園だった? って、まさか……)
幼稚園の頃の記憶なんてもうほとんどなくて、おぼろげな夢の光景のようにしか残っていない。いろんな人がよく世話を焼いてくれたなと、その程度の記憶だ。
同学年の子だけじゃなく、年上のお兄さんお姉さんも、声をかけてきては遊んでくれて……。
「おまえは大人気でライバルがいっぱいだったから、一緒に遊ぶ権利を勝ち取るのも大変だったんだぞ」
「!」
(やっぱそうなんだ。あのお兄さんお姉さんの中に会長もいたんだ)
「…………全然覚えてない」
「ははっ、まあそうだろうな」
会長は気にする様子もなく笑い飛ばす。
「小学校は分かれたし、俺だってあれきりだったらいつか忘れていたかもしれない。でも忘れなかった。小学生の時、一度街でおまえを見かけたんだ。……多分、前におまえが話してくれた、家出をしたという夜に」
「えっ?」
ますます驚く俺に、会長は夜道を一人で歩く少年を見た話をしてくれた。
あの夜のことは俺もよく覚えている。時期的にも状況的にも、間違いなく俺だった。
「だから高校では、二度目の再会なんだよ」
熱を帯びた瞳を優しく細め、会長が穏やかに告げる。
「なんだよ、それ……急にそんなこと言われても……」
心が追いつかない。
だって、俺は全然覚えてないし、小学生の時の再会も知らないし。
会長とは高校で初めて会って、生徒会の仲間としての縁だけで気に入られたと思ってたのに。
(それが、幼稚園の頃からの初恋? って、何年前からだよ……)
しかも、つまり会長の中にいるのは幼稚園の頃の、女の子に間違われたり『天使みたい』と言われていた、まだ無邪気な俺ってことだ。両親の不仲も理解せず、何も知らなかった頃の。
(だったら──今の俺とは、全然違う)
「……初恋を美化してんのはわかったよ。でもそれなら余計、今の俺とは──」
「そうじゃない」
俺の言葉を最後まで聞かず、会長は鋭くさえぎった。
「美化してるんじゃない。おまえが、あの頃のおまえのままじゃないことなんてちゃんとわかってるよ」
右手を動かし、そっと頬に触れてくる。
次は髪に。今の俺の形を確かめるように、静かに指が移っていく。
「幼稚園の頃は、アイドルに夢中になるような恋だったかもしれない。再会した時には寂しそうな顔が気になって、心を離れなくなった」
そして二度目の再会。会長は、入学式の日にはもう俺のことを見つけていたという。
「生徒会の仲間として、ようやくまともに話せる関係になれたよな。本当に嬉しかった。おまえがどんなやつなのか、何を考えてるのか──知りたくていつもおまえを見ていたし、知っていく中で、もっと好きになっていったんだ」
「…………」
俺は黙り込んだ。
一瞬、反射的に『それだって本当の俺じゃない』と言いかけたけど、のみ込む。
会長が本当の俺に気づいてくれていたことはもう知っている。
実は孤独なことも、それを隠して虚勢を張っていたことも、この人はずいぶん前から見抜いていたんだ。
そのうえで、今の言葉があるのだとしたら……もう、突き放す言葉も思いつかない。
「昔より何倍も、泉が好きだ。それに、おまえは俺が与えてばかりだと言ったが、そんなことはない。俺も泉から、たくさんのものをもらってる」
「俺が会長に、たくさん? 嘘だよ、俺は何も……」
「もらってるよ。俺は、泉といると楽しい。楽しくて、穏やかで……柔らかい素の自分でいられる」
「それは……単に料理好きを隠さなくてよくて、手料理を食べてもらえるからだろ。そんなの、その気になったら他の人にだって──」
「違うよ。泉だからだ」
「……どこからくんだよ、その自信」
「自分のことだから自分でわかる。他の誰かと同じ状況になったとしても、こんなふうにはならない。泉だからだ。おまえだから楽しいし、嬉しいし、癒されるんだ」
右手が髪から頬に戻ってきて、包むように触れた。
「生徒会のみんなに、最近雰囲気が変わったと言われた。泉が変えてくれたんだよ」
そう話す笑顔が、触れた手のひらが温かくて、目の奥がジンと熱くなる。
「以前はたまに感じていた息苦しさを、最近ではすっかり忘れていたんだ。俺はこれからも、こういう自分でいたい。俺が俺でいるためにも、泉が必要なんだ」
「っ……」
目の奥の熱が一気に高まって、不覚にも涙がこぼれた。
(バカだろ。なに泣いてんの、俺)
頭の片隅でツッコむ自分もいるけど、涙腺はコントロールできない。
せきを切ったように、ぼろぼろと大粒の涙があふれて、会長の手ごと頬を濡らしていく。
「愛重すぎなんだけど……」
「年季の入った片想いだからな」
震える声で言った俺に冗談めかして答え、会長は両手で涙をぬぐってくれた。
そして、再びまっすぐ視線を合わせて言う。
「どこにも行くな。俺の傍にいてくれ、泉」
(この人の傍に……)
これからもいられたら、どんな未来が待ってるんだろう。
「……俺だって、行きたくなんかないよ」
そう告げた時、体が少し軽くなった気がした。
わかってる。間違いなくこれが俺の本心だ。
見ないふりをして押し込めて、封印してしまおうとした本音。
(残りたい。離れたくない)
でも──願っているだけじゃ、意味がない。
俺は心を決め、自分でもまだ濡れている頬をゴシゴシとぬぐった。
「……行きたくないけど、今は帰る」
「っ、どうして──!」
「勘違いしないで。いったん実家に戻るだけ。父さんと、ちゃんと話したいから」
しっかり会長を見つめ返して言う。
覚悟は伝わったようで、会長は安堵に表情を和らげた。でもすぐに、新たな不安が浮かび上がる。
「大丈夫なのか? なんなら俺も……」
「大丈夫だよ。会長が来ても驚かれるだけだし、俺一人でいい。俺と家族の問題だし」
(そう、これは俺が乗り越えなきゃいけない問題だ)
これまでは目を背けて、独りの部屋に閉じこもってた。
でも終わらせたいなら、俺が変わらなきゃいけない。
「ちゃんと戻ってくるから、待ってて」
ほほ笑んでみせると、会長はしばらく黙っていたけれど、やがて同じようにほほ笑んでくれた。
「わかった。待っている」
「……うん」
●〇●〇
太陽が傾きかけた頃、俺は1年以上ぶりに実家の門をくぐった。
左田さんに連絡を入れたから、俺が逃げた騒ぎはもう納まっている。
さすがに今は愛人と距離を置き、父さんがこの家にいることも聞いていた。
母さんは、騒動後も帰ってきていないらしいけれど。
(そんな人たちでも、俺があの二人の息子だって事実は変わらない……)
だけど、ケリをつけよう。
目を背けて独りの部屋に閉じこもるんじゃなくて、自分の意思で、決別しよう。
(俺は、俺のいたい場所で生きていくんだ)
───コンコンコン。
書斎のドアをノックすると、短い間を置いて『入れ』と声があった。
静かにドアを開け中に入る。
父さんはスーツ姿で、デスクの椅子に座っていた。疲れと苛立ちのうかがえる表情だった。
「どういうつもりだ」
逃げたことを言っているのだろう。こんな時に余計な面倒事を増やすなと言いたげな、苦々しい声が突き刺さる。
昔からこの人は威圧的で、畏怖の対象でもあった。
でも、今はひるんでなんかいられない。
(力くれよな、会長)
俺を待っているあの人の、悠然とした佇まいを思い出しながら深く息を吸う。
そして、きっぱりと告げた。
「俺は、この家には戻りません」


