父親の秘書から連絡が来たのは、帰宅して1時間ほど経った頃だった。
左原という40代前半くらいの男性で、いつも淡々と、仕事の業務連絡と変わらない口調で話す。
(実際、あの人にとっては俺への連絡も仕事でしかないんだから、まぁ当然だけど)
AIと話しているような気分にさせてくれるから、俺にとっては憂鬱な電話だ。
しかも、4月に一度状況確認の連絡は来ていたから、次のタイミングにはまだ早いような気がして、嫌な予感がむくむくと沸き起こった。
「はい」
『湊音さん、ネットニュースはご覧になりましたか』
「……いえ、見てませんけど」
『後ほどご覧ください。明日の新聞にも載ります。明日の午後にはそちらに伺いますので、それまで外出せず、誰にも連絡せずお待ちください』
「え……外出せずって、学校は?」
『休んでください。体調不良で』
最後に短く「では明日」と告げて、一方的に通話は切れた。
彼にしては異様なほど余裕のない口調だった。かなり焦っているようだ。指示された内容からも、まずいことになっているというのは瞬時に察せられた。
ネットニュースを検索してみる。正確には、検索するまでもなくトップニュースになっていた。
「は……」
無意識のうちに漏れたのは、乾いた笑いだった。
政治家と元著名人の夫婦。醜聞と隣り合わせなことは昔からわかっていたけれど──
(考えてきた中でも、ほとんど最悪といっていい内容だな)
「そっか……ここまでバレたか……」
名前こそ出ていないけれど、父と母、どっちの不倫相手もすでにつかまれているようだ。
そして、俺の状況まで。
(居場所はまだバレてないみたいだけど。つかまれるのも時間の問題だよな)
マスコミなんて、腐りかけの死体に喜んで群がるハイエナみたいなものだ。
藤長谷議員に不正献金疑惑の出た今、それ以上のスキャンダルは極上のネタ。とことん調べて面白おかしく騒ぎ立てるつもりだろう。
「……さすがの左原さんも慌てるわけだ」
嫌な予感はどんどん大きくなり、体内を埋め尽くしていく。
30分ほど経った時、スマホが震えて着信を伝えた。
「……会長」
応答せずにいると留守電に切り替わり、やがてメッセージが1件という表示がされる。
『泉、大丈夫か? 連絡が取りたい』
「さっすが会長。情報はや」
声は緊迫していて、俺のことが心配で仕方ないと如実に伝わってくる。
その後も深夜近くまで、何度も着信とメッセージがあった。
でも、俺は1回も返さなかった。
はっきり言って全然大丈夫じゃないけど、そんなこと正直に返したってどうにもならない。
最初は余裕がなかったのもあるけど、夜が深まるにつれ、それは諦めにも似た感情に変わっていった。
(だって……どうしようもない。夫婦仲が冷め切ってたとしても、家庭が崩壊してたとしても、俺があの二人の息子だっていう事実は変わらないんだから)
俺はまだ未成年で、一人では何もできない。部屋を借りる契約だって俺だけではできない。
(──それが、現実なんだ)
翌朝、起きるとすぐ学校のWEBシステムから欠席を報告した。
理由は指示された通り体調不良で、『風邪』としておいた。
食欲がなくてコーヒーだけ飲んでいると、スマホにメッセージ受信の表示。
会長かと思ったけど、クラスのグループチャットだった。
『泉、風邪だって? 大丈夫かよ』
『お大事にね』
『選択の物理、俺ノート取っとくから貸すよ』
『早く治して復活しろよー!』
最初のメッセージは山名からで、その後選択授業が一緒のやつとか、比較的よく話す数人からもぽんぽんと投稿が入る。
(いや、みんな授業中だろ)
何やってんだよとツッコミつつも、頬がゆるんだ。
(なんだかんだで、俺にも何人かは、こうして休んだ時に連絡してくれるようなやつがいるんだな)
優等生でいよう。誰の印象にも強くは残らなくていいけど、どんな人間だったかと聞かれた時、『真面目で優秀で温厚ないい子だった』と言われるような、善良で無難な生徒で。
そう思って、外面だけで周りと接してきた。
だからクラスメイトとの友情だって、本物とは言えない。
だけどそれでも──そんな俺でも、気にかけてくれるやつがいる。
おかしいような、申し訳ないような、嬉しいような。
返信するかは少し迷ったけれど、『ありがとう』とだけ返した。
多分もう会うこともないだろうから、最後に一言だけ。
そして、深く息を吐いた。
別のトークグループには、未読数の表示がついたままになっている。会長だ。
受信時の表示でメッセージ内容は大体見ていたけど、既読はつけていない。
きっと相当ヤキモキしているんだろうなと思う。
お礼を言うなら、彼にだってもちろん言うべきなんだろう。
生徒会長としても、個人的にも、すごくお世話になった。それに……それだけじゃ片づけられない相手だ。
でも、だからこそ、言えることなんてなかった。短い挨拶でなんて片づけられないし、向こうが納得しないのもわかり切っている。
(それならいっそこのまま……なんにも言わないほうが……)
●〇●〇
13時を過ぎた頃、玄関ドアが開く音がした。
あの人は合鍵を持ってるし、インターホンを鳴らす必要もない。そのつもりでチェーンロックもかけていないので、彼──左原さんは、特に呼びかけもせずにリビングまで入ってきた。
そして儀礼的な『ご無沙汰しています』の一言の後、ロボットのような無表情で告げる。
「状況はよくありません。ここもすぐに探り当てられます。湊音さんには自宅に戻っていただきます」
「……転校ってことですか」
「ええ。数日は休んでいただきますが、その後は。安全なところをすでに手配してありますので」
「手が早いですね」
「これ以上の混乱を避けるためです」
(混乱って。全部、身から出たサビだろ)
報道されていたことは、どれも大筋では事実通りだ。清廉潔白みたいな顔をして政治や事業の世界で目立っていたんだから、騒ぎ立てられたって仕方ない。
いつかこんな日が来るかもしれないことは覚悟していた。
(だから俺は──せめて、少しでもと思って……)
「……わかりました」
(まぁ、留学じゃないだけマシかな)
こういう時、お荷物は留学で海外に追い出すのが手っ取り早い方法だ。だから、てっきりそう言われると思っていた。でもどうやら都内の高校らしい。もちろん父さんの息がかかった、厳戒態勢に協力してくれる表向きには優良な私立高なんだろうけど。
(育児放棄の報道が出たから、留学より実家から通わせてイメージ回復を図る方を取ったのか)
つまり、父さんの都合でもう決められたことなんだ。逆らう余地なんてない。
「引っ越しも誠北館への後処理も、すべてこちらでいたします。湊音さんは何もされる必要ありませんので、ご学友への連絡も一切なさらないように。運び出したい荷物だけまとめておいてください」
「はい」
「17時頃に別のスタッフがお迎えに上がります。それでは」
最後まで機械的にそう言って、左原さんは30分もしないうちに去っていった。わざわざ出向いたのは、多分俺に会うより、誠北館に行って学校側と話をつける方が主目的なんだろう。
敏腕だから、うまくやるに違いない。クラスや生徒会のみんなには、俺が渦中のスキャンダル夫妻の息子だとは知られないままで別れられるかもしれない。
それなら、そのほうがよかった。
「……荷造りか。段ボールあったっけ」
呟いた声は自分でも驚くくらい空虚だったけど、それに気づかないふりをして、のろのろと身支度を始めた。
17時、時間ぴったりに父さんの部下がやってきた。
インターホンで呼ばれ下まで降りると、エントランス前に黒塗りの車をつけて、男が一人待っている。
顔は覚えがあるけど名前は忘れてしまった、それくらいの、複数いる部下のうちの一人だ。
「手荷物はそれだけですか」
「はい」
小さなキャリーケースを、体格のいい男は手早くトランクに積んだ。
「他は?」
「リビングに段ボール箱が置いてあります」
「承知しました、そちらは後日。ではお乗りください」
後部座席のドアを開けて促される。悪目立ちする高級車だし、さっさと発ちたい感があふれ出ていた。
「…………」
乗り込もうとして、一瞬だけためらう。
体の奥のほうで何かが軋んでいて、手足の動きを阻んだ。
でも、鈍く主張するその何かを、俺は押し込める。
(俺に何ができるっていうんだよ。行くしかないだろ。……もうおしまいなんだ、全部)
「湊音さん? お早く」
「っ……わかってます」
苛立ちを含んだ声に押されるように、車内へ足を踏み入れた時──
「泉!」
「!」
遠くから張り上げられた声と、近づいてくる足音。
誰かが駆けてくる。
いや、誰かなんて顔を見てなくてもはっきりしていた。
「会長っ……?」
半分乗り込んでいた体を引いて声の方向を仰ぐ。
「泉っ!」
制服姿の会長が猛然とこちらに向かっていた。とんでもない速さで、瞬きする間にどんどん距離が近づく。
「早く乗ってください!」
言葉の前に思いきり舌打ちした部下の男が、俺の背中を乱暴に押し込もうとした。
とっさに抵抗するけど力では適わず、足は地面につけたままシートに倒れ込む。
「痛っ! おい、やめっ……」
「いいから早く!」
「泉に触るな!」
足音が止まり、すぐ近くで鋭い声がした。俺を押していた部下の腕を、会長がつかんでいる。
「離せ!」
「離すのはおまえだ。泉を連れて行かせたりしない」
強く言い切った会長の声は怒りで低く、眼光も刺し貫くような鋭さだった。
腕も、振り払いたくてもできないようで、30代を余裕で越えていそうな部下が畏怖にたじろぐ。
「な、なんなんだ君は!」
「誠北館高校3年、生徒会長の黒瀬獅央だ」
「生徒会長? なんだか知らんが邪魔をするな! 彼はここを離れるんだよ!」
「だから、そんなことは俺がさせないと言ってるだろ!」
「クッ……!」
部下の瞳がギラつき、自分をつかむ会長の手首を、空いているほうの手でつかみ返した。
「っ……!」
素肌を爪で引っかかれたようで、会長の顔が痛みにゆがむ。拘束が緩んだ隙に部下は体勢を立て直した。
「小僧が生意気にっ!」
「っ、やめろ!」
確実に殴り合いか取っ組み合いになるという危惧に、思わず叫んだけれど。
────ドシンッ!
1秒も経たない間に、部下の体がグルンと動き、次には地面に叩きつけられていた。
(は? え?)
目の前では、腰を追っていた会長がすっと背筋を伸ばすところだ。
(今のって……)
「い、一本背負いっ!?」
「中学までは柔道をたしなんでいた」
「いや、すっごいキレ味だったけど!」
(そういえば武道も好きとか言ってたような気するけど!)
部下の男は、衝撃と驚きで起き上がれずにいる。
「今は生徒会のため部活に所属するほどの時間はないが、趣味の範囲で続けているからな」
薄い笑みを浮かべてそう言うと、会長は俺の手をつかんだ。
「もたもたしている時間はない」
「えっ、あっ」
「ま、待て!」
ようやくふらふらと起き上がった部下が叫ぶ。でもその時には、俺たちはもう走り出していた。
「行くぞ!」
たくましい腕が俺を引く。
追いかけてくる部下の声を振り切って、会長と俺は全速力で駆けた。
すぐ目の前に見慣れた広い背中がある。
その事実に、俺はどうしようもなく安堵していて──もう、何も考えられなかった。


