再会は、運命だと思った。
「会長、ちょっと助けてもらっていいですか。校則アンケートの件、風紀委員長がどうしても納得してくれなくて……」
「わかった、俺から話をしてみよう」
「黒瀬くん、今月の野球部からの報告書で気になる点があったんだけど」
「ああ、それなら大丈夫だ。もう部長と顧問に聞き取りしてある。問題はなさそうだよ」
「あ、そうなの? さっすが会長! ありがとう」
「会長、お忙しいところすみません。提案書のチェックお願いできますか?」
「もちろん。確認して今日中に返事をするよ」
「会長、校長が呼んでるって」
「そうか、行ってくる」
生徒会室を出て、校長室で地域ボランティア活動の方針について話し、また生徒会室へと向かう。
ドアの前に立った時、中から声が聞こえてきた。
「いや、黒瀬会長ってマジですごいな。敏腕すぎる!」
「ほんと、頼もしいよね。理想の生徒会長だよ~」
(……ありがたいことだな)
仲間が自分を信頼してくれていて、こんなふうに言ってくれる。とても嬉しいことで、いい仲間に囲まれて俺のほうこそ恵まれていると思う。
でも、時折少しだけ息苦しさを覚えることがあった。
「泉くんは去年の前期から代表委員で参加してるんだよね? その頃から会長、あんな感じ?」
「うん。副会長として、会長支えてバリバリ働いてた」
「そうなんだ。すごいよね~」
「だね。去年から、次の会長はこの人しかいないってみんな思ってたよ」
聞こえてきた泉の声に鼓動が跳ねる。
あいつが俺のことを話している、褒めてくれている──それだけでこんなにも、心が騒ぐ。
だけど表には出せない。
皆に信頼されている俺にも、隠していることはたくさんある。
『会長』ではない俺の一面も、この気持ちも。
「ただいま」
ドアを開け、いつもの『会長』の笑顔で皆の輪に戻った。
父親は会社社長。いい意味での野心を持つ仕事熱心で真面目な人で、母も兄も優しく、家庭も充分すぎるほど裕福。何不自由ない環境で育った。
とはいえ、まったく波乱がなかったわけではない。
俺が小学生の頃、母親が大病をわずらい長い入院をした。
幸い病気は完治し、今も定期的に通院して検査を行っているものの、再発はなく元気に過ごしている。
だがこれを機に、一家で今住むこの街に転居した。23区外の小都市だが都心まで通える距離だし、母親の実家が近い。親戚も多く住む地域なので万一の時に頼りやすく、母親のストレス軽減になるだろうというのが理由だ。
それまでは世田谷区の、富裕層の邸宅が立ち並ぶ、いわゆる高級住宅街で育った。
幼稚園から、公立ではなく私立の『いいところ』に通わせてもらっていた。
あの幼い頃の記憶を、今でも鮮明に思い出すことができる。
「あ、みなとくんだよ!」
「みなとくん、何してるの? こっちおいでよ、いっしょにあそぼ!」
「あれっ、みなとくん、ほっぺた血が出てるよ!」
「どうしたの、引っかいたの? えっ、ぶつかった?」
「もう、気をつけなくちゃダメだよー! ほら来て、ふいたげる!」
「あ、しおーくん! ティッシュのはこ持ってきて!」
急に呼びかけられ、部屋の隅にいた俺は、すぐには返事ができなかった。
年齢関係なく使用する遊戯室のような部屋。俺はブロック遊びに夢中だったのだが、その子の姿を見て、完全に硬直していたのだ。
(天使……?)
絵本で見る、空から落ちてきた天使の子。肌は白くて、髪はふわふわで、目はまん丸で大きくて。
本当に、天使がそこにいるのだと思った。それくらい美しいその子に、目を奪われた。光の矢で射抜かれたような衝撃だった。
「しおーくん、ティッシュ! 持ってきてよー!」
「あ、う、うんっ……」
近くのロッカー上に置かれているティッシュの箱を持って駆け寄る。
間近で見るとその子はますます綺麗で可愛かった。
こんなに愛らしい生き物がこの世にいるのか。神が作った奇跡だ。
と、当時の俺にはもちろんそんな語彙はなかったのだけれど、言葉にできない感動を覚えた。
そしてその日のうちにその子が天使ではなく『みなとくん』という人間で、ひとつ年下の年少組で、その可愛さから園児の間でもちょっとした有名人になりつつある存在なのだということを知った。
彼はいつも延長保育で長く園にいるので、年中・年長にも彼を気に入り、甲斐甲斐しく世話を焼く『お兄さんお姉さん』ができ始めているらしい。
俺は延長保育の時間までは残らないので、彼の存在を知らずにいた。でもこの日を境に、俺もその『お兄さんお姉さん』軍団に加わった。
この愛らしい存在と少しでも一緒にいたかった。
今思えばこれが一目惚れというやつで、初恋だったのだ。
「みっ、みなとくんっ。パズルで遊ばない?」
「パズル? これ?」
「うんっ!」
「……おもしろそう。やる」
「……!!」
ふわっと笑った顔に、息が止まった。
彼はやや内向的な性格なのか、自分から誰彼と話しかけたりしないし、園庭を走り回って遊ぶタイプでもない。遊戯室でのおもちゃ遊びがお気に入りのようだが、部屋にはいつもちょっとだけ不安そうな顔をして入ってくる。
その心細そうで頼りなげなところがまた周囲の庇護欲を掻き立てて、すぐに周りは彼のファンでいっぱいになるのだけれど。
その日、一番最初に誘うことに成功した俺は、天にも昇る気持ちでテンション高くパズル遊びに興じた。一緒に遊べない日も、いつも彼のことを考えてそわそわしていたし、姿を見られた日はそれだけでウキウキだった。毎日楽しかった。
だが悲しいかな、俺たちは学年が違う。俺は1年先に卒園し、進学した小学校に彼が入学してくることはなかった。小学校は分かれてしまったのだ。
また会えるのではと期待していた2年の夏頃までは落ち込んだものの、小学生だって忙しい。勉強、部活、新しい友人関係。時の流れと共に落胆は薄らいだ。
けれど、そのまま遠い日々として忘れることにはならなかった。
もし本当に神様がいるのだとしたら、神は俺にささやいたのだ。
小学5年生になったある日、俺は塾終わりに、建物前の路上で迎えの車が来るのを待っていた。時刻は8時過ぎ。建物や街灯の明かりで暗くはないが、すっかり夜だ。
なんとはなしに目の前の広い歩道を眺めていた俺は、思わず声を上げそうになった。
(みなとくん……!?)
向かって右のほうから、とぼとぼと歩いてくるデイバッグを背負った子供。うつむきがちに地面を見て、ぎゅっと唇を引き結んでいる。
思い詰めたような横顔。俺との距離も2メートルほどあいてたけれど──
(間違いない、みなとくんだ!)
幼い頃夢中だった彼の顔を間違えるわけがなかった。成長していても変わらない。あの美しさや愛らしさはそのままに、彼は少年の姿でそこにいた。
(みなとくんだみなとくんだみなとくんだ。どっ、どうしよう。話しかける? でも俺のことなんか覚えてないかも)
心臓のバッコンバッコンと鳴る音を耳の奥で聞きながら、両手を握り締めて俺は考えた。
今すぐ駆け寄りたいくらい興奮しているけど、同時に緊張で足は金属の棒になったように動かない。
(やっと会えた、やっと会えた! どうしようどうしようどうしよう……!)
それにしても相変わらず可愛いな。身長、多分俺より10センチくらい低い。昔より身長差が大きくなってて、余計に可愛く思える。相変わらず色が白い。華奢ですっごく軽そうだ。
元気がないみたいだけどどうしたんだろう。どこに行くんだろう。どこに住んでるんだろう。もう夜だけど一人なのかな。家の人は?
数秒間で怒涛のようにいろんなことを考えた。その間に、歩いていた彼は俺の前を通り過ぎていく。
(っ、は、話しかけないと!)
後ろ姿しか見えなくなって、ようやく俺はそう焦り始めた。
このままではこれきりになってしまう。向こうが覚えていなかろうが、呼び止めるしかない。
「みっ、みな──……!」
けれど、勇気を振り絞ったその呼びかけを続けることはできなかった。
彼は何かに怯えるようにギクリと足を止めると、回れ右をして来た道を逃げるように駆け去っていったのだ。
「あっ……」
一瞬追いかけようかと思ったけれど、間もなく迎えが来る。危ないから一人でうろうろするなとも言われている。決めあぐねているうちに、みなとくんは人ゴミにまぎれて見えなくなった。
「みなとくん……」
彼が進もうとしていた方向からは自転車を押したお巡りさんが歩いてきて、チラッと俺を確認するような目線を向けた。
何も悪いことをしていなくても、お巡りさんに見られるとつい緊張する。俺はいい子で待ってますとアピールするように背筋を伸ばして、けれど内心はみなとくんのことでいっぱいだった。
(やっと会えたのに……話せなかった)
彼が思い詰めた顔をしていたのも気にかかった。今にも壊れそうな、ガラス細工のような雰囲気をまとっていた。
(悲しそうな顔してた。一人だったし、迷子になってたとか? でもそしたら、近くにお巡りさんがいたんだから助けてって言うよな)
この辺りで暮らしているんだろうか。どこの学校に通っているんだろう。
話せていたら、聞きたいことは山のようにあったのに。
(でも……今日会えたんだから、また会えるかもしれない)
落胆と期待がない交ぜになった高揚で、その夜は遅くまで寝付けなかった。
(──あれが、一度目の再会)
ごく短い遭遇だったけれど、俺は導きめいたものを感じた。
きっと、神が俺にささやいたのだ。
『おまえはこの子を忘れちゃいけないんだよ』と。
あの夜に彼を見ることがなければ、幼稚園児の頃の思い出は記憶の奥底に埋もれてしまったかもしれない。
それは駄目だよと、誰かが言っているような気がした。おかげでおぼろげになりつつあった幼い頃の日々も彼への気持ちも、鮮やかによみがえった。
その後、1年もしないうちに母親の病気が見つかって転居することになり、再会の可能性はこれまで以上になくなってしまったけれど。
俺の中に住む彼の存在は、もう薄れることはなかった。
そして、高校2年の春。
俺は、今度こそ運命なのだと確信した。
入学式の日。
誠北館では、生徒会役員が新入生や父母を昇降口で出迎え、新入生の胸ポケットに花飾りをつける。
その、数えきれないほどの制服姿の中に見つけた。
あの日からまた成長した、あの子の姿を。
「みっ──!」
「黒瀬? どうした?」
「っ……な、なんでもないです」
小5の再会時の後悔があったからか、今度は反射的に動きそうになった足をなんとか押しとどめた。
隣に立つ当時の生徒会長から不思議そうに問われ、取り繕う。
(くそっ……今すぐ駆け寄りたい話しかけたい。みなとくん……!)
こんなこと、本当にあるんだな。
ここはもう世田谷区じゃない。同じ東京とはいえ、俺はずいぶん離れたところに引っ越してしまった。
みなとくんが世田谷区で生活し続けているとしたら、市部の中学や高校に通うことは、ないとも言い切れないが望みは薄い。
そもそもこの大都会で、もう一度会える確率なんてどれくらいあるのか。広い砂浜からたった一粒の砂金を見つけるような奇跡だ。そう思っていたのに。
(また会えた。会えた)
残念なことに彼は2列隣に並び、俺ではなく別の生徒会役員が花飾りをつけた。
でも、彼は俺と同じ制服を着てこの場にいる。誠北館に入学してきたのだ。
(もう会えないんじゃないかと落ち込んだことも、諦めそうになったこともあった。想い続けても仕方ないのに忘れられなくて、どうしたらいいのかわからなくて、いっそ忘れたいと思ったことも)
だけど、もう疑わない。
二度目の再会。これはもう、運命だ。


