「こ、これは……」
(悪魔だ。悪魔的だ)
最初の肉を租借しながら、俺はそうかこの表現ってこういう時に使うんだと悟っていた。
(このタレは……やばい!)
もちろん肉が美味しいのが大前提だけれど、黒瀬兄の言葉が的確過ぎる。
うまい肉がうまいタレで100倍うまくなってる。ほんとそれ。
「お気に召したようで何よりだ」
反応でちゃんと理解して、目の前の会長は満足げに目を細めた。
土曜の夕刻。
部屋は二人がかりで片付けと掃除をして、どこもかしこもピカピカ。行方不明だった爪切りも洗濯物の山の下から無事見つかった。
整った部屋でおいしい焼肉。
しっかりご飯のおかわりもして、食後にはこれも会長自作だというレモンシャーベットが出てきた。店かよまったく。ありがとうございます口がさっぱりして最高です。
食後には洗い物。さすがにこれは俺がやると主張したけれど、会長も手伝うと言って譲らず、二人で肩を並べることになった。無駄に広いキッチンなので問題はない。
「あ、泉。プレートにはお湯を張っておこう。洗いやすくなるから」
「なるほど。えっと、これどこから外すんだ……?」
「ちょっと貸して。ほら、ここから」
「おー」
外したホットプレートの鉄板をシンクの端に置き、お湯を張る。
そんな俺を、会長がまた慈愛に満ちたお母さんみたいな顔で見ているのでむずがゆくなって、俺は唇を尖らせた。
「どんくさいとか思わないでよ。ホットプレートなんて初めて使ったから、ちょっとわかんなかっただけだから」
(そもそも、まさかこれを使う機会があると思ってなかったし)
この部屋の家具も備品も、親に指示された部下が適当にそろえたものだ。俺は私物だけ持って引っ越してきた。食器棚の上に箱入りの新品ホットプレートがあることには気づいていたけれど、手に取ったのも今日が初めてだった。
「そんなこと思ってないよ。初めての経験に新鮮そうな顔してるのが可愛いと思っただけ」
「……だからそういうのもやめろ」
にこにこしている会長からとっさに視線を外す。
(ほんとこういうの……ムズムズする)
「会長……楽しいの?」
会長が食器を洗って俺が水でそそぐ。その作業を繰り返しながら、ためらいがちに尋ねた。
「ん? 洗い物か? 嫌いじゃないよ」
「洗い物じゃなくて。今の、こういうの全部」
「……こういうの?」
「だから……今日なんて休みつぶして部屋の掃除して、高いお肉まで提供して。いつもだって、毎朝毎朝俺のために手の込んだ弁当作って」
それを聞くと、会長は手を止めた。柔和な笑みを浮かべて俺と目線を合わせる。
「代わりに俺は、おまえと過ごす時間をもらってる。俺が何より望んでたものだ」
迷いの色はかけらも感じられない声だった。きっと本心から言ってるんだろう。
だけど、なんだか腑に落ちない。うまく言えないけれど。
「俺の作った料理をおいしいと食べてくれ、俺のしたことで喜んでくれる泉が見られる。楽しいに決まってる」
「……そうなのかもしんないけど」
そそぎ終わった皿を、俺は少しだけ乱暴にラックへ置いた。スチール製のラックがカシャンと音を立てる。
「……泉?」
覗き込んでくる会長の眼差しはどこまでも優しい。
俺を好きで、大事に思ってるんだってことはいつだってビシバシ伝わってくる。
だけど、なんか……この人は本当にこれでいいんだろうかって、思ってしまうんだ。
「前から言ってるけど。俺、してもらってばっかりじゃん」
次に出た声は、まるで拗ねた子供みたいだった。
(こんなにいろいろしてもらってんのに、意味不明な拗ね方してんな、俺)
そうは思うけど、このすっきりしない感覚は確かだ。よくしてもらえばしてもらうほど、大きくなっていく。
「……別に俺、会長に世話焼いてほしいわけでも、守ってほしいわけでもないんだけど」
会長は俺に同情してるわけじゃないって言ってた。
こっちだって同情なんかまっぴらだ。だから俺は……その言葉が本当だったらいいなと思ってる。
(でも、本当なら。同情じゃなくて、本当に俺のことが好きだっていうんなら──)
「会長は、なんかないんですか。与えるだけじゃなくて、どうしてほしいとか。あ……好きになってほしい、っての以外で」
「え……?」
会長が目を瞬く。わずかに困惑が浮かんでいた。
(あー、何言ってんだろ、マジで)
すごく虫のいいことを聞いてる気がする。好きになってほしいっていうのが会長の願いだっていうのはわかってて、それは応えられないのに他の望みを聞くとか。だけど……
「対等じゃないでしょ、今の感じ。そういうの……なんか、違うんじゃないかなって」
「対等……」
繰り返したきり、会長は黙り込んでしまった。中空に焦点を定めて、じっと考え込んでいる。
その時、BGM代わりに着けていたテレビから、高い女の人の声が聞こえてきた。
いや、今までもずっと音はしていたんだけれど。その声だけが意味のあるものとして耳に入ったのは──それが、よく知るワードだったからだ。
『さて、続いてはこちらのニュース。衆議院議員、藤長谷昭文氏に不正な献金を受け取っていたとの嫌疑が浮上しています。藤長谷議員は昨年、2025年の4月──』
「……!」
俺は濡れた手を拭くこともせず、キッチンを出た。リビングスペースまで行き、テレビ画面を食い入るように見つめる。
『この疑惑について、藤長谷議員は事実無根であるとのコメントを発表しています。しかしながら団体側への調査では──』
重苦しい口調のキャスターの声。映像は群がる報道陣に目も合わせず、秘書に庇われながら足早にデカい豪邸へ入っていくスーツ姿の男性が映し出されている。
(不正献金って……)
俺はローテーブルのリモコンを取り、テレビを消した。気づきたくなかったけど、その手が小刻みに震えているのがわかる。
「どうしたんだ、泉?」
会長が同じようにキッチンを出てこっちに歩いてきた。リモコンを握ったまま立ち尽くしている俺の、ただならぬ空気に気づいたんだろう。彼の声も緊張を帯びている。
「……今のが父親なんです、俺の」
数秒迷ったけど、正直に告げた。今、この聡い人を納得させるだけの嘘はつけそうにない。
「今のって……国会議員の藤長谷昭文氏か?」
「はい」
「……そうだったのか。じゃあ、お母様は──」
「そ。元アナウンサーの泉真紀穂」
(……バラすにしても、最悪のシチュだな)
ハ、と笑いがこぼれた。どうしようもなさすぎて笑うしかない。
国会議員の夫と、元アナウンサーの妻。妻は夫の政治活動には関わらず、自身で起業している。
昔は議員の妻といえば夫について回り、献身的に支えるのが当たり前だったらしい。でも今はそうじゃない生き方を選ぶ人も多くて、仕事が別でも不仲を疑われることはない。
でも二人とも、大事なのはクリーンさだ。これまでは見事に演じてた。それがまさか、不正献金なんて。
「泉というのは、お母様の苗字だったんだな」
「はい。誠北館に入る時に変えました。藤長谷よりは目立たないかなって」
さっきのニュースで映っていた光景が脳裏によみがえる。
男が逃げるように入っていった豪邸──中3まで俺も住んでいた、世田谷区の自宅だ。
「俺が物心ついた時にはもう完全に冷え切ってて、ほんと最低な夫婦ですよ。俺がある程度成長してからは家政婦さんが住み込みじゃなくなったから、俺、夜にあのデカい家で一人になることもあって……結構メンタルやられた時期もあったんです」
(何人も住めそうな大きい家。父さんの部屋も母さんの部屋もある。でも、誰もいない。俺しかいない。家の中は怖いくらい静かで、空気が冷えてて、外の風の音が妙にうるさく聞こえて……)
「家の中にいるのが怖くなって、衝動的にプチ家出みたいなのしちゃったこともありました。外をさ迷い歩きながら、少しだけ親のどっちかがさすがに探してくれるんじゃって思ったけど、そもそも帰ってこないのに気づくわけなくて」
「……どうなったんだ? 大丈夫だったのか?」
「近くをお巡りさんが見回ってるのに気づいて、大急ぎで走って帰りましたよ。なんとか補導されずに無事帰宅。それで終わり」
「……そうか」
「父とも母とも、もう数年会ってません。たまに父の秘書から様子をうかがう連絡が来るだけ。毎月のお金も秘書が振り込んでる」
「……ひどい親だな、本当に」
「ですよねー。親としては最悪。まぁ養育の義務は最低限の形だけど果たしてくれてるし、暴力ふるうヤツとかよりはマシかもだけど。でも、仕事は……一応どっちも、仕事だけはちゃんとやってるって思ってたのになぁ……」
体の内側を冷たい風が吹き抜けたような気がした。
その風がわずかに残っていた何かまでさらっていって、残った俺は空っぽ。そこへ、途方もない虚しさがじわじわと侵食してくる。
あんな父親に、何を期待してるつもりもなかった。だけど……
(やば。なんか案外……ショックかも)
自分で自分の感情に戸惑いつつも、そう自覚はできた。
「……ほんと、ろくでもない親」
内側を埋め尽くしそうな灰色の感情を吐き出すように、つぶやきがこぼれる。
「……まだ疑惑の段階だろう」
いたわるように会長が言うけれど、声には力がない。意味がないことを彼自身わかっている声だ。
「ここまでしっかり報道が出て事実無根のケースとかほぼないでしょ。言い逃れでうやむやにして逃げ切るパターンはあるだろうけど」
「それでも、はっきりするまではあまり思い詰めるな」
「……わかってる」
俺が今、どんなに思い悩んだところで事態は何も変わらない。俺にはわからない政治の世界で起こっていることだ。事実が明るみになるのを待ち、流れに身を任せるしかない。
「ま、マスコミはこういうの大好きだからこれからもっと騒ぎ立てるだろうし。そのうちはっきりするでしょ」
冷たい笑みとともに、精いっぱい強気を装って告げた。でもあまりうまくはいかなくて、声が微妙に上ずってしまう。
「泉……」
音もなく会長の気配が近づく。顔を上げる間もなく、1秒後には会長の腕に包まれていた。
「大丈夫だ」
「え、ちょ……」
抱き締められ、会長の胸に頬を押し当てるような体勢になっている。身じろいでも、彼はまったく腕をゆるめようとしない。
「俺がいる。不安な時は、いつでも傍にいるから」
「っ……」
不意を突いたように目頭が熱くなって、俺は慌てて眉間に力を入れた。
「やめてよ。別に、そんな……」
(そうだよ、不安だよ。だってきっと……何かが変わる)
これだけの報道。変わらないですむはずがない。そう予感している。
(だけど……なんで、こんな……)
全身を包んでくる会長の体温に、報道を見た時よりも心が波立っていた。自分からもすがりついてしまいそうになる衝動を必死で堪えないといけないくらい。
「何があってもおまえには俺がいる。俺を呼べばいい」
「……だから、やめてって……」
吐息のように震える声をもらしつつも、動けない。
それ以上は言葉も出ず、ただじっと、会長の存在と温もりを感じ続けていた──。


