役立たずの身代わり令嬢と、孤独な白虎の侯爵

『よく頑張りましたねぇ。今、あなたはとても品のいい男性に見えます。絶望を経て生きる決意をし、それから沢山の努力を重ねてこられたんでしょう。あなたは今の自分を誇ってもいいですよ。こう言っちゃあ陳腐な言葉かもしれませんが、亡くなられた奥さんや義理のご両親も誇っていますとも』

『……やめてくださいよ……』

 不覚にも涙ぐんでしまった(かずら)は、乱暴に手で目元を拭う。

 その時、女給が天ざる蕎麦を運んできて、妙に美味いと感じるそれを無言で啜った。

 食べている間、丸尾(まるお)は何かと明るく話しかけてきたが、不思議と十年来の友人のように彼の言葉を聞き、自然と笑っている自分がいた。

 丸尾に蕎麦をご馳走になったあと、二人は本を片手にブラブラと歩いた。

 東に向かうと外国人居留地として整備された築地があり、西洋風の建物を眺めながら丸尾と会話を交わす。

 男同士、たわいのない話ばかりだったが、とても楽しかったのを覚えている。

 やがて二人は築地本願寺にお参りをし、墨田川まで出た。

『あーあ! こんな世界、滅んじまえばいいのに!』

 丸尾が大きな声で叫び、葛はギョッとする。

『あたしはね、妹の結婚を楽しみにしていたんですよ。目に入れても痛くないぐらい可愛がっていた妹がいなくなり、両親もこの世から消えた。世の中にあるものすべてを憎み、全部破壊してやりたいっていう願望が、まだこの胸の奥にあるんですよ』

 あけすけに胸の奥にあるものを口にしたからか、葛もつい同意していた。

『……私も、同じ事を考えています。……そんなの良くないと分かっているのに、人々のために異能を使い、生きていかなければならないと分かっているのに、……でも……』

 丸尾は、暗い表情で言った葛の顔を覗き込み、笑みを浮かべた。

 彼とは蕎麦屋で向かい合わせに会話をし、食事をしている時も、その顔を何度も見ていたはずだった。

 なのに〝今〟は丸尾がどんな顔をしていたのか、まったく覚えていない。

『あたし、ちょっと珍しい異能を持ってるんですよ。苛ついた時に自分にもかける、まじないみたいなもんなんですが、葛さんにもかけて差し上げましょうか?』

『どんな異能なんですか?』

『なぁに、本当に大したこっちゃないんです。心の傷になっている出来事にちょいと蓋をしてやるんですよ。心の傷であっても大事な自分の一部ですからね。完全に忘れたりはしません。一時的に傷を厚いかさぶたで覆い、心を守るんです。……今のあなたには、ちょっと必要かな? と思いまして』

『……そうですね……』

 三千風(みちかぜ)家の執事としての自覚がある葛なら、こんな怪しい異能をかけてもらおうなど思わなかっただろう。

 しかしこの時の彼は、すっかり丸尾に心を許し、彼を親友のように思っていた。

『いいですか? 私が指先に赤い光を灯しますから、それをジッと見ていてください』

 言ったあと、丸尾の指先に蝋燭の火のような光が宿り、ユラユラと揺らめいて葛の視線と意識を奪う。

『数を数えていきますよ。三、二、一でどんどん楽になっていきますからね。つらい思い出が遠い日の出来事に思え、あなたは今を楽しく生きるんです』

 葛の目がうつろになった時、丸尾は着物の袂から呪符を出し、トンッと彼の背中に貼りつけた。

 その途端、ブワッと黒い炎のようなオーラが立ち上り、葛を包み込んだ。