役立たずの身代わり令嬢と、孤独な白虎の侯爵

『いやぁ、いい陽気ですね。少し前まではうだるような暑さでしたが、少しずつ涼しくなってきたように思います』

 男の顔は帽子のつばに隠れてよく見えなかったが、二十代後半か三十代前半といったところだろうか。

『はぁ……、そうですね』

 いきなり話しかけられて面食らったものの、本屋の縁台で同好の士と一期一会の出会いをかわすのは、そう珍しい事ではない。

 お互いのおすすめ作家を教え合ったあと、名乗らずに解散する事はよくある。

 だから、風流人っぽいその男も、似たような手合いだと思っていた。

 (かずら)が警戒心なく男を受け入れたのは、直前にあの母子を見ていまだ心奪われていたのもあるし、銀座は綺麗に整えられた街で、犯罪率が低いからだ。

 これが治安の良くない場所で、身なりが綺麗と言いがたい男に声を掛けられたなら、彼だって相応に警戒していた。

『お兄さん、色男ですねぇ。……おっと、お兄さんというよりお父さんか。あなたのような父親がいれば、妻も子供たちもさぞ自慢に思うでしょうね』

 男の何気ない言葉が、ザクリと葛の心を傷つける。

『……いえ、結婚はしていないので』

 感情を押し殺した声で返事をすると、男は驚いたように声を上げた。

『えぇっ!? あなたみたいな素敵な男性が、男やもめですか……。亡くなられた奥さんが忘れられないっていうところでしょうか』

 この男は単なる通りすがりで、自分の事情はまったく知らず、悪意がないのは分かっている。

 だからこそ、少し軽薄にも思える口調や大仰な態度が勘に障った。

『あなたには関係ないでしょう』

 少し苛立った声で言ったからか、男は大げさに謝ってきた。

『すみませんね。よかれと思って言った事が、心の傷に触れるなんて。……お気に入りの本を手に入れられて浮かれていたもんですから、つい、口からツルッとね』

 言ったあと、男は思いだしたように『あー!』と声を上げた。

『ツルッといったら、蕎麦が食べたくなりました。一緒に行きません? お詫びにご馳走しますよ』

『いえ、結構ですよ』

『そんな、遠慮せず。さあさあ!』

 男は勢いよく立ちあがると葛の腕を引き、彼の言葉を聞かずにズンズンと進んでいった。

(やれやれ……。せっかくの休日だというのに、変な男に絡まれてしまった)

 そう思うものの、既婚者だと思い込まれていた時は些かムッとしたが、男の奔放な面にある種の魅力を感じていた。