役立たずの身代わり令嬢と、孤独な白虎の侯爵

 ぬるい闇の中を、紫乃(しの)はどこまでも沈んでいった。

 落ちていく途中で聞こえたのは、(かずら)の思い出の断片だろうか。

『よくやったわ。佐一(さいち)は母さんの自慢の子よ』

 誇らしげな母の声と、葛自身の喜びと誇りに満ちた感情に満たされたあと、男性の怒声が浴びせられる。

『俺の酒をよくも隠しやがったな!』

 ガツンと衝撃が加わったのは、殴られたからだろう。

『父さん……っ、やめて……っ!』

 殴る蹴るの暴行を受け、必死に両腕で自分を守っている葛は、まだ少年だ。

『あなた……っ、やめて! 殴るなら私を……っ、うぐっ!』

 母が葛を庇い、文字通り殴られて染みのついた襖にぶつかる。

 そのあとは耳を塞ぎたくなるような暴行の時間が過ぎ、茶碗や皿が割れる音がした。

『やーい、やーい、クズサイチ! クズサイチ!』

〝かずら〟を〝くず〟と呼んではやし立てるのは、坊主頭の学友だ。

 怒りの感情がふつふつとこみ上げても、葛は我慢していた。

 ――こんな所、いつか抜け出してやる。

 ――俺には強い火の異能がある。

 ――こいつらとは違って、俺は特別な学校に通って軍人になるんだ。

 心の底にあるのは『絶対に見返してやる』という、強い想い。

 ――それで、母さんに楽をさせてやるんだ!

 優しい母だけが、葛少年の心の支えだった。

 なのに――。

『やーい、やーい、お前の母ちゃん、商売女!』

 自分の学費のために、母は早朝と夕方に新聞配達をし、昼間は工場で働き、夜は酒場で女給をしていた。

 父親がクズなのは認める。

 だが、立派な母を悪く言われるのだけは許せない!

『あああぁあああぁああぁっ!!』

 葛少年は雄叫びを上げて数人の少年たちに殴りかかり、取っ組み合いの喧嘩をした。

 多数対一で勝敗は見えているのに、どうしても彼には譲れない誇りがあったのだ。

『本当に申し訳ございません。二度とないよう言い聞かせますから』

 自分や母を馬鹿にした少年の母親が、頭に包帯を巻いた少年を伴って家を訪れ、自分と母に謝罪を要求した。

『俺は謝らない! そいつが悪いんだ!』

 鼻の穴に詰め物をし、目の上を腫らせた葛少年は言い返すが、母に『いいから!』と強引に頭を下げさせられた。

 その時の、馬鹿にしてきた少年の愉悦に満ちた、醜悪な顔が忘れられない。