役立たずの身代わり令嬢と、孤独な白虎の侯爵

『結婚? ……お断りします』

 一つ上の姉、菖蒲(あやめ)の声が聞こえたのは、父―高次(こうじ)の部屋の前を通りかかった時だった。

 音を立てて歩けば折檻されてしまうので、紫乃は気配を殺すように、足音を立てずに歩くようにしていた。

 だからなのか、部屋の中にいる父と姉は、障子の外に紫乃がいると気づいていないようだった。

『しかし先方からのご指名だ。菖蒲、この通りだ。縁談さえ受ければ、多額の援助をもらえる』

 父が機嫌を取るように姉に頼み込み、続いて母――寧々(ねね)の声もする。

三千風(みちかぜ)家は東の四大侯爵家の一つです。嫁げばお姫様のような待遇をしてもらえるわ。上水流(かみずる)家のご子息、貴人(たかと)さんとの縁談が流れたのは残念だけど、三千風家に嫁げば、比べようのない贅沢ができるわ。……ね? 汀家のためだと思って』

 十八歳の菖蒲はくっきりとした顔立ちの美しい人で、幼い頃から蝶よ花よと育てられてきた。

 ハッと目を引く美貌を誇る彼女は、習い事をさせれば良い結果を出し、女学校では優秀な成績を収める人気者だ。

 汀家は代々神職についている伯爵家だが、強い力を持つ名家の子供は裏伊勢と呼ばれる特別な社で働く事ができる。

 表の伊勢が神宮として観光地の役割を果たし、人々の信仰を集めるいっぽうで、裏伊勢は結界を張り、鬼と呼ばれる穢れから土地を守る役割を持っていた。

 伊勢神宮の宮司を務めているのは上水流家で、菖蒲はその息子である貴人に惚れ込んでいた。

 この世に生まれた者は、多かれ少なかれ何らかの異能を持つ。

 特に男性は穢れを祓う力、女性は守る力を持つとされ、父は伯爵として与えられた土地を守っていた。

 菖蒲は雨を呼ぶ力を持っており、浄化能力のあるそれに当たると、穢れの瘴気に侵された者も我に返る。

 その力をもってすれば、裏伊勢の巫女になる事もたやすいと言われ、菖蒲は余計に両親から可愛がられていた。

 また菖蒲は度胸もあり、大人たちも彼女の堂々とした振る舞いに感心している。

 上水流家は、西――京都の四大侯爵家のうちの一つ、青龍を使役する水流迫(つるざこ)家と密接な関わりがある。

 水流迫家の当主は女性で、女侯爵である彼女は上水流家の出身なのだ。

 だからこそ菖蒲は、美しく優秀な自分は貴人に相応しいと信じて疑わず、彼と結婚する未来を待ち望んでいた。

 しかしいざ結納を……というところで、貴人は心変わりしたらしく、汀家よりも格上の令嬢と結婚してしまった。

 その事件が起こって以降、菖蒲は常に苛つき、紫にも使用人にもきつく当たるようになった。

 いっぽうで紫乃は、幼い頃から姉の引き立て役のように生きてきた。

 顔立ちこそ、美しい母の血を継いだと思えるかもしれないが、姉のような華やかな美貌ではない。

 周囲の者が姉を褒めるたび、紫乃は自分が劣っていると思い込み、控えめに、でしゃばらないように努めていた。

 加えて紫乃の異能は動物に触れると気持ちが分かる力で、鬼を鎮圧する役に立たない。

 さらに、紫乃の自尊心を著しく損なう出来事があった。