幻みたいな恋だった

 

 どうしようもないことばかりが、頭の中を巡るときは、夜空をぼんやりと眺めていればいいよ。
 なんてロマンティックなことを言ってくれる人なんて、私にはいない。
 というか、そんなことを言われる日本人女性なんて、何万人いるんだろう――。 

 甘い言葉をあまり言わない彼だったから、彼から甘い言葉を聞きたくて、私は彼によく質問をした。
 髪型似合ってる? とか、この服似合ってる? とか、そう言うことばかり聞いた。
 私、具合悪いと思う? とか、大丈夫? って聞いてみて。とかそんなことも彼に聞いた。
 もし、結婚したら、どんな家に住みたいの? とか、子供にどんな習い事させてみたい? とか、そんなくだらないことばかり聞いたこともあった。

 その質問をして、初めて、彼は照れながら、渋々、甘い言葉を言ってくれるような人だった。
 だから、私は甘い言葉に溺れるような恋に憧れを持っているし、真剣に心配されるような恋に憧れを持っている。
 
 だけど、この恋は、甘い言葉で溺れ続ける魔法にはかからなかった。
 彼との恋は、今となっては、幻みたいな恋だったし、ほろ苦い恋だった。

 




 頭の中を空にしたいときは、カーテンを開けて、部屋の電気を消して、窓越しに夜の街を眺めることにしている。

 私が住んでいるマンションは山の中腹のほうにあり、リビングの窓をからは、青白い街並みが見える。
 12月の6時。真夜中に積もった雪で、街は白く染まっていた。すでに雪は止んでいて、窓越しの外の世界は、夜明け前の青が、街の白と混ざり合っている色をしていた。まだ、街は眠っているように見えた。

 内見のときにこの景色が見える割に、不便だからという理由で、他の物件よりも比較的、安くこの部屋を借りることができた。

 確かに、街まで遠いし、近くのバス停に止まるバスは一時間に一本しかない。
 多少、不便でも、この景色を毎日見たくなった。海の外側に迫り出すように、海岸線が緩くカーブしている半島や、その目下に広がる街の灯りが綺麗で、昼も夜もぼんやりしたいときに景色を眺められるのは最高だなって思った。
 だから、一目惚れみたいな状態でこの部屋を借りたけど、それは正解だった。

 思い切って、東京を出て、北の田舎に来てよかったと、この景色を眺めるたびに、心の底から、そう思った。

 だから、小さなダイニングテーブルと二脚の椅子は窓越しに置いてある。
 山の上にあり、かつ住んでいるのが、7階だから、外からの目も気にならない。

 朝はぼんやり、景色を眺めて、トーストを食べ、コーヒーを飲んだあと、Mac Book Proを、ダイニングテーブルの上で広げて、仕事を始める。
 そんなわりと、世間的に見て、どう考えてもストレスなんて少ない環境に身を置いていても、そこはかとなく、寂しさを感じ、時折、すべてを投げ出したくなる。

 順風満帆な26歳。
 だけど、寂しさに意識を思わず持っていかれてしまうのは、すべて君の所為だよ――。







「5年付き合うなんて、バカでしょ」
 理沙(りさ)は5杯目のシャンディガフを口づけたあと、ゲラゲラ笑いながら、そう言いのけた。

「今の発言、親友だから特別に許してあげる」
 私はそう言って、3杯目のサンセットピーチを口づけて、もう、酔いが回り始めていた。すでに頭が少しだけ痛くなり始めていて、遅いと思っていた自分のピッチの早さに少しだけ後悔し始めていた。

「大体、5年付き合って、何も進展がないって、なんなんだろうね」
「相手にその気がなかったってことでしょ。うちだったら、そんなやつ、簡単に見抜いて、半年のうちに別れてるわ」
「恋多き女だね」
「やだなー、それ。結衣(ゆい)だから許す」
 理沙はもう一口、シャンディガフを飲んだあと、鉄鍋の中に4分の1残っていた、パエリアを自分の小皿に盛った。 理沙とはもう小学生からの付き合いで、高校まで同じ学校に行き、そして、高校を卒業して、同じタイミングで上京し、同じ大学に進学し、同じサークルで、同じ人間関係を作り、そして、卒業した。

 私はWebデザインの会社に入り、デザイナーをし始めて、そのまま3年が過ぎていた。
 一方、理沙は外資のIT企業の本社で品質管理の部署で仕事をしている。
 だから、私が大学生の時から、付き合い始めた彼とも、友達だし、彼の周りの友達とも今でも繋がりがあるらしい。

 その彼と2週間前に別れた。
 心が埋まらない感覚がずっと残ったままだったから、思わず、理紗にそのことを通話で打ち明けたら、会ってくれることになった。理紗だって忙しいはずなのに、その優しさが相変わらず、最高だなって思った。

「別れると何もかもなくなっちゃうんだね」
「年数が重くなってるだけだよ。それ」
 理沙は軽い感じで、私の感傷を流すようにそう言った。

 それだけ、簡単に流してくれたほうが、今は気が楽だから、そんな理沙のサバサバした感じに私は助けられているように感じた。

「これでさ、やれなかったこと、きっとできるようになるよ」
 彼がいた所為でやれなかったことって、なんだろう――。

「――今はあんまり思いつかないな」
「そう? 例えば、夜の街に繰り出すとか」
「別に興味ないし」
「楽しいよ? 派手な人たちにチヤホヤされるの」
 そんな派手な世界なんて興味ないよ。
 理沙は東京でそういうことがしたくて、今、しっかりとそれを楽しんでるんでしょ? 私はそんなこと、別に求めてもいないし、もっと、静かなところでもいいや、なんて思ってるんだよ。なんてことは理沙になんて言うことはできずに、
「私、そんな勇気ないし」と返すと、
「知ってるよ、そんなタイプじゃないことなんて」
 理沙は笑いながら、私にそう返した。

「そういうこと、言いたかったわけじゃないんだよ、私は」
「じゃあ、どういうこと?」
 そう理沙に聞き返すと、理沙は急に真剣そうな表情を作ったから、私は思わず驚いてしまった。

「例えば、仕事とか、ライフスタイルを思いっきり、変えてみるとか」
「私が東京の暮らしに満足してないように見えるって思ってる?」
「いや、そういうことじゃないけど、単純にチャンスなんじゃないかなって思ったの。ほら、結婚を前提に考えてたんなら、なおさら」
「なおさらね」と返し、私は右手でグラスを取り、サンセットピーチを一口飲んだ。きっと、飲み始めて、最初の方に仕事もしんどくなってきたことも愚痴ったから、理沙は優しいから、それをわかった上で、そう言ってくれたんだ。それはわかっているけど、私は一体、何を考えたらいいんだろう。
 
 ふと、行きたい場所が思い浮かんだ。

「――函館とか、どうかな」
「函館?」
「そう、函館」
 そう理沙に返しながら、私はグラスをテーブルに置いた。







 彼と3年前に行った2泊3日の函館旅行をしたとき、本当にいろんなところがロマンティックに思えた。魔法にかけられたみたいに、函館のベイエリアの夜は、電球色でキラキラしているように見えたし、昼間にぼんやりと眺めた海も、昼の黄色い日差しで最高にキラキラしているように見えた。

『いつか二人で、函館に住みたいね』って彼に言ったら、
『函館は旅行に来るところだよ。またいつか行こうね』と約束してくれたことを思い出した。
 その時はちょうどゴールデンウィークを使って旅行に行き、五稜郭公園の散り始めた桜を見たり、レンガ倉庫が立ち並ぶベイエリアを彼と手を繋いで歩いた。

『女の子と、男の子どっちがいい?』
『気が早いよ』
 彼は私の問いかけに、笑いながら、そう返した。
『あなたと私。もし、その間で、手を繋ぐ3人目は、どんな人かなって話だよ』
『心理テストみたいだな』
『さあ、選んで』
 再び、彼は大きな声で笑った。ベイエリアにある、金森赤レンガ倉庫の前を手を繋ぎながら、ゆっくりと歩いている。それだけで、私はすごく幸せだった。

『無邪気な女の子がいいな』
『どうして?』
『3人で笑い合えそうだから。どんなに疲れてても、やんちゃな女の子だと、家が明るくなりそう』
『無邪気な男の子でも、明るくなるんじゃない?』
『男の子は、やんちゃすぎて、疲れそうだな。だから女の子』
『そうなんだ。意外とリアリズムなんだね』
『それに、結衣に似た顔の女の子、見てみたい』







 函館で彼と、そんなやりとりをしたことを、ふと思い出した。
 
 もちろん、そんなこと、理沙に言えるはずがない。
 もう、そんなことも、また恋をしなければ、しばらくないんだなって思うと、ふと、寂しくなった。

「前、旅行に行って、すごいよかったんだ。いいイメージしかない」
「北海道って寒そう」
 理紗はバッサリと私の意見を捨てるような否定的な返しをなぜかしてきて、少しだけイラッとした。

「雪が降るってロマンティックじゃん」
「雪は好きだけど、私、寒いの嫌いだからなぁ」
「理紗はそう思うだけでしょ。アルコール入れたら、冬も越せるよ」
「結衣はアルコールに弱いから、すぐに凍えるよ」
「少しだけ、本気だったんだけどなぁ」
 私はもう、この話は諦めようと決意して、もう一度、グラスを持ち、サンセットピーチを一口飲んだ。

「ごめんって、だけど、こういう、嫌なこと続くときってさ、思い切って環境変えたら、上手くいったって話、よく聞くじゃん」
「そんなに私、上手くいってないかな」
「そうでしょ。だって、彼に振られて、仕事もストレスフルなんでしょ」
「そうだよ。――次なんて、考えられないよ。きっと、あいつも私と別れて、そう思ってるかもしれないよ」
 そう私が言い終わると、なぜか、理紗は急に険しい表情になった。
 えっ、私、なんか変なこと言ったかなって、思ったけど、別に理紗だったら、何言っても受け止めてくれるくらい、私のことをわかっている私にとって、唯一の親友だから、そんな表情をした理紗に私は少し、違和感を覚えた。

「ねえ、結衣」
「なに?」
 やっぱり重い感じで、私のことを呼んだ。

「傷つくこと、言ってもいい?」
「なにそれ。怖いんだけど」
 私は少し、動揺し始めていた。今の私が傷つくことなんて、きっと、彼の話題しかない。

「ごめん、我慢できないから言うね。あいつ、もう、女いるらしいよ」
「えっ。どういうこと」
「――言いたくないけど、結衣と別れて、まだ2週間も経ってないでしょ。ということは」
「やめて。もうつらいから」
「――だよね。ごめん」
「いいよ。より魔法から覚めたわ。乾杯」
 意識的に私は微笑み、グラスを理紗の方に出すと、 理紗は自分のグラスを私のグラスに当ててくれた。

「クズのことは忘れよう」
 そう言って、理沙は5杯目のシャンディーガフを一気に飲み干した。本当は私がお酒を一気飲みしたい気分だけど、そんなことしたら、簡単に嘔吐モードに入ることはわかっていたから、サンセットピーチを一口、そっと口づけて、一口飲んだ。
 
 泣きたい気持ちなのか、虚しい気持ちなのか、なんなのか、もう何が何だか、わからないけど、本当に何もかも、もういいやって思った。
 そのぐちゃぐちゃを、無理やり消すために、なんとなく、酔ったふりして、大きく笑ってみた。






「とにかく、もう一回直してもらえる? 明日まで」
「え、明日……」
「悪いけど、いい感じでお願います」
 わかりましたと返して、ディレクターのデスクから離れ、私は自分の席まで歩き始めた。正直、ディレクターにリテイクくらって、納得いってない。構成資料通りに、いつもと同じように仕事をしたけど、クライアントが気に入らなかったらしい。というか、そもそも、私は指示された通り、構成資料に、ほぼ近い状態でデザインした。だけど、ダメだったらしい。
 それだったら、しかも、こういうパターンの場合、ディレクターがクライアントとコミュニケーション不足のまま、構成資料を作ってしまったのが、元の原因だと思う。
 ――てか、そもそも、いい感じってなんだよ。

 このディレクターは社内でも評判は悪い。クライアントの言いなりになりすぎて、できないこともできると言ってしまう癖があるとか、勝手に短納期の約束してきてしまうとか、とにかく、現場を無視して、無茶振りすることが多々あることで有名だ。
 このディレクターにあたってしまったのが、運の尽きだろうか――。

 すっと息を吐いたあと、数秒間、目をつぶった。そして、ゆっくり目を開けて、自分のデスクの椅子を引き、ゆっくりと座った。




⭐︎


 そんなことは慣れっこで、ぶっ通しで残業して、納期に間に合わせてってことはしょっちゅうある。
 別に残業代だって、しっかりもらえるし、今の生活には満足していたけど、彼と別れてしまって、全てが宙に浮いた感覚がした。
 
 今週もあっという間に終わり、誰もいない夜道を、ローソンで買った冷凍パスタと、炭酸水が入った袋をぶらぶらさせながら、ゆっくり歩いている最中に全てが馬鹿げていることに気がついてしまった。 
 ローソンの明かりから離れた、白色LEDが寂しく光っている路地で、私は急にどうすればいいのか、わからなくなってしまった。


 別れ話をされたのは、駅近くの古い純喫茶だった。薄暗いシックなデザインの中で、別れ話されるのは、嫌じゃなかった。
 メッセージで彼と、約束した時、振られる予感がしていたから、振られる覚悟ができていたからかもしれない。
 なんなら、最後、私に直接会って、別れ話をしてくれたのは、彼からの最大の敬意とさえ思えた。

 でも、なんで古びた純喫茶を選んだのかは、よくわからなかった。
 デートでも入ったこともないし、入る気にもならない古びた喫茶店だ。色褪せた赤いソファも、傷だらけの茶色いテーブルも、やけに電球が少なく、薄暗い店内も、何もかも、時が止まったような、寂れたお店だった。

 そんな寂れた空間で、私との寂れた恋を終わらせるという意味だったのかもしれないなって、深読みすらしたくなっちゃうくらい、もう、嫌になった。

 別れ話を切り出された直後、なんとも言えない気持ちになった。
 今まで、口には出さなかったけど、なんとなく目標にしていた彼との未来は、その瞬間、終わったからだ。その目標は口の中で溶け切ったレモンの飴みたいに酸っぱくて、甘さだけが残っているように思えた。


『私のどこが悪かったの?』って聞いたら、
『結衣が悪いわけじゃないよ、俺が悪いだけだから』と、そっけなく返されただけだった。
 その後、しばらくの間、お互いに黙ったままだった。そのまま、何分経ったのか、わからないほどの沈黙のあと、
『じゃあね』
 そう彼が言ったから、あ、これで本当に最後なんだなって思った。だから、私はわざと黙ることにした。

『最後くらい、返事してくれよ』
『お互いに飽き飽きしたんだよ。飽きない魔法があればよかったのにね』
 私は、彼にそう嫌味っぽく返した。すると、彼は眉間に皺を寄せ、大きくため息をついた。

『もう、魔法も何もないんだよ。何言われても、もう響かないし、興味ないから』
 そう言い残して、彼は、ボロボロのテーブルの上に置いてあった伝票を手に取り、席を立った。
 私は残されたまま、一人になった。

 だけど、私は彼になんて飽きなんていなかったし、このまま、ただ、なんとなく、一緒にいて、それっぽく月日が経って、お互いに尊重しあえればいいや、なんて、淡く考えていた。
 だけど、彼は違った。
 本当に私に飽きてしまったんだ。

 彼が言ったことは本当だった。
 私はただ、彼の二択の選択肢のうちの一つになっていて、私は彼に選ばれなかっただけだ。

 5年も付き合っていたのに、そんな期間のことなんて、嘲笑うかのように――。







 次の週に私は職場に辞めることを伝えた。そして、その週のうちに、函館の物件を調べて、今のマンションを見つけた。
 
 函館に引っ越して、数ヶ月は失業保険をもらって、ゆっくり過ごした。
 そして、失業保険をもらい切ったあとから、フリーのWEBデザイナーとして、働き始めた。
 思ったよりも仕事は上手くいったし、東京にいた頃よりも家賃は半分程度になったから、意外と自分が想像していたよりも生活が上手くいき始めた。

 それから1年半が経ち、私は26歳になった。
 
 仕事がひと段落したから、テーブルに置いたままのiPhoneを手に取り、なんとなくインスタを開き、ストーリーを右手の親指でなぞる。いくつかスライドしたら、嬉しそうにハイハイしている乳児の画像が表示された。アイコンに視線を移すと、見慣れた彼の後ろ姿のアイコンだった。

「女の子、大きくなったね」
 ぼそっとした声で、そう言ってみたけど、この部屋にはもちろん、誰も返事を返してくれる人なんていない。画像の子は、以前に見かけた時よりも、目元が彼に似てきているように見えた。
 インスタを閉じ、iPhoneをテーブルの上に再び置いた。そして、頬杖をつき、窓の外の世界を眺め始めた。
 窓から見える海岸線、函館の右側の光景は綺麗で、それを眺めながら、仕事をし、誰も知り合いがいないこの街で、のんびり暮らすのはすごく気持ちが良くて、快適だ。

 12月の白い街は今日もキラキラしていた。海は弱々しい冬の日差しを反射し、キラキラしていた。
 もう、一人でもいいよ。だって、私、この街のこの景色が大好きだから。
 
 でもね、たまに寂しくなるんだ。
 もし、彼と一緒にここに住んでいたら、どんな感じだったんだろうって。
 そして、どんな質問をして、彼から甘い言葉を引き出そうとしたかなって。