言の葉の涯

2026-05-10
『好きだった記憶』

「別れるなら好きだった記憶も無くしてよ」

ベランダでお酒を飲んでいた私の耳に
その言葉だけが入り込んできた真夜中。

土曜日ということもあって夜更かしをし
ベランダで星を眺めながらお酒を飲んで
ふぅ~とため息を吐くだけの時間だった。

冒頭の言葉が下の部屋から聞こえてきて
思わず、どんな状況か気になってしまい
身を乗り出すようにして見たくなるけど。

5階、それなりに高い部屋で
乗り出す勇気は出そうになく
ただベランダに居座り続けた。

「それができたら苦労しないっつーの」
「そういうとこが重いんだよ、お前は」

外にまで聞こえてくるほど男性は大声で
彼女のことを傷付ける言葉を放っている。

「触んな、もう別れるんだから早く帰れ」
「泣いても無駄だぞ、もう好きじゃない」

彼女は泣いていて、男性に触れようとしても
手で振り払われているのだろうと想像がつく。

「そんな奴さ、別れちゃいなよ」
下の階から女性の声が聞こえた。

「あんたを傷付けるそいつと付き合っても」
「一生、幸せになんてなれっこないと思う」

続けるように女性は淡々と話していて
「うるせぇ、誰だよ」と男性が叫んだ。

「でも、この人のことがまだ好きなんです」
「別れるなら好きだった記憶を無くしたい」

彼女は顔も知らない女性に向かって話をしていて
「そいつのどこがいいんだよ」と一蹴されていた。

「誰か知らねーけどさ、口を出してくんなよ」
「俺らの問題だから関係ないだろ、お前には」

ドアが閉まる音が聞こえた。

「待ってください、もう少し話をしたいです」
彼女は女性に話しかけているが、返答はなく。

「あいつも弱虫だな、口を出しておいて」
「少し言われたくらいで逃げ出すなんて」

男性は女性を煽るように話をしていて
「早く帰れよ、遅いし」と彼女に言う。

「本当に別れるの、呆気なく終わっちゃうの」
「私は好きだよ、あなたは好きじゃないの?」

相当、酷い恋愛を彼女は今、経験をしている。
「好きじゃねーよ」と男性は言い放ってから
「さっきの女くらいキモイわ」と叫んでいた。

手に持っていたお酒はもう
1滴すら残っていないのに。

口につけて、グイっと上げて
最後の最後まで飲もうとした。

「好きだった記憶なんて無くならねーよ」
「それを理解して別れるんだよ、人間は」
「甘えんじゃねーよ、早く帰れよお前も」

酔っ払ってしまった私はそんなことを
彼女に向けて言ってしまい、後悔する。

下からは何も聞こえてこなくなって
ただドアが閉まる音が聞こえてきた。

暫くして、マンションの入り口が開く音がして
恐る恐る覗いていると、女性2人が出て行った。

下からは「今日会える?彼女と別れたよ」と
男性が誰かに電話をかけている声が聞こえる。

流れ星が見えた。

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