言の葉の涯

2026-05-01
『もう、彼ではない』

「でも、楽しかったね」という言葉が
喫茶店の中を舞うように飛んでいった。

君の口から出たそれは
確かに偽りがなかった。

昨夜、別れた。

同棲していた部屋から飛び出して
ネットカフェで散々なほど泣いて。

「明日会って終わりにしよう」と送り
シャワーを浴びて、死ぬように眠った。

「わかった、ここの喫茶店に集合で」
「14時半くらいから座っておくね」

そんな通知が届いていて、目覚めた。

喫茶店の住所も一緒に送ってくれていて
最後まで相手を思いやれる人だったけど。

別れた。

私が脆くて、弱かったのが原因だと思う。
彼にはもっといい人がいるのではないか。

一緒に過ごす中でその疑問が肥大化していき
もう付き合うことが少しだけ疲れてしまった。

私の「別れよう」という言葉を否定せず
「何か理由があるんだね、分かった」と
深くまで聞いて来ようとしない人だった。

告げた側なのに、心が締め付けられて
苦しくて同棲していた部屋を飛び出し
溢れる涙を拭いながらもここに着いた。

「その時間帯に私も行くね」と返信をして
レジで会計を済ませてネットカフェを出る。

一度、部屋に戻った。

彼はもう出かけてしまっていて
静かな空気が部屋に流れている。

昨夜、私が飛び出したときのままだった。
けど、彼のグラスだけがひび割れていて。

直ることはないだろうにテープを貼り
そっと元のあった場所に戻して置いた。

シャワーを浴びて、新たな下着に着替えて
彼との思い出が詰まった洋服へと着替えた。

静かな部屋に時計の音がチクタクと鳴っていて
彼と一緒に映画を観た記憶を少しだけ思い出す。

映画に集中できなくて、彼が時計の電池を外し
「今は時間なんて関係ないね」と言ったことを
今になって思い出したのだけど、もう戻れない。

玄関に置かれている靴の中から
お気に入りの靴を選んで履いた。

鍵をかけて、喫茶店に向かう。

窓側の席に座っている彼が見えて
少し小走りになって喫茶店に入る。

スマホを弄っていた彼は入店時の鈴の音で
私が入ってきたことに気付き、手を振った。

「こっちこっち」と手招きをされ
もう見ることはない光景だと思う。

私が席に座り、店員さんに飲み物を注文してから
彼は「でも、楽しかったね」と微笑んでから言う。

「そうだね、楽しかった。ごめんね」と謝り
私は彼と目を合わせられなくて、下を向いた。

「謝ることはないね、いずれ別れは訪れる」
「それが昨日だったって話だよ、それだけ」

優しく私を包み込んでくれるこれ。
これがずっと私を、苦しめていた。

店員さんが飲み物を持って近付いてくる。
「アイスコーヒー2つです」と机に置く。

「ありがとうございます」と受け取るとき
彼と目が合ったのだけど、もう彼ではない。

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