言の葉の涯

2026-05-04
『首を振った』

「飼っていた猫ね、どこかで生きてるわ」

或る女性が僕に話してくれた。
その猫は数日前に亡くなった。

長い間、一緒に暮らしていたのだから
生きていると信じたい気持ちも分かる。

女性の部屋、猫の匂いが染みついていて
でも、猫はどこを探しても見つからない。

リビングにある椅子に腰を掛けて
珈琲を隔てて、女性が話している。

「名前はね、アユって言うの。可愛いでしょ」
我が子のように話す女性の目には愛があった。

「その子は今、どこに」
言いかけそうになった。

台所にいた女性の母親が僕のほうを見て
何も発さずに、ただ首を横に振っている。

訊くな、そう捉えた。

「アユっていい名前。会いたい」と呟き
座っている位置から窓の外を眺めてみる。

そして窓の手前にあった障子に視線が移り
破れていたり、木が欠けていたりしていて。

猫の生きている姿が見える。

爪で木を引っ搔いていたような跡もあれば
障子に止まった虫に飛び込んだ跡もあった。

「相当、元気な子だったんじゃない?」

女性と目を合わせてそう訊ねてみると
「そうなの、元気でお世話が大変」と
まだ、生きているように話をしてくる。

「新たに家族を迎え入れたいと思ったりしない?」
訊こうと思ったけど、また台所の母親と目が合う。

唾を飲み込んで、「会いたいな」と呟き
机に置いていた珈琲を一口啜って飲んだ。

コツン、と音を鳴らして珈琲を置き
一緒に置かれていたチョコを食べる。

甘くて、口の中で溶けていくそれを舐めながら
「猫って死に際、飼い主から離れるらしい」と
どこかで得た知識をただ、言ってみたくなった。

台所にいた母親と目が合う。

呆れた様子で、僕のことを軽蔑するように見ていて
目を逸らして夜ご飯をまた、そそくさと作り出した。

台所からは包丁で何かを切る音が聞こえる。
「それって本当なの?離れるって」と女性。

スマホで「猫 死に際 隠れる」と検索して
表示された結果を女性と一緒に眺めてみると。

どうやら、本当だったらしい。

「だから最近、アユがいなくなったんだ」
「まさか死んだとかじゃないよね、ね?」

食い気味に訊いてきて、女性が机を叩いた。
バンバン、とリビングには音が響いている。

窓のほうから何かが擦れる音も聞こえてきて
「何か聞こえない?」と、女性に訊き返した。

「うん、聞こえる。何この音」
女性は不安そうな表情で言う。

窓に近付いて、僕は下を覗いた。

まだ成熟しきっていなさそうな子猫が1匹
窓に体を擦り付け、小さな音を出していた。

「猫がいますよ、この子がアユですか?」
なんだ、生きてるんだと思い女性に言う。

走ってきて、女性は窓を開けてから
子猫を抱きかかえて泣き始めていた。

「おかえりね、おかえりね」
それだけを繰り返している。

「帰ってきましたよ、アユ」
台所にいる母親に伝えるが。

目が合った母親はまた
同じように首を振った。

縦ではない、横に。

アユじゃない、そう捉えた。

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