呪いが初恋に変わるまで


 金縛りには二種類ある。一つは、レム睡眠中に脳だけが目覚めてしまう睡眠麻痺と呼ばれる現象。ほとんどの金縛りはこれで、主にストレスや疲労が原因とされている。もう一つは、霊障によって幻聴や幻覚が引き起こされるもの。
 この世に肉体を持たない霊の多くは力が弱く、夢に出ることすら難しいとされている。出来る事と言えば、せいぜい物を動かしたり鳴らしたりする程度。
 しかし生霊は肉体があるからこそ、大きな力を蓄えて発揮することができる。その力のかけ方によっては夢に侵入したり、幻覚を見せることさえ可能だと言う。
 僕の能力を最大限まで引き出してくれた霊操師──宗主に聞いたら、そう教えてくれた。呪いをかけた今の状態であれば夢に入ることも容易いそうだ。

 夜になり、さっそく彼に教わった方法を試してみた。
 御香の煙に包まれた部屋の中で霊符に火をつける。そして完全に紙が燃え切る前に、呪いが込められた袋に手を当てる。目を閉じて名前を呼び、彼の意識の中に入る。

「……駄目か」

 三回試みたが、一度も成功しなかった。
 そもそも彼が完全に眠っていなければ意識の中に入ることすらできない。深夜二時を回ったというのに、まだ起きているのだろうか。
 連続でやったせいで集中力が切れてきた。呪いの反動で頭痛や吐き気もある。
 続けるか悩んだ結果、最後にもう一度だけ試すことにした。今日はこれで終わりだ。用意した霊符も全部使ってしまった。それに、早く寝ないと自分自身の体調にも影響が出る。
 深く息を吸って呼吸を整えたあと、霊符に火をつける。
 ボワッ!
 勢いよく燃え上がった。慌てて麻袋に手を当て、名前を呼ぶ。

「獅子道大牙……彼の中に導き給え」

 その瞬間、ふっと視界が暗くなった。
 いくら目を凝らしても見えない。それどころか御香の匂いや、畳に触れているはずの体の感触さえも感じない。

「う……」

 激しい眩暈に襲われたと思ったら、ぐるんと意識が回った。いや、実際には視界が回ったのだろうか。
 深い眠りから覚めたときのようにハッと気が付くと、目の前に大牙の顔があった。

「っ!」

 思わず声が出そうになった。初めて見る大牙の寝顔が、唇が触れそうな距離にあるのだ。しかしフィルターが掛かったみたいにぼやけていて、くっきりとその輪郭を確認することは難しい。
 ──これは大牙の意識の中?
 対面で彼の顔を見つめているこの状況は、どちらかというと、霊の一部として彼の近くに浮遊しているだけではないのだろうか。
 初めての試みだから失敗することもある。むしろ意識を飛ばせただけ上出来だ。

「んー……」

 眉間に皺が寄った顔ですら、惚れ惚れするほど美しい。この顔をもっと、もっともっと歪ませたい。
 僕は両腕を彼の首めがけて伸ばした。ところが思い通りに動かなかった。錘を付けられたように重い腕で、必死に水面に上がろうと藻掻いて泳ぐ。
 ここまで来て何もせずに帰りたくない。
 ただその一心で、必死に腕に力を込め続ける。すると、ようやく首に指がかかった。

「っ」

 喉仏から頚椎まで両手が被さると、きゅっと喉奥が締まる音が聞こえた。全身の力を腕に込める。

「あ……あ……」

 眉間の皺が濃くなった。次第に大牙の手足が暴れ始め、彼は解放を願って首元を手で掻きむしった。
 僅かに開いた隙間から、ヒュー、ヒューと息が漏れている。それすらなんだか勿体ない気がして、さらに首を締め付けた。

「うぅ」

 彼の目尻から涙がこぼれ落ちた。
 きゅうと胸が締め付けられる。自分も首を絞められているみたいに、切なくて痛い。
 ──なんでこんなに可愛いんだろう?
 まさか大牙が、首を絞められて泣いちゃうだなんて思わなかった。この男はどこまでも予想を裏切ってくれる。

「は、う」

 暗闇でも分かるほど顔が真っ赤だ。額には汗が滲んでいる。
 手を離すと、その場で彼はゲホゲホと噎せた。それと同時に視界が歪み始める。けたたましい咳がどんどん遠ざかっていき、また世界が暗闇に包まれた。
 ぐるんと意識が回った次の瞬間、御香の匂いが鼻を掠めた。
 気づけば畳の上にうつ伏せで転がっていた。燃え尽きた霊符の残骸と、麻袋が腹に押しつぶされている。危うく火傷を負うところだった。
 寝返りを打った僕は麻袋をそっと胸に抱き、溜め息と共に目を閉じた。

「はあ……最高」

 人生で一番、楽しい時間だった。実際にこの手であれができたら──どれほど幸せなのだろう?

「……こんなんじゃ眠れないな」

 明日はどんな顔で登校してくるのか。目の下に隈どころじゃ済まず、学校を休んでしまう可能性もある。そうなったら残念だ。

 期待を膨らませて登校した翌日、大牙の姿はなかった。担任の教師に聞いても分からないと言うから、連絡を入れたわけではなさそうだった。

「天城なんか良いことあった?」

 昼休みになり、湯汲が振り返って問いかけてきた。

「え?」

「なんとなーく朝から嬉しそうだなと思って。あ、告白でもされたんだろ。お前モテそうだし」

 体の向きを変えて弁当箱を僕の机に置いた彼は、にひひっと笑顔を作った。
 ──なんで僕の机で食べるんだ?
 不思議な男だ。他にも山ほど友達はいるというのに、彼はなぜか僕に懐いている。一緒に昼飯を食べる約束をしたこともない。

「友達のところで食べなよ」

「え? 友達のとこじゃん、ここ」

「……僕は何も持ってきてないから食堂行くよ」

「あ、天城いつもそっち行ってたんだ! じゃー俺も行こっかな」

「ついて来なくていいって」

「そしたら天城は誰と食うの?」

「え……」

 突拍子もない質問に戸惑った。
 昔から、家でも外でも食事は一人でするのが当たり前だった。だから“誰かとご飯を食べる”という考えがそもそも存在しないし、無駄な行為にすら思える。

「僕は一人で食べる」

「ええっ、そんなの寂しいじゃん。俺、これ持ってついていくよ」

「……寂しい?」

「あんま強がんなって! 転校したばっかでまだ仲良いヤツ俺しかいないっしょ? 馴染むまでは俺と一緒にいればいいから」

 返事をする前に湯汲は弁当箱と水筒を手に持った。

「よし行こ!」

「あ、うん……」

 ここまでお人好しだと、いつか悪い人に騙されそうだ。
 ──まあ、僕には関係ないことだけど。