呪いが初恋に変わるまで


「れい!」

 天城はふらふらと覚束ない足取りで割れたガラスの窓から外に出た。
 手すりにかけられた両手を、後ろから抱え込む。体格差も力の差もあるはずだが、バタバタと激しく動かれると抑制するのは難しい。

「なあ頼むから……っ」

 今どんな顔をしているんだろうか。せめて表情を確認したい。体は天城なのに、まったくの別人みたいで恐ろしい。
 体を抱えたまま後ろに下がる。窓枠に踵がつっかえて転びそうになった。強引に部屋の中に引き摺り込み、近くの壁に体を押し付ける。動かぬよう両腕を上からぐっと拘束すると、わずかに天城の動きが鈍くなった。

「俺を見ろよ」

 天城は眉間に深い皺を寄せ、何かを堪えるみたいに唇に歯を立てている。相当強い力なのだろう。唇が小刻みに痙攣している。
 考える余裕など一瞬もなかった。首を曲げ、痛々しいそこに唇を重ねる。舌を無理やり割り込ませた途端、ビクッと天城の体が震えた。

「う……」

 意外にも噛まれなかったことにホッとしつつ、顔の角度を変えて再び食らいつく。つるりとした舌を撫でたあとに柔らかく噛んで味わう。
 ──こんなんじゃ足りない。乾いた喉が自然と水を求めるように、体が天城れいを渇望している。どこからか醜く淀んだ欲がふつふつと溢れ出てきて、正気じゃ居られなくなる。

「ん、っむ」

 息継ぎをさせてやるのも忘れて夢中で唇を貪った。また下手だと言われても構わない。経験値もプライドもすべてを捨ててもいいから、もっとこいつを手に入れたい。深く深く体に刻んで、離れられなくなるまで。
 これまで誰とキスしてもこんな風にならなかったのに、天城の影響でおかしくなってしまったのだろうか。
 角度を変える時わずかに生まれた隙間で、天城は荒く息を吐き出した。

「はあっ……」

 虚ろだった瞳にはいつの間にか生気が戻っていた。薄い水の膜が張った恐ろしく綺麗な目が、下から見つめてくる。

「……相変わらず、キスが下手だね」

「え?」

「おかげで目が覚めた」

「れ、れい……?」

 柔らかな笑みを浮かべたと思ったら、グッと体を押された。腕の中から抜け出した天城が床に膝をつく。 

「あーっ、本当にうんざりする。舐めやがって」

 初めて聞く荒々しい口調に驚いた。
 天城は首を回したあと、背中から何かを引き千切るように握った拳を振り下ろし、床に手のひらを叩きつけた。鋭い声が部屋を貫く。

「消えろ!」

 その瞬間、ガタガタと周りの物が音を立て始めた。天城の体から黒い靄が這い出てくる。苦しそうに空気中でしばらくのたうち回ったそいつは、静かに消えていった。
 途端に視界が明るくなる。さっきまでの息苦しさも消え去った。

「……疲れた」

 その場に寝転がった天城を見て、自分もやっと深い呼吸ができるようになった。
 俺が居なかったらお前は今頃そこから飛び降りていたとか、俺がキスしなかったらどうなっていたんだとか、言いたいことは山ほどある。でも、どの言葉も喉から出てこなかった。
 ──呪いを解いてもらうことにしたって、伝えるべきか?
 もう天城の手元にあの袋はない。気づくのも時間の問題だ。

「あのさ……」

「よかったね。僕から解放されて」

「は?」

「あーあ……せっかくここまできたのに。全部無駄になった」

 声が微かに震えていた。手の甲を目元に当てた彼は、きゅっと唇を嚙み締めた。

「な、泣いてんの?」

 当然、問いかけは無視された。名前で呼んでも反応がないのも、顔が見えないのもじれったい。
 衝動的に天城の手首を掴んでしまった。露わになった瞳はしっとり濡れている。ずん……と胸が重くなった。
 見るなと睨まれたが、天城に対する欲は収まるどころかどんどん増している。自分でも戸惑うほどに。
 ──どうすれば、もっとこいつの弱いところを見られるんだろう。なかなか見えないその内側を暴きたい。晒してほしい。
 幾度も強く噛まれて腫れた唇に視線を惹かれた。体がそこに吸い寄せられていていく。唇が触れる寸前、パッと顔を反らされる。

「餞別のキスなんか要らない」

「え……?」

 天城は大きく溜め息を落としてから俺を避けるように立ち上がった。咄嗟に腕を掴むと、冷ややかな視線を送られた。

「待てよ。どういう意味」

「もういい。大牙にはもう何も憑いてない。だから──、こうやって僕のことを助ける意味がなくなった」

「ここに来たのは俺の意思なんだけど。お前に言われたからとかそんなんじゃない」

「意外とお人よしなんだね」

「違う、そうじゃなくて俺は……」

 手を振り払われてしまった。無言ですたすたと歩き出した天城の背中を追いかける。

「れい。話聞けって」

「運よく僕から解放された大牙は、僕が知らないところに行って、相応しい女と恋愛して、結婚して、可愛い子どもを授かる。そうやって元から決まってた欠点のない人生を送る」

「はあ……? なんでそんなこと決めつけんだよ」

「最初からわかってたんだ。呪いでしか繋ぎ止められない僕は、大牙の人生には必要ないってこと」

 諦めたような顔で吐き捨てられた言葉。そのどれもが的外れで、自分が求めているものとはほど遠かった。
 ──くそむかつく。勝手に俺の人生に入ってきて、乱して縛って振り回したくせに、なにを今さら逃げるつもりでいるのか。

「れい」

 後ろから肩を掴むと、ようやく足を止めさせることに成功した。
 避けられぬよう顎を固定して唇を奪う。ぼやけた視界の中、目が大きく開いた。

「な、に……」

「逃げんな。俺の人生が欲しいんだろ。俺に傷つけられた代償を背負わせたいんだろ。だったらそうしろよ」

「……なんで? それ大牙に何のメリットがあるの」

「だから損得勘定じゃねえって」

「じゃあ何。まさか、好きになったとか?」

 ふっと揶揄うみたいに笑われて顔に熱が走った。
 改めて好きなのかと聞かれると、真っ直ぐ首を振るにはどこか抵抗がある。好きという感情がこれほど醜い欲で濁っていても良いのだろうか。

「冗談だよ。そんな顔しなくても」

 このまま天城と関わりがなくなり、別々の進路を歩み、就職し、天城が言う通りその辺にいる女と結婚して家庭を作る。
 自分の隣にいる誰かを想像しようとしてもしっくりこないというのに、それが正解だと?
 むしろ、天城がそこにいるとしたら──。

「……好きって言ったら、どうする」

「どうもしない。どうせ一時的な勘違いだから」

「なんでそう決めつけんの」

「だってさあ……自分のこと好きだってこと知った上で一緒にいる時間が多くて何度もキスしたら、勘違いもするでしょ」

 だいたい恋愛はそういうものだろう。些細なことから関心を引かれて、時間を共有し、触れ合う。
 天城が幾年ものあいだ俺に向けてきた感情に、すぐに追いつくことはできない。それでもそのスタートラインに立つことはできる。

「……じゃあ、お前はどうすんだよ。俺に似た男でも探して付き合うのか? 俺のことを恨みながら?」

「大牙に似てる人なんて他にいない」

「なら俺と付き合えばいいだろ」

 まさか自分が、天城に恋人になることを説得する日が来るなんて夢にも思わなかった。
 ただ頷いてほしい。それだけなのに天城は気難しい顔で俯いた。しばらく考え込んだあと、目を細めて俺を睨みつけた。

「今まで付き合った女と同じようにすればいいと思ってる? 僕は、そんな上辺だけの言葉で喜べるほど単純じゃない」

「い、いや」

「複雑なんだよ。……自分でも」

 言葉の続きがあったのかどうかは分からない。
 再び歩き出した天城は、あっと何かを思い出したみたいに振り返った。

「助けてくれてありがとう」

 頬にかかった柔らかい彼の髪をぬるい風がひらりと掬い上げる。血の気を感じないほど青白い肌が、ほんのり赤らんでいた。
 出て行った天城を尻目に、俺は思わずその場に屈んだ。

「はあっ、……んだよ、もう……」