呪いが初恋に変わるまで


 距離が近づくにつれ、アパートから漂う異様さが鮮明になっていく。壁にいくつものヒビが入り、全体的に黒ずんで見える。廃墟というだけあって誰も管理していないのだろう。

「くそ」

 こんな時でさえ、ぞわぞわと止まらぬ鳥肌にうんざりする。来たのが朝でまだよかった。
 胸の高さまで伸びた入口付近の雑草をかき分け、敷地の中に足を踏み入れる。一階の部屋には全て鍵がかけられていた。
 コンクリートの破片が無数に散らばった階段を慎重に上がる。シャリ、シャリと歩くたびに音が鳴った。天井の塗装は一部が剥がれ落ち、手すりは完全に茶色く錆びている。
 ふと、誰かの気配を感じた。咄嗟に顔を上げる。

「──れい?」

 空虚に自分の声が吸い込まれた。
 反応がないことよりも、耳鳴りがするほど静かすぎることのほうが気味悪い。明らかに誰か──何かの気配がするのに、声も音も聞こえないのはおかしい。
 ここはやばい。立っているだけで足が震えて腰が抜けそうだ。間違いなく、ここに霊がいるというのが感覚で分かる。最近見えるようになった俺でさえそう思うのだから、天城にとって地獄みたいなものかもしれない。
 逸る気持ちを抑えて、まず廊下の端から部屋を一つ一つ見ていくことにした。二階は施錠されていない部屋が多く、もはやドアも外されて剥き出しになっている場所もある。
 人工的に荒らされた跡が目につく。家具はボロボロに壊され、床に物が散乱し、壁はスプレーで描かれた落書きで汚れている。

「ねえ」

 突然、低い唸り声が耳に吹き込まれた。

「……っ」

 これは明らかに天城の声ではない。振り向いたら何かがいる。わかっていながら、この状況では確認せざるを得なかった。
 ぎゅっと喉が鳴る。ぎこちなく後ろに顔を向けると、意外にも無機質な廊下が視界に広がった。
 ──何もいない。
 胸を撫でおろした瞬間、
 バタンッ!
 と今度は目の前で激しい音が響いた。衝撃で体が大げさに飛び跳ねる。
 開いていたはずの玄関の扉がひとりでに閉まったのだと気づいてしまったせいで、余計に思考が回らなくなる。まずい。早くここから離れないと──。
 ガチガチに固まった体に鞭を打ち、一番奥の部屋になんとか辿り着いた。二階はここで最後だ。居てほしいような、居てほしくないような矛盾した気持ちでドアノブを握り締める。手の汗でぬるっと滑りかけた。

 ギ、ギギギギ、ギ……。

 骨が軋むような音に耳を塞ぎたくなった。
 ドアから顔を覗かせた途端、生ぬるい風に頬を撫でられた。よく見たら窓ガラスがすべて割れている。雨が吹き込んでくるのか、カーペットには大きな黒いシミができていた。湿っぽいカビの不快な匂いに眉を顰めながら、念のためトイレと風呂を確認した。
 ここにも居ないとなると残すは三階だけ。そもそもこの建物に居るかどうかも不明だが、とにかく探すしかない。

「はあ……どこにいんだよまじで」

 ぶわっと再び強い風が吹いた。窓のほうを見ると、ベランダの物干し竿に吊るされたプランターがカタカタ揺れているのが目に留まった。
 その瞬間、上から落ちてくる“何か”が視界に入った。
 まるで時間が止まったみたいに、ゆっくりゆっくり目の前を落ちていく。最初に認識したのは制服だった。それから体、顔へと視線が移る。
 その正体が天城れいだと認識した時にはもう、視界には何も映っていなかった。

「は……っ!」

 喉の奥がきつく締め付けられ、息が止まる。目を見開いたまま体が硬直した。足が床に張り付けられたように動かない。
 ドッドッドッドッと激しい心臓の鼓動が耳元で鳴り響いている。猛烈な吐き気に襲われた。口に手を当て、その場に座り込む。

「うそ、だよな」

 ──まさか、そんなわけあるはずがない。あれは違う。きっと天城れいじゃない。
 そう自分に言い聞かせながら震える足で再び立ち上がる。そこでハッとした。世界がまた、暗闇に取り込まれている。

 ゴウンゴウンゴウンゴウン、ゴウゴウゴウ。

 飛行機が上空を横切る時のような鈍い音が、体に、部屋中に響いている。
 ふらふらとベランダに足が吸い寄せられた。柵の外に顔を出す。地面には、何かが落ちた痕跡はなかった。
 ──よかった。でも安堵するのはまだ早い。
 歯を食いしばり、目を細めながら部屋を出る。スマホのライトをつけるとか、そんなことに気を回す余裕さえなかった。手を壁に沿わせながら三階に続く階段を上がる。
 夢の中で歩いているみたいに全身が重い。急ぎたくても走れない。ハァッハァッと聞こえるこの荒い呼吸は、誰のものだろうか。

「れい……」

 ぐるぐると視界が回っている。人間ではないモノたちに向けられた、体を貫く視線の数。気を張っていなければ今すぐに我を失ってしまいそうだ。
 天城れいを助ける。たったそれだけの役割を、約束を守ることさえできなかったら、自分はなんのために存在してる?
 頭の隅に浮かんだ疑問に、咄嗟に首を振る。
 ──違う。存在意義なんかどうでもいい。
 あいつは俺に、宿罪を背負わせようとした。過去の罪滅ぼしでこれからの人生を捧げろと。
 でも、俺がここにいるのは義務でも罪滅ぼしでもない。ただ天城を助けたい、本来の姿に戻ってほしいという単純な衝動。自らの意思で、天城のためだけにここにいる。

『感情なんてどうだっていい』

 今なら、天城が言っていたその言葉の意味が少しだけ分かるような気がした。

 三階は下の階よりも空気が悪かった。春なのにむわっとした息苦しい熱が滞留しているが、反対に体は寒さで震えが止まらない。視界も不明瞭なまま、鍵が空いている部屋を探し歩く。

「れい!」

 がむしゃらに叫んだ。この暗闇の中ではそのほうが早い気がした。

「大牙」

 どこからか、天城に似た声が聞こえた。手探りで近くのドアを開けた瞬間、ぐんっと体が部屋の中に引き込まれた。正面から地面に手と膝を打つ。

「いっ……」

 痛みを伴った痺れに眉を潜める間も無く、今度は横から肩を突き飛ばされた。鈍い音と共に体が反転し、仰向けに倒れる。そして何かが首元に張り付いた。ギュウウウと首が締め付けられていく。

「う、う……え?」

 廊下よりも少しだけ薄くなった闇に、天城に似た“何か”がぼんやりと浮かんで見える。

「ごほっ、はな、せ……っ」

 首に当たっているのは人間の手の感触じゃない。もっと内側から、絞り取られるような感覚。何より、天城の顔が完璧に再現されていないのだ。輪郭はぼやけているし、黒い靄が見える。これは霊に乗っ取られた天城ではなく、あいつをただ模倣した霊だと気がつくのに時間はかからなかった。
 ──こんなので騙せると思ったのか?
 爪が食い込むほど強く握った拳が、目の前のそれを目掛けて反射的に飛び出した。まるで雨を殴ったみたいに指に冷たい感触が広がる。パンッと弾け、散り散りになった。

「はあっ、はあ……、くそが」

 咳をしながら立ち上がる。視界はまだ薄暗い。でも目を凝らせば見える。
 ベランダのほうに視線を向けた時、部屋の奥に誰かがいることにようやく気がついた。
 ──天城だ。
 頭が認識する前に足が動き出していた。