呪いが初恋に変わるまで


 天城を送り届け、帰宅する頃にはすっかり夜が深くなっていた。
 自分の家を目の前にして足が重くなる。疲労や開放感がドッと押し寄せてきた。空っぽの胃は空腹を通り越して吐き気がする。
 今すぐにでも飯を食って風呂に入りたい。が、気分とは逆に、玄関のドアノブにかけた手はなかなか引く気になれなかった。
 財布から取り出した鍵でジムのドアを開ける。足を踏み入れた途端、埃とカビっぽい匂いに噎せかけた。
 ──天城に嘘をついた。
 本当はもう何年もボクシングをやっていない。
 父親が他界してからジムの営業はできなくなり、閉鎖に追い込まれた。ここに来ると父の顔や声が脳内で勝手に再生されてしまう。自主練で使っていたが、次第に足が伸びなくなった。
 それでもボクシングをまだやっていると嘘をつくのは、心のどこかに未練があるからだ。いつかここに戻れる日が来るかもしれない。何年離れても、父と唯一の繋がりであるボクシングを手放すつもりはない。
 部屋の中央で俺のことを今か今かと待ち構えているリング、天井から吊るされたサンドバッグ、そして壁に掛けてあるグローブたち。嫌というほど見てきたのに、その光景になぜか瞼の奥が熱くなった。
 鞄と靴を入り口に放り投げ、バンテージを着けてサンドバッグの前に立つ。

「静かだな……」

 不思議と、父より先に天城の顔を思い出した。さっきまで一緒にいたせいだろうか。
 皮が伸びて白く変色したところにジャブを打つ。
 パンッ!
 軽い破裂音と共に埃が舞い上がった。気にせず数発、続けて打ち込む。硬く、痺れるような衝撃が肘まで伝わってきた。
 ──さっき、この拳は何の役にも立たなかった。天城を助けるどころか、自分の身を守るのに必死になった。その結果あいつに霊が取り憑いた。俺が弱いせいで。
 俺に呪いをかけてなかったら、天城は倒れることも憑かれることもなかったんだろうか。

「……呪いさえなければ」

 ポケットに手を入れると、指先にざらざらとしたものが当たった。その場に座りながら中身を出す。しかし、呪いを解く方法なんて知らない。物自体には特に意味がなさそうだ。特に髪の毛なんて息をかければ飛んで行ってしまう。
 たったこれだけで体を操作されたのかと思うと、恐ろしい反面、天城にそれほど強い力があるのだと再認識させられた。

「どうすりゃいいんだよ、これ」

 捨てただけで呪いの効力が失われるとは考えにくい。だったらどうすればいいのか。寺に持って行っても無駄だろうし、何より時間がかかる。
 帰り際の天城の様子が頭に過った。わざわざ家まで送り届けるという柄にもないことをした。あまりにも不安定で、あのままどこか誰もいないところにふらふらと消えてしまいそうだったから。
 早く──、一刻も早く、なんとかしなければ。

 母親に持たされたおにぎりを齧りながら、普段より三十分も早く家を出た。向かった先は学校ではなく、天城の家だ。霊操師だというあの爺さんならきっと呪いを解けるだろうと望みをかけて。
 玄関の前に立った瞬間、ガラガラッと音を立ててガラス戸が開いた。中から天城が出てくる。

「あ……」

 目が合った。なのに天城は俺の姿が視界に入っていないかのように、そのまま視線を流した。

「れい!」

 思わず腕を掴んだ。力は自分のほうが強いはずだが、いとも簡単に振り払われてしまう。
 唖然と立ち尽くしていると、家の反対側から彼の祖父がゆっくりとこちらに向かって歩いて来た。大きなショルダーバッグを肩から下げている。服装からして、今帰ってきたようだ。

「どうした?」

 そういえば昨日送り届けた時、この人の姿を見ていない。
 もし外泊していたなら、天城の状態を知らないということになる。霊が憑いてると分かれば祓ってくれるかもしれないという淡い期待は打ち砕かれた。

「あ……あの」

 何から言えばいいのか分からなくなった。天城は一人で行ってしまった。早く追いかけないと、と頭の中がそれで埋め尽くされ、思考が空回りする。

「頼み事でもあるのか?」

 爺さんの声にハッとした。彼の手を取り、ポケットから出した例の袋を握らせる。

「あいつが、れいがかけた呪いを解いてください。れいは今……取り憑かれてるんです。お願いします」

 頭を下げた俺に、彼はあっさり頷いた。

「わかった。やってみる」

「ありがとうございます!」

 踵を返し、地面を大きく蹴って腕を振る。
 久しぶりに全速力で走ったからか、息が乱れるまであっという間だった。
 ──なんでこんなに必死になってるんだ?
 誰かのために汗をかくのも、誰かを心配するのも俺らしくない。だが今はとにかく天城を助けたい。
 足先からかつてない恐怖心がせり上がってくる。嫌な予感がするとは、まさにこのことか。
 駅にも電車にも天城の姿は見当たらなかった。送ったメッセージも既読にならず、電話にもでない。
 校舎に入って階段を駆け上がる。すれ違い様に、誰かと肩がぶつかった。

「いたっ」

 綿辺が甲高い声を出して大袈裟に肩を擦る。

「あっ大牙じゃん!」

 内心、邪魔だなと舌打ちをしつつ通り過ぎようとしたところで腕を掴まれた。

「待って」

「何」

「ちょっと話そーよ」

「無理。てか天城みた?」

「え……知らない。なんか大牙、あの人と関わるようになってから変だよ……」

 耳障りな声は無視した。
 教室に入ってすぐ、湯汲と目が合う。

「天城は?」

「おは、え来てないけど」

「まじか」

「どうしたん、おい大牙ー?」

 ──なんとなく、学校にはいない気がしていた。
 額から垂れた汗が目に入って染みる。シャツの袖で拭きながらまた階段を降りた。はあ、はあと激しく乱れた呼吸を整える暇もなく外に出る。

「どこにいんだよ……っ」

 とりあえず周辺を探そうと校舎裏に回った時、天城と交わした会話がふと頭を過った。

『校舎の近くにある廃墟、知ってる?』
『廃墟?』
『この前行ったんだ。五分くらい歩いた所にある白いアパート。あそこ、霊気が強いから大牙は近づかないで』

 変なのに憑かれたらウザいし。天城はため息をつきながらそう言っていた。
 関係があるか分からないが、廃墟のアパートというのが引っかかる。誰もいない空間では身の危険が及びやすい。

 周辺を彷徨い歩いているうちに、小さな公園に辿り着いた。複数の木に囲まれたそこにはブランコとベンチだけがぽつんと置かれている。

「──え?」

 止まる予定がなかった足の動きが鈍くなる。一瞬目を離した隙に、ブランコに小さな女の子が座っていた。いつ現れたんだろう。
 チャリ、キィー、チャリ、キィー。
 彼女が漕ぐたび、鎖が擦れる音が風に入り混じる。ブランコはたしかに動いているが、体を上手く認識できない。そこから立ち上る黒い靄を見て、ようやく、彼女が人間ではないことに気が付いた。
 俺は目の前で足を止めた。というより動けなくなった。沸騰しそうになっていた頭からスーッと熱が引いていく。全身の毛穴から吹き出した汗が服に付着していて、肌の表面が急激に冷やされる。
 ぶるっと肩が震えたその時、彼女が笑顔で立ち上がった。俺を見つめたまま左腕を伸ばし、どこかを指し示すように人差し指を立てる。

「あ……、え」

 後ろに下がりながら、示されたほうを横目で確認する。公園の出口から伸びた道路の奥に、白いアパートのような建物がうっすら見えた。天城が言っていた通りの見た目だ。
 ──まさか俺に教えてくれたのか?
 視線を戻すと、そこにはもう少女の姿はなかった。ゆらゆらと揺れ動いている片方のブランコに軽く頭を下げ、再び足を走らせる。