呪いが初恋に変わるまで


 真剣に聞いたのに、天城は吹き出して笑った。自意識過剰だと思われたみたいだ。頬に血が集まってくるのを感じながら俯くと、冷たい指先に顎を掬われた。

「かわいい。まだそんな単純な感情だと思ってるんだ」

「知らねえよ……」

「大牙をどう思ってるか知りたい? でも、それ知ってどうする? 意味ないでしょ何も」

 僕の感情なんてどうでもいいんだよ。
 吐き捨てられた言葉に何も言い返せなかった。理屈ではそうだとしても、人間関係なんだからそれだけじゃないだろう。思っていることを伝えて変わることもある。
 自分でさえ、なぜこんなに気になるのか分からない。俺のせいで傷つき、負担になることにまで手を出した。そのために苦痛を乗り越えてきたのだとしたら、なんでまだ俺のために自分の人生を犠牲にしようとするのか。
 ──いや、違う。せっかく努力して手に入れたものを手放したらそれこそ意味がなくなってしまう。
 天城はきっと、俺とは何があっても対等な立場になることはないと思い込んでいる。常にどちらかが下になる。そうでなければ関係を保つのが難しいと。
 湯汲にあんなに素を見せているのは、天城にとって安全だからだ。立場が脅かされる心配もなく、単純な感情だけで付き合える。
 助ける役割でありながら、霊と同等の危険な存在。
 約束すると口頭で言っても信用されないのが腑に落ちたのと同時に、無性に悔しさを覚えた。

「……どうしたら信用できる。従うって、何をすればいい」

「だから大牙には」

「分かんねえだろやってみないと!」

 思わず声を張り上げたその時、ゴトッと背後から──クローゼットの中から鈍い音がした。重い物が上から落ちたような音だった。

「やっと出てきた」

 俺たちの間に割り込むように黒い影が伸びた。振り返った瞬間、クローゼットの前に佇む少年が視界に入った。

「え?」

 この前見たものとまったく違う外見に驚愕した。生きているのかと錯覚するほど肌も髪も、爪まで生々しい。血の色に染まった服は見るに堪えない。
 十歳くらいだろうか、閉じられた瞼や丸い鼻先、そしてふっくらした輪郭には成長途中の幼さが滲んでいる。
 ここで何が起きたのか知らないが、彼の姿が凄惨な事件の被害者であることを物語っていた。

「ゔっ……」

 漂ってきた悍ましい腐敗臭に嗚咽が出た。

「ここから離れ給え」

 天城の声が部屋に響く。しかし、霊は微動だにしなかった。黒い靄を放ちながらスーッと音もなく近づいてくる。
 警告音の如く心臓がバクバク音を立て、危険であることを知らされる。
 ふと、部屋の中が暗いことに気が付いた。あの時と同じだ。日は落ちていない──どころか、陽射しは確かにこの目で見えるのに、フィルターがかかったみたいに空間が闇に包まれている。まるで現実世界から見放された気分だ。
 後ろに下がった俺と対照的に、天城は顔を上げて何かを唱えながら指を床に突き立てた。その瞬間、霊が放つ靄がろうそくの火のようにゆらゆらと大きく揺れた。

「れ、れい」

 急に不安に駆られた。いくら除霊の力があるとはいえ、これは天城でも太刀打ちできるレベルではない気がする。
 天城の体に触れる直前、少年が目の前からふっと消えた。俺たちを誂うみたいに。

「消えた……?」

 長いこと窓を開けていないせいだろうか。空気が湿っていて重く、息苦しい。べったりと汗で背中に張り付いたシャツを摘んでパタパタ仰ぐと、天城も胸を押さえながら深く息を吐き出した。

「はあ……厄介だな。これは今の体調じゃ祓えないかも」

 珍しく弱気な声だった。この状況で客観視できているのもおかしいが、天城の態度は至って冷静だ。

「だから言っただろ。倒れたばっかなんだから無理すんなよ、これ以上はもう──」

 言葉の途中で、パンッと弾けるような家鳴りが耳を突き破った。それと同時に視界の闇がさらに深まり、とうとう目の前にいる天城の姿も見えなくなる。

「え?」

 がむしゃらに手を伸ばしても、指に触れるのは床の硬い感触だけ。声も聞こえない。たしかに現実ではそこにいるはずなのに、卵の薄い膜の中に閉じ込められたみたいに遮断されている。

「お、おい……っ」

 馬鹿みたいにぜいぜいと呼吸が乱れた。喉の奥が張り付いて痛い。耳鳴りがするほど、一切の音も光もない空間に、自分の心臓の音だけが駆け回る。きっと気を抜いたら一瞬で襲われてしまう。

「スマホは……」

 震える手を制服のポケットに突っ込む。
 この部屋に入ってから──どこに入れたっけ?
 なぜか記憶が曖昧だ。ポケットには何もない。それどころか、鞄さえも見当たらない。

「……あれ」

 ──今はなにを探している?
 ──俺はなんでここにいる?
 
「大牙」

 縋るような声が遠くから聞こえた。俺を必要としている人の声が。

「……れい?」

 ──そうだ。俺は天城のためにここにいるんだ。天城を助けるという、たったそれだけのために。
 ふと父親の顔が頭に浮かんだ。あの人が生きていた頃に、目を隠して対人シャドーをやらされたことがある。感覚を研ぎ澄ますための訓練。状況はあれと似ている。視覚を奪われても、音や直感を頼りに動けばいい。
 深く息を吐き出し、空間に集中する。相手が移動しても風すら動かないかもしれない。だが、気配を察することはできるはず。
 じっとその時を待っていると、正面に何かが迫り来るのを感じた。腕を伸ばしたら届く距離。自分以外の、異質なもの。
 肌から伝わってきた違和感を脳が受け取る前に、目の前に顔が現れた。

「っ」

 考えるより先に右手が繰り出された。拳が空気を切り、“それ”の表面に到達する。
 感触は何もなかった。しかし閉じられていた少年の目がパッと開かれ、顔が苦痛に歪んだ。まるで、何度もそうされてきたかのように。

「あああああ」

 彼のざらざらとした唸り声が耳を掠める。ぐらっと視界が──、脳みそが揺れた。頭の奥底を鋭く尖ったもので突かれたみたいに、激しい頭痛に襲われる。

「ぐ、ぅう……」

 ぐわんぐわんと思考が歪んで制御が効かなくなる。やがて体が傾き、受け身を取ることもできないまま頬を床に強く打ち付けた。


 ハッと目が覚めると、まず最初に仰向けで倒れている天城の姿が視界に入った。窓から射し込む陽射しに照らされた睫毛の影が、その柔らかな頬に伸びている。暗闇もいつの間にか元通りになった。

「おい、起きろよ。れい」

 思わず肩を揺さぶった。
 きっと意識を失っているだけだ。そう分かっていても、なかなか開かない瞼にとてつもない恐怖心が込み上げてくる。
 とりあえず抱きかえてでもこの場から離れよう。また襲われる前に。
 近くで改めてよく見ると、天城の制服はなぜか乱れていた。シャツの胸元やネクタイは緩められ、ブレザーのボタンはすべて開いている。息苦しくて自分でやったのだろうか。
 体を持ち上げる前に直してやろうとブレザーに手をかけた瞬間、ポケットから何かがするっと出てきた。
 ──なんだ?
 手のひらよりも小さな、麻の袋。何気なく口の紐を解いて中を開ける。

「なに……」

 数本の髪の毛、紙の燃えかす、そして制服のボタン。奇妙な組み合わせに首を傾げた時、あっと声が出そうになった。
 ──俺にかけられた呪い。
 直感でそう思ったあと、左腕の袖を確認する。一番下のボタンだけ外れていることに気付いたのは、入学式が終わったその日の放課後だった。
 これは間違いなく俺のボタンだ。髪も天城のものじゃない。燃えかすは、元は呪いの札か何かだったのだろうか。

「……ん」

 天城がもぞもぞと動き出した。
 咄嗟に中身を袋に戻して自分のポケットに突っ込む。

「おい大丈夫か」

「帰ろう」

 ゆったりと瞼を開けた天城は、無表情のまま立ち上がった。

「──え?」

「帰る」

 天城はもう一度、うわ言みたいにそう繰り返した。
 目が合わない。それどころか、こんな状況になったというのに俺の顔をまったく見ようともしない。
 ──何かがおかしい。言い表せぬ違和感がある。
 鞄も持たずに部屋から出ていこうとする彼を、俺は思わず引き止めた。

「……制服。直さないとやばいだろ」

「制服?」

「直してやるから」

 正面に立ち、数十センチ下にあるシャツに手をかける。ボタンを留めてもネクタイを元の位置に戻しても、不思議と天城は何も言わなかった。表情も変えずにぼーっとどこかを眺めている。
 ──やっぱりおかしい。普段なら、こんなことをしたら褒めるなり誂うなり反応が必ずあるはずだ。
 最後にブレザーのボタンをすべて留めてやると、無言でまた歩き始めてしまった。

「お、おい待て、鞄っ」

 天城は振り返ることもなく階段を降りていった。
 慌てて二つの鞄を引っ掴み、走って後ろを追いかける。

「なんだよ」

 スマホのライトをつけるのも忘れ、物が散乱した床を気にもかけずスーッと進んでいく。その後ろ姿はどことなく奇妙だ。少なくとも来た時とは様子が違う。
 天城は無言のまま、当たり前のように玄関を出た。なんで俺がこいつの鞄まで持たなきゃいけないんだ……と思いつつも両方の肩に鞄をかける。今渡したところで、こいつは受け取らない気がした。

「なあ。れい」

 何度呼びかけても反応はなかった。虚ろな瞳はどこを見ているのか、焦点が合ってないようにも見える。
 心配になって凝視した瞬間、ふわりと天城の体から黒いものが立ち昇った。

「え……?」

 見覚えのある“それ”に思考が硬直する。思わず頬が引き攣った。
 霊の顔は見えない。だが間違いなく天城に何かが憑いている。さっきから様子が変なのもこのせいだ。
 煙草の煙みたいに、ゆらゆら……ゆらゆら……と揺れながら天城に着いていくそれを見ながら、口に溜まった唾を嚥下する。

「れ、れい。体調……大丈夫か」

「うん」

「痛むところは? 熱は?」

「ううん」

 違う。天城れいはそんな返事はしない。
 ──いつもならきっと、心配してくれたんだと誂ったり、家まで連れて行ってよと急に甘えてくるかもしれない。
 ふふっと唇の端を上げて不敵な笑みを浮かべ、俺の服従心を試そうとする。あれこそが天城だ。
 最初こそ、あの態度に神経を逆撫でされていた。自由が利かぬよう押さえつけられ、作り上げてきた壁を崩され、脆いところを暴かれる。その支配に強烈な屈辱や嫌悪を抱いていた──はずだった。
 形の良い後頭部と青白いうなじが目の前にある。無意識に伸びた手は、そこに触れる直前で止まった。

「……元に戻れよ」

 この天城じゃない。本物の天城れいに触れたい。そして、どんな反応を見せるのか、何を言うのか知りたい。