進路希望票の提出期限が明日であることを思い出し、駅に向かう途中でわざわざ引き返した。
部活が終わったこの時間帯でもまだ外は明るい。窓から眩しい西日が射しているというのに、物音一つしない教室は妙に気味悪く感じる。昼間にあんなものを見たからだろうか。
こんなことのために戻ってくるんじゃなかったと後悔しつつ、机の中からプリントを探す。重なった教科書の奥から端がクシャっと折れた紙が数枚出てきた。提出期限が切れているものもある。
手に取った紙を剝き出しのまますべて鞄に突っ込み、椅子を足で戻すと、隣の席が視界に入った。
──天城は進路どうするつもりなんだ?
机の中をそっと覗いてみる。角がぴったりと揃った教科書とノート、布製の白い筆箱。そしてケースファイルにまとめられた書類。隙がない性格を表しているようなそこは、整い過ぎていて気持ち悪い。
どこを探してもお目当てのものは見当たらなかった。
落書きとか、何か笑えるものはないかとノートを開いてパラパラと確認していたら、急にふっと教室が暗くなった。
「なに……」
振り返ろうと上半身を起こした時に気が付いた。そもそも教室の電気は、俺が来た時から消えていた。雨が降ったり日が沈まぬ限り、これ以上暗くなることはあり得ない。
突然、激しい耳鳴りに襲われた。キーンでもピーでもなく、ゴーーーという重い重低音。鼓膜が破れそうなほどうるさい音から逃れるために耳を塞ぎ、その場で片膝をつく。
「う」
──何かがおかしい。
窓の外にはたしかにいつも通りの景色がある。雨が降ってるわけでも、日が落ちたわけでもない。まるでカメラのレンズに黒いフィルターを被せたように、薄暗い。教室の中はそれよりもっと暗く、周りを見渡しても近くの机しか見えない。
「は……なんだ……?」
うなじに、いや背中に、いや全身に鳥肌が立っている。昼飯の時に感じた悪寒とまったく同じ寒気が足元から襲ってくる。
ここから出なければ──と顔を上げた途端、目の前に黒い“あれ”が現れた。
「っ!」
ドサッと床に尻をついた。が、体が張り付いたみたいに硬直したせいで後退ることも叶わなかった。
よく見たら、靄というより影や煙に近い。真っ黒で流動的でふわふわと漂っている。
こんなもの蹴り散らしてやればいい。力だったら自分のほうが強いはず。長年ボクシングをやってきたんだ。たかが霊なんか吹き飛ばしてやれよ。
心ではそう思うのに、これに勝てるシュミレーションが頭に一ミリも浮かばなかった。相手は実体を持たない、いわば自然現象のようなものだ。
「く、来るな」
それは様々な形に変化しながら距離を詰めてきた。離れようとしても上手く動けない。予測不能の動きをするせいで目が離せず、かと言って後ろを向くのは確実にまずい気がする。
──天城はどうやって祓っていた?
目を閉じて何か言葉をつぶやき、手を翳す。それだけだった。完全にあいつの能力頼り。真似したところで無駄に終わってしまう。
「どうすれば……」
そうこうしている間に、とうとう足が黒い影に覆われた。目の前で止まったそいつの中心部分が、にゅるっと形を変え始める。それが人間の顔だと気づくまでに時間はかからなかった。
「な……んだよっ、気持ちわりい!」
周りは触ったらすぐに消えそうなのに、粘土みたいな素材で顔のパーツの凹凸だけが盛り上がって見える。幻覚や妄想とは言えないほど、くっきりと。触れるなら殴れば破壊できそうだが──。
両腕を手で擦ったのと同時に、奥歯がカチカチと当たって音が出た。そして諦めるように瞼が勝手に降りた。
自分にはどうしようもできない。祓う力もなければ、鍛えてきたこの拳や腕も役に立たない。
今までもそうだったんだ。あんな家で育ってきたが故に、子どもの頃から奇妙な体験をしてきた。ボクシングで自分より強い相手に勝っても、霊に対する恐怖心は一切消えない。怖いと思っても目を逸らし、ただ耐えてきた。ダサくて格好悪い。学校では周囲の上に立って偉そうな顔をしている男が、家では幽霊に怯えているなんて知られたら嘲笑の対象になる。そうならない為に必死に去勢を張ってきた。
だから、霊が見えるとか霊感があるとか言う奴のことが大嫌いだった。見えたところで何ができるのだ、何もできないくせに存在だけ認めようとするなと。──天城れいが現れるまでは。
「助けてほしい?」
天城の声が聞こえた。幻聴だとわかっていても目を開けざるを得なかった。
「え……」
霊を挟んだ奥側に、あいつは立っていた。ポケットに手を突っ込んで微笑みながら見下ろしてくる。
帰ったはずの天城がなんでここにいるんだ。幻覚を見ているのか?
口を半開きにして凝視する俺に、天城は再び問いかけた。
「助けてほしいか聞いてるんだけど」
「あ、ああ」
頷いた瞬間、天城は膝を横に開いてしゃがみながら、立てた人差し指を床に突き刺した。
「消えろ!」
怒声が耳を劈く。俺の家で除霊してくれた時とは違う。声にどこか怒りが混じっていた。
霊の顔がブワッと崩れた。黒い煙が抵抗するみたいに天城を取り囲もうとするが、体に触れた途端に跡形もなく消えていく。
唖然としながらその様子を見ていたら、ふっと周りが一気に明るくなった。外から差し込む陽射しに目を細める。
「終わった……?」
「はあ」
ため息を落とした天城がふらふらと立ち上がった。相当、体力を消耗したらしい。顔に血の気が全くない。今にも倒れそうだ。
思わず立って腰を支えた途端、ぐにゃっと天城の体から力が抜けた。慌てて腕に力を込める。
「お、おい……どうした。れい」
何度か呼びかけても反応はなかった。気絶したようだ。
胸に伸し掛かってきた顔の近さにぎょっとした。こんな状態なのに、瞼を閉じた綺麗な顔に目が離せなくなる。
体は恐ろしいほど冷たいが、なぜか額には汗が滲んでいる。もしかしたら熱があるのかもしれない。
「れい、起きろって」
天城の体を抱えたままその場で立ち尽くした。
このまま放っておくわけにはいかないし、かと言って保健室はもう閉まっている。
「仕方ねえ……」
一度床に寝かしたあと、二つの鞄の紐を腕に通す。それから天城を背中に背負い、両手首をしっかり掴んだ。これなら後ろに落ちることはないはず。
自分に比べて小柄だが、家までの距離を考えると気が遠くなった。トレーニングだと思って我慢するしかない。
気合いを入れて校舎を出ると、校門の近くにいた担任の教師に驚かれた。
「え、獅子道……なんかあった!?」
「天城が体調悪いみたいです。家まで送って行きたいんすけど、住所は」
「家まで行くの?」
「はい」
「いやあ、流石にむりでしょそれ。どうしよっかな、ちょっと待って……」
「大丈夫っす」
「いやいや心配だし。車で送るよ」
「そ……すか」
車は校舎裏の駐車場に置いてあった。天井の低い車に乗せるのは難しく、教師の手を借りて後部座席に天城を押し込んだ。
助かったと思う反面、このまま全てを任せるのは気が引ける。
「じゃ、送って行くから。運んでくれて助かりました。獅子道も気をつけて帰って」
窓から天城の寝顔が見える。自分を助けるためにこうなったのだから、せめて看病くらいしてやるべきだ。
「先生。俺も乗せてください」
「え?」
「……心配なんで」
「ああ、いいけど……」



