食堂の隅で向かい合って飯を食うあいつらをぼーっと観察していたら、いきなり長い髪に視界を塞がれた。
「ねえ、綿辺さんと別れたの?」
顔に焦点を合わせても、すぐには誰なのか分からなかった。女は当然のように俺の前の席にトレーを置いて座った。
「聞いてる?」
春休みに染めた髪を無理やり戻したような傷んだロングヘアーを手で梳かし、唇を尖らせて見つめてくる。その仕草を見てやっと思い出した。去年同じクラスだった奴だ。大した仲じゃなかったのに、随分と馴れ馴れしい。
「……付き合ってないし」
「えっ、そうだったの? 誰かが言ってたのに」
ほとんど手をつけていない目の前のトレーを見ながら考えた。もしこの状況を見られたら、また天城は激怒するだろう。次は何をされるのか見当もつかない。わざわざこれを持って移動するのは面倒だが、見られるよりマシだ。
思考を遮るように再び女が口を開いた。
「てかあ、昨日たくみ達と心霊スポット行ってきたんだ。めっちゃ怖かった! 結なんてスマホなくしちゃってさ」
「……え」
「探しに戻ったんだけど、なんでか見つからなくて。まじ可哀想」
スーっと風が吹き、周囲の空気が冷たくなった。女の肩あたりに突然現れた黒い靄のようなものに視線を奪われる。
──あれは一体なんだ?
水風呂に入った時みたいに、ぶわっと全身に鳥肌が立った。ふよふよと浮遊しながら女の周りを漂うそれが何かはわからないが、確実に悪いものだと感じる。
胃の底から湧いて来る嫌悪感。とにかく気持ち悪い。視界から消したい。
「あ、そっちのクラスに天城って男子いるよね?」
まさかあいつの名前が出るとは思わず、立ち上がりかけた体を軽く椅子に戻した。
「なんで」
「めっちゃ綺麗な顔してるじゃん。私の友達で気になってる子がいるんだけど、仲いいなら紹介してよ」
「……あいつ人見知りだから」
「え~お願い!」
「無理。てか本人に──いや、そういえばあいつ、そういうの怠いって言ってた」
「そうなの? ざんねーん」
鬱陶しい女を尻目に立ち上がりながら天城に視線を配ると、距離があるのに目が合った。慌ててトレーを持つ。
「えっ、どこ行く……」
「ついてくんな」
背中が汗でびっしょり濡れてしまった。今もまだ、天城と“あれ”の両方から視線を感じる。
離れた席に座り直したあと、テーブルにトレーを置く瞬間にぶるぶると手が震えていたことに気が付いた。
あれは家の中で感じたものと同じだ。れいが部屋に霊を集めて祓った時も鳥肌が立ち、そのあと悪寒が止まらなかった。
心霊スポットに行ったという話からして、女に憑いたのだ。あんなものが自分にも憑いていたのかと思うとゾッとする。
「最悪……」
これまで気配や体調の悪さはなんとなく感じたことがあったが、金縛りの幻覚以外に実際に見えたことはなかったのに。
ふと、天城が言っていたことを思い出した。霊気が弱いのは影とか靄みたいに見える。強いのは顔が見えることもある──と。
とうとう自分もこの目で見てしまった。このままでは顔が見えるようになるのも時間の問題かもしれない。そうなったら、俺はどうすればいいのだろうか。
「──あれ? 全然食べてないじゃん」
肩を叩かれてハッと我に返った。湯汲が眉を八の字に曲げ、顔を覗き込んでくる。
「また体調悪い?」
「いや……別に」
「なんかあったなら話聞くけど」
「何もない」
「んー、でも顔色悪いよ。保険室いくなら先生に伝えておくから」
「……助かる。あ、天城は?」
「え? あいつは先に教室戻ったよ」
目が合ったのに、無視されたのか。話しかけてくれたのがこいつじゃなくて天城だったら──。
むかむかした気分で立ち上がり、湯汲に礼を言ってからトレーを返却口に戻した。これから呑気に飯を食う気には到底なれなかった。
トイレに立ち寄ったが、天城の姿はない。代わりに鏡が視界に入った。確認するのが恐ろしい。あれが自分にも憑いていたらと思うだけで足が竦む。
恐る恐る鏡を見て、何もないことにほっと肩を落とした。
「はあ……」
ひどく血色の悪い顔に乾いた笑いが出た。そりゃあ心配されるわけだ。
踵を返した瞬間、キイッと音を立てて個室のドアが開いた。
「大牙」
「え?」
探していた本人が出てきたことに驚き、後ろに下がったせいで腰を洗面台に打った。
天城は気にも留めず無表情のまま近づいて来る。
「なんか顔色悪いね。昨日祓ってやったのに」
「あ、その……」
頭の中が真っ白になり、何を言ったらいいのか分からなくなった。女のことや霊を見たこと、言いたいことは山ほどある。だが口はパクパクと無駄に開くだけで、声が出ない。
とうとう天城と洗面台に体を挟まれた。つま先が当たっても彼の体は止まらず、太腿の間に足を割り込んでくる。
数十センチも下から見上げてくるくせに、なぜこんなに威圧感があるのだろう。熊に襲われたら恐怖で体が動かなくなるとよく言うが、こういうことなのかもしれない。
「すごく汗かいてる」
頬にかかっていた髪を指で掬われ、耳にかけられた。汗を確かめるように生え際を撫でつけられる。動作は優しく穏やかだったのに、天城の目は据わっていて恐ろしいほど冷たい。
「さっき……多分、霊を見た」
「へえ?」
「あ、あの女が勝手に」
俺の前に座ったんだと言いかけて、咄嗟に口を閉ざした。以前と同じようなパターンだ。相手が勝手にやったことだろうが、俺に責任があると言う。
──でも、さすがにあれは謝るようなことではないはず。事実を伝えればいい。
「……あいつの友達が、お前のこと気になってるから紹介しろって。だから……断ったんだ。それだけ」
「なんで断ったの」
「いや、興味ないだろ?」
「その子に会ってみないと分からないでしょ。僕のことが好きなら、好きになれるかも」
「は……?」
自分のことが好きな人が好きって、小学生みたいな発想じゃないか。
「なん、いや、お前が言ったんだろ。友達、女も全員切れって。だから俺はそうしたのに……なんでお前は一人で彼女作ろうとしてんの?」
「お前お前って、うるさいな」
うんざりした顔で溜め息をつかれた。
「僕は友達も恋人も、切るなんて約束してないよ。対価として求めただけ。僕を縛る権利が大牙にあるとでも思った?」
確かによく考えてみたらそうだ。本当は除霊に何百万と費用がかかるところを、二つの条件だけで天城は引き受けた。俺が対等な立場を望もうとすること自体、間違っている。
厚かましい奴だと言われたようで、ひどい羞恥心に苛まれた。
「目逸らさないで」
顔を背けた途端、強く顎を掴まれて正面に固定された。
「っ」
「顔、真っ赤だよ。可愛い」
俺より絶対に力は弱いはずなのに、この目に見つめられ、触れられたら一瞬で駄目になる。自分が積み上げてきたプライドや経験が何の役にも立たず、ただのダサい男になってしまう。それがたまらなく恐ろしい。
「あ……」
言い返そうとしたが、またもや無駄に終わった。
今日の天城の唇はほんのり色が濃い。桜の花びらを煮詰めた時のように、控えめながら目を引く赤みがある。
「大牙」
唇が動いた。俺の名前の形を作ったあと、艶めかしく笑みを浮かべた。
「恋人、作ってほしくないんだ?」
「……え?」
「嫌なんでしょ。僕がその人と会うの」
「い、嫌ってか……」
「なんで僕に同じことを求めるのか、少しはその頭で考えなよ」
ふわっと天城の体が離れていく。
残された匂いに胸をくすぐられ、思わずその場に屈んだ。



