呪いが初恋に変わるまで


 馴染みのない匂いがする。果物のように甘く、かじりつきたくなる魅惑的な匂い。しかしその奥には毒が隠されていて、一滴でも飲み込んでしまったら全身が毒に侵される。

「キスしてみてよ」

 形の良い桜色の唇が弧を描く。すっと通った細い鼻筋に、アーモンド型の恐ろしいほど整った瞳。
 見ただけで引き込まれる顔に怪しい笑みを浮かべながら、柔らかなうねりのある黒髪を耳にかけ、その華奢な体で上に乗ってくる。
 
「大牙」

 天城れいの顔や声、匂い、そして氷のように冷たい気配。それらすべてが自分をおかしくさせる。まるで何かに取り憑かれたみたいに、常に彼が自分の体の中にいる感覚。

「やめろ……」

 引き剥がしたい。吐き出したい。心ではそう思っているはずなのに、なぜ体は天城れいを求めてしまうのだろう。

「もっと」

 天城の両手がこちらに伸びてくる。首に届く前に、思わず手首を掴んだ。足を引っ掛けて体勢を逆転させる。
 俺の真下に組み伏せられた彼は、それでもなお妖艶な笑みを絶やさない。どんなに不利な体格でも、どんな状況でも自分のほうが“立場が上だ”とわかっているからだ。

「れい」

 桜の花びらを積み重ねたような、ふわふわした唇に吸い寄せられた。内側の薄い粘膜に触れ、味蕾を擦り合わせ、歯を立てる。
 キスに何の疑問も持たなかった。したい、したくないという次元じゃない。必然的な行為である。
 天城れいを求めることが自分にとっての役目だと、生まれた瞬間に決められていたのではないか?

「大牙。もっと……全部ほしい」

 頭の中で何かが弾けた。
 いつもの冷淡な瞳は潤んでいて、頬は上気している。
 再び唇にかじりつくと、本当に果実のような甘い味が口の中に広がった。


「──が、大牙」

 耳元で聞こえた声のせいで、ハッと目が覚めた。
 急速に意識が戻ってくる。とんでもない夢を見ていたと認識する前に、天城れいを抱きしめていることに気が付いた。

「え、あ」

「おはよう」

 当たり前のように挨拶した天城は俺の腕を退かし、ベッドから抜け出た。
 カーテンの隙間から差し込む朝光と彼の体が重なる。俺が渡した草臥れたトレーナーを脱ぎ捨て、制服を掴む。
 まるで映画のワンシーンかと錯覚するほど美しい光景に見惚れていると、急に天城が振り返った。

「なんで見てるの」

「み、見てねえよ。ただ……寝起きで」

「そう。僕は先に支度して行くね」

「……朝飯は?」

「いつも食べてないから」

 淡白な口調だった。昨日の疲弊しきった弱々しい姿はどこへいったのか。たった一晩寝ただけで回復したとは思えない。だってあれほど体力を酷使し、一時は立つことさえままならなかったのに──。
 考えている間に天城は鞄を持って部屋を出ていった。今ここで追いかければ、一緒に洗顔や歯磨きをすることになる。

「なんかな……」

 同じベッドで寝たからか、あんな夢を見てしまったからなのか。どちらにせよ気まずいのは確かだ。
 その場で横になると、自然に溜め息がこぼれた。
 ──夢とは思えないほどリアルだった。肌の質感や声や匂い、それから柔らかな粘膜の……。
 頭に浮かんだ映像にカアッと体が熱を持つ。
 もし本当にあんなことをしていたら、きっと今頃いじり倒されていたはずだ。寝惚けてて可愛かったよ、もう一回やってみてよとか何とか言って。

「うぜえ」

 何なんだよあいつは。
 急に現れて、俺の生活をいとも簡単にぶち壊した男。このままでは本気でおかしくなってしまう。
 しばらく横になったままスマホを弄っていたが、体から熱がなかなか抜けずに苦労した。

 教室の扉を開けてすぐ、いつもの澄ました顔で席に座っている天城が目に留まった。
 前の席には湯汲ではない誰かが座っている。たぶん他クラスの奴だ。そいつは天城のほうに完全に体を向け、馴れ馴れしく話しかけていた。

「いつ転校してきたの? てか顔えぐ、芸能界いけるっしょ。もしかしてもう事務所入ってる? 俺のクラスにもいんだよ、まだ広告くらいしか出てないらしいけど〜」

 天城は相槌を打つことも返事をすることもなく、ただ嘘くさい笑顔を貼り付けた。
 ──簡単に笑いかけてんなよ。

「え、てかなんか反応薄くね?」

 足が勝手に、二人がいるほうへと歩き出す。

「……そこ退け」

 男と目が合った。吐き捨てるように言った途端、そいつは目を見開いてから慌てて床に視線を落として立ち上がった。

「あ、悪い!」

「もう二度と来んな」

「わ、わかった……」

 空いた前の席に座ると、今度は天城と目が合った。頬杖をついて憂いの表情を浮かべている。これをあいつに見られたということにまた腹が立った。

「湯汲がもうすぐ来るから、そこ退いて」

 有無を言わさぬ言い方だった。せっかく男を追い払ってやったのに、必要としてなかったと言われたみたいで頬が熱くなる。

「……まだ来てない」

「もう来る」

「一緒にいろって言ったのはお前だろ」

「でも今はいい。湯汲と話すから」

「だから、まだ来てな──」

「おは〜」

 言葉の途中で能天気な声に遮られた。嫌でも湯汲が入ってくるのが見えてしまい、溜め息をつきながら立ち上がる。

「あれ、どうした?」

「……いや」

「湯汲おはよう」

「あ! 天城がこの前貸してくれた本、昨日途中まで読んだ。あれ難しくね?」

「どこらへんが?」

 湯汲が席に座った途端に天城の表情がふにゃっと柔らかくなった。頬杖をやめ、体が前のめりになる。
 態度の違いは歴然としていた。思えば、この二人は昼飯も部活の時もずっと一緒にいる。俺とは仲が良かったと嘘までついたくせに──、そのふりさえしないのはなぜだ?
 鞄を自分の机に放り投げて教室を出た。機嫌が悪くなったところを本人に見られたくなかったから。

「なんだよあいつ」

 無性に腹が立った。俺には「友達全員を切れ」と言っておきながら、自分は俺より湯汲を優先する。知らない他クラスの男に向かって微笑む。
 自分と一緒にいろと言うなら、こちらを優先すべきだろう。
 お前は特別な存在じゃないと態度で示されるのは人生で初めてのことだった。昔から何もしなくても周りに人が集まってくる。独りになったことなんて一度もない。
 友達を切って天城に雑な扱いを受け、ようやく気が付いた。孤独はこんなにつまらないものなのだと。