「きもちわる」
冷ややかな大牙の視線が矢の如く体に突き刺さる。
今思えば、彼は僕を軽蔑していたのではなく、霊が見えるという僕の存在そのものが怖かったのかもしれない。霊で溢れた家に幼いながら辟易し、関連するものをとにかく遠ざけたがった。
ただそれだけだったなら──いや、仮にそれだけだったとして、何だと言うのだ。あれで僕の心は明確に打ち砕かれた。それも事実である。
「れい」
名前を呼ばれた気がした。
ふと目を開けると、視界いっぱいに大牙の顔が広がった。眉間に刻まれた深い皺と、きゅっと一の字に結ばれた唇。「不本意ながらキスしました」と言わんばかりのその顔に笑いが込み上げてくる。
「ふっ、キスしてくれた?」
「…………してねえ」
「ありがとう。キスのおかげだよ」
上半身を抱きしめるように支えてくれたらしい。
よくできましたと言いながら、彼の頭を撫でて立ち上がる。
「お、お前がしろって」
「だから御礼を言ったんだ」
「はあ……」
「どれくらい気失ってた?」
「あー、たぶん数十分は」
倒れるとは分かっていたが、思ったより長かった。
胃液が喉の奥まで上がってきている。今にも吐きそうだ。こめかみはキンキンに締め付けられていて、足にも力が入らない。思わずよろけた瞬間、彼がまた長い腕で抱き留めてくれた。
「大丈夫なのか」
「んー……、こんなに祓ったの初めてだから」
結構きつかったと続けると、大牙はまた顔を顰めて俯いた。
「……悪いな」
「全部は祓えなかった。かなり少なくなったけど、そもそもこの土地に問題があると思う。霊道って知ってる?」
「霊道?」
「霊が通る道のこと。例えば大勢の方が亡くなった場所とか、穢れが溜まりやすい場所とか、そういうところは特に霊が集まったり移動する。たぶんこの家──というか土地が悪い」
「……ってことはどうしようもないんだな」
「だから引っ越しを勧めたんだよ。お母さんに」
大牙の体を見たら、呪い以外が綺麗に消えていることに気が付いた。苦労してかけたものまでうっかり祓わなくてよかった。
「体、軽くなったでしょ」
「え? あ……、たしかに」
「じゃあ一緒にお風呂入ってくれる?」
「はっ!?」
「無償であんなに祓ってあげたのに、大牙は何もしてくれないんだ」
「い、いや、でも……」
「先に脱いで待ってるから」
僕は返事を待たずに廊下に出た。
命懸けで頑張ったのだから、少しくらい労いを受け取ってもいいはずだ。
母親の様子が気になった僕は、明かりが漏れている部屋を探して声をかけた。
「すみません……大牙のお母さん」
扉をノックすると、彼女が慌てて顔を出した。服装と化粧はさっきのまま変わっていない。
「どうかした?」
「風呂をお借りしても良いでしょうか」
「あっ、もちろん! どうぞどうぞ。私は二人のあとに入るから気にしないで。テレビ観てるし」
「ありがとうございます」
体調はどうですか──と聞くまでもなかった。
柔らかくなった彼女の頬に安堵しつつ立ち去ろうとすると、いきなり両手を握られた。
「天城くん。ありがとね。本当に……、本当にありがとう」
「あ……いえ。大したことはしてませんから」
真正面から目を見て御礼を言われたのは人生で初めてだった。それ故、馬鹿みたいに狼狽えた。
頬が熱くなるのを感じながら、軽く頭を下げて部屋を離れる。脱衣場に入ってもなかなか熱は引いてくれなかった。
──御礼を言われた。自分が勝手に祓っただけなのに、彼女には何も事情を話していないのに、手放しで感謝されてしまった。
内側が、心臓のあたりがむず痒くて掻きむしりたい。この感情はなんだろう。
力いっぱい握られた両手から伝わってきた、彼女の優しい温もり。あれは、自分が一生をかけても決して手にすることのできないものだ。
「……はは、羨ましいのかな」
自覚した途端、ぐっと目の奥に熱が走った。慌てて瞼を押さえて上を向く。
両親を想って涙が出てくるなんて、一体どうしてしまったんだ。
「あー」
手のひらで豪快に顔を拭いたあと、上に着ていたトレーナーを脱ぐ。ズボンに指をかけたところで、ふと下着の替えがないことに気が付いた。
大牙は貸してくれるだろうか。同じのを履けばいいと跳ね返される気もするが、とりあえず言ってみよう。
「え……」
振り返った瞬間、思わず声が出た。目の前に大牙が棒立ちしていたからだ。
見るからに様子がおかしい。血を抜かれたあとのような青白い肌と、生気のない瞳。顔が近くにあるのに目が合わない。
「大牙?」
突然のことだった。大きな手が、バシッと僕の首を強く掴んだ。喉仏の真下。塞がれたら一番苦しいところを容赦なく潰される。
「かっ……っ、っ……」
首を絞められたまま横の壁に押さえつけられた。両足の力がだらんと抜け、宙に浮いていることに気がつく。必死に手で腕を引き剥がそうとしても、びくともしない。
「ぅ、ぁ……」
涙で滲んだ視界に映るのは大河の顔だが、やはりまったくの別物──大牙の見た目をした“何か”である。しかし片手で相手の首を締め上げることができる霊なんて、存在するのだろうか?
脳に酸素が回らなくなってきた。もう考えるのも億劫だ。心臓がドドドッ、ドドドッ、ドドドッと危険信号を打ち鳴らしている。
薄れていく視界の中、そいつの顔がぐにゃっと崩れて“中”が剥き出しになった。ドロドロに溶けた黒い何か。考える暇もなく、とりあえずその顔面に手を伸ばす。
「き……えろ」
ジュウッと肉が焼けたみたいな音がした。
ううっとそいつが呻き、一瞬だけ力が緩んだ。足先が床につく。咄嗟に踵で壁を蹴ったが、大した音は出なかった気がする。さっきあれほど力を使ったのだから当然だ。ここまで力のある霊を祓う体力はもう、残っていない。



