七時頃に彼の母親が仕事から帰ってきた。母子家庭になったあと、以前より働く時間を伸ばしたそうだ。疲れているだろうに、僕の分まで手早く夕飯を作ってくれた。
「ごめんね、こんなのしかないけど。食べて」
そう言って彼女がテーブルに出したのは、綺麗に焼かれた鮭と白米、それから味噌汁。副菜としてキノコの炒め物まである。
「これ……僕が食べてもいいんですか?」
「もちろん。口に合わなかったらごめんね」
料理がまったく出来ない祖父に育てられた自分にとって、栄養バランスが整った食事が出てくること自体が新鮮だった。
──両親が生きていた頃は、僕もこういう料理を食べていたのかもしれない。
「ありがとうございます。じゃあ……いただきます」
「なんかすごく品がある子ね~、お名前は? 初めてうち来たよね」
「はい。天城れいです」
「天城くんね。息子のことよろしく」
母親はあまり大牙に似ていない。染めたこともなさそうな黒髪を後ろで真面目に縛り、服も地味な色。顔は整っているが化粧っ気がまったくない。霊の影響かわからないが、頬がコケ気味でやつれて見える。
こちらこそよろしくお願いします。と微笑むと、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。泊まっていくんだよね? 綺麗な布団あったかな……最近ずっと来客なかったし」
「それは気になさらないでください。大牙くんのベッドで一緒に寝ますので」
言ってすぐ、バッと彼が顔を上げて箸を止めた。
「は?」
「いいよね、大牙」
テーブルの下で組まれた足を蹴って崩す。姿勢を正した彼は、
「……ああ」
と微妙な顔で渋々頷いた。
「ごめんね狭いのに」
「いえ。突然お邪魔してしまって申し訳ないです」
「全然っ、大丈夫だから」
「……お聞きしたいことがあります」
「え?」
彼女には四体もの霊が憑いている。どれも霊気が強くて悪質なものだ。自覚があるのか気になるが、包み隠さずに聞いたら怪しまれてしまうだろう。
「お家、いつ建てたんですか?」
「えーいつだっけ。この家は私の親が買ったんだ。中古だったらしいんだけどね、私が生まれたあとにリフォームして……」
「そうなんですね」
家というより土地に問題があるのかもしれない。あとで調べてみよう。
それにしても大牙より悪いものが憑いてるな──と彼女のことを眺めていたら、不意に“それ”と目が合った。
「かなり疲れてるんじゃないですか?」
「……え?」
「れい」
「分かります。肉体的にも精神的にも疲弊していらっしゃる。大変ですよね、一人で家族を支えるの」
──この人から離れろ。
肩に触れるふりをしながら念じた。バチバチバチと強い電気が指に伝わってくる。とんとん叩くと、黒い靄が塊となって体から離れていった。
「……大牙くんが高校出たら、引っ越しとかお考えになってもいいと思いますよ」
「う……やだ、ごめんなさい。ちょっと……っ」
やつれた頬に大粒の涙が落ちていく。彼女はティッシュを何枚も取って目元をぬぐい、顔を隠すようにして台所から飛び出た。
「おい、今なに──」
「体から離れたけど、完全には消えてない。ここで暮らしてたらそのうちまた憑く」
「……助かった」
「高校卒業したら僕の家に住みなよ。きっとお母さんも引っ越しできるし」
「それは……考えとく」
──せっかくのいい提案なのに。
ここにいたら危ないと警告しようかと思ったが、先に彼が口を開いた。
「大学とかどうなるかわかんねえし。ここから離れて一人暮らしする可能性もある」
「進学する?」
「いや、まだ決めてない。でも高卒で就職はきついだろ」
「ふーん……じゃあ決める前に教えて」
「え?」
まさか、卒業すれば僕と離れられるとでも思っていたのだろうか。そんなこと絶対に許さないのに。
「教えてくれるよね」
返事の代わりに目をぎこちなく逸らされた。
一階と二階、水場を合わせて二十八以上の霊を確認した。数字がはっきりしないのは、常に同じ場所に留まっていないからだ。広い水槽のようにそれらは自由に動き回り、物に隠れたり出てきたりする。
地道に除霊していくのは困難だと判断し、霊を一つの部屋に集めることになった。
「どの部屋にする」
「なるべく物が少ないところがいい。一階ってお母さんが使ってる?」
「使ってない部屋もある。こっち」
案内されたのは玄関を背にして右手にある和室だった。
天井の真ん中にぶら下がった、四角い木枠が懐かしさを感じさせる照明の紐を引く。パチ、パチと鳴った後にゆったりと柔らかな明かりが灯った。
「ここか……」
確かに見たところ物は少ない。家具や小物の趣味からして、元々は祖父母どちらかの部屋だったのだろうか?
「それで、俺は何すればいい」
「僕が倒れそうになったら支えて。もし意識が飛んだら救急車呼ぶんじゃなくて起こしてほしい。放っておかれたら戻って来れなくなるから」
「……起こせばいいだけ?」
「キスでね」
「はあ?」
「叩かれるのは嫌だし。キスなら起きられそう」
「お前のそれ、本当か冗談か分かんねえ……」
「僕は冗談なんか言わないよ」
あれほどの数を除霊するとなれば間違いなく体に影響が出る。見つかった場合、彼の母親にどう言い訳するか悩ましいが、正直に言ったら信じてもらえるかもしれない。
僕は考えながら部屋の中央に腰を落とした。鞄から退霊符を取り出し、膝前に置く。
「それは?」
「万が一の為のお守りみたいなもの。除霊の力がない人達はこれを使って霊を封印したりする。霊操師は直接祓うから本来必要ないんだけど」
「へえ……」
「じゃあ始めるから手伝って」
「あ、ああ」
「今から家の中にいる霊をこの部屋に集める。まずは開けられる扉は全部開けて。押し入れも」
「わかった」
「合図したら閉めて。それから……何が起きても、この部屋にいてほしい」
全ての扉を開け終わった彼は、硬い面持ちで頷いた。
霊を集めるという初めての行為。緊張しているという点では自分も同じだ。ただ宗主から教わったことがあるだけで、実践経験はない。
床に手をついて瞼を下ろす。
「──御霊よここに集い給え」
言った直後に辺りが静まり返り、耳鳴りがした。
パチ、パチ……パチパチ……。
照明が再び音を立てる。それに伴って明かりがついたり消えたり、激しく点滅し始めた。
ジジジジジと床から微細な振動が手のひらに伝わってくる。
「あ」
大牙の声と同時に、パチッと明かりが完全に消えた。
静かに目を開くと暗闇が視界に広がった。ただ暗いのではなく、集まってきた“それら”が群を成してできたもの。部屋が膨れ上がりそうなほどひしめき合っている。力のない霊は、僕の体に触れただけでサアッと簡単に散った。
「閉めて」
何も見えない中、大牙が畳を歩く音と、扉が次々に閉まっていく音が聞こえる。
床から手を離した瞬間、背中に冷たい風が通った。急激にうなじあたりが粟立つのを感じる。ぞわぞわ、ぞわぞわとまるで手足の長い虫がそこを這っているみたいだ。
これほどまで多くの霊に取り囲まれたのは初めてで、あまりの圧迫感に喉が詰まった。息が上手くできない。早く除霊しなければ。
「あるべきところに行き給え」
人差し指を立て、床に向かって突き立てる。
バリッ、バリバリバリッ。
部屋に響いた大きな家鳴りはまるで怒号のようだった。人差し指は床についているはずなのに、ぶるぶると痙攣した。なぜか力を入れても離れてくれない。
「うううっ」
目の前に、皮膚が弛みきった老人の顔が現れた。嗄れた声で唸りながら、両手を伸ばしてくる。これは大牙の祖父ではない。
「消えろ」
咄嗟に出た反対の手でそいつを叩きつぶす。霊の声まで聞こえたのは久しぶりだ。
気を取られているうちに、周囲を取り囲まれた。最初は右腕、肘、肩、胴体、それから下半身。徐々に体が黒い靄に飲み込まれていく。手で払ってもまったく追いつかず、とうとう口まで覆われてしまった。
──動けない!
普通の人間なら、いや、昔の自分だったらとっくに正気を失っていただろう。強い眩暈に倒れそうになりながらも、頭の中は妙に静かだった。
何のために修行をしたのか。何のためにここまで努力してきたのか。
なぜ僕はこんなリスクを背負ってまで、彼の役に立とうとしているんだ?
──たった一人、獅子道大牙を呪うためだけに僕は生きてきた。彼を自分のものにする。だから、こんなところで負けるわけにはいかない。
「う……」
歯を食いしばり、全身の力を振り絞る。すると手がわずかに動いた。杭を打たれたように体がギシギシと鈍い音を立てている。
痛い。熱い。苦しい。霊の声は、いつの間にか自分が発するものへと代わっていた。
なんとか退霊符を掴んだ。目を閉じて指先に集中する。
──この家を、獅子道一家を、僕を解放しろ。
念じ終わった途端にぶわっと体が後ろに跳ね飛ばされた。尻をついたのと同時に、体に纏わりついていた靄が霧散する。
遠ざかっていく意識の中、黒く燃え焦げた退霊符が最後に見えた。



