呪いが初恋に変わるまで


 考えながら立ち上がると、怯えきった瞳と目が合った。

「あは、なんでそんな顔してるの」

 普段の勇ましい表情はどこへやら、今は飼い主に怒られた犬──いや、雷を怖がる捨て犬のようだ。

「ゔ……っ!」

 今は何にも触れていないのに、呪いの締め付けがどんどん強くなっていく。顔は真っ赤に染まり、目も充血している。

「残念だよ。あんなのと関係持ってるだなんて」

 さっき見た光景を、そっくりそのまま真似することにした。
 あの女がどんな感情を抱いたのか、大牙の膝の上に乗ったらどれほど幸せになれるのか。自分も知りたい。

「な、んだよ、これ……なんで動けねえ……、何した?」

「静かに。こんなダサい姿、誰かに見られてもいいの」

 硬い太腿の上に跨って尻を落とす。そして彼の首にかかったネクタイに指をかけると、目の前にあった喉仏がゆっくりと静かに上下した。きゅっ……と唾を飲み込む音に頬が緩む。

「ふっ、緊張してる?」

 よく見たら、彼は全身に酷く汗をかいている。額や首元にまで。
 掴んだネクタイを手前に引き寄せてみた。鼻の息が触れ合うほど距離が近づくと、あとは自然と唇が重なった。
 ──ああ、今まで生きていてよかった。
 花の蕾が一気に膨らんで開いたような感覚だった。肌がぶわあっと粟立ち、頬に熱が迸る。

「ん」

 唇の粘膜を確かめるために舌を出した。割れ目をなぞり、隙間から入り込む。

「っ、やめ……ろ」

「口を開けてくれないと。キスできない」

 今こうしている間も、呪いの反動で体がおかしくなりそうだ。気を抜いたら全身から力が抜けてしまう。コントロールが効かなくなる前に、もっと深いキスがしたい。
 しかし大牙は言うことを聞かなかった。
 グッと唇を横に結ばれていては、これ以上はどうしようもない。

「頑固だな」

 彼のネクタイを緩め、シャツの釦を上から二つ開ける。
 立派な喉仏が先ほどよりも見やすくなった。ボコッと飛び出しているそこに舌を這わせる。

「な……に、して」

 不安定な凸凹は一度舐めたら癖になりそうな舌触りだった。塩っぽい汗と、人工的な香水の苦い味。何度も繰り返し舐めるうちに、もぞもぞと彼が動き始めた。

「や、め……ぅ、あ」

 柔らかな肌に僕の尖った犬歯が刺さった。
 ──いっそのこと歯型をつけてしまおうか? いや、噛みちぎってもいいかもしれない。
 そう思いながら強く歯を立てた瞬間、びくびくっと大牙の体が大げさなほど震えた。

「まったく……キスとこれ、どっちがいい?」

「ふ、ふざけるなっ」

「選ばないと噛みちぎるよ。その喉仏」

 限界まで寄せられた眉、額に滲む汗、そして上気した頬。その顔で睨むことで僕が怯えると思っている単純な脳みそ。すべてが滑稽に思えた。
 本気を見せるためにまずは喉を壊してやろうか──と顔を寄せたとき、大牙がぼそっと呟いた。

「……キス」

「え? 聞こえなかった」

「っ、だからっ……キスのがマシだって言ってんだろ!」

 大牙は僕と目を合わさぬよう、必死に遠くの床を見つめた。
 まさか正直に言うとは思ってなかった。こうなると、もっと意地悪したくなる。

「じゃあ、してくれる?」

「は……?」

「キスのほうがいいんでしょ、してよ」

「い、嫌だ」

「へえ……、そっか。じゃあ遠慮なく」

 生意気だから噛みちぎるのはやめた。親指以外の指を揃え、動脈を目掛けて思いっきり突き刺す。そのまま内側に向かって圧力をかけていく。

「ごぅっ」

 踏み潰された蛙みたいな声だった。
 ドッドッドッドッドッ。
 指先に、大牙が生きている証拠が新鮮に伝わってくる。
 このまま力を込めていれば、どんどん脳に血液が回らなくなる。もちろんやったことはないが、失神することもあるそうだ。

「キスしてみてよ。あいつにやったみたいに」

「う、うう……」

 腕に大牙の手がかけられた。
 彼の力が少しずつ戻ってくるのと同時に、力を維持して使っている自分の体調は悪くなっていく。時間の問題だ。彼が諦めるか、僕が諦めるか。

「っ、わか……った、から」

「ん?」

 何か聞こえた気がして手を緩める。
 大牙はぜえぜえと荒い呼吸を肩で繰り返した。

「……してやる」

「させてください。でしょ」

 彼の言葉に被せて言った。そうでもしなければ、主導権を明け渡すことになる。
 ギリギリと歯を食いしばった彼は喉から声を絞り出した。

「……させて、く……ださい」

「いいよ。はい」

「くそっ、なんで俺が」

「しないの?」

 観念したように大牙が目を閉じる。釣られて瞼を下ろした瞬間、ふにっと唇に柔らかいものが当たった。
 なぜかすぐ離れていこうとするから、襟首を掴んで引き留めた。
 大牙は何もわかっちゃいない。女にしたようにキスをしろと言ったのに、これでは犬にするキスと同じだ。

「もっと」

 仕方なく上唇を甘噛みすると、いきなりガッと首の後ろを掴まれた。熱い舌を無理やり捩じ込まれる。

「んっ」

 自己中で、プライドが高く、横柄。まるで大牙の性格をそのまま表すようなキスだった。
 重なった舌が溶けてしまいそうなほど熱い。首後ろの指から足のつま先にかけ、どくんどくんと甘い痺れが駆け巡る。

「ふぅっ……」

 ──これをあの女にしたのか?
 ──こんな風にうなじを掴んで逃げられないようにして、欲をぶつけた?
 考えただけで虫酸が走る。何物にも代えられぬ幸福と嫌悪が喉元までせり上がってきた。

「はあ」

 これ以上は耐えきれない。そう判断して大牙の体から退いた。
 力を抜いても彼は殴りかかってこなかった。くったりと椅子に凭れ掛かり、疲労を体現している。

「よくできました」

 整髪料があまりついてない後頭部を撫でてやる。予想通り雑に手で払われた。

「触んな」

「もう祓わないから」

「は!? なんで」

「約束破ったこと忘れた?」

「い、いやでもあれは」

「僕は友達全員を切れって言ったはずだけど。セフレでも彼女でも同じ。誰かと関係を持つなら、協力しない」

「……お前、イカれてるだろ……」
 
 彼の声を無視して放送室を出た。気付けばもう、三十分近く経ってしまっている。さすがの湯汲でも痺れを切らして帰ったはずだ。
 これからこの大雨に濡れて帰るのか──と窓の外を見ながら教室に戻ると、机に顔を伏せてスマホを弄っている彼がいた。

「え……」

「あっ、おかえり。遅かったな」

「まだ帰ってなかったんだ」

「そりゃあ。天城はなんか雨に濡れたら風邪引きそうだし」

「それどういう意味?」

 冷え切った指先がじんわりと温かくなっていく。湯汲の純粋な優しさが、なぜか今の自分を救ってくれるような気がした。
 みんな、最初から僕の容姿や能力だけを求めてくる。道具としての利用価値が下がったらすぐ捨てられる。大牙も、もし霊に悩まされていなければ僕と会話すらしなかったはずだ。

「なんか儚い? つーか」

「たしかに、体力はあまりないね」

「だろ〜! てか傘持ってこいし。今日めちゃくちゃ雨雲出てたじゃん」

「湯汲はわざわざ空見てから登校してるの」

 他愛ない会話をしながら下駄箱で靴を履き替えた。
 ──大牙は傘を持ってきたのかな。
 こんなときにでも彼のことが思い浮かんでしまう頭はどうかしてる。

「ってか傘そんなデカくないけど……」

 湯汲は年季の入った青い傘を開いた。よく提案をしたなと思うほど、二人で入るにはキツそうな傘だった。

「湯汲」

「ん?」

「優しいな。ありがとう」

「あっ、改めて言われるとなんか照れるな……こんなん気にするなって」

 彼は耳を赤らめて傘の柄を握った。
 下心でもなく、恩着せがましい親切でもない。
 大粒の雨を受け止める音を聞きながら、春の生ぬるい温かさがやけに心地良く感じた。