呪いが初恋に変わるまで


 獅子道大牙(ししどうたいが)。その男は、小学生の頃から名に負けぬ存在感があった。
 他の人より頭一個分抜けた身長、西洋人のような長い脚、くっきりとした目鼻立ち。おまけに誰よりも足が速い。大声で騒ぐタイプではないが、彼が言ったことは必ず通る。
 他の男子と比べる必要もないほど完璧な彼に、クラスの半分くらいの女子生徒が片思いをしていたと思う。そして僕も例外ではなかった。
 父親がボクシングジムのオーナーだからか、それとも生まれ持った素質か、自然と人が彼の周りに集まった。皆、子供ながらに魅了されていて、“この人には逆らってはいけない”と分かっていたのだ。

「こいつユウレイが見えんだって!」

 彼の取り巻きの一人が放ったその一言ですべてが始まった。
 いくつもの荒々しい刃先が向けられる。当時の僕にとってそれらの視線は、(おぼろ)げに見え始めるようになった幽霊よりもはるかに怖かった。
 否定できずにいたら、僕に関する噂はどんどん悪い方向に膨らんでいった。
 「触れたら幽霊が乗り移る」「喋ったら呪われる」
 何をするにもその決まり文句。クラスメイトの誰もが僕をのけ者にした。もちろん先生は見て見ぬ振り。助けるどころか、一人だけ馴染めない僕を()み嫌っていた。
 ある時ひとりで帰路を歩いていると、後ろから獅子道大牙と彼の取り巻きたちが現れた。僕の家のすぐ近くだった。

「ししどー、こいつの家これだよ?」

「おばけやしき!」

「お前がユウレイなんじゃねーの? いっつも暗い顔してっし」

「親いないんだってな! かわいそー」

 僕が誰にどんな扱いを受けようが、彼は何も言わなかった。ただ僕を軽蔑した目で見る。それだけ。
 だが、その日は違った。ボロい僕の家ではなく、僕の顔を見つめながらはっきり言ったのだ。

「きもちわる」

 その瞬間、密かに抱いていた淡い恋心が、パキッと音を立てて崩れ落ちた。
 視界に入れるだけでも嬉しい。嫌われていても見てくれるなら、それでいい。だって彼と仲良くなれるはずがないんだ。生きる世界が違うのだから──と、ずっとそう思っていたのに。

 無条件の純愛は、最も憎しみに変わりやすい。

 誰かが言ったその言葉に深い理解を示すようになったのは、それからすぐのことだった。


 ホームに降りた途端、外から吹き込んできた強い風に頬を打たれた。線路のそばに植えられた木々の葉が大げさなほど揺れている。“あれ”を実行に移すにはちょうどいい日だ。
 人の波に流されながら、獅子道大牙の背後に立つ。
 あの頃と変わらない大きな背中。自分より十五センチ以上は高く見える。あれから随分と身長が伸び、それに伴って体格も大きくなった。制服の下にはどれほど立派な筋肉が隠されているのか。
 ──なにより気になるのは、彼の体から漂っている忌々(いまいま)しいこの霊気。三体もの女の霊に憑かれるなんて、一体何をしたのだろう。
 彼女たちに触れないよう気をつけながら腕を伸ばした。後頭部の髪を指先で摘む。一本、いや二本。多く取れるならそっちのほうがいい。
 プチッと抜き取ると、彼がそこを手でおさえながら振り返った。

「……なに」

 ああっと感嘆の声が出そうになる。この瞬間を、何年も待ち望んでいた。
 以前よりさらに顔の彫りが深くなった。鼻根はまっすぐ通っていて、パーツの配置も完璧。肌は少し焼けているが、滑らかでニキビもない。イケメンとかいう陳腐な言葉で表すのは勿体ないとさえ思った。

「触ったか?」

 ガラス玉のような薄茶色の瞳に射抜かれる。ぞくぞくと背中が震え上がった。

「いえ、僕じゃありません」

 この人混みの中では、前を見ずには歩けない。
 大牙はすぐに顔の向きを戻した。が、間に合わなかったようだ。男性の肩がぶつかり、彼が少しバランスを崩す。その拍子にずり落ちた鞄の中身が見えた。
 財布、教科書、上履きのようなもの、ペットボトル。どれもサイズが大きくて微妙。
 あとで机から何か抜けばいいか──と諦めようとした時、袖の(ぼたん)が目についた。三つあるうち、一番下の糸が緩んだ釦が不自然に揺れている。
 鞄の紐を肩にかけ直した腕が、不意に目の前に振り下ろされる。考えるよりも先に手が動いた。
 髪を抜いた時とは違う、ブチッと太い断線音。確かな硬さが指先に伝わってきたが、幸いにも気づかれなかった。ちょうど階段に差し掛かったからだ。
 手のひらサイズの麻袋を取り出し、釦と髪の毛を入れる。風に飛ばされなくてよかったと、安堵のため息がこぼれた。
 こんな悪天候の中、たかが始業式のために群れをなして登校する彼らに背を向ける。
 同じ制服を着ているのに、なんで反対方向に歩いているんだ? と言いたげな目で見られても構わなかった。
 必要な物を手に入れた今、一刻も早く帰らなければいけない。このために何年も修行をして、また戻ってきたのだから。

 錆びた玄関のガラス戸を開け、部屋に駆け込む。じいちゃんの靴はなかった。仕事に行っているなら都合がいい。
 僕は麻袋から慎重に中身を取り出した。髪の毛と釦どちらもちゃんとある。透明なガラス皿に入れてみると、窓から差し込んだ光がスポットライトのように照らしてくれた。
 最後に必要なのは、一番たいせつなもの。
 押し入れに隠しておいた長方形の木箱を手に取る。春だというのに、指先に冷気が纏わりついた。蓋の窪みに指を掛けて横に引く。
 その中で静かに眠っているのは、呪念が込められた細長い紙──霊符(れいふ)だ。

「やっと……」

 ここまで来るのにどれほど苦労しただろう。田舎町の学校に通いながら、霊操師として力を鍛えるのは決して楽ではなかった。
 霊符に触れると、静電気が走ったように痺れた。ガラスの中でそれぞれが顔を合わせる。
 マッチを擦って霊符に落とした瞬間、黒い煙と共にボワアッと下から勢いよく燃え上がった。

「獅子道大牙に()(たま)え」

 物音一つない部屋に自分の声が木霊する。遠く遠く、きっと彼の耳にも届いたはず。
 ゆらりゆらりと広がっていく煙を見つめながら、獅子道大牙を頭に思い浮かべる。長距離マラソンで走りきった時のような高揚感に全身が包まれた。
 呪いをかけた者は相応の負荷を得る。霊操師(れいそうし)であれば、それによって一時的に力が弱まったりするらしい。
 昨夜、成功するだろうかと不安で眠れなかったのがバカみたいだ。霊符を燃やした瞬間から、何とも言えぬ違和感がたしかに体の中にある。
 ガラスの中身を指でかき集め、麻袋に戻す。いつの間にか頬が濡れていた。
 ──僕とは違う世界で生きる予定だった獅子道大牙を、これから自分のものにする。まさに一蓮托生のチャンスを手に入れた。

「はっ、はは……」

 この日、人生で初めて喜びの涙を流した。