日曜日のわたし
——「君が世界で一番大好きだよ」
そんな優しく甘い言葉に呪いをかけ、きみは今日もわたしを女にする。
わたしもその言葉に体を委ね、ただの女になる。
*****
一年三百六十五日のうち、日曜日は一体何日あるのだろうか。
「え? 何日?」
「そう、何日あると思う?」
「気にしたことないなぁ……百日くらいとか?」
「残念。五十二日とか五十三日とか。それくらいしかないらしいよ」
キツめのメンソールに火を点けた男へそう言う。肌の上から羽織った白いシャツから漂うのは、彼が好んでいる煙草の香りだ。
「そんなに少ないの? ヒメさんと五十回しか会えないなんて!」
起き上がろうとしたわたしの肩から、滑らかな肌触りの掛け布団が落ちる。彼——加野羽月はそれを落とさぬよう拾い、布ごとわたしを抱き寄せた。
「それは他の人も同じでしょう?」
「それは……ま、そうだけど……でも、俺はヒメさんが一番。知ってるでしょ?」
ちゅ、とおでこに落ちた唇は、次に瞼へ触れる。吸いはじめたばかりの煙草を灰皿へ押し付けると、羽月はわたしをベッドの上に縫い付けた。ああ、煙草がもったいないじゃない。
「もう無理」
だめ、と唇に指で作ったバツ印を押し当てるが、彼には通用しないことはわかっている。無駄なことだということもわかっている。
「ヒメさんをもっと堪能したい」
「わたしだって、羽月のことを堪能したいけどもう無理。年齢を考えて」
「今日はその可愛いお願い、聞けないな」
重なる互いの唇はとても素直で、またわたしは彼に溺れていく。
彼には七人の女がいる。
月曜日の女、火曜日の女。水曜日の女に木曜日の女と金曜日の女。そして土曜日の女。
わたしは、日曜日の女。日曜日の二十四時間は、わたしのものだ。
彼は誰かのものではない。だけど、わたしに優しい呪いをかけるのだ。
「君が世界で一番好きだよ」と、甘くて優しくて綺麗な呪いだ。
だけど、愛しているは言わない。だから、わたしも言わない。
*****
日曜日の午前十時を過ぎた頃、前日のアルコールが完全に抜け切れていないのが原因なのか、頭が割れるように痛かった。深酒をすることなんてほとんどないのにと、横たわる体の向きを変えようとした。
「……ん?」
あれ、おかしい。身動きが取れない。まるで金縛りに遭っているかのようで、一体何が起きているというのだ。完全に停止している脳を動かし原因を探ろうとする。はっきりわかることは、何かが意図的に押さえつけている、そんな感じがする。この原因を探ろうとしたわたしは、一旦冷静になり、ひとつ息を吐き出した。そして拘束している何かの上へ手を置いた。
「……はづき、ねぇ、おきて」
「ン……」
「起きてるんでしょ? ねぇ、羽月ってば」
ゆさゆさと肩を揺さぶるも、わたしを抱きしめているであろう原因の羽月は、ぴくりとも動こうとはしない。昨晩彼はいなかったはずなのに、どうやって部屋の中へ侵入したのか。考えようとしてわたしはそれを止める。そうだ、今日は日曜日だ。あらかじめ持っている合鍵で、日付が変わった瞬間、わたしの部屋へ侵入してきたのだろう。この男ならやりかねない。毎度毎度のことだ。
「はづき」
「まだねみぃ……今日は一日ゴロゴロしてよーよ……」
「嫌。明日の準備とか、洗濯だってしたいのに。それより羽月、いつ来たの? わたしが寝てても起こしてっていつも言ってるじゃない」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる羽月の力は、一向に弱くなる兆しを見せない。逆に強くなる一方だ。こうなってしまうとこの加野羽月という男は、面倒に輪をかけて「さらに面倒」な男となる。今日は昼過ぎまでこのままかと、わたしは頭の中で立てていた計画を全て諦めることにした。人生諦めも肝心だ。
「……お昼、作ってよ」
「もちろん。材料も買って来てある」
「先週の残り、まだ少しだけあるけど」
「……は? 先週の残り?」
勢いよく起き上がる音がする。これ幸いにとわたしも体の向きを変え、漆黒の瞳を見つめた。
「嘘だろ……」
「さぁ?」
「ヒメさんの魂胆なんてお見通し。何年の付き合いだと思ってんの」
「羽月が十五歳の時だから……もう十年以上の付き合いになるね。ほら、起きるよ。今日は一種に買い物へ行きたいの。そろそろ春物も買い揃えたいし」
小さく唸って、羽月は抱きしめていた腕の力を緩めた。本当、出会った頃から何も変わっていない。変わってしまったのは、自分の衰えた年齢だけ。そう自分で自分を笑った。
「春物?」
「そう、春物。気分を一掃したくてね」
解放された体をゆっくりと起こし、わたしの方を向いている羽月の前髪に触れた。さらさらと流れる誰もがうらやむ髪は、太陽の光を吸収しより一層輝いている。
「わかりました……起きます……」
「わかればよろしい」
羽月の体が起き上がると同時に、指で触れていた前髪がすり抜けていく。何故か切なく淋しく思え、気が付いた時には羽月の名を紡いでいた。
「ン?」
「なんでもない。呼んだだけ」
「……そ?」
上体を起こし、掠め取るように羽月はわたしの唇を奪う。そうだ、来月は彼の誕生日だ。もう少しだけこの微睡の中にいたい気もするけど、わたしはその気持ちを見て見ぬ振りで貫くことにした。
*****
羽月とこの奇妙な関係を結ぶようになって、七年になる。彼と出会ったのは、彼が十五歳の誕生日を迎えた当日の五月五日。まだ中学生だった羽月は、公園のベンチで血塗れのまま座っていたところを保護したあの時まで遡る。座っていた……——正確には意識を失いかけていたと表現した方が正しいかもしれない。帰る場所がないといった彼を、わたしは見捨てることが出来なかった。頼れる大人は誰もいないと言った。
最初の三年はわたしのアパートに居候をし、そのあと今のような関係へと変化した。
羽月にはわたしを含め七人の女がいる。何故こんなことになったのか、わたしも正直なところはわからない。ただ、この奇妙な関係を結ぶに当たり、いつくかの決まりごとが結ばれていた。
その一、指定曜日以外の接触は禁止とする。
その二、接触は指定曜日の午前零時から午後二十三時五十九分五十九秒までとする。
その三、羽月のプライベートとプライバシーには一切干渉しないこと。
その四、他の曜日の女と無意味な接触はしないこと。
その五、約束を反故した場合は即座に関係を解除し白紙に戻す。
要は「自分の宛がわれた曜日以外に羽月と会うな」という至極簡単で単純な取り決めである。
わたしと羽月の関係は一番長くて古く、他の曜日の女の子達はよく変わっている印象だ。もちろん、彼女らとの関係に口出しする気は一切ない。だけど、わたしと彼女達との間で、決定的な違いがひとつだけある。
「日曜日のお姉さん」……——それがわたしを呼称する名だ。羽月との決まった曜日以外の接触は固く禁じられているというのに、女同士の接触は全く禁止されていなかった。しかし、メッセージアプリのグループチャットまで存在している。わたし達七人の関係は良好だ。彼女達との決定的な違いというのは、わたしと羽月の絶妙な間柄だと言う。
「そんなことないと思うけど」
「日曜日お姉さんは、ワタシ達とは別格だよ! ハヅキは他の人の話は絶対しないけど、そう思う。じゃなきゃ『日曜日のお姉さん』だなんて呼ばれないじゃない」
「そういうもの……?」
「そういうもの‼」
鼻息荒く力説するのは、火曜日の女である通称・カヨちゃん。栗色の髪が緩く巻かれていて、爪の先まで綺麗に整えられている。今回のネイルはラメの入ったピンクのようだ。
「そう、お姉さんは別格。お姉さんなら何しても私達が許しちゃうし、納得出来るのよね」
と、木曜日の通称・キーちゃんは言う。その言葉に異議なしと、月曜日のツキちゃん、水曜日のスイちゃん、金曜日のカネちゃん、土曜日のツーちゃんだ。今日は金曜日の現在時刻は二十時半。本来ならカネちゃんが担当の日であるが、羽月と会う前にわたし達へ話したいことがあるとかで、駅前のカフェに集まっていた。
「ねえ、カネちゃん。話しておきたいことって?」
傍から見ればどういう集団だと思われているのだろう。雰囲気も個性も何もかもバラバラなわたし達七人は、遠目から見ても決して「友人」には見えないだろう。だけも、このアンバランスさがとても居心地よかった。アイスコーヒーの入ったグラスにストローを刺し、カネちゃんはくるくるとそれを回す。何となく予想のついたわたしは、自分の分の紅茶が入ったカップを見つめた。いつからだろう、コーヒーより紅茶の方が好きになったのは。
「今日で卒業しようと思って」
「え、それ本当……?」
「うん、今日羽月くんに伝えるつもり」
「そっかぁ……淋しくなるね」
ツキちゃんはそう言う。想像通りの言葉に、わたしはゆっくりとカネちゃんの顔を見た。
「皆さんには色々よくしてもらって、本当にありがとうございました。私の一生の宝物です!」
目尻に涙を溜め、彼女は続ける。カネちゃんはお姉さんとわたしの呼称を紡ぎ、頭を下げた。
「羽月くんのこと、よろしくお願いします」
「……だから、なんで私? 毎回卒業する子達に対して同じセリフ言ってる気がするんだけど……まあ、うん。幸せになってね、カネちゃん」
カネちゃんを囲んで、他の曜日の子達が涙を流している。わたしはこの光景を何十回、何百回見届けただろう。月曜日から土曜日の女の子達は、早い子だと三ヶ月、長くても一年程度で人が入れ替わる。それをわたし達は「卒業」と呼んでいた。
彼女達が卒業する理由は人それぞれだ。誰もそれを追求する人はいない。もちろん羽月もだ。そして空席になった曜日のポジションに、いつの間にか新しい女の子がやって来る。その度にまた新しいグループチャットを作るのだ。
カフェで解散したわたし達は、それぞれの道へ歩いた。世間では「華金」と言われる金曜日。特に予定もないわたしは、自宅マンションへ帰る気も起きず、その辺なお手軽なお店で夕飯を食べて帰ることを決めた。これは誰かが卒業する時必ず陥る現象で、気持ちの置き所が迷子になるのだ。
——「それは、ヒメさんが優しいからだよ」
そんなことを羽月は言った。「ヒメさん」というのはわたしの名前ではない。彼特有の呼び方で、わたしのことを本名とは別に「ヒメさん」と呼ぶ。どういう意味があるのかはわからない。一度どういう意味と聞いたことがあるけど、『ヒメさんは、ヒメさんだから』となんとなく意味がわかるようなわからない曖昧な回答を寄越した。
あれは最初の頃、まだ月曜日の女の子しかいない時があった。会いたくないと言ったわたしに、そう羽月は言ったのだ。ヒメさんは優しいね……——本当ずるくて、優しい男なんだと思った。
行き交う人達は、仲睦まじい様子で身を寄せ合い歩いている。きっと普通の恋人同士なら、これは当たり前のことだろう。だけどわたしと羽月の関係は「普通」じゃないのだ。
「普通、か……」
もう長いことこの何ともいいようのない関係に染まり切ってしまったわたしは、何が普通で何が普通でないのか、その定義すらわからなくなっていた。このままじゃダメなのはわかっている。わかっているはいるけれど、その先へ踏み出せずにいる一歩が、わたしから勇気という栄養素をどんどん搾り上げていく。どうせならこのまま干からびてしまった方が楽なのでは……だけど——。
「ひどい顔……不細工……あんた、誰……?」
信号を待つ間、お店の窓に映った自分自身の顔がとても醜く見えて、気が付いた時にはそう毒を吐いていた。まるで世界に自分ひとりしかいないような、そんな馬鹿げたことが脳内を駆けていく。どうしてだろう、羽月に会いたくなった。
*****
その日は朝から体調が優れなかった。正直なことをいうと、金曜日の夜から調子はあまりよくなかった。土曜日は一日薬を飲んで寝ていたけど、体はすっきりしていない。逆に悪くなっているような気もする。ああ、スマートフォンを弄るのさえ億劫だ。
「……きょう、にちようび、か……」
怠さが残る腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置きっぱなしとなっていたスマホを手にする。羽月へ連絡しないと。今日は用事が出来たから会えなくなった、そう言わないと。
暗い画面から眩しい白が目に入った瞬間、タイミングがいいのか悪いのか、羽月からの着信が届く。
「……タイミング……」
居留守を使おうか。そんな考えが頭を過る。でもそれが羽月には通用しないことを、わたしは誰よりも知っていた。
「……もしもし……?」
「あ、ヒメさんやっと出た! メッセージも未読だし、電話にも出てくれないし! もしかして仕事だった?」
「あー、ごめんね。いやー、ううん……仕事では、ないけど……」
何ともはっきりしない言い方は、余計怪しさを増長させる。だけどこの時のわたしは、脳が停止していた状態だったからか考えるという思考を停止させていたせいで、気の利いた言葉ひとつすら出てこなかった。いつもならこんなことありえないというのに。
「……嘘」
「え……?」
ふっと羽月の息を吐く音が耳を擽る。
「ヒメさんは昔から嘘が下手くそじゃん」
「嘘じゃ……」
「なるべく早く行くから、ちゃんといい子で寝てるんだよ?」
嘘つきと付け加え、羽月は通話を切る。耳の中の残響はとてもあたたかくて、涙が溢れてきそうだった。
それから四十分足らずで、羽月はわたしのマンションへやって来た。迎えに行こうとしてベッドから体を起こしていたわたしを見て、彼は呆れ声を出す。
「こら」
「本当に、来た……」
「俺、言ったよね? ちゃんと寝ててって」
「トイレに起きただけだよ。風邪移っちゃうから羽月は帰って」
寝室の扉の前で、彼は腕を組みながら深い溜め息を吐く。これは本当に呆れている表情だ。そんな羽月の手には、見慣れたエコバッグが握りしめられている。
「お腹は減ってない?」
「うん、特には……」
「じゃあ、なんか食べた?」
「ゼリーとか……あんまり食欲、なくて……」
トイレとベッドの往復だったわたしの顔を見て、羽月は「そんなことだろうと思ってたよ」と顔を緩める。エコバックからわたしが好きなスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、ゆっくりと近付いてくる。ぼうっとした視覚と頭の中、羽月はわたしのおでこに手を当てると、静かに眉を下げた。
「あっつ!」
ちょっと待ってと取り出したのは、冷却シートの箱。小袋をひとつ取り出し、ビリッとそれを開封する。シートを一枚取り出し、ビニールのフィルムを剥がしていく。その流れるような動きを、わたしはただじっと見ていた。
「ヒメさん、熱は測った?」
「ううん、はかってない」
「んー……体感で三十八度ってとこかな」
「それ、何基準?」
「ン? はーくん基準」
にやっと口角を上げ、羽月はそれをわたしのおでこに貼った。少しだけ冷たいと一言添えれば、言われた通りの感覚が襲ってくる。
「きもちいい……」
「……でしょ?」
つい口から出た率直な感想に満足したのか、羽月はわたしの肩を優しく押して、布団の中へ押し戻した。
「食べられそうなもの作って来るから、ヒメさんは待ってて」
「……ありがと」
「どーいたしまして? ヒメさんのためなら」
ぽんぽんと肩まで掛けられた毛布を叩き、羽月は寝室から消えていく。ひとりになった静かな部屋で、わたしは彼のぬくもりを思い出しながら、そっと目を閉じた。
あれは、羽月を保護した二ヶ月後のことだった。気崩した真新しい制服姿の羽月が、いつもよりテンション高めで帰って来た時があった。
「ヒメさん、おかえりー! ただいまー!」
「……どうしたの、随分機嫌がよさそうだけど?」
「え? いつも通りだけど?」
部活動に所属していない羽月は、どこで何をしているかわからないけど、帰宅する時間はその日によってバラバラだった。大体はわたしの方が帰宅する時間は遅いけれど、今日は羽月の方がいつもより遅かった。もう二十一時になる。
「ご飯作ったから着替えておいで」
「え⁉ ヒメさん飯作ってくれたの⁉ あー、俺の仕事なのに!」
「あなたみたく美味しくは作れなかったけど……それよりどうしたの?」
「え? 何が?」
羽月の方を見ると、彼はドアの前から一歩も動こうとせず立ち止まっている。いつもだったら「ヒメさん!」と抱きつくなりの激しいスキンシップが待っているのに、今日はその気配すら感じない。離してほしいと思うくらい鬱陶しいのに、どうしたのだというのだ。
「……何か、隠し事?」
「俺が……? ヒメさんに?」
「そう、あなたが。ヒメさんに」
通学用のバッグの紐が肩から落ちる。視線を逸らすことなく羽月のことを見つめていると、不意に彼の方から視線が外れた。
「何もないよ。俺、着替えてくる。あ、風呂の準備でもしてく……」
「羽月」
「……だから、なんでもねェって……」
「……はづき?」
しばしの攻防戦。先に折れたのは、羽月の方だった。
「あーあ、はいはい、降参。降参しますって! なんかさ、体が熱いんだよね。頭もぼーっとするっていうの? 喉も痛いし」
だから念のためわたしに近寄らないでいたらしい。一晩寝れば元に戻るっしょなどと言い放った羽月へ、わたしは急いで近付き彼のおでこに手を当てた。
「ちょっ! 人の話聞いてる!?」
「バッカじゃないの⁉ 一体いつから! 何で言わないのすぐに!」
「え、あ、ああー……今朝? ……ま、どうにかなると思ってたから、ヒメさんの手を煩わせるのもどうかなぁって思……」
羽月の言葉を遮り、彼の両頬を思いきり両手で挟み込む。バチンという小気味のいい音が、広くない部屋に響いた。
「いっ……」
「おバカ! いい? 辛い時とか苦しい時、しんどい時は我慢しないで必ず言うこと! じゃないと追い出すからね!」
「辛いとしんどいって……同じ意味じゃ……」
「何か言った⁉」
キッと羽月を睨みつける、少し怯えた顔で「ごめんなさい」と年相応の表情を見せ、目を俯かせた。
羽月は甘え方を知らない。彼は「家族」というものを知らない。だからあの日。満月の綺麗な夜、たったひとり哀しそうな顔をしていた羽月を見捨てることが出来なかったんだと思う。全てを諦めてしまった色の目を、見て見ぬ振りすることが出来なかったのだ。
*****
水曜日はノー残業デーである。なのに、そんな日に限って会議は長引き、定時を二時間も過ぎてしまった。最悪だ。これといった予定がある訳じゃないけど、こんな日くらいゆっくりしたいというのが正直なところ。せっかくご飯でも作ろうかと思ったのに。日曜日に羽月と買った材料が、冷蔵庫の中で待っている。
「……はぁ……」口から出るのは溜め息で、わたしはコンビニへ目的地を変えようと踵を返す。ああ、羽月が作ったご飯食べたいなあ……。一緒に住んでいた時は、ご飯を作るのは彼の役割だった。「俺が作るよ、こう見えて料理は得意なんだ」と言った時は信じてなかった。いや、男子高校生が(出会った時は中学生だったけど)作れる料理なんて、カップ麺くらいじゃないかと思っていたわたしの予想は、見事に崩れる。どこのお店のコース料理だと思った、それくらいの衝撃を受けた。正直に美味しいという気持ちを伝えると、羽月は子どものような顔を見せ笑った。その日から、わたしは羽月のご飯でなくては満足出来なくなってしまった、悲しいことに。
「……」
面倒だし、カップ麺でいいかなあ……。あまり羽月はいい顔をしないけれど、お手軽でわたしは大好きだ。いつもとは違うコンビニに寄り、目的の場所へ足を運ばせる。今はいろいろな種類があるんだなぁと陳列されているカップ麺を眺めていると、誰かがぶつかってくる。わたしがいたことに気付いていなかったのか、スーツ姿の男は「すみません」と謝罪を述べて来た。
「あ、いえ……わたしもぼうっとしていたので……」
「……あれ? もしかして……」
はい? と顔をその男の人に合わせると、相手は驚いた顔から人懐っこい笑顔へと表情を変える。
「栞奈? 久しぶりだな!」
「……え、まさか……」
わたしの目の前に現れたのは、大学生の時にお付き合いをしていた元カレ、草野くんだった。
*****
「あれ、栞奈お前コーヒーじゃなかったっけ?」
十年以上振りの再会に、彼はコーヒーでも飲まないかと誘って来た。家に帰っても寝るだけだったわたしは、ふたつ返事をし、今駅前の喫茶店で向かい合わせに座っている。
「え? あぁ、今は紅茶派なの。コーヒーも好きだけど、どちらかというと紅茶かなぁ……」
そうわたしが言うと、彼は興味を失ったのかメニューを閉じた。彼と付き合っていたのは約一年で、羽月と出会う前の大学生の頃。同じ学部で、帰り道の駅も同じだったのと、まあその場のノリでお付き合いをするようになった。今思えば、恋も愛もないおままごとのような恋愛だったと思う。太陽みたいな彼に、あの頃は皆憧れていた。
「変わりないか?」
「うん、特には。変わったといえば年を重ねたことくらいかなぁ」
「ハハハ、それは俺も同じだ」
注文したコーヒーと紅茶が届く。漂ってくる香りだけで、この紅茶はいつもわたしが飲んでいるものより味が劣ると察した。
「いい香りだな」
「そ、うだね……」
正直、外食をしても美味しいと思えなくなっていた。三年間そして今も、羽月の味に慣れてしまったせいか。彼が作る以上のものに、わたしはまだ出会えずにいる。
「それで、どうなの最近」
「え?」
「結婚、とか?」
「そういう草野くんは? その言葉そのままそっくり返すよ」
一口カップの中身を喉へ流し込んでみるけれど、やっぱり羽月の味には劣る。安っぽくて蒸らし過ぎた茶葉の味しかしなかった。
「俺? 独身貴族を謳歌中‼ この歳になっても独り身って辛いもんよ?」
「ふーん、もうとっくに結婚して家庭を持っているのかと思ってた」
「本当に容赦ねぇな……そういう栞奈は?」
「え?」
「だから、お前は?」
そのあとに続く言葉をわたしは予想立てる。きっと目の前にいる男は「男、いるのか」と聞きたいのだろう。いるといえば「いる」が、わたしと羽月の関係は正直なところ「恋人」といっていいのかわからない曖昧なものだと思う。行き場のないまだ、未成年だった彼を保護したあの日から今に至るこの奇妙な関係は、「恋人」と言って間違いないのだろうか。
「……どうした?」
「いるような、いないような?」
「は? 意味わかんねぇぞ、それ。全く相変わらずだなぁ」
あの頃より少し大人びた顔で笑う彼は、わたしの知らない男の人だった。わたし達の関係はもうあの時で終了している。わたしの中ではもうとっくに終わった、遠い過去の話なのだ。
「この歳になると、独身って肩身辛いよなぁ。周りは結婚してるし、子どもだっている。俺さ、毎日毎日仕事仕事で人生終わんのかなぁって最近考えるわけよ」
「それも人生といえば人生でしょ。そんなこといちいち考えていたらキリがないじゃん」
「相変わらず辛辣だよなぁ。本当、可愛げがねぇな栞奈は」
——「ヒメさんは世界で一番可愛いよ。え? 俺の言うことが信じられないの? 心外だなぁ」
別に自分が可愛いとか思っていなかった。だけど羽月はわたしに対して「可愛い」と「綺麗」を繰り返し伝えてきた。羽月は人を蹴落とすようなことは一切しなかったし、言わなかった。ああ、どうしよう。羽月に会いたい。だけど今日はまだ水曜日だ。この頃、羽月に会いたくて仕方ない。今までこんな感情に左右されることなんてなかったのに。
「でも、俺はお前のそういうとこ以外は嫌いじゃなかったな。可愛げはないけど、ちゃんと女だったし」
「ケンカ売ってる?」
「違う違う! 怒んなって‼」
お冷を顔に思いきりかけてしまうところだった。ぐっと堪え、奥歯を噛み締めわたしは草野くんを睨み付けた。
「あのさ、ここでひとつ提案があんだけど」
「どうせ下らないことでしょ。何? 仕方ないから聞いてあげる」
温くなった紅茶を口にし、わたしは彼が発しようとしている言葉を待った。
「俺達さ、ヨリ戻して結婚しない?」
*****
ざぁざぁと窓を打ち付ける雨音が、数時間前より強くなってきている。洗濯物は部屋の中にぶら下げており、外に出られないことを憂いているようにも見える。
「止まないね」
キッチンで何かを作っている羽月の背に、そう言葉を投げ掛ける。すると「止まねないねぇ」と残念そうな声が返ってきた。今日は久しぶりに外へ出掛けようかと羽月が案を出してきた。どうやら新しいレシピが思い浮かんだようで、その敵情視察に行きたいと言っていた。なんの視察だと思ったけど、わたしは彼がどんな仕事をしているかわからない。でも料理のことを楽しそうに話す羽月を見るのは、嫌いじゃなかった。
あれは高校三年生の冬。卒業したらここを出て行くと言ったのは、羽月の方からだった。
「え? 出ていく?」
「うん。いつまでもヒメさんの世話になってんのもさ」
はい、弁当箱ちょうだいと言う羽月へ、空っぽのお弁当を手渡す。今日も美味しかったよ、ご馳走様と一言添えて。
「別にいていいのに。まあ、高校卒業したら生活費とか入れてくれれば問題ないよ」
「うーん、でも決めたからさ。住むとこも目星付けたし」
「……え?」
テレビのリモコンを手にし、わたしは動きを止めた。彼はもう義務教育を終えたとはいえ、まだ未成年だ。あともう少しで高校生から卒業をするも、大人というカテゴリーではない。
「ねぇ、ヒメさん」
「うん……?」
「ヒメさんのことだから、多分気付いてると思うんだけどさ……俺、ヒメさんのこと好きだよ」
テレビからお笑い芸人の大きな笑い声が聞こえる。今のこの空気にそぐわない番組を選択してしまった自分を呪いたい。いや、笑えない。
薄々は勘付いていた。羽月のわたしへ向ける熱視線に、そういう類のものが絡まっていることを。だけど、わたしはそれを無視していた。一度触れてしまえば、全てが崩れてしまうと思ったから。この居心地の良さを体験してしまえば、それを手放すことをしたくはない。羽月との関係が砂の城のように消えてなくなることが、怖かったから。
「何それ、笑えない冗談? エイプリルフールはまだ早いよ。あのね、大人を揶揄うんじゃないの。もう、いい加減にしてよ」
「冗談? 本気だよ俺」
キュッと水道の蛇口を締める音がする。ヒメさんと羽月がわたしをこと呼ぶ。彼しか呼ぶことのない名称で。
一歩ずつ近付いてくる羽月の気配に、まるで金縛りへ遭ったかのような感覚が襲う。ふたりの距離がわずか三十センチ程度まで近付いたところで、羽月は柔く微笑む。
「ヒメさん」
「な、っ……」
両手でわたしの頬を包み込み、もう一度ヒメさんと彼特有の名が織られる。さっきまで水仕事をしていたせいか、羽月の手は冷たい。冷えた指先がわたしの頬を撫でる。
「俺はヒメさんのことが好きだよ。ひとりの女性として、ヒメさんが好き、です」
「は、づき……」
「ヒメさんって、ちゃんとしてるのにどっか抜けてるところあるし、でもガキの俺を助けてくれて面倒まで見てくれた。感謝なんて言葉で片付けらないのはわかってんだ。だけど、言わせてくれないかな。ありがとうって」
まるでこれが永遠の別れのような言い草に、何も言葉が出て来ない。羽月と名前をいつものように言えばいいのに、音になってくれない。
「……そんな顔しないでよ。俺、ヒメさんの笑った顔がめちゃくちゃ好きなんだ」
「はづき……わ、たし……」
「ひとつだけ我儘、言っていいかな」
「わがまま……?」
どくん、と心臓の音がする。頬を撫でていた羽月の指が、わたしの唇に触れる。
「ヒメさんが欲しい。俺に、ヒメさんのことくれませんか?」
急に大人びた顔をした羽月が、いつもより低い声でわたしの名前を呼ぶ。ヒメさん、とは違うわたしの本当の名前を。
「さ、ん……じ」
そのあとのことは正直覚えていなかった。ダメだ、相手は高校生だという葛藤と、この人が欲しいという葛藤がわたしの中で渦を巻いてぶつかり合う。漆黒の瞳がわたしをじっと見つめる。あ、キスされると思った瞬間唇が重なる。最初は軽く触れるだけで、二回目はお互いの熱を確かめるようにしっかりと。羽月はわたしの頬を包み込みながら何度もキスを繰り返す。これ以上はダメだと思っていても、振り切ることが出来ない。きゅっと羽月のシャツを握りしめ、その熱を味わう。
「……真っ赤」
おでこをくっつけて意地悪く笑う。子どものくせにと思いながらも、もう彼は立派な男なんだとわかってしまうと、恥ずかしさが急に襲って来た。
「俺に、あなたのことくれますか? 俺をあなたにあげるから」
「そんな言い方……ずる、い……」
「そりゃ、俺はガキだから必死なんだよ……わかってよ……」
ちゅっと鼻先に落ちてきた唇は、とても優しい。冷たかった羽月の手は、火傷をしそうなほど熱くなっている。羽月はわたしの顔を見て、そっと抱きしめた。それが壊れ物に触れるかのようで、泣きたくなったのを今でも覚えている。
俺、はじめてだからと羽月は言った。だからいろいろとごめんと眉を下げた顔を、そっと撫でた。
「わたしだって、高校生とははじめてだよ……捕まっちゃうかな……」
「……なんだ、俺がはじめてじゃないのかよ……」
拗ねたような声色になった羽月が、ぷいっと横を向く。向かい合うようにお互い正座をして座りながら、一瞬何があったか理解出来ずぽかんと羽月を見る。なんだかおかしくなって小さく吹き出すと、ますます面白くない顔をして、わたしを睨む。
「高校生とはって言ったけど、わたし他の人も知らないよ」
「……え?」
「別に守ってたわけじゃないんだけど、気が付いたら今になっちゃった」
何を言っているんだと思ったけど、正直なことをありのまま伝えたい、そう思ったら言葉になっていた。恥ずかしいとかそんな感情は完全に消え去っている。すると目の前に座っていた羽月の顔が、ほんのりと赤く染っていくのがわかった。
「……羽月……?」
「や、ばい……」
「……え?」
やばい、やべぇと羽月は何度も言葉にする。一体何に関してか下を向いている羽月を覗き込もうとすると、本当に小さな声でこう言った。「めちゃくちゃ、うれしい」と。
「ばっ……」
「最高のクリスマスプレゼントだ。俺もヒメさんも。ヒメさんへのプレゼントはとりあえず俺ね?」
「くりすま、あっ⁉」
「はい、もう黙って。もう俺、いっぱいいっぱいで、パンクしちまいそう……」
もう一回キスしていい? ……——尋ねるように言葉を織り、わたしはこくりと頷く。人生でこんな心臓がドキドキすることはなかったと思う。高校受験も大学受験も、就職試験も。わたしの肩に両手を置き、羽月はゆっくりと唇を重ねた。さっきはわからなかったけど、ちょっとだけかさついた唇は、男の子だと感じさせるには十分だ。
布の擦れる音、荒く深い呼吸。時折呼ばれる本当の名前。ぎゅっと握りしめた手からは、羽月の温もりが伝わってくる。
息が奪われて、上手く酸素を取り入れることが出来ない。肌を隠すものはもう何もない。照明に照らされた羽月の髪が、眩しいくらい輝いていた。
わたしの肌の海を泳いでいた羽月は、顔を近付けキスをする。くすぐったいと言えば意地悪な顔をしてもう片方に同じことをする。わからないことだらけだから、一緒に探していこう。口にしなくてもお互いに思っていたことは一緒のようで、少しでも顔を歪めたり体を強張らせると「大丈夫?」とわたしの体を気遣う。へいき、つづけて。そう伝えるとわたしの名前を紡ぎ、またわたしの体を冒険するのだ。
とろとろに溶けて、ひとつになって。その瞬間は不覚にも泣いてしまった。どんな感情なのかはっきりとはわからない。だけどそれ以上に羽月という全てを理解出来たとような気になって、わたしはまたひとつ涙を零した。
「すき、すきだ……」
「……っ、……」
与えられる青い欲は、どこまでもわたしを貫く。欲望の海に落ちていく。羽月は何度もわたしのことを好きだと想いを告げる。その真っすぐ過ぎる想いにわたしは自分の気持ちを重ねることが出来なかった。好き、好きだよ。そう言えばどんなに楽だったのだろう。素直になればよかったのだろうか。注がれる羽月の汚れない想いが、わたしには重かった。だけど、彼とひとつになれたことは、ずっと願っていたことなのだ。
*****
「ヒメさん? おーい、ヒメさーん?」
「……え?」
「……ったく、ひとりでどこまでおサンポに行ってんだよ。ほら、出来たよ。今日はハニーミルクティーにしてみた」
色違いのカップからは、甘い蜂蜜の香りが漂ってきた。元々コーヒー派だったわたしが紅茶派へ心変わりをしたのは、全部羽月の影響だ。インスタントコーヒーばかり飲んでいてわたしに「騙されたと思って飲んでみてよ」と淹れたての紅茶を飲ませてくれたのはまだ中学生の彼だった。半信半疑でそれを口に入れたわたしは、その瞬間から紅茶の世界にどっぷりとハマってしまったわけだ(本人に言ったら大袈裟過ぎるんだよと笑われたことを、今でも許していない)。
「はぁ、美味しい……やっぱり紅茶が一番」
「『紅茶なんて絶っっ対飲まない!』って言ってたのは誰だっけ?」
「ぐっ……言い返せない……」
わたしの言葉に羽月は歯を見せて笑った。悔しい気持ちで羽月から受け取ったカップを両手で持ち、ふぅふぅと息を吐く。
「この前飲んだ紅茶とは大違い。世の中の人は羽月の味を見習えばいいのに。ああ、でもそれもヤダなあ……」
「……この前? 珍しいね、ヒメさんが外で紅茶を飲むなんて」
「え? あー、そうそう。昔の知り合いに会ったの、偶然」
わたしの隣に座った羽月は、テーブルの上へ置きっぱなしになっている煙草へ手を伸ばし、慣れた手付きで火を点ける。もう嗅ぎ慣れたその匂いは、わたしが好きなもののひとつだ。
「昔の、知り合い……」
「羽月……?」
「……結婚しようって言われてたよね、そういや。そういう知り合いなんだ、あの男の人」
「……⁉」
まさかあの場面を見られていたとは。元カレといるところを羽月に見られた? しかもヨリを戻して結婚しないかと言われたところを? 何も悪いことなんてしていないのに冷汗が出る。気持ち悪いくらいだ。
「俺さ、どうもダメなんだよね」
紫煙をひとつ吐く。テレビ画面からはまたお笑い芸人の笑い声が聞こえる。
「なに、が……?」
「ん? なんだと思う?」
ちらりと横目でわたしを見る。ドキリとするその眼光は、羽月の綺麗な青色の瞳を妖しく光らせた。
「ヒメさんのことになると、自分のこと上手くコントロール出来ないんだよね……昔から」
「はづ、……」
き、と彼の名を紡ぐ息は、彼の吐息に吸い込まれていく。羽月は煙草を指の間に挟み、わたしの唇を奪った。
「あの男は一体誰? ヒメさんのなんなの? え、ヒメさん結婚すんの、あの男と? 俺がいるのに?」
「はづ、き……ちょっと、待っ……」
「待たない」
わたしの手の中にあったカップが奪われる。それはテーブルの上へ煙草の並ぶよう置かれ、わたしの両手は迷子になる。もう一度羽月はわたしにキスをする。煙草の苦みと蜂蜜の甘味が混じった味だ。
「ねえ、ヒメさん知ってる? 俺が抱く女の人って、ヒメさんだけなんだよ?」
「……ッ……」
「明日さ、仕事ズル休みしてくれないかな? 多分それがヒメさんのためになると思う。あと悪い。今日は限界が来てもヒメさんのこと抱き続けたいから」
もう聞き慣れた言の葉は、わたしの眼から一筋の涙を零させた。こんな時まで羽月は「愛している」を言わない。
その日わたしは日付が変わる寸前まで彼に抱かれた。
*****
お洒落なカフェを見つけたんだと、水曜日の彼女は言った。「羽月くんと一緒に行きたい」という彼女の要望に、俺はふたつ返事をして彼女のおススメだというカフェへ行くことにした。店内は落ち着いた雰囲気で、客も満席に近いくらい座っていた。
「(結構流行ってんだ……)」
一番奥の角のテーブルを案内され、俺は彼女をエスコートし奥の席に座る。店全体の雰囲気を見渡せる、絶好の場所だ。
「何がいいかなぁ……」
「好きなの頼みなよ。残ったら俺が食べるから安心して」
「本当頼りになるよね、羽月くんって。それじゃあ……」
メニュー表を眺め彼女はパンケーキセットを、俺はパスタセットをそれぞれ選びウェイターに注文する。楽しみだねと彼女は笑っていた。
彼女との付き合いは、七ヶ月になる。看護師として医療関係に従事している彼女は休みもまちまちで、決まった水曜日に会えないこともある。今日は丸一日休みだと先週教えてくれたのだ。
俺が月曜日から日曜日までそれぞれの曜日に「特定の彼女」を作るようになったのは、ヒメさんの家を出て一年半が過ぎた頃のことだった。最初ヒメさんは「何を言ってるんだ」という顔で俺を見た。ま、彼女がそういう顔をするのは当たり前だよなと呆れ顔のヒメさんを眺めていたのは、風呂の中。もこもこの泡風呂の泡で遊んでいた彼女の顔が見事崩れたのは、俺だけしか知らない表情だ。
ヒメさんの家を出たあとも、俺達の関係が途切れるということはなかった。頻繁に彼女のマンションへ通い行き来をしていた。前と違うのは、そこに俺が住んでいないということ。彼女は俺が出ていったあとも俺が使っていた部屋をそのままにしていた。そのさり気ない優しさが、彼女そのものだと嬉しかった感情は今も覚えている。
ヒメさんのところを出ようと決めていたのは、高三の春。中学三年の誕生日の日、施設を飛び出した俺は道すがら売られたケンカを買い、ボロボロになっていた。それを彼女は保護してくれた。施設に戻りたくないこと、家族も身内も親戚もいないことを言うと、彼女は自分が保護者変わりになると言ってくれた。周りには遠縁のお姉さんとだけ言って、ヒメさんは俺の中学校の卒業式にも高校の入学式にも卒業式にも来てくれた。
「……ここ、お姉さんの家?」
「うん。えっと……あ、この部屋使って。荷物とかは明日以降揃えよう。まずは傷の手当てをしましょう。こっちに来て?」
手招きをされ俺は宛がわれる予定の部屋を出る。ひとり暮らしには大きいんじゃないかと思うくらいのテレビ、整理されたテーブルとひとり用の座椅子。どこを見ていいかわからなかったけど、ガキみてぇに部屋の中を見回した。
「全く、何をどうしたらこんなケガするの?」
「痛ぇっ‼」
「我慢しなさい‼ 男の子でしょ⁉」
「痛ぇのに、男も女も関係ねぇよ‼」
まずは汚れと血を落とし、脱脂綿に染み込ませた消毒液で傷に触れる。口の切れた傷口に沁みる。わざとやってんじゃねぇかと思うくらい痛い。俺が痛ぇ痛ぇって騒ぐからか、今度は優しく拭き取りはじめた。
「せっかくの綺麗な顔が台無しだよ」
「え?」
「あ、イケメンって言った方が嬉しいのかな? うわー、肌なんてすべすべ……」
腹立つと、今度は人差し指で俺の頬を突き出した。痛ぇから止めろって言っても、きっと聞いてくれないんだろうな。
「明日、一度施設に行こう」
「……明日?」
「ちゃんと筋は通さないと。そしたら買い物に行こう。きみに必要なもの揃えなくちゃ」
はい終わり、そう言い絆創膏が貼られる。口元にピンと張る独特な感じがした。
「また明日傷見せてね。他にケガしたところはない?」
「あー……あとは特には、ないかな。俺、基本的に手は使わないから、ケンカで」
「ん? じゃあどうやって殴るの?」
救急箱の蓋を閉めながらお姉さんはそう問う。いや、殴る前提なのかと吹き出しそうになったけど、興味津々といった表情は、まるで子どもみたいだ。
「足。蹴るの」
「うわー、不良」
「は? 何だよそれ。俺は不良じゃねぇっての」
ジトッと見る目は、俺の言ってることを信じてないんだとすぐにわかった。この人は表情に全部感情が出るから、すごくわかりやすい。見ていて楽しい。
「そーだ。お姉さん、飯は?」
「え? ああ、もうこんな時間だし……カップ麺でいいかな。わたしそんなに得意じゃないんだよね、料理。ご飯は柔らかく炊けちゃうし、お魚は焦げちゃうし。君もカップ麺でいい?」
「……よっしゃ、わかった。今日からこの家の食事管理は俺がする」
「……え?」
目を大きく見開き、お姉さんは俺を見上げる。不思議そうな顔は、俺の言ったことを理解していない様子だ。勢いよく立ち上がり、俺は腕を回してみせる。
「俺ね、得意なの。りょーり」
学ランを脱ぎ捨て、お姉さんへ持っててと手渡す。それを預かったお姉さんは、未だ状況を把握出来ていないみたいだ。
「冷蔵庫、開けるよ」
「あ、はい。何も入っていないけど……」
「そりゃねェだろ。何かしら入って……ないじゃん!」
冷蔵庫の中はほとんど入っていなかった。嘘だろ? 何かの冗談だろ? 俺を見ているお姉さんの顔はとても申し訳なさそうで、目線が少しだけ揺れていた。
「普段何食って生きてんの? え? 空気? 仙人?」
「仙人は空気じゃなくて霞を食べてるの」
「いや、そんなんどっちでもいいし! えーっと……卵一個に、酒と……ちょっと! この納豆賞味期限切れそうじゃん!」
「納豆は腐ってるから多少過ぎても平気だよー」
冷蔵庫の中は悲惨なものだった。一体彼女は何を食べて生きてるんだ。ちらりと冷蔵庫から視線を動かすと、その隣にはカップ麺がびっしり入った箱が俺をじっと見ていた。
「……お姉さん、食費も俺に管理させて。こんなんダメだろ!」
「え? 何もそこまで……」
「わかった。俺がこれから作るもの食って納得したら、この家の食関係は全部俺に一任して。納得いかなかったらもう口出ししない」
俺かそう言うとお姉さんはわかったと頷く。炊飯器を除くと中に入っていたのは冷えた飯。さっき冷凍庫で未開封のミックスベジタブルを見つけた。他の材料と調味料を確認し、頭の中で何を作るか俺はメニューを決める。本当に何もない。作れるのはオムライスとちょっとしたスープくれるかな。
「絶対美味いって言わせてやる」
シャツの袖を腕捲りした俺は、いざ戦場へと向かった。
結果として俺の勝利だった。
「なにこれ……美味しいんだけど……え? 冷蔵庫にあったやつで作ったの? 魔法?」
テーブルの上に乗っている夕飯を前に、お姉さんは何度も同じことを言う。
「お姉さん見てたでしょ? 俺以外誰か他にいた?」
「ううん、きみひとりだけしか見えなかった、ハズ……」
「何だよ、それ。で? 俺にこの家の食事管理一任させてくれる気になった?」
首を傾げそうお姉さんに尋ねると、振り子人形のように頭を上下へ動かす姿が目に入った。いや、そんなに振ったら首取れちゃうんじゃないかと思ったけど、気に入ってくれたならまあいっかと思ったところも正直ある。
俺は昔から料理が好きだった。誰の影響かはわかんないけど、ぼんやりとした記憶の片隅にあり合わせの材料でピラフを作ってくれた母親の残像が映し出される。その味が忘れられなくて、俺はずっと再現したいと思ったのが、料理を好きになったきっかけなのかもしれない。もう二度と食べることが出来ないまま、俺はひとりぼっちになった。
「きみ、天才だね」
「お姉さん、言い過ぎ。世の中にはもっと上がいっぱいいる」
「ううん、わたしはきみの料理が大好きだよ。世界で一番大好き‼」
「……」
「あ、そうだ。名前教えて? いつまでもきみってのはおかしいでしょ? これから一緒に生活するんだし」
スプーンを皿の上に置いたお姉さんは、ニコニコと笑いながら自己紹介をはじめる。宝石みたいな綺麗な名前だ。俺はそれを口の中でそっと紡いでみた。
「きみは? 次はきみの番」
「……はづき。俺の名前は、加野羽月」
「かのはづき、くん……。素敵な名前だね! これからよろしくね、羽月くん」
差し出された手にゆっくりと自分のそれを重ねる。壊れちゃうんじゃないかと思うほど小さな手のひらは、まるで彼女そのもののように見えた。そして日にちか経つにつれて、彼女は俺のことを「羽月」と呼ぶようになる。
「うーん、美味しい! 羽月くんのはどう? 一口食べる?」
「これも美味いよ。食べてみる?」
一口サイズにパスタをフォークへ巻き付け、目の前に座る彼女の口元へ差し出す。小さな口を開けた彼女は、トマトパスタを咀嚼した。
「うん、美味しい! ここ大正解だったでしょ?」
「うん、そうだね。店の雰囲気もいいし気に入ったよ」
「よかったー。また来ようね」
満足げに笑い彼女はオレンジジュースをストローで飲んだ。確かに料理は不味くない。だけどもう一度来たいかと問われたら、素直に即答出来ないのが正直な感想だ。セットに付いていた紅茶なんて飲めたもんじゃない。茶葉蒸らし過ぎだろうと、厨房へ文句を言いに殴り込むかと思ったくらいだ。そこはぐっと堪え、帰ったら何か口直しをしないと何を飲むか考えていた。そんな時だった。ドアベルが来客を報せる音を奏でる。水曜日の夜だから、男女のカップルが来店するのも理解出来る。何気なしにドアの方角を見た俺は、息を飲んだ。
「(嘘だろ……)」
七三分けのスーツ姿の男の隣にいたのは、ヒメさんだった。少し疲れた顔をしている彼女の平日の姿を見るのは、いつ振りだろうか。あァ、また無理してんだろうなと一瞬でわかった。何を会話しているかはわかんないけど、ふたりを取り巻く空気からは「同僚」とは少し異なっているように感じた。昔馴染み、学生時代の友人……そんな独特のものに包まれたふたりは、俺の座る席から一番よく見える場所に案内された。ヒメさんは俺に向けて背を向けて座っているから、この場に俺がいることを知らない。もちろん目の前に座る彼女もだ。
注文したのはどうやら飲み物だけのようで、ヒメさんはバッグの他に見慣れたエコバッグを持っていた。
「(またカップ麺かよ)」
中身を予想する。お湯を沸かすだけだから楽ちんなんだよねと得意気に言っていたことがある。俺に悪びれる様子もなく大盛キムチカップ麺を食べていた時は、開いた口が塞がらなかった。そうだな、今度の日曜日はどっか美味い店にでも連れてこうかなかと、頭の中で次の計画を立てていると、ヒメさん達を取り巻く空気が一気に変化していく。ヒメさんは怒っている。彼女の目の前に座る男へ対して、ヒメさんは怒りを露にしているのだと、俺はすぐわかった。十年の付き合いだ、大事な……この世でかけがえのない存在の女《ひと》のことをわからないような男には成り下がっちゃいないと、自負している。
「ねぇ、羽月くん。デザートも追加していいかな?」
「もちろん。おススメは季節のジェラートだって。他にもたくさんあるよ。どれにする?」
「うーん、そうだなぁ……」
彼女はデザートのページを何度も行き来させ、どれにするか決めかねているようだった。ヒメさんだったら即答するか「羽月に任せる。だって間違いないもん」と全権を俺に委ねてくる。
うん、ちょっと待て。今、俺は誰のことを考えていた?
ヒメさんだったら? 彼女以外の人といるのに、その人じゃない他人を考えていた?
——「全部羽月に任せるよ。だって、間違いないもん」
きっとヒメさんだったらこう言う。基本的、どこかの店へ食べに行くということはあまりしないが、彼女は食に関して俺へ一任しているところがあった。絶対的な信頼というのか、俺と彼女にしかわからない「何か」があるのは確かだと思う。
「(ヒメさんに、会いたいな……)」
いや、今目の前にいるのは彼女だけど、俺だけを見て俺の名を呼んでもらいたい。キラキラと輝く星みたいな声で「羽月」と呼んでもらいたい。抱きしめていっぱいキスをして、ずっとくっついてたい。くすぐったいよとか、下らない話をたくさんして、彼女の好きな紅茶を飲みながらあの人をただ感じていたい。
ねえ、ヒメさん。俺はあなたのことが好きで仕方ないんだよ。愛しているなんて言葉じゃ言い表せないほど、あなたがいないと生きていけないんだよ? あなたは、それを知っている?
「俺達さ、ヨリ戻して結婚しない?」……——そう彼女へ言い放った男を殺してしまいたいほど、俺はあなたに溺れているんだ。
*****
どちらかというと器用な方ではなかった。他人からの重圧は苦手だったし、目立つことはなるべく控えていたい性格だと思っている。だけどお節介なところもあるのを自覚している。自分で自分の首を絞めているところがないとは、言い切れなかった。
あの日は満月の夜だった。仕事にもようやく慣れた頃、任される仕事も増えた年度末の帰り道だった。仕事もスムーズに進み定時退社が出来た喜びに、少しだけ舞い上がっていたのかもしれない。
「綺麗なお月様……」
夜空に浮かぶ満月は、何か惹かれるものがある。いつもなら寄らない公園に足を進めたのは、この月のせいかもしれない。マンションの屋上から見るのもいいけど、今日はどうしかそういう気分ではなかった。導かれるかのように入ったのは小さな公園。遊具が滑り台とブランコ、それとベンチがあるくらいの小さな公園。一台だけあるベンチに座ろうとして、ちょっとした違和感を覚えた。黒い影が、その場に蹲っている。
「……だれ……?」
まさか犯罪者? 目を細めながらちらっと見ると、夜の闇に溶け込んでしまうほどの黒髪が動く。
「き、れい……」
「……あ?」
目を凝らしてその動く「何か」を見る。わたしの目に映ったのは、漆黒色の髪と綺麗な顔をした男の子だった。黒の学ラン姿の男の子の訝しげな表情で私を見ている。
「きみ、どうしたの? こんなとこ……⁉ ケ、ケガしてるじゃない‼」
「なんでも、ない……」
伸ばしたわたしの手を払おうとして、男の子は一瞬躊躇いを見せる。口元に血が滲んでいて、見るからにとても痛そうだ。
「ケガをしている人、放っておけないでしょ!」
バッグからハンカチを取り出し、男の子の口元に付いた血を拭う。ビクッと体が震えたのに気付かない振りをした。
「きみ、こんに時間に何してるの、こんなところで。おうちの人心配してるよ」
「……してない」
「え?」
「家族なんか、いない……」
何かワケありの男の子は、どこか淋しげな声を吐いた。ところどころ制服が汚れていて、事情があることをすぐ察する。
「……きみ、行くところないの?」
「……ない」
見るからに未成年の男の子をこのまま見過ごすのは、人としてあるまじき行為だと考えたわたしは、男の子に向けて「わかった」と言葉を掛けて手を差し伸べた。
「うちに来る? まずは手当てをしよう。行くところがないなら、わたしのところにいればいいよ」
冷静に考えればなんて非常識な行動をしたのだろう。だけどわたしには、この男の子をひとりにすることが出来なかった。お節介と言われてもいい。戸惑いながらわたしの手を取った男の子——羽月の目がとてもやさしい色をしていたのが、とても印象的だった。
目が覚めると、わたしを抱きしめて眠る温もりがそこにはなかった。時間を確認すると、二十三時を三十分過ぎたところ。思うように動かない体と痛む喉をどうにかしたくて、ゆっくりと起き上がろうと試みるもいうことを聞いてくれない。
「(どこに行ったんだろう……もう、帰ったのかな……)」
どれだけ羽月に抱かれ続けたのだろう。限界を超えても、羽月はわたしを求め続けた。カーペットの上、ソファーの上、脱衣所にお風呂場、そして寝室……——。ここまで彼がわたしに執着するのははじめてかもしれない。一体何があったのだろうか。ドアの隙間から香る有害の匂いが、まだこの部屋に持ち主がいることを教えてくれた。
「(ダメだ、起き上がれないし、声も上手に出せない……)」
ドア一枚を隔てた向こうに羽月がいるというのに、頭と体が思うように動かない。このまま時間だけが過ぎて行って、月曜日を迎えてしまうのだろうか。
羽月があのカフェにいて、草野くんが言ったセリフを聞いていた。疚しいことがあるわけではない。元カレといえど、友人の延長線上みたいなものだった。付き合おうとかそういう甘さもなく、一方的に別れを告げられた記憶しかない。ヨリを戻すなんて考えたこともないし、結婚なんてまっぴらごめんだ。羽月はどこまで聞いていたのかはわからない。だけどわたしはちゃんとあの場で彼の申し出を断っていた。きっぱりと。
「……え? もう一回言って?」
「だから、あなたとヨリを戻す気なんてないし、結婚するつもりもないから」
最後の日と口を飲み終え、わたしは美味しくない紅茶が入っていたカップをソーサーの上へ置いた。目の前の彼は断られると思っていなかったのか、驚いた顔でわたしを見ている。
「よーく考えてみろよ? 別に返事は今すぐじゃなくていいからさ」
「考える間もないよ。わたしはあなたとヨリを戻さないし結婚もしない」
きっぱりと否定の意思を伝えると、彼は息を深く吐き椅子の背凭れにグッと体を預けた。
「……これっぽっちも?」
「これっぽっちも」
「一ミクロンも?」
「一ミクロンも」
下らないやりとりのあと、マジかーと落胆の声を出すも、彼の顔は笑っていた。
「本当にブレねェな、お前」
「わたし達は友達がちょうどいいんだよ。それに、わたしの他に付き合っていた女の子がいたの知ってたんだから」
「……は? うぇ……」
彼がわたしじゃない誰かと付き合っていたのに気づいたのは、割とすぐのことだった。そう思うと曜日ごとにきちんと切り替えている羽月は、ある意味尊敬に値する人物なのかもしれない。随分と前に「何でこんな面倒なことをするの」と聞いたことがある。その時羽月は「いつかちゃんとした理由教えるから」と曖昧な返事をくれた。
「本当、可愛げないよな」
「誉め言葉、ありがとう」
「誉めてねえっての」
彼は氷の解けた水を一気に飲み干し、また深い溜め息を吐く。
「栞奈……お前、やっぱり男いんだろ」
「またその話? いたとしてもあなたに関係ないでしょ? 何か迷惑でも掛けてる?」
「だから、そういうことじゃなくて。そのさ、綺麗になったなって」
「……はい?」
「知ってる? 俺さ、実は一目惚れだったって」
お前に好かれる男が羨ましいよ、そう彼は続けた。わたしに好かれている男?
——「ヒメさん」
出会った頃から変わらない笑顔は、いつまで経っても少年のようだ。面倒くさいくらい優しくて、いつも自分自身を全身でぶつけてくれた。一緒に出掛けると「あの子可愛い」なんて鼻の下を伸ばす癖も、急に男の子から男性へ変わる瞬間も、全部全部が尊い宝石のように煌めいている。
「(羽月……)」
会いたい、今すぐ羽月に会いたい。窒息してしまうほど強く抱きしめてもらいたい。
ああ、もう見て見ぬ振りなんて無理だ。わたしは羽月が大好きなんだ。ひとりの男の人として、彼が好きなんだ。あのクリスマスイヴの日、はじめて羽月とひとつになった日。わたしが素直になっていたら、今も隣で笑っていただろうか。
「……いるよ」
「え?」
「世界一生意気でカッコいい、大好きな人」
「……そっか。なら安心したわ」
そう彼は言った。初恋を知ったばかりの少女のようで少しだけ歯痒かったけれど、気付いてしまった気持ちにもう嘘は吐けない。
今度会った時、正直に伝えよう。羽月に、羽月のことを世界で一番愛しているって。
「……起きた?」
「……ん……」
はい、とペットボトルを手渡す羽月は、シャツを羽織った姿で寝室に入ってきた。シャワーでも浴びて来たのか、少し水気を感じる。
「シャワー借りた。一応体拭いてはみたけど、明日ちゃんと風呂に入ってね」
ベッドの軋む音がする。羽月は静かに腰を下ろし、わたしの前髪を指で払う。ペットボトルのキャップは開いていて、力の出ないわたしを気遣ってくれているのがわかる。
「……ごめん」
「……え……?」
「最低なこと、した……」
一体何に対して羽月は謝っているのか、皆目見当もつかなかった。だけど察することは出来た。
「ううん、へーき」
「……でも……」
羽月の手の手を横から握り、ゆっくりと撫でる。残された時間はあと十五分しかない。
「羽月」
「うん? ヒメさんどうかした?」
伝えないと、羽月に伝えないと。わたしのこの生まれたばかりの想いを包み隠さずに、ちゃんと伝えないと。
羽月の小指をきゅっと握り、もう一度名前を呼ぶ。彼はわたしの口元まで体を折り、耳を寄せた。
「ちゃんと、きいてくれる?」
「俺がヒメさんの話聞かない時あった?」
「ううん、ちゃんとはづきはきいてくれる。だから、ちゃんときいてほしい」
聞くよとでもいうように羽月はわたしの手をぎゅっと握り返して来た。言わなくては、ごくりと生唾を飲みわたしはもう一度「はづき」と名前を紡いだ。
——「ヒメさん」
「ねえ、『ヒメさん』って、一体どういう意味なの?」
「え? 満月の夜だから」
「……はい?」
高校入学のための買い物に出掛けた日の帰り、棒付き飴を舐めながら羽月は答えた。満月の夜がなんだって言うのだ。
「ごめん、ちょっと意味がわからない。若い子の隠語とか?」
「なんだよ、それ。だーから、俺達がはじめて会ったのはおっきい満月の夜だったでしょ? ヒメさん、月から降りて来たかぐや姫だと思ったんだよ」
「……へ?」
「だからかぐや姫のヒメ。わかってくれた? ヒメさんは俺だけのお姫様なの」
さらりと言って退ける羽月のセリフに、頭の思考が追いついていかない。どこを同わたしがかぐや姫になるのだろう。一度精密検査を受けさせた方がいいのではと、真面目に思ったくらいだ。
「あー、他の人に呼ばせないこと! これは俺だけの特別な呼び方!」
ニカッと笑いながら、羽月はわたしの手を引く。その横顔は不覚にも綺麗だった。
「わたし、はづきの『ヒメさん』って、すごくたいせつなの」
「俺だけの特別だからね。俺にとってヒメさんはたったひとりのお姫様だし」
「……はづきも、わたしのとくべつ、だよ」
「……え?」
漆黒色がわたしを見る。交差する視線は、とても熱い。
「わたし、はづきのことがこのせかいでいちばんだいすき。ずっとずっと、だいすきだよ」
空気が止まった気がした。羽月は何も言わずわたしを見る。どくどくと、心臓の音がうるさい。羽月に聞こえてしまわないだろうか。恐る恐る彼の方を見上げると、驚いた表情と一緒に耳の先まで赤くなっているのがわかった。絡まる指も熱を持っている。
「……は、づき……?」
時間としてどれくらい経っただろう。彼は言葉を発することなく、握られている手を見ていた。秒針の音だけがこの狭い寝室に響いている。一言も言葉を発さない羽月の顔をもう一度見ると、真剣な色をした瞳がわたしを見据えていた。透き通るような黒は、わたしが大好きな色だ。
「……栞奈さん」
ヒメさんじゃなく、本名を紡ぐ。低く安心する声色に「なに?」と訊ね返すと、優しく笑みを浮かべ、一度口を閉じ握っているわたしの指をゆったりと撫でた。
「……時間だ」
「……え?」
「月曜日だよ」
「げつ、よう……」
言われたことの意味を覚醒していない頭で考える。そっか、わたしの気持ちは受け取ってもらえなかったのか。時計を見ると、新しい日付になって二分が経っている。
「……かえりなよ、羽月」
「……うん……」
帰らないで、ここにいて。時間が止まってくれと切に願う。一度キュッと握る力が強くなる。羽月の顔が柔く緩み、指先から温もりが消えた。
「もう遅いから、ゆっくり休んで」
「はづ……」
「おやすみ」
目の下を撫で、羽月は寝室をあとにした。強いタールの残り香だけが、ひどく甘く感じた。
*****
羽月から日曜日用事が出来て会えなくなったと連絡が来たのは、木曜日のことだった。体調でも崩したのか、それとも仕事で忙しいのか——いや、わたしは彼が何の仕事をしているのか全くわからない。多分聞けば羽月は教えてくれると思うけれど、あくまでも「干渉しない」がルールだ。わたしだけが抜け駆けをしてはいけない。都合がつかない日だってある。わたしは了解の返事をし、すっぽり空いた日曜日の予定を考えることにした。だけど、それから羽月と会えない日が毎週続いていくことになる。
季節は暑い夏から秋を終え、冬に移ろいイルミネーションで街が彩られるようになった。
「ヒメさん知ってる? 来年の日曜日はクリスマスイヴだって」
そんなことを言っていたのは去年の十二月のとある日曜日。もう来年の話と呆れ顔で返事をしたのを覚えている。
「連絡……取ってみようかな……」
誰に言うわけでもなく、スマホを取り出しメッセージアプリを開く。羽月が愛用している煙草のアイコンをタップしようとして、タイミングよく通知が来たことに驚いた。どうやらわたし達七人のグループチャットの方で、「おねえさん、おねえさん!」とツキちゃんが呼び掛けている。何があったのかとグループチャットを開くと、彼女が打っていた文章を見てわたしは目を見開いた。
「最近、羽月くんと連絡取っていますか?」
どういう意味かと画面の前で首を傾げる。つい一昨日も、日曜日無理だ、腹出して寝ないようになんて二、三回メッセージのやり取りをしたばかりだ。
「うん。一昨日連絡もらったよ」
そう返信すると、次はツキちゃんが続けて文章を打ち込む。
「羽月くんから、もうこの関係を解消しようって言われたんですけど、お姉さん何か聞いていないですか?」と。
*****
「何してんの、探したよ」
「ヒメさーん」
「『ヒメさーん』じゃないっての。この不良少年! うー、寒い……」
ぶるりと体を震わせ、白い息を吐く。目の前の少年の耳も鼻先も真っ赤だ。ついでにほっぺも。首に巻いたマフラーを首元へ持ってくる。これは羽月とお揃いのもので、今年買ったばかりだ。公園のブランコに座っている羽月は、棒付きキャンディーをコロコロ転がしながらゆったりとブランコを漕いでいる。真似してわたしも隣のブランコに腰を下ろす。
「ごめんって」
「ふんっ、別に怒っちゃいないよ。べ・つ・に!」
「怒ってんじゃん!」
子ども用のブランコは、身長の高い羽月には窮屈だろう。長い脚をブランコに乗せ、落ちないよう鎖部分を腕で固定しながら両足を抱えていた。
「怒ってはいないけど、ヒメさん自分のことに対して無頓着過ぎ。興味なさ過ぎ」
「まあ、それは……否定出来ないですね……ってかそんなもんでしょ、誕生日なんて。しかもわたしの場合はイベントごとと重なってるんだから、余計そうなっちゃうんだよ。ついでだもん、ついで。羽月だって、誕生日に関してはそうだったじゃん」
「でも、ヒメさんは祝ってくれた。誕生日が今日だって言ったら、大慌てでコンビニまで走ってシュークリーム買ってくれたじゃん。あれ、めっちゃ嬉しかったんだからね。俺だけのはじめての誕生日ケーキで。俺が嬉しかったの、ヒメさん知らないでしょ」
今度は足の間に顔を埋めはじめた。これは完全に怒っている。九ヶ月羽月と一緒にいて、なんとなくこの少年の考えていることが読み取れるようになった。この顔と態度と声色は怒りを表している。
羽月を拾った日、話の流れで誕生日が話題に出た。いくつなのから誕生日はいつと、それは自然な流れだった。家にあった緑茶を飲みながら羽月は「今日」とあっさり答えたのだ。そしてわたしは大慌てでコンビニまで走り、残っていたシュークリームとオレンジジュースを買ってお祝いをした。照れくさそうな顔をした羽月の顔は、今でも思い出せるくらい印象的だった
話を戻そう。羽月が怒っている理由の発端は、テレビでやっていたクリスマス特集の番組だった。
「ヒメさん、クリスマスイヴは仕事?」
「もちろん。成長盛りの青少年のため、バリバリ働きますよー」
洗濯物を畳んでいるとそう羽月が訊ねてきた。クリスマスイヴがどうしたというのか。
「あ、もしかして羽月は彼女とデート? いいよ行っといでー」
「は? 違うし! 彼女よなんていないし!」
あれ、違ったのかとバスタオルを持ちながら考えてみる。クリスマスイヴ、サンタクロースに七面鳥……あとはケーキ? あ、もしかしてクリスマスプレゼントの催促? 高校生といってもまだ子どものカテゴリーにいるから、それは仕方のないことだ。可愛いところあるんじゃんとひとり納得していると、羽月が「誕生日じゃん」とポツリ。ああ、そういえば十二月二十四日はわたしの誕生日だ。羽月の誕生日を聞いた話の延長上で「ヒメさんはいつ?」と聞かれたので「十二月二十四日」と答えたのを思い出した。「クリスマスイヴじゃん!」と興奮していた羽月は、当日朝からずっと祝うと意気込んで宣言していたけど、それほど興味のなかったわたしは曖昧な返事だけを返した記憶がある。そしてハロウィンが終わり、クリスマスシーズンに世の中が切り替わったタイミングで流れたテレビ番組の特集。
「その気持ちだけで嬉しいよ、ありがとう」
そういっても羽月は納得していないようで、この世の終わりが来たかのような顔で落ち込んでいた気がする。そんなやりとりをすっかり忘れ迎えたクリスマスイヴの当日。いつも通り羽月が作ったお弁当を持って出社をし、シャンメリーを買って帰ったわたしの目に入ったのは、誰もいない寒くて静かな部屋。誰もいない部屋のリビングのテーブルには「ヒメさんなんか知らない」と一言書かれた紙があった。そんなに誕生日とクリスマスをやりたかったのかなと、シャンメリーの入った袋を持って部屋を飛び出る。羽月がいる場所なんてひとつしか思い浮かばない。そこへ狙いを定め、わたしは走った。はじめて羽月と出会ったあの小さな公園。それ以外で羽月が立ち寄りそうな場所は、わたしの部屋を含めて存在しないからだ。
「……はづきー。はーくーん?」
「はーくんの営業は終了しました」
「……シャンメリー買って来たから帰ろう、一緒に。ね? いつまでもこんなところにいたら風邪引くよ」
羽月の首にマフラーを巻き付けるためブランコから降りる。ぐるぐると巻き付けたわたしは羽月の前にしゃがみ込み、じっと見上げる。一度は目を逸らされるけど、数秒後にはわたしの方へ視線を戻した。
「その前に、ケーキ買いに行こう」
「クリスマスケーキ?」
「違うっての! もー‼ なんなんだよ‼」
「ごめん、ごめん。明日は休み取ったから、一緒にクリスマスしよっか」
羽月の重なっている手に、わたしも両手を重ねた。むくれている様子は、本当に子どもだ。
「来年からはイヴも休み取れよ」
「え、それは命令? 絶対?」
「絶対‼ 忘れんなよ! あ、あと……ヒメさん、たんじょうび……おめでと」
「ありがとう。ふふ、今日で何回目?」
知らねと出した羽月の舌を、わたしは思いきり引っ張ってやった。
*****
羽月と連絡が取れないと言われ、すぐに電話を掛けた。だけど帰って来たのは「お客様がお掛けになった電話は……」という冷たい機会のテンプレートだった。
「羽月くんから、もうこの関係を解消しようって言われたんですけど、お姉さん何か聞いていないですか?」——ツーちゃんはそう言っていた。他の曜日の女の子達も口を揃えて同じ台詞を言う。聞いていない。わたしは何も知らない。彼女達の会話をまとめると、羽月はひとりひとりに謝ったらしい。そんなことがあったのを知らないのはわたしだけ。わたし以外の中で次に羽月との経験が長いツキちゃんが大体のことを教えてくれた。
「何も言ってないの、理由」
「うん。ただごめんって。殴られる覚悟だったみたい。そんなことするわけないのに」
「……そう」
羽月から話があると言われたのは夏の終わりの頃だったという。確かその頃になると、こちらからのレスポンスも遅かったことがあった。
「お姉さん、本当に心当たりない?」
「わたし? なんでそこでわたしが出てくるの」
「……お姉さん、本気で言ってる?」
ツキちゃんはあからさまな溜め息を吐いた。それが電話越しでも伝わってくる。
「……でもなんとなく安心したかも」
「安心?」
「いつかこんな日が来るのはわかってたから。ほら、私達は羽月くんにたくさん幸せもらったでしょう? だから今度は彼の番。一番長い付き合いのお姉さんだって、わかっているはずでしょう?」
うんと言えないのがわたしの本音だ。彼女が伝えたいこともわかる。わたしだって羽月が幸せになることを願っている側の人間だ。家族なんていないと施設で育った彼は、どんな哀しみを背負っているかなんてわからない。時折見せる哀しそうな色を見て、私の心は苦しかった。
「だから言ってやったの。今度は自分のことを第一に考えてって。幸せになるのは羽月くんの番だよって。笑ってたよ、羽月くん」
「そう……」
「……ねえ、お姉さん? 羽月くんは、お姉さんのこと哀しませることは絶対しないから、だから信じて」
「……ツキちゃん?」
落ち着いた声でツキちゃんはそう言う。そしてこう続けた。
「今度は友達としてお茶しよう、ね? その時は名前教えてね」と。
とにかく羽月を探さないことには話にならない。その日から毎日わたしは仕事帰りにあの公園へ向かった。羽月はきっとここにいる、そんな確信めいた何かがあったから。公園へ通うようになってから何日か経った金曜日の夜。街中に流れるクリスマスソングはもう聴き慣れてしまったもので、羽月とお揃いで買ったマフラーを靡かせまたあの公園へ足を入れる。今日もいないんだろうなと心を沈んでいたが、連絡がつかないのだからこうするしかない。底辺まで落ちた気持ちのまま公園を見渡すと、何かが私の視界へ入って来る。
「……うん?」
ならなんだとその眩しさの原因を突き詰めるため目を細めると、漆黒が徐々に鮮明な色へと変化する。
「……は、づき……」
「……ヒメ、さん……」
無意識のうちに出たのはその持ち主の名前。会いたくて仕方なかった男の名前だ。見るものを捉えて離さない黒と存在感。そして白く棚引く煙。ああ、羽月だ。やっぱり、ここにいた。
「……かくれんぼはもう終わりだよ」
「ハハッ、見つかっちゃった。さすがヒメさん」
一度だけわたしを見て、視線を元に戻す。背中しか見えないこの距離が遠く感じる。
「心配した。ずっと連絡取れなかったから」
「ん? ごめんねヒメさん。ちょっと立て込んでてさ」
「仕事?」
「そんなもんかな」
ぴたりと会話が止まる。わたし達を包むのは、寒空の空気と静寂。それに耐え切れなくなってわたしは「羽月」と三文字を紡ぐ。言い慣れた名前を音にすることがこんなに苦しいなんて、はじめての経験だ。
「うん?」
「元気に、してた?」
「……ほんと、ヒメさんってそういうところあるよね、十年前と何も変わんないや」
「それって誉めてるの?」
「もちろん。俺がヒメさんのことを貶したりバカにしたりしたことある?」
ないねと首を振る。わたしの方をちらりと見て、羽月は口角を上げた。ゆらゆらと立ち上る紫煙は、随分と長く伸びている。数ヶ月振りに嗅いだキツめのタールの香りは、一気にふたりでいたあの時の空気に戻してくれる。高校の時、羽月はわたしに隠れて煙草を吸っていたことがあった。いくら注意してもいうことを聞かなかったから、煙草の中身をシガータイプのチョコレートに入れ替えたことがある。それ以来わたしの前で吸うことはなかった。どこかで隠れて吸っていたかもしれない。だけど成人するまで、私の前で吸うことはなかった。
「立ってんのもあれだし、座ろうか。聞きたいことたくさんあるんでしょ?」
羽月に促され、小さなベンチにふたり並んで座る。大人が座るには少しだけ窮屈だ。
「そのマフラー、俺も使ってる」
「あ、うん。お気に入りだし……」
「俺も。すごく大事なモン」
「……」
また会話が止まる。視線をどこへ置いたらいいかわからなかったわたしは、茶色の地面を見た。何か話さないと。このまま終わってしまう。
「なんで何も言ってくれなかったの……」
絞り出したわたしの言葉はなんて短絡的なものだろう。もっと他の言い方があるだろうに。一度出てしまったものは取り返すことが出来ない。しばらく無言の時間が続いた。
「そんな顔、させたくなかったからだよ」
「……そんな、かお……?」
小さなベンチから立ち上がり、羽月はいつものように煙草へ火を点ける。静かに息を吐き、ポケットに左手を入れた。
「話したことなかったよな、俺の家族のこと」
「う、うん。話したくないだろうから聞かなかったけど……施設の人からもあえて聞かなかったし……」
「……俺の父親だと思われる人は、俺が生まれる前に女作って母親と俺を捨てた。うっすらとしか、母親の記憶ないんだよね……母親も、俺が小学生の時男作って、俺のこと捨てたから」
「……え……?」
風の音がわたしと羽月の間をすり抜けていく。事情があるのは何となく察していた。だけどそれを根掘り葉掘り聞くのは間違っていると、何も聞かなかった。人には触れて欲しくない心の傷があるから。まだ学生の羽月に聞くことなんて出来なかった。
「施設の前に捨てたみたい。ここならどうにかしてくるって思ったんだろうね、変な優しさだよ。で、そのまま施設暮らし。親なんて生きてんのか死んでんのかもわかんないし、興味もないかな正直なとこ。そしたら不良の道をひたすら転げ落ちたってわけ。あ、手当り次第喧嘩してたわけじゃないよ? ケンカ吹っ掛けられて、適当にあしらってたんだ……それでヒメさんに拾われたんだよね」
電灯がチラついている。羽月は携帯用の灰皿を取り出し、灰を落とす。
「別に自分の運命なんて呪っちゃいないよ。じゃなきゃ会えてなかったと思う、ヒメさんに」
「……羽月……」
「……ヒメさん。あ、いや違うね。栞奈さん」
ヒメさんじゃなくて、わたしの名前を羽月は言葉にする。吐き出した紫煙は、白い息とともに冬の夜空へ消えていく。
「七年掛かっちまったけど、やっと渡せる」
「……七年?」
「俺に栞奈さんの全部ちょうだい。名前を同じにする権利も、隣にいる当たり前も、生涯守り抜く約束も、何もかも全部全部」
パチン、と響く音は携帯用灰皿の蓋が閉まる音。くるりとわたしの方を向いて、淋しくなった手を差し出す。そしてもう一度わたしの名前を紡ぐ。
「愛してるって言うの、七年もかかっちゃった」
お姉さん、ここは泣くとこだろ? と意地悪い顔で羽月はわたしの手を取った。そしてグイッと引っ張り、もう片方で抱き寄せる。煙草の香りの距離が、一気に近くなる。
「あと一日遅かったら、もう羽月なんか捨てちゃうとこだったんだからね」
「うわぁ、危ないとこだった。栞奈さんに捨てられたらもう生きてけない」
耳へ落ちる音はわたしの知っている羽月のもので、それをもっと聞いていたくてわたしは背伸びをする。それに気付いた羽月は、高い身長を縮めわたしを抱き上げる。
「回りくどいことしてきちまって、本当に哀しい想いも淋しい想いも辛い想いもいっぱいさせちまって、たくさん謝んなきゃいけないけど……俺は、栞奈さんのことを世界で一番大切で大好きで、愛してる」
刹那、抱きしめる力が強くなる。息継ぎのあと「俺を独りにしないで……俺も独りにしないから」と懇願に近い切ない羽月の言葉が胸を貫く。
「誰も羽月のこと独りぼっちになんてしないよ」
「……うん……」
「だいすき、羽月……だいすき……」
「……う、ん……っ……」
誰もいない小さな夜の公園には、ふたり分の吐息と心臓の音しか聞こえなかった。
*****
「……レストラン……? 羽月が⁉」
「驚き過ぎでしょ……」
手を繋ぎながら冬の夜道を歩く。ぶらぶらと揺らし他愛もない話で花を咲かせる。この数ヶ月何をしていたのか、何故あの特殊な関係を全て断ち切ったのか。そう尋ねれば羽月は「全部栞奈さんのせいだからな」と答える。わたしのせいと言うが、何をしたか思い浮かばない。
「俺の純情を弄んだヒメさんが悪い」だそうだ。ますます理由がわからないわたしに、他の六人は羽月がわたしを想っていることを承知で、奇妙な関係を結んでいたらしい。そして連絡の取れなかった数ヶ月、何をしていたか聞くと先程の答えが返ってきた。何に驚いてどれを驚かない方がいいのか、誰か教えて欲しい。
「だからツキちゃん、あんなこと言ってたんだ……」
「ツキちゃん?」
「羽月と関係を解消したってグループチャットに飛んで来て、ことの経緯を聞いたの。そしたら『羽月くんは、お姉さんのこと哀しませることは絶対しないから、だから信じて』って言われて……もう何に驚いたらいいかわかんない……わかるように教えてよ……」
わたしがそう言うと、羽月はハハッと笑っていつもの口調でわたしの名前を夜の空気に放った。
「ヒメさんの家を出たのは、コックの修行をするため。三年間、びっちり仕込んでもらったんだ、クソジジイに」
「……くそ、じじい……?」
「そ、マジでありえねェクソジジイ。で、そのあとはクソジジイの店で働いてたの」
はあ、と間抜けな返事しか出てこない。それなら何故出ていく必要があったのか、また疑問が生まれる。
「クソジジイの店の暖簾分けしてもらって、その準備とかで会えなかったんだ。それだけ」
「ごめん、いろいろ聞きたいんだけど、何から聞いていいかわかんないから思いついた順でいい?」
「どうぞ?」
「えっと、まずは……家出る必要、あった?」
わたしの問いに、羽月は口に咥えた煙草を指で挟み、煙を吐く。そしてまた咥えると、口を噤んだ。
「……羽月?」
「……恥ずかしいじゃん」
「……へ?」
「……ヒメさんに、栞奈さんに喜んでもらいたくてコックを目指すなんて」
そっぽを向いた羽月の耳は、ほんのりと赤く染っている。わたしに喜んでもらいたくてコックの道を目指した? それはどういう意味だろうと続く言葉を待った。
「……オムライス」
「おむらいす……?」
「美味いって、俺の料理が一番好きじゃん、言っただろ……だから……」
「……え、まさかそれだけの理由で⁉」
羽月の前に回り込み、わたしは両手で繋がっている手を握り直した。突然の行動に羽月は驚きを見せ煙草を落としそうになるも、そこはグッと堪えたようだ。
「十分な理由だろ……俺は栞奈さんで出来てんだから」
「……うわ、一気に重圧が……」
「ハハッ、なんだよそれ」
空いた片手をわたしの手に重ね、ヒメさんと柔らかい声で彼だけの呼び名を呼ぶ。
「ヒメさんは俺の全てなの。だからヒメさんが喜ぶことはなんだってしたい。ヒメさんが笑ってくれることが、俺の永遠の願い」
だから笑って、笑ってくれるだけで幸せなんだ。そう綴る。
「今年の誕生日プレゼントは、俺とレストランでどう? あ、俺の未来も付け加えるからさ」
笑った顔は、はじめて出会ったあの時と何も変わらない。屈託のないその顔を見ると、わたしの心も温かくなる。
「……羽月の未来はおまけなの?」
「さあ、どうとってもらっても構わないよ?」
「いじわる」
「ヒメさん限定」
街灯に照らされた冬の空の下で、ふたり分の影がくっついて伸びている。もう離れないとでも言っているようだ。
「ケーキは明日二個食おう」
「え?」
「もう我慢出来ない。ヒメさん不足で死んじゃいそう」
囁くように言う羽月の足を思いきり踏み付ける。痛っ、と張った声は静かな夜に響く。
「誕生日プレゼント、いらねェの? 返品は受付ないからな」
「ああ、そっか。今日はクリスマスイヴ……」
「俺のお姫様の誕生日。だからじっくり愛させて」
「……なっ……」
もう一度足を踏もうとしたわたしの目論見は見事崩れる。ひょいっと躱したその態度に、今度は睨むよう見上げた。
「お揃いじゃん。俺のクリスマスプレゼントはヒメさんだったし、ヒメさんのクリスマスプレゼントは俺で。これからもたくさんイチャイチャしよーね?」
「ば、バカ!」
「あ、ストックは買ってきてあるから心配しないでね?」
「……っ……‼」
満月がじっとわたし達を見ている。はらはらと舞い降りてきた雪の存在に気付くのは、もうしばらくあと。
「帰ろう、一緒に」
たくさんの愛が詰まったあの場所へ、さあ。
帰ろう、一緒に。
終
——「君が世界で一番大好きだよ」
そんな優しく甘い言葉に呪いをかけ、きみは今日もわたしを女にする。
わたしもその言葉に体を委ね、ただの女になる。
*****
一年三百六十五日のうち、日曜日は一体何日あるのだろうか。
「え? 何日?」
「そう、何日あると思う?」
「気にしたことないなぁ……百日くらいとか?」
「残念。五十二日とか五十三日とか。それくらいしかないらしいよ」
キツめのメンソールに火を点けた男へそう言う。肌の上から羽織った白いシャツから漂うのは、彼が好んでいる煙草の香りだ。
「そんなに少ないの? ヒメさんと五十回しか会えないなんて!」
起き上がろうとしたわたしの肩から、滑らかな肌触りの掛け布団が落ちる。彼——加野羽月はそれを落とさぬよう拾い、布ごとわたしを抱き寄せた。
「それは他の人も同じでしょう?」
「それは……ま、そうだけど……でも、俺はヒメさんが一番。知ってるでしょ?」
ちゅ、とおでこに落ちた唇は、次に瞼へ触れる。吸いはじめたばかりの煙草を灰皿へ押し付けると、羽月はわたしをベッドの上に縫い付けた。ああ、煙草がもったいないじゃない。
「もう無理」
だめ、と唇に指で作ったバツ印を押し当てるが、彼には通用しないことはわかっている。無駄なことだということもわかっている。
「ヒメさんをもっと堪能したい」
「わたしだって、羽月のことを堪能したいけどもう無理。年齢を考えて」
「今日はその可愛いお願い、聞けないな」
重なる互いの唇はとても素直で、またわたしは彼に溺れていく。
彼には七人の女がいる。
月曜日の女、火曜日の女。水曜日の女に木曜日の女と金曜日の女。そして土曜日の女。
わたしは、日曜日の女。日曜日の二十四時間は、わたしのものだ。
彼は誰かのものではない。だけど、わたしに優しい呪いをかけるのだ。
「君が世界で一番好きだよ」と、甘くて優しくて綺麗な呪いだ。
だけど、愛しているは言わない。だから、わたしも言わない。
*****
日曜日の午前十時を過ぎた頃、前日のアルコールが完全に抜け切れていないのが原因なのか、頭が割れるように痛かった。深酒をすることなんてほとんどないのにと、横たわる体の向きを変えようとした。
「……ん?」
あれ、おかしい。身動きが取れない。まるで金縛りに遭っているかのようで、一体何が起きているというのだ。完全に停止している脳を動かし原因を探ろうとする。はっきりわかることは、何かが意図的に押さえつけている、そんな感じがする。この原因を探ろうとしたわたしは、一旦冷静になり、ひとつ息を吐き出した。そして拘束している何かの上へ手を置いた。
「……はづき、ねぇ、おきて」
「ン……」
「起きてるんでしょ? ねぇ、羽月ってば」
ゆさゆさと肩を揺さぶるも、わたしを抱きしめているであろう原因の羽月は、ぴくりとも動こうとはしない。昨晩彼はいなかったはずなのに、どうやって部屋の中へ侵入したのか。考えようとしてわたしはそれを止める。そうだ、今日は日曜日だ。あらかじめ持っている合鍵で、日付が変わった瞬間、わたしの部屋へ侵入してきたのだろう。この男ならやりかねない。毎度毎度のことだ。
「はづき」
「まだねみぃ……今日は一日ゴロゴロしてよーよ……」
「嫌。明日の準備とか、洗濯だってしたいのに。それより羽月、いつ来たの? わたしが寝てても起こしてっていつも言ってるじゃない」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる羽月の力は、一向に弱くなる兆しを見せない。逆に強くなる一方だ。こうなってしまうとこの加野羽月という男は、面倒に輪をかけて「さらに面倒」な男となる。今日は昼過ぎまでこのままかと、わたしは頭の中で立てていた計画を全て諦めることにした。人生諦めも肝心だ。
「……お昼、作ってよ」
「もちろん。材料も買って来てある」
「先週の残り、まだ少しだけあるけど」
「……は? 先週の残り?」
勢いよく起き上がる音がする。これ幸いにとわたしも体の向きを変え、漆黒の瞳を見つめた。
「嘘だろ……」
「さぁ?」
「ヒメさんの魂胆なんてお見通し。何年の付き合いだと思ってんの」
「羽月が十五歳の時だから……もう十年以上の付き合いになるね。ほら、起きるよ。今日は一種に買い物へ行きたいの。そろそろ春物も買い揃えたいし」
小さく唸って、羽月は抱きしめていた腕の力を緩めた。本当、出会った頃から何も変わっていない。変わってしまったのは、自分の衰えた年齢だけ。そう自分で自分を笑った。
「春物?」
「そう、春物。気分を一掃したくてね」
解放された体をゆっくりと起こし、わたしの方を向いている羽月の前髪に触れた。さらさらと流れる誰もがうらやむ髪は、太陽の光を吸収しより一層輝いている。
「わかりました……起きます……」
「わかればよろしい」
羽月の体が起き上がると同時に、指で触れていた前髪がすり抜けていく。何故か切なく淋しく思え、気が付いた時には羽月の名を紡いでいた。
「ン?」
「なんでもない。呼んだだけ」
「……そ?」
上体を起こし、掠め取るように羽月はわたしの唇を奪う。そうだ、来月は彼の誕生日だ。もう少しだけこの微睡の中にいたい気もするけど、わたしはその気持ちを見て見ぬ振りで貫くことにした。
*****
羽月とこの奇妙な関係を結ぶようになって、七年になる。彼と出会ったのは、彼が十五歳の誕生日を迎えた当日の五月五日。まだ中学生だった羽月は、公園のベンチで血塗れのまま座っていたところを保護したあの時まで遡る。座っていた……——正確には意識を失いかけていたと表現した方が正しいかもしれない。帰る場所がないといった彼を、わたしは見捨てることが出来なかった。頼れる大人は誰もいないと言った。
最初の三年はわたしのアパートに居候をし、そのあと今のような関係へと変化した。
羽月にはわたしを含め七人の女がいる。何故こんなことになったのか、わたしも正直なところはわからない。ただ、この奇妙な関係を結ぶに当たり、いつくかの決まりごとが結ばれていた。
その一、指定曜日以外の接触は禁止とする。
その二、接触は指定曜日の午前零時から午後二十三時五十九分五十九秒までとする。
その三、羽月のプライベートとプライバシーには一切干渉しないこと。
その四、他の曜日の女と無意味な接触はしないこと。
その五、約束を反故した場合は即座に関係を解除し白紙に戻す。
要は「自分の宛がわれた曜日以外に羽月と会うな」という至極簡単で単純な取り決めである。
わたしと羽月の関係は一番長くて古く、他の曜日の女の子達はよく変わっている印象だ。もちろん、彼女らとの関係に口出しする気は一切ない。だけど、わたしと彼女達との間で、決定的な違いがひとつだけある。
「日曜日のお姉さん」……——それがわたしを呼称する名だ。羽月との決まった曜日以外の接触は固く禁じられているというのに、女同士の接触は全く禁止されていなかった。しかし、メッセージアプリのグループチャットまで存在している。わたし達七人の関係は良好だ。彼女達との決定的な違いというのは、わたしと羽月の絶妙な間柄だと言う。
「そんなことないと思うけど」
「日曜日お姉さんは、ワタシ達とは別格だよ! ハヅキは他の人の話は絶対しないけど、そう思う。じゃなきゃ『日曜日のお姉さん』だなんて呼ばれないじゃない」
「そういうもの……?」
「そういうもの‼」
鼻息荒く力説するのは、火曜日の女である通称・カヨちゃん。栗色の髪が緩く巻かれていて、爪の先まで綺麗に整えられている。今回のネイルはラメの入ったピンクのようだ。
「そう、お姉さんは別格。お姉さんなら何しても私達が許しちゃうし、納得出来るのよね」
と、木曜日の通称・キーちゃんは言う。その言葉に異議なしと、月曜日のツキちゃん、水曜日のスイちゃん、金曜日のカネちゃん、土曜日のツーちゃんだ。今日は金曜日の現在時刻は二十時半。本来ならカネちゃんが担当の日であるが、羽月と会う前にわたし達へ話したいことがあるとかで、駅前のカフェに集まっていた。
「ねえ、カネちゃん。話しておきたいことって?」
傍から見ればどういう集団だと思われているのだろう。雰囲気も個性も何もかもバラバラなわたし達七人は、遠目から見ても決して「友人」には見えないだろう。だけも、このアンバランスさがとても居心地よかった。アイスコーヒーの入ったグラスにストローを刺し、カネちゃんはくるくるとそれを回す。何となく予想のついたわたしは、自分の分の紅茶が入ったカップを見つめた。いつからだろう、コーヒーより紅茶の方が好きになったのは。
「今日で卒業しようと思って」
「え、それ本当……?」
「うん、今日羽月くんに伝えるつもり」
「そっかぁ……淋しくなるね」
ツキちゃんはそう言う。想像通りの言葉に、わたしはゆっくりとカネちゃんの顔を見た。
「皆さんには色々よくしてもらって、本当にありがとうございました。私の一生の宝物です!」
目尻に涙を溜め、彼女は続ける。カネちゃんはお姉さんとわたしの呼称を紡ぎ、頭を下げた。
「羽月くんのこと、よろしくお願いします」
「……だから、なんで私? 毎回卒業する子達に対して同じセリフ言ってる気がするんだけど……まあ、うん。幸せになってね、カネちゃん」
カネちゃんを囲んで、他の曜日の子達が涙を流している。わたしはこの光景を何十回、何百回見届けただろう。月曜日から土曜日の女の子達は、早い子だと三ヶ月、長くても一年程度で人が入れ替わる。それをわたし達は「卒業」と呼んでいた。
彼女達が卒業する理由は人それぞれだ。誰もそれを追求する人はいない。もちろん羽月もだ。そして空席になった曜日のポジションに、いつの間にか新しい女の子がやって来る。その度にまた新しいグループチャットを作るのだ。
カフェで解散したわたし達は、それぞれの道へ歩いた。世間では「華金」と言われる金曜日。特に予定もないわたしは、自宅マンションへ帰る気も起きず、その辺なお手軽なお店で夕飯を食べて帰ることを決めた。これは誰かが卒業する時必ず陥る現象で、気持ちの置き所が迷子になるのだ。
——「それは、ヒメさんが優しいからだよ」
そんなことを羽月は言った。「ヒメさん」というのはわたしの名前ではない。彼特有の呼び方で、わたしのことを本名とは別に「ヒメさん」と呼ぶ。どういう意味があるのかはわからない。一度どういう意味と聞いたことがあるけど、『ヒメさんは、ヒメさんだから』となんとなく意味がわかるようなわからない曖昧な回答を寄越した。
あれは最初の頃、まだ月曜日の女の子しかいない時があった。会いたくないと言ったわたしに、そう羽月は言ったのだ。ヒメさんは優しいね……——本当ずるくて、優しい男なんだと思った。
行き交う人達は、仲睦まじい様子で身を寄せ合い歩いている。きっと普通の恋人同士なら、これは当たり前のことだろう。だけどわたしと羽月の関係は「普通」じゃないのだ。
「普通、か……」
もう長いことこの何ともいいようのない関係に染まり切ってしまったわたしは、何が普通で何が普通でないのか、その定義すらわからなくなっていた。このままじゃダメなのはわかっている。わかっているはいるけれど、その先へ踏み出せずにいる一歩が、わたしから勇気という栄養素をどんどん搾り上げていく。どうせならこのまま干からびてしまった方が楽なのでは……だけど——。
「ひどい顔……不細工……あんた、誰……?」
信号を待つ間、お店の窓に映った自分自身の顔がとても醜く見えて、気が付いた時にはそう毒を吐いていた。まるで世界に自分ひとりしかいないような、そんな馬鹿げたことが脳内を駆けていく。どうしてだろう、羽月に会いたくなった。
*****
その日は朝から体調が優れなかった。正直なことをいうと、金曜日の夜から調子はあまりよくなかった。土曜日は一日薬を飲んで寝ていたけど、体はすっきりしていない。逆に悪くなっているような気もする。ああ、スマートフォンを弄るのさえ億劫だ。
「……きょう、にちようび、か……」
怠さが残る腕を伸ばし、サイドテーブルの上に置きっぱなしとなっていたスマホを手にする。羽月へ連絡しないと。今日は用事が出来たから会えなくなった、そう言わないと。
暗い画面から眩しい白が目に入った瞬間、タイミングがいいのか悪いのか、羽月からの着信が届く。
「……タイミング……」
居留守を使おうか。そんな考えが頭を過る。でもそれが羽月には通用しないことを、わたしは誰よりも知っていた。
「……もしもし……?」
「あ、ヒメさんやっと出た! メッセージも未読だし、電話にも出てくれないし! もしかして仕事だった?」
「あー、ごめんね。いやー、ううん……仕事では、ないけど……」
何ともはっきりしない言い方は、余計怪しさを増長させる。だけどこの時のわたしは、脳が停止していた状態だったからか考えるという思考を停止させていたせいで、気の利いた言葉ひとつすら出てこなかった。いつもならこんなことありえないというのに。
「……嘘」
「え……?」
ふっと羽月の息を吐く音が耳を擽る。
「ヒメさんは昔から嘘が下手くそじゃん」
「嘘じゃ……」
「なるべく早く行くから、ちゃんといい子で寝てるんだよ?」
嘘つきと付け加え、羽月は通話を切る。耳の中の残響はとてもあたたかくて、涙が溢れてきそうだった。
それから四十分足らずで、羽月はわたしのマンションへやって来た。迎えに行こうとしてベッドから体を起こしていたわたしを見て、彼は呆れ声を出す。
「こら」
「本当に、来た……」
「俺、言ったよね? ちゃんと寝ててって」
「トイレに起きただけだよ。風邪移っちゃうから羽月は帰って」
寝室の扉の前で、彼は腕を組みながら深い溜め息を吐く。これは本当に呆れている表情だ。そんな羽月の手には、見慣れたエコバッグが握りしめられている。
「お腹は減ってない?」
「うん、特には……」
「じゃあ、なんか食べた?」
「ゼリーとか……あんまり食欲、なくて……」
トイレとベッドの往復だったわたしの顔を見て、羽月は「そんなことだろうと思ってたよ」と顔を緩める。エコバックからわたしが好きなスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、ゆっくりと近付いてくる。ぼうっとした視覚と頭の中、羽月はわたしのおでこに手を当てると、静かに眉を下げた。
「あっつ!」
ちょっと待ってと取り出したのは、冷却シートの箱。小袋をひとつ取り出し、ビリッとそれを開封する。シートを一枚取り出し、ビニールのフィルムを剥がしていく。その流れるような動きを、わたしはただじっと見ていた。
「ヒメさん、熱は測った?」
「ううん、はかってない」
「んー……体感で三十八度ってとこかな」
「それ、何基準?」
「ン? はーくん基準」
にやっと口角を上げ、羽月はそれをわたしのおでこに貼った。少しだけ冷たいと一言添えれば、言われた通りの感覚が襲ってくる。
「きもちいい……」
「……でしょ?」
つい口から出た率直な感想に満足したのか、羽月はわたしの肩を優しく押して、布団の中へ押し戻した。
「食べられそうなもの作って来るから、ヒメさんは待ってて」
「……ありがと」
「どーいたしまして? ヒメさんのためなら」
ぽんぽんと肩まで掛けられた毛布を叩き、羽月は寝室から消えていく。ひとりになった静かな部屋で、わたしは彼のぬくもりを思い出しながら、そっと目を閉じた。
あれは、羽月を保護した二ヶ月後のことだった。気崩した真新しい制服姿の羽月が、いつもよりテンション高めで帰って来た時があった。
「ヒメさん、おかえりー! ただいまー!」
「……どうしたの、随分機嫌がよさそうだけど?」
「え? いつも通りだけど?」
部活動に所属していない羽月は、どこで何をしているかわからないけど、帰宅する時間はその日によってバラバラだった。大体はわたしの方が帰宅する時間は遅いけれど、今日は羽月の方がいつもより遅かった。もう二十一時になる。
「ご飯作ったから着替えておいで」
「え⁉ ヒメさん飯作ってくれたの⁉ あー、俺の仕事なのに!」
「あなたみたく美味しくは作れなかったけど……それよりどうしたの?」
「え? 何が?」
羽月の方を見ると、彼はドアの前から一歩も動こうとせず立ち止まっている。いつもだったら「ヒメさん!」と抱きつくなりの激しいスキンシップが待っているのに、今日はその気配すら感じない。離してほしいと思うくらい鬱陶しいのに、どうしたのだというのだ。
「……何か、隠し事?」
「俺が……? ヒメさんに?」
「そう、あなたが。ヒメさんに」
通学用のバッグの紐が肩から落ちる。視線を逸らすことなく羽月のことを見つめていると、不意に彼の方から視線が外れた。
「何もないよ。俺、着替えてくる。あ、風呂の準備でもしてく……」
「羽月」
「……だから、なんでもねェって……」
「……はづき?」
しばしの攻防戦。先に折れたのは、羽月の方だった。
「あーあ、はいはい、降参。降参しますって! なんかさ、体が熱いんだよね。頭もぼーっとするっていうの? 喉も痛いし」
だから念のためわたしに近寄らないでいたらしい。一晩寝れば元に戻るっしょなどと言い放った羽月へ、わたしは急いで近付き彼のおでこに手を当てた。
「ちょっ! 人の話聞いてる!?」
「バッカじゃないの⁉ 一体いつから! 何で言わないのすぐに!」
「え、あ、ああー……今朝? ……ま、どうにかなると思ってたから、ヒメさんの手を煩わせるのもどうかなぁって思……」
羽月の言葉を遮り、彼の両頬を思いきり両手で挟み込む。バチンという小気味のいい音が、広くない部屋に響いた。
「いっ……」
「おバカ! いい? 辛い時とか苦しい時、しんどい時は我慢しないで必ず言うこと! じゃないと追い出すからね!」
「辛いとしんどいって……同じ意味じゃ……」
「何か言った⁉」
キッと羽月を睨みつける、少し怯えた顔で「ごめんなさい」と年相応の表情を見せ、目を俯かせた。
羽月は甘え方を知らない。彼は「家族」というものを知らない。だからあの日。満月の綺麗な夜、たったひとり哀しそうな顔をしていた羽月を見捨てることが出来なかったんだと思う。全てを諦めてしまった色の目を、見て見ぬ振りすることが出来なかったのだ。
*****
水曜日はノー残業デーである。なのに、そんな日に限って会議は長引き、定時を二時間も過ぎてしまった。最悪だ。これといった予定がある訳じゃないけど、こんな日くらいゆっくりしたいというのが正直なところ。せっかくご飯でも作ろうかと思ったのに。日曜日に羽月と買った材料が、冷蔵庫の中で待っている。
「……はぁ……」口から出るのは溜め息で、わたしはコンビニへ目的地を変えようと踵を返す。ああ、羽月が作ったご飯食べたいなあ……。一緒に住んでいた時は、ご飯を作るのは彼の役割だった。「俺が作るよ、こう見えて料理は得意なんだ」と言った時は信じてなかった。いや、男子高校生が(出会った時は中学生だったけど)作れる料理なんて、カップ麺くらいじゃないかと思っていたわたしの予想は、見事に崩れる。どこのお店のコース料理だと思った、それくらいの衝撃を受けた。正直に美味しいという気持ちを伝えると、羽月は子どものような顔を見せ笑った。その日から、わたしは羽月のご飯でなくては満足出来なくなってしまった、悲しいことに。
「……」
面倒だし、カップ麺でいいかなあ……。あまり羽月はいい顔をしないけれど、お手軽でわたしは大好きだ。いつもとは違うコンビニに寄り、目的の場所へ足を運ばせる。今はいろいろな種類があるんだなぁと陳列されているカップ麺を眺めていると、誰かがぶつかってくる。わたしがいたことに気付いていなかったのか、スーツ姿の男は「すみません」と謝罪を述べて来た。
「あ、いえ……わたしもぼうっとしていたので……」
「……あれ? もしかして……」
はい? と顔をその男の人に合わせると、相手は驚いた顔から人懐っこい笑顔へと表情を変える。
「栞奈? 久しぶりだな!」
「……え、まさか……」
わたしの目の前に現れたのは、大学生の時にお付き合いをしていた元カレ、草野くんだった。
*****
「あれ、栞奈お前コーヒーじゃなかったっけ?」
十年以上振りの再会に、彼はコーヒーでも飲まないかと誘って来た。家に帰っても寝るだけだったわたしは、ふたつ返事をし、今駅前の喫茶店で向かい合わせに座っている。
「え? あぁ、今は紅茶派なの。コーヒーも好きだけど、どちらかというと紅茶かなぁ……」
そうわたしが言うと、彼は興味を失ったのかメニューを閉じた。彼と付き合っていたのは約一年で、羽月と出会う前の大学生の頃。同じ学部で、帰り道の駅も同じだったのと、まあその場のノリでお付き合いをするようになった。今思えば、恋も愛もないおままごとのような恋愛だったと思う。太陽みたいな彼に、あの頃は皆憧れていた。
「変わりないか?」
「うん、特には。変わったといえば年を重ねたことくらいかなぁ」
「ハハハ、それは俺も同じだ」
注文したコーヒーと紅茶が届く。漂ってくる香りだけで、この紅茶はいつもわたしが飲んでいるものより味が劣ると察した。
「いい香りだな」
「そ、うだね……」
正直、外食をしても美味しいと思えなくなっていた。三年間そして今も、羽月の味に慣れてしまったせいか。彼が作る以上のものに、わたしはまだ出会えずにいる。
「それで、どうなの最近」
「え?」
「結婚、とか?」
「そういう草野くんは? その言葉そのままそっくり返すよ」
一口カップの中身を喉へ流し込んでみるけれど、やっぱり羽月の味には劣る。安っぽくて蒸らし過ぎた茶葉の味しかしなかった。
「俺? 独身貴族を謳歌中‼ この歳になっても独り身って辛いもんよ?」
「ふーん、もうとっくに結婚して家庭を持っているのかと思ってた」
「本当に容赦ねぇな……そういう栞奈は?」
「え?」
「だから、お前は?」
そのあとに続く言葉をわたしは予想立てる。きっと目の前にいる男は「男、いるのか」と聞きたいのだろう。いるといえば「いる」が、わたしと羽月の関係は正直なところ「恋人」といっていいのかわからない曖昧なものだと思う。行き場のないまだ、未成年だった彼を保護したあの日から今に至るこの奇妙な関係は、「恋人」と言って間違いないのだろうか。
「……どうした?」
「いるような、いないような?」
「は? 意味わかんねぇぞ、それ。全く相変わらずだなぁ」
あの頃より少し大人びた顔で笑う彼は、わたしの知らない男の人だった。わたし達の関係はもうあの時で終了している。わたしの中ではもうとっくに終わった、遠い過去の話なのだ。
「この歳になると、独身って肩身辛いよなぁ。周りは結婚してるし、子どもだっている。俺さ、毎日毎日仕事仕事で人生終わんのかなぁって最近考えるわけよ」
「それも人生といえば人生でしょ。そんなこといちいち考えていたらキリがないじゃん」
「相変わらず辛辣だよなぁ。本当、可愛げがねぇな栞奈は」
——「ヒメさんは世界で一番可愛いよ。え? 俺の言うことが信じられないの? 心外だなぁ」
別に自分が可愛いとか思っていなかった。だけど羽月はわたしに対して「可愛い」と「綺麗」を繰り返し伝えてきた。羽月は人を蹴落とすようなことは一切しなかったし、言わなかった。ああ、どうしよう。羽月に会いたい。だけど今日はまだ水曜日だ。この頃、羽月に会いたくて仕方ない。今までこんな感情に左右されることなんてなかったのに。
「でも、俺はお前のそういうとこ以外は嫌いじゃなかったな。可愛げはないけど、ちゃんと女だったし」
「ケンカ売ってる?」
「違う違う! 怒んなって‼」
お冷を顔に思いきりかけてしまうところだった。ぐっと堪え、奥歯を噛み締めわたしは草野くんを睨み付けた。
「あのさ、ここでひとつ提案があんだけど」
「どうせ下らないことでしょ。何? 仕方ないから聞いてあげる」
温くなった紅茶を口にし、わたしは彼が発しようとしている言葉を待った。
「俺達さ、ヨリ戻して結婚しない?」
*****
ざぁざぁと窓を打ち付ける雨音が、数時間前より強くなってきている。洗濯物は部屋の中にぶら下げており、外に出られないことを憂いているようにも見える。
「止まないね」
キッチンで何かを作っている羽月の背に、そう言葉を投げ掛ける。すると「止まねないねぇ」と残念そうな声が返ってきた。今日は久しぶりに外へ出掛けようかと羽月が案を出してきた。どうやら新しいレシピが思い浮かんだようで、その敵情視察に行きたいと言っていた。なんの視察だと思ったけど、わたしは彼がどんな仕事をしているかわからない。でも料理のことを楽しそうに話す羽月を見るのは、嫌いじゃなかった。
あれは高校三年生の冬。卒業したらここを出て行くと言ったのは、羽月の方からだった。
「え? 出ていく?」
「うん。いつまでもヒメさんの世話になってんのもさ」
はい、弁当箱ちょうだいと言う羽月へ、空っぽのお弁当を手渡す。今日も美味しかったよ、ご馳走様と一言添えて。
「別にいていいのに。まあ、高校卒業したら生活費とか入れてくれれば問題ないよ」
「うーん、でも決めたからさ。住むとこも目星付けたし」
「……え?」
テレビのリモコンを手にし、わたしは動きを止めた。彼はもう義務教育を終えたとはいえ、まだ未成年だ。あともう少しで高校生から卒業をするも、大人というカテゴリーではない。
「ねぇ、ヒメさん」
「うん……?」
「ヒメさんのことだから、多分気付いてると思うんだけどさ……俺、ヒメさんのこと好きだよ」
テレビからお笑い芸人の大きな笑い声が聞こえる。今のこの空気にそぐわない番組を選択してしまった自分を呪いたい。いや、笑えない。
薄々は勘付いていた。羽月のわたしへ向ける熱視線に、そういう類のものが絡まっていることを。だけど、わたしはそれを無視していた。一度触れてしまえば、全てが崩れてしまうと思ったから。この居心地の良さを体験してしまえば、それを手放すことをしたくはない。羽月との関係が砂の城のように消えてなくなることが、怖かったから。
「何それ、笑えない冗談? エイプリルフールはまだ早いよ。あのね、大人を揶揄うんじゃないの。もう、いい加減にしてよ」
「冗談? 本気だよ俺」
キュッと水道の蛇口を締める音がする。ヒメさんと羽月がわたしをこと呼ぶ。彼しか呼ぶことのない名称で。
一歩ずつ近付いてくる羽月の気配に、まるで金縛りへ遭ったかのような感覚が襲う。ふたりの距離がわずか三十センチ程度まで近付いたところで、羽月は柔く微笑む。
「ヒメさん」
「な、っ……」
両手でわたしの頬を包み込み、もう一度ヒメさんと彼特有の名が織られる。さっきまで水仕事をしていたせいか、羽月の手は冷たい。冷えた指先がわたしの頬を撫でる。
「俺はヒメさんのことが好きだよ。ひとりの女性として、ヒメさんが好き、です」
「は、づき……」
「ヒメさんって、ちゃんとしてるのにどっか抜けてるところあるし、でもガキの俺を助けてくれて面倒まで見てくれた。感謝なんて言葉で片付けらないのはわかってんだ。だけど、言わせてくれないかな。ありがとうって」
まるでこれが永遠の別れのような言い草に、何も言葉が出て来ない。羽月と名前をいつものように言えばいいのに、音になってくれない。
「……そんな顔しないでよ。俺、ヒメさんの笑った顔がめちゃくちゃ好きなんだ」
「はづき……わ、たし……」
「ひとつだけ我儘、言っていいかな」
「わがまま……?」
どくん、と心臓の音がする。頬を撫でていた羽月の指が、わたしの唇に触れる。
「ヒメさんが欲しい。俺に、ヒメさんのことくれませんか?」
急に大人びた顔をした羽月が、いつもより低い声でわたしの名前を呼ぶ。ヒメさん、とは違うわたしの本当の名前を。
「さ、ん……じ」
そのあとのことは正直覚えていなかった。ダメだ、相手は高校生だという葛藤と、この人が欲しいという葛藤がわたしの中で渦を巻いてぶつかり合う。漆黒の瞳がわたしをじっと見つめる。あ、キスされると思った瞬間唇が重なる。最初は軽く触れるだけで、二回目はお互いの熱を確かめるようにしっかりと。羽月はわたしの頬を包み込みながら何度もキスを繰り返す。これ以上はダメだと思っていても、振り切ることが出来ない。きゅっと羽月のシャツを握りしめ、その熱を味わう。
「……真っ赤」
おでこをくっつけて意地悪く笑う。子どものくせにと思いながらも、もう彼は立派な男なんだとわかってしまうと、恥ずかしさが急に襲って来た。
「俺に、あなたのことくれますか? 俺をあなたにあげるから」
「そんな言い方……ずる、い……」
「そりゃ、俺はガキだから必死なんだよ……わかってよ……」
ちゅっと鼻先に落ちてきた唇は、とても優しい。冷たかった羽月の手は、火傷をしそうなほど熱くなっている。羽月はわたしの顔を見て、そっと抱きしめた。それが壊れ物に触れるかのようで、泣きたくなったのを今でも覚えている。
俺、はじめてだからと羽月は言った。だからいろいろとごめんと眉を下げた顔を、そっと撫でた。
「わたしだって、高校生とははじめてだよ……捕まっちゃうかな……」
「……なんだ、俺がはじめてじゃないのかよ……」
拗ねたような声色になった羽月が、ぷいっと横を向く。向かい合うようにお互い正座をして座りながら、一瞬何があったか理解出来ずぽかんと羽月を見る。なんだかおかしくなって小さく吹き出すと、ますます面白くない顔をして、わたしを睨む。
「高校生とはって言ったけど、わたし他の人も知らないよ」
「……え?」
「別に守ってたわけじゃないんだけど、気が付いたら今になっちゃった」
何を言っているんだと思ったけど、正直なことをありのまま伝えたい、そう思ったら言葉になっていた。恥ずかしいとかそんな感情は完全に消え去っている。すると目の前に座っていた羽月の顔が、ほんのりと赤く染っていくのがわかった。
「……羽月……?」
「や、ばい……」
「……え?」
やばい、やべぇと羽月は何度も言葉にする。一体何に関してか下を向いている羽月を覗き込もうとすると、本当に小さな声でこう言った。「めちゃくちゃ、うれしい」と。
「ばっ……」
「最高のクリスマスプレゼントだ。俺もヒメさんも。ヒメさんへのプレゼントはとりあえず俺ね?」
「くりすま、あっ⁉」
「はい、もう黙って。もう俺、いっぱいいっぱいで、パンクしちまいそう……」
もう一回キスしていい? ……——尋ねるように言葉を織り、わたしはこくりと頷く。人生でこんな心臓がドキドキすることはなかったと思う。高校受験も大学受験も、就職試験も。わたしの肩に両手を置き、羽月はゆっくりと唇を重ねた。さっきはわからなかったけど、ちょっとだけかさついた唇は、男の子だと感じさせるには十分だ。
布の擦れる音、荒く深い呼吸。時折呼ばれる本当の名前。ぎゅっと握りしめた手からは、羽月の温もりが伝わってくる。
息が奪われて、上手く酸素を取り入れることが出来ない。肌を隠すものはもう何もない。照明に照らされた羽月の髪が、眩しいくらい輝いていた。
わたしの肌の海を泳いでいた羽月は、顔を近付けキスをする。くすぐったいと言えば意地悪な顔をしてもう片方に同じことをする。わからないことだらけだから、一緒に探していこう。口にしなくてもお互いに思っていたことは一緒のようで、少しでも顔を歪めたり体を強張らせると「大丈夫?」とわたしの体を気遣う。へいき、つづけて。そう伝えるとわたしの名前を紡ぎ、またわたしの体を冒険するのだ。
とろとろに溶けて、ひとつになって。その瞬間は不覚にも泣いてしまった。どんな感情なのかはっきりとはわからない。だけどそれ以上に羽月という全てを理解出来たとような気になって、わたしはまたひとつ涙を零した。
「すき、すきだ……」
「……っ、……」
与えられる青い欲は、どこまでもわたしを貫く。欲望の海に落ちていく。羽月は何度もわたしのことを好きだと想いを告げる。その真っすぐ過ぎる想いにわたしは自分の気持ちを重ねることが出来なかった。好き、好きだよ。そう言えばどんなに楽だったのだろう。素直になればよかったのだろうか。注がれる羽月の汚れない想いが、わたしには重かった。だけど、彼とひとつになれたことは、ずっと願っていたことなのだ。
*****
「ヒメさん? おーい、ヒメさーん?」
「……え?」
「……ったく、ひとりでどこまでおサンポに行ってんだよ。ほら、出来たよ。今日はハニーミルクティーにしてみた」
色違いのカップからは、甘い蜂蜜の香りが漂ってきた。元々コーヒー派だったわたしが紅茶派へ心変わりをしたのは、全部羽月の影響だ。インスタントコーヒーばかり飲んでいてわたしに「騙されたと思って飲んでみてよ」と淹れたての紅茶を飲ませてくれたのはまだ中学生の彼だった。半信半疑でそれを口に入れたわたしは、その瞬間から紅茶の世界にどっぷりとハマってしまったわけだ(本人に言ったら大袈裟過ぎるんだよと笑われたことを、今でも許していない)。
「はぁ、美味しい……やっぱり紅茶が一番」
「『紅茶なんて絶っっ対飲まない!』って言ってたのは誰だっけ?」
「ぐっ……言い返せない……」
わたしの言葉に羽月は歯を見せて笑った。悔しい気持ちで羽月から受け取ったカップを両手で持ち、ふぅふぅと息を吐く。
「この前飲んだ紅茶とは大違い。世の中の人は羽月の味を見習えばいいのに。ああ、でもそれもヤダなあ……」
「……この前? 珍しいね、ヒメさんが外で紅茶を飲むなんて」
「え? あー、そうそう。昔の知り合いに会ったの、偶然」
わたしの隣に座った羽月は、テーブルの上へ置きっぱなしになっている煙草へ手を伸ばし、慣れた手付きで火を点ける。もう嗅ぎ慣れたその匂いは、わたしが好きなもののひとつだ。
「昔の、知り合い……」
「羽月……?」
「……結婚しようって言われてたよね、そういや。そういう知り合いなんだ、あの男の人」
「……⁉」
まさかあの場面を見られていたとは。元カレといるところを羽月に見られた? しかもヨリを戻して結婚しないかと言われたところを? 何も悪いことなんてしていないのに冷汗が出る。気持ち悪いくらいだ。
「俺さ、どうもダメなんだよね」
紫煙をひとつ吐く。テレビ画面からはまたお笑い芸人の笑い声が聞こえる。
「なに、が……?」
「ん? なんだと思う?」
ちらりと横目でわたしを見る。ドキリとするその眼光は、羽月の綺麗な青色の瞳を妖しく光らせた。
「ヒメさんのことになると、自分のこと上手くコントロール出来ないんだよね……昔から」
「はづ、……」
き、と彼の名を紡ぐ息は、彼の吐息に吸い込まれていく。羽月は煙草を指の間に挟み、わたしの唇を奪った。
「あの男は一体誰? ヒメさんのなんなの? え、ヒメさん結婚すんの、あの男と? 俺がいるのに?」
「はづ、き……ちょっと、待っ……」
「待たない」
わたしの手の中にあったカップが奪われる。それはテーブルの上へ煙草の並ぶよう置かれ、わたしの両手は迷子になる。もう一度羽月はわたしにキスをする。煙草の苦みと蜂蜜の甘味が混じった味だ。
「ねえ、ヒメさん知ってる? 俺が抱く女の人って、ヒメさんだけなんだよ?」
「……ッ……」
「明日さ、仕事ズル休みしてくれないかな? 多分それがヒメさんのためになると思う。あと悪い。今日は限界が来てもヒメさんのこと抱き続けたいから」
もう聞き慣れた言の葉は、わたしの眼から一筋の涙を零させた。こんな時まで羽月は「愛している」を言わない。
その日わたしは日付が変わる寸前まで彼に抱かれた。
*****
お洒落なカフェを見つけたんだと、水曜日の彼女は言った。「羽月くんと一緒に行きたい」という彼女の要望に、俺はふたつ返事をして彼女のおススメだというカフェへ行くことにした。店内は落ち着いた雰囲気で、客も満席に近いくらい座っていた。
「(結構流行ってんだ……)」
一番奥の角のテーブルを案内され、俺は彼女をエスコートし奥の席に座る。店全体の雰囲気を見渡せる、絶好の場所だ。
「何がいいかなぁ……」
「好きなの頼みなよ。残ったら俺が食べるから安心して」
「本当頼りになるよね、羽月くんって。それじゃあ……」
メニュー表を眺め彼女はパンケーキセットを、俺はパスタセットをそれぞれ選びウェイターに注文する。楽しみだねと彼女は笑っていた。
彼女との付き合いは、七ヶ月になる。看護師として医療関係に従事している彼女は休みもまちまちで、決まった水曜日に会えないこともある。今日は丸一日休みだと先週教えてくれたのだ。
俺が月曜日から日曜日までそれぞれの曜日に「特定の彼女」を作るようになったのは、ヒメさんの家を出て一年半が過ぎた頃のことだった。最初ヒメさんは「何を言ってるんだ」という顔で俺を見た。ま、彼女がそういう顔をするのは当たり前だよなと呆れ顔のヒメさんを眺めていたのは、風呂の中。もこもこの泡風呂の泡で遊んでいた彼女の顔が見事崩れたのは、俺だけしか知らない表情だ。
ヒメさんの家を出たあとも、俺達の関係が途切れるということはなかった。頻繁に彼女のマンションへ通い行き来をしていた。前と違うのは、そこに俺が住んでいないということ。彼女は俺が出ていったあとも俺が使っていた部屋をそのままにしていた。そのさり気ない優しさが、彼女そのものだと嬉しかった感情は今も覚えている。
ヒメさんのところを出ようと決めていたのは、高三の春。中学三年の誕生日の日、施設を飛び出した俺は道すがら売られたケンカを買い、ボロボロになっていた。それを彼女は保護してくれた。施設に戻りたくないこと、家族も身内も親戚もいないことを言うと、彼女は自分が保護者変わりになると言ってくれた。周りには遠縁のお姉さんとだけ言って、ヒメさんは俺の中学校の卒業式にも高校の入学式にも卒業式にも来てくれた。
「……ここ、お姉さんの家?」
「うん。えっと……あ、この部屋使って。荷物とかは明日以降揃えよう。まずは傷の手当てをしましょう。こっちに来て?」
手招きをされ俺は宛がわれる予定の部屋を出る。ひとり暮らしには大きいんじゃないかと思うくらいのテレビ、整理されたテーブルとひとり用の座椅子。どこを見ていいかわからなかったけど、ガキみてぇに部屋の中を見回した。
「全く、何をどうしたらこんなケガするの?」
「痛ぇっ‼」
「我慢しなさい‼ 男の子でしょ⁉」
「痛ぇのに、男も女も関係ねぇよ‼」
まずは汚れと血を落とし、脱脂綿に染み込ませた消毒液で傷に触れる。口の切れた傷口に沁みる。わざとやってんじゃねぇかと思うくらい痛い。俺が痛ぇ痛ぇって騒ぐからか、今度は優しく拭き取りはじめた。
「せっかくの綺麗な顔が台無しだよ」
「え?」
「あ、イケメンって言った方が嬉しいのかな? うわー、肌なんてすべすべ……」
腹立つと、今度は人差し指で俺の頬を突き出した。痛ぇから止めろって言っても、きっと聞いてくれないんだろうな。
「明日、一度施設に行こう」
「……明日?」
「ちゃんと筋は通さないと。そしたら買い物に行こう。きみに必要なもの揃えなくちゃ」
はい終わり、そう言い絆創膏が貼られる。口元にピンと張る独特な感じがした。
「また明日傷見せてね。他にケガしたところはない?」
「あー……あとは特には、ないかな。俺、基本的に手は使わないから、ケンカで」
「ん? じゃあどうやって殴るの?」
救急箱の蓋を閉めながらお姉さんはそう問う。いや、殴る前提なのかと吹き出しそうになったけど、興味津々といった表情は、まるで子どもみたいだ。
「足。蹴るの」
「うわー、不良」
「は? 何だよそれ。俺は不良じゃねぇっての」
ジトッと見る目は、俺の言ってることを信じてないんだとすぐにわかった。この人は表情に全部感情が出るから、すごくわかりやすい。見ていて楽しい。
「そーだ。お姉さん、飯は?」
「え? ああ、もうこんな時間だし……カップ麺でいいかな。わたしそんなに得意じゃないんだよね、料理。ご飯は柔らかく炊けちゃうし、お魚は焦げちゃうし。君もカップ麺でいい?」
「……よっしゃ、わかった。今日からこの家の食事管理は俺がする」
「……え?」
目を大きく見開き、お姉さんは俺を見上げる。不思議そうな顔は、俺の言ったことを理解していない様子だ。勢いよく立ち上がり、俺は腕を回してみせる。
「俺ね、得意なの。りょーり」
学ランを脱ぎ捨て、お姉さんへ持っててと手渡す。それを預かったお姉さんは、未だ状況を把握出来ていないみたいだ。
「冷蔵庫、開けるよ」
「あ、はい。何も入っていないけど……」
「そりゃねェだろ。何かしら入って……ないじゃん!」
冷蔵庫の中はほとんど入っていなかった。嘘だろ? 何かの冗談だろ? 俺を見ているお姉さんの顔はとても申し訳なさそうで、目線が少しだけ揺れていた。
「普段何食って生きてんの? え? 空気? 仙人?」
「仙人は空気じゃなくて霞を食べてるの」
「いや、そんなんどっちでもいいし! えーっと……卵一個に、酒と……ちょっと! この納豆賞味期限切れそうじゃん!」
「納豆は腐ってるから多少過ぎても平気だよー」
冷蔵庫の中は悲惨なものだった。一体彼女は何を食べて生きてるんだ。ちらりと冷蔵庫から視線を動かすと、その隣にはカップ麺がびっしり入った箱が俺をじっと見ていた。
「……お姉さん、食費も俺に管理させて。こんなんダメだろ!」
「え? 何もそこまで……」
「わかった。俺がこれから作るもの食って納得したら、この家の食関係は全部俺に一任して。納得いかなかったらもう口出ししない」
俺かそう言うとお姉さんはわかったと頷く。炊飯器を除くと中に入っていたのは冷えた飯。さっき冷凍庫で未開封のミックスベジタブルを見つけた。他の材料と調味料を確認し、頭の中で何を作るか俺はメニューを決める。本当に何もない。作れるのはオムライスとちょっとしたスープくれるかな。
「絶対美味いって言わせてやる」
シャツの袖を腕捲りした俺は、いざ戦場へと向かった。
結果として俺の勝利だった。
「なにこれ……美味しいんだけど……え? 冷蔵庫にあったやつで作ったの? 魔法?」
テーブルの上に乗っている夕飯を前に、お姉さんは何度も同じことを言う。
「お姉さん見てたでしょ? 俺以外誰か他にいた?」
「ううん、きみひとりだけしか見えなかった、ハズ……」
「何だよ、それ。で? 俺にこの家の食事管理一任させてくれる気になった?」
首を傾げそうお姉さんに尋ねると、振り子人形のように頭を上下へ動かす姿が目に入った。いや、そんなに振ったら首取れちゃうんじゃないかと思ったけど、気に入ってくれたならまあいっかと思ったところも正直ある。
俺は昔から料理が好きだった。誰の影響かはわかんないけど、ぼんやりとした記憶の片隅にあり合わせの材料でピラフを作ってくれた母親の残像が映し出される。その味が忘れられなくて、俺はずっと再現したいと思ったのが、料理を好きになったきっかけなのかもしれない。もう二度と食べることが出来ないまま、俺はひとりぼっちになった。
「きみ、天才だね」
「お姉さん、言い過ぎ。世の中にはもっと上がいっぱいいる」
「ううん、わたしはきみの料理が大好きだよ。世界で一番大好き‼」
「……」
「あ、そうだ。名前教えて? いつまでもきみってのはおかしいでしょ? これから一緒に生活するんだし」
スプーンを皿の上に置いたお姉さんは、ニコニコと笑いながら自己紹介をはじめる。宝石みたいな綺麗な名前だ。俺はそれを口の中でそっと紡いでみた。
「きみは? 次はきみの番」
「……はづき。俺の名前は、加野羽月」
「かのはづき、くん……。素敵な名前だね! これからよろしくね、羽月くん」
差し出された手にゆっくりと自分のそれを重ねる。壊れちゃうんじゃないかと思うほど小さな手のひらは、まるで彼女そのもののように見えた。そして日にちか経つにつれて、彼女は俺のことを「羽月」と呼ぶようになる。
「うーん、美味しい! 羽月くんのはどう? 一口食べる?」
「これも美味いよ。食べてみる?」
一口サイズにパスタをフォークへ巻き付け、目の前に座る彼女の口元へ差し出す。小さな口を開けた彼女は、トマトパスタを咀嚼した。
「うん、美味しい! ここ大正解だったでしょ?」
「うん、そうだね。店の雰囲気もいいし気に入ったよ」
「よかったー。また来ようね」
満足げに笑い彼女はオレンジジュースをストローで飲んだ。確かに料理は不味くない。だけどもう一度来たいかと問われたら、素直に即答出来ないのが正直な感想だ。セットに付いていた紅茶なんて飲めたもんじゃない。茶葉蒸らし過ぎだろうと、厨房へ文句を言いに殴り込むかと思ったくらいだ。そこはぐっと堪え、帰ったら何か口直しをしないと何を飲むか考えていた。そんな時だった。ドアベルが来客を報せる音を奏でる。水曜日の夜だから、男女のカップルが来店するのも理解出来る。何気なしにドアの方角を見た俺は、息を飲んだ。
「(嘘だろ……)」
七三分けのスーツ姿の男の隣にいたのは、ヒメさんだった。少し疲れた顔をしている彼女の平日の姿を見るのは、いつ振りだろうか。あァ、また無理してんだろうなと一瞬でわかった。何を会話しているかはわかんないけど、ふたりを取り巻く空気からは「同僚」とは少し異なっているように感じた。昔馴染み、学生時代の友人……そんな独特のものに包まれたふたりは、俺の座る席から一番よく見える場所に案内された。ヒメさんは俺に向けて背を向けて座っているから、この場に俺がいることを知らない。もちろん目の前に座る彼女もだ。
注文したのはどうやら飲み物だけのようで、ヒメさんはバッグの他に見慣れたエコバッグを持っていた。
「(またカップ麺かよ)」
中身を予想する。お湯を沸かすだけだから楽ちんなんだよねと得意気に言っていたことがある。俺に悪びれる様子もなく大盛キムチカップ麺を食べていた時は、開いた口が塞がらなかった。そうだな、今度の日曜日はどっか美味い店にでも連れてこうかなかと、頭の中で次の計画を立てていると、ヒメさん達を取り巻く空気が一気に変化していく。ヒメさんは怒っている。彼女の目の前に座る男へ対して、ヒメさんは怒りを露にしているのだと、俺はすぐわかった。十年の付き合いだ、大事な……この世でかけがえのない存在の女《ひと》のことをわからないような男には成り下がっちゃいないと、自負している。
「ねぇ、羽月くん。デザートも追加していいかな?」
「もちろん。おススメは季節のジェラートだって。他にもたくさんあるよ。どれにする?」
「うーん、そうだなぁ……」
彼女はデザートのページを何度も行き来させ、どれにするか決めかねているようだった。ヒメさんだったら即答するか「羽月に任せる。だって間違いないもん」と全権を俺に委ねてくる。
うん、ちょっと待て。今、俺は誰のことを考えていた?
ヒメさんだったら? 彼女以外の人といるのに、その人じゃない他人を考えていた?
——「全部羽月に任せるよ。だって、間違いないもん」
きっとヒメさんだったらこう言う。基本的、どこかの店へ食べに行くということはあまりしないが、彼女は食に関して俺へ一任しているところがあった。絶対的な信頼というのか、俺と彼女にしかわからない「何か」があるのは確かだと思う。
「(ヒメさんに、会いたいな……)」
いや、今目の前にいるのは彼女だけど、俺だけを見て俺の名を呼んでもらいたい。キラキラと輝く星みたいな声で「羽月」と呼んでもらいたい。抱きしめていっぱいキスをして、ずっとくっついてたい。くすぐったいよとか、下らない話をたくさんして、彼女の好きな紅茶を飲みながらあの人をただ感じていたい。
ねえ、ヒメさん。俺はあなたのことが好きで仕方ないんだよ。愛しているなんて言葉じゃ言い表せないほど、あなたがいないと生きていけないんだよ? あなたは、それを知っている?
「俺達さ、ヨリ戻して結婚しない?」……——そう彼女へ言い放った男を殺してしまいたいほど、俺はあなたに溺れているんだ。
*****
どちらかというと器用な方ではなかった。他人からの重圧は苦手だったし、目立つことはなるべく控えていたい性格だと思っている。だけどお節介なところもあるのを自覚している。自分で自分の首を絞めているところがないとは、言い切れなかった。
あの日は満月の夜だった。仕事にもようやく慣れた頃、任される仕事も増えた年度末の帰り道だった。仕事もスムーズに進み定時退社が出来た喜びに、少しだけ舞い上がっていたのかもしれない。
「綺麗なお月様……」
夜空に浮かぶ満月は、何か惹かれるものがある。いつもなら寄らない公園に足を進めたのは、この月のせいかもしれない。マンションの屋上から見るのもいいけど、今日はどうしかそういう気分ではなかった。導かれるかのように入ったのは小さな公園。遊具が滑り台とブランコ、それとベンチがあるくらいの小さな公園。一台だけあるベンチに座ろうとして、ちょっとした違和感を覚えた。黒い影が、その場に蹲っている。
「……だれ……?」
まさか犯罪者? 目を細めながらちらっと見ると、夜の闇に溶け込んでしまうほどの黒髪が動く。
「き、れい……」
「……あ?」
目を凝らしてその動く「何か」を見る。わたしの目に映ったのは、漆黒色の髪と綺麗な顔をした男の子だった。黒の学ラン姿の男の子の訝しげな表情で私を見ている。
「きみ、どうしたの? こんなとこ……⁉ ケ、ケガしてるじゃない‼」
「なんでも、ない……」
伸ばしたわたしの手を払おうとして、男の子は一瞬躊躇いを見せる。口元に血が滲んでいて、見るからにとても痛そうだ。
「ケガをしている人、放っておけないでしょ!」
バッグからハンカチを取り出し、男の子の口元に付いた血を拭う。ビクッと体が震えたのに気付かない振りをした。
「きみ、こんに時間に何してるの、こんなところで。おうちの人心配してるよ」
「……してない」
「え?」
「家族なんか、いない……」
何かワケありの男の子は、どこか淋しげな声を吐いた。ところどころ制服が汚れていて、事情があることをすぐ察する。
「……きみ、行くところないの?」
「……ない」
見るからに未成年の男の子をこのまま見過ごすのは、人としてあるまじき行為だと考えたわたしは、男の子に向けて「わかった」と言葉を掛けて手を差し伸べた。
「うちに来る? まずは手当てをしよう。行くところがないなら、わたしのところにいればいいよ」
冷静に考えればなんて非常識な行動をしたのだろう。だけどわたしには、この男の子をひとりにすることが出来なかった。お節介と言われてもいい。戸惑いながらわたしの手を取った男の子——羽月の目がとてもやさしい色をしていたのが、とても印象的だった。
目が覚めると、わたしを抱きしめて眠る温もりがそこにはなかった。時間を確認すると、二十三時を三十分過ぎたところ。思うように動かない体と痛む喉をどうにかしたくて、ゆっくりと起き上がろうと試みるもいうことを聞いてくれない。
「(どこに行ったんだろう……もう、帰ったのかな……)」
どれだけ羽月に抱かれ続けたのだろう。限界を超えても、羽月はわたしを求め続けた。カーペットの上、ソファーの上、脱衣所にお風呂場、そして寝室……——。ここまで彼がわたしに執着するのははじめてかもしれない。一体何があったのだろうか。ドアの隙間から香る有害の匂いが、まだこの部屋に持ち主がいることを教えてくれた。
「(ダメだ、起き上がれないし、声も上手に出せない……)」
ドア一枚を隔てた向こうに羽月がいるというのに、頭と体が思うように動かない。このまま時間だけが過ぎて行って、月曜日を迎えてしまうのだろうか。
羽月があのカフェにいて、草野くんが言ったセリフを聞いていた。疚しいことがあるわけではない。元カレといえど、友人の延長線上みたいなものだった。付き合おうとかそういう甘さもなく、一方的に別れを告げられた記憶しかない。ヨリを戻すなんて考えたこともないし、結婚なんてまっぴらごめんだ。羽月はどこまで聞いていたのかはわからない。だけどわたしはちゃんとあの場で彼の申し出を断っていた。きっぱりと。
「……え? もう一回言って?」
「だから、あなたとヨリを戻す気なんてないし、結婚するつもりもないから」
最後の日と口を飲み終え、わたしは美味しくない紅茶が入っていたカップをソーサーの上へ置いた。目の前の彼は断られると思っていなかったのか、驚いた顔でわたしを見ている。
「よーく考えてみろよ? 別に返事は今すぐじゃなくていいからさ」
「考える間もないよ。わたしはあなたとヨリを戻さないし結婚もしない」
きっぱりと否定の意思を伝えると、彼は息を深く吐き椅子の背凭れにグッと体を預けた。
「……これっぽっちも?」
「これっぽっちも」
「一ミクロンも?」
「一ミクロンも」
下らないやりとりのあと、マジかーと落胆の声を出すも、彼の顔は笑っていた。
「本当にブレねェな、お前」
「わたし達は友達がちょうどいいんだよ。それに、わたしの他に付き合っていた女の子がいたの知ってたんだから」
「……は? うぇ……」
彼がわたしじゃない誰かと付き合っていたのに気づいたのは、割とすぐのことだった。そう思うと曜日ごとにきちんと切り替えている羽月は、ある意味尊敬に値する人物なのかもしれない。随分と前に「何でこんな面倒なことをするの」と聞いたことがある。その時羽月は「いつかちゃんとした理由教えるから」と曖昧な返事をくれた。
「本当、可愛げないよな」
「誉め言葉、ありがとう」
「誉めてねえっての」
彼は氷の解けた水を一気に飲み干し、また深い溜め息を吐く。
「栞奈……お前、やっぱり男いんだろ」
「またその話? いたとしてもあなたに関係ないでしょ? 何か迷惑でも掛けてる?」
「だから、そういうことじゃなくて。そのさ、綺麗になったなって」
「……はい?」
「知ってる? 俺さ、実は一目惚れだったって」
お前に好かれる男が羨ましいよ、そう彼は続けた。わたしに好かれている男?
——「ヒメさん」
出会った頃から変わらない笑顔は、いつまで経っても少年のようだ。面倒くさいくらい優しくて、いつも自分自身を全身でぶつけてくれた。一緒に出掛けると「あの子可愛い」なんて鼻の下を伸ばす癖も、急に男の子から男性へ変わる瞬間も、全部全部が尊い宝石のように煌めいている。
「(羽月……)」
会いたい、今すぐ羽月に会いたい。窒息してしまうほど強く抱きしめてもらいたい。
ああ、もう見て見ぬ振りなんて無理だ。わたしは羽月が大好きなんだ。ひとりの男の人として、彼が好きなんだ。あのクリスマスイヴの日、はじめて羽月とひとつになった日。わたしが素直になっていたら、今も隣で笑っていただろうか。
「……いるよ」
「え?」
「世界一生意気でカッコいい、大好きな人」
「……そっか。なら安心したわ」
そう彼は言った。初恋を知ったばかりの少女のようで少しだけ歯痒かったけれど、気付いてしまった気持ちにもう嘘は吐けない。
今度会った時、正直に伝えよう。羽月に、羽月のことを世界で一番愛しているって。
「……起きた?」
「……ん……」
はい、とペットボトルを手渡す羽月は、シャツを羽織った姿で寝室に入ってきた。シャワーでも浴びて来たのか、少し水気を感じる。
「シャワー借りた。一応体拭いてはみたけど、明日ちゃんと風呂に入ってね」
ベッドの軋む音がする。羽月は静かに腰を下ろし、わたしの前髪を指で払う。ペットボトルのキャップは開いていて、力の出ないわたしを気遣ってくれているのがわかる。
「……ごめん」
「……え……?」
「最低なこと、した……」
一体何に対して羽月は謝っているのか、皆目見当もつかなかった。だけど察することは出来た。
「ううん、へーき」
「……でも……」
羽月の手の手を横から握り、ゆっくりと撫でる。残された時間はあと十五分しかない。
「羽月」
「うん? ヒメさんどうかした?」
伝えないと、羽月に伝えないと。わたしのこの生まれたばかりの想いを包み隠さずに、ちゃんと伝えないと。
羽月の小指をきゅっと握り、もう一度名前を呼ぶ。彼はわたしの口元まで体を折り、耳を寄せた。
「ちゃんと、きいてくれる?」
「俺がヒメさんの話聞かない時あった?」
「ううん、ちゃんとはづきはきいてくれる。だから、ちゃんときいてほしい」
聞くよとでもいうように羽月はわたしの手をぎゅっと握り返して来た。言わなくては、ごくりと生唾を飲みわたしはもう一度「はづき」と名前を紡いだ。
——「ヒメさん」
「ねえ、『ヒメさん』って、一体どういう意味なの?」
「え? 満月の夜だから」
「……はい?」
高校入学のための買い物に出掛けた日の帰り、棒付き飴を舐めながら羽月は答えた。満月の夜がなんだって言うのだ。
「ごめん、ちょっと意味がわからない。若い子の隠語とか?」
「なんだよ、それ。だーから、俺達がはじめて会ったのはおっきい満月の夜だったでしょ? ヒメさん、月から降りて来たかぐや姫だと思ったんだよ」
「……へ?」
「だからかぐや姫のヒメ。わかってくれた? ヒメさんは俺だけのお姫様なの」
さらりと言って退ける羽月のセリフに、頭の思考が追いついていかない。どこを同わたしがかぐや姫になるのだろう。一度精密検査を受けさせた方がいいのではと、真面目に思ったくらいだ。
「あー、他の人に呼ばせないこと! これは俺だけの特別な呼び方!」
ニカッと笑いながら、羽月はわたしの手を引く。その横顔は不覚にも綺麗だった。
「わたし、はづきの『ヒメさん』って、すごくたいせつなの」
「俺だけの特別だからね。俺にとってヒメさんはたったひとりのお姫様だし」
「……はづきも、わたしのとくべつ、だよ」
「……え?」
漆黒色がわたしを見る。交差する視線は、とても熱い。
「わたし、はづきのことがこのせかいでいちばんだいすき。ずっとずっと、だいすきだよ」
空気が止まった気がした。羽月は何も言わずわたしを見る。どくどくと、心臓の音がうるさい。羽月に聞こえてしまわないだろうか。恐る恐る彼の方を見上げると、驚いた表情と一緒に耳の先まで赤くなっているのがわかった。絡まる指も熱を持っている。
「……は、づき……?」
時間としてどれくらい経っただろう。彼は言葉を発することなく、握られている手を見ていた。秒針の音だけがこの狭い寝室に響いている。一言も言葉を発さない羽月の顔をもう一度見ると、真剣な色をした瞳がわたしを見据えていた。透き通るような黒は、わたしが大好きな色だ。
「……栞奈さん」
ヒメさんじゃなく、本名を紡ぐ。低く安心する声色に「なに?」と訊ね返すと、優しく笑みを浮かべ、一度口を閉じ握っているわたしの指をゆったりと撫でた。
「……時間だ」
「……え?」
「月曜日だよ」
「げつ、よう……」
言われたことの意味を覚醒していない頭で考える。そっか、わたしの気持ちは受け取ってもらえなかったのか。時計を見ると、新しい日付になって二分が経っている。
「……かえりなよ、羽月」
「……うん……」
帰らないで、ここにいて。時間が止まってくれと切に願う。一度キュッと握る力が強くなる。羽月の顔が柔く緩み、指先から温もりが消えた。
「もう遅いから、ゆっくり休んで」
「はづ……」
「おやすみ」
目の下を撫で、羽月は寝室をあとにした。強いタールの残り香だけが、ひどく甘く感じた。
*****
羽月から日曜日用事が出来て会えなくなったと連絡が来たのは、木曜日のことだった。体調でも崩したのか、それとも仕事で忙しいのか——いや、わたしは彼が何の仕事をしているのか全くわからない。多分聞けば羽月は教えてくれると思うけれど、あくまでも「干渉しない」がルールだ。わたしだけが抜け駆けをしてはいけない。都合がつかない日だってある。わたしは了解の返事をし、すっぽり空いた日曜日の予定を考えることにした。だけど、それから羽月と会えない日が毎週続いていくことになる。
季節は暑い夏から秋を終え、冬に移ろいイルミネーションで街が彩られるようになった。
「ヒメさん知ってる? 来年の日曜日はクリスマスイヴだって」
そんなことを言っていたのは去年の十二月のとある日曜日。もう来年の話と呆れ顔で返事をしたのを覚えている。
「連絡……取ってみようかな……」
誰に言うわけでもなく、スマホを取り出しメッセージアプリを開く。羽月が愛用している煙草のアイコンをタップしようとして、タイミングよく通知が来たことに驚いた。どうやらわたし達七人のグループチャットの方で、「おねえさん、おねえさん!」とツキちゃんが呼び掛けている。何があったのかとグループチャットを開くと、彼女が打っていた文章を見てわたしは目を見開いた。
「最近、羽月くんと連絡取っていますか?」
どういう意味かと画面の前で首を傾げる。つい一昨日も、日曜日無理だ、腹出して寝ないようになんて二、三回メッセージのやり取りをしたばかりだ。
「うん。一昨日連絡もらったよ」
そう返信すると、次はツキちゃんが続けて文章を打ち込む。
「羽月くんから、もうこの関係を解消しようって言われたんですけど、お姉さん何か聞いていないですか?」と。
*****
「何してんの、探したよ」
「ヒメさーん」
「『ヒメさーん』じゃないっての。この不良少年! うー、寒い……」
ぶるりと体を震わせ、白い息を吐く。目の前の少年の耳も鼻先も真っ赤だ。ついでにほっぺも。首に巻いたマフラーを首元へ持ってくる。これは羽月とお揃いのもので、今年買ったばかりだ。公園のブランコに座っている羽月は、棒付きキャンディーをコロコロ転がしながらゆったりとブランコを漕いでいる。真似してわたしも隣のブランコに腰を下ろす。
「ごめんって」
「ふんっ、別に怒っちゃいないよ。べ・つ・に!」
「怒ってんじゃん!」
子ども用のブランコは、身長の高い羽月には窮屈だろう。長い脚をブランコに乗せ、落ちないよう鎖部分を腕で固定しながら両足を抱えていた。
「怒ってはいないけど、ヒメさん自分のことに対して無頓着過ぎ。興味なさ過ぎ」
「まあ、それは……否定出来ないですね……ってかそんなもんでしょ、誕生日なんて。しかもわたしの場合はイベントごとと重なってるんだから、余計そうなっちゃうんだよ。ついでだもん、ついで。羽月だって、誕生日に関してはそうだったじゃん」
「でも、ヒメさんは祝ってくれた。誕生日が今日だって言ったら、大慌てでコンビニまで走ってシュークリーム買ってくれたじゃん。あれ、めっちゃ嬉しかったんだからね。俺だけのはじめての誕生日ケーキで。俺が嬉しかったの、ヒメさん知らないでしょ」
今度は足の間に顔を埋めはじめた。これは完全に怒っている。九ヶ月羽月と一緒にいて、なんとなくこの少年の考えていることが読み取れるようになった。この顔と態度と声色は怒りを表している。
羽月を拾った日、話の流れで誕生日が話題に出た。いくつなのから誕生日はいつと、それは自然な流れだった。家にあった緑茶を飲みながら羽月は「今日」とあっさり答えたのだ。そしてわたしは大慌てでコンビニまで走り、残っていたシュークリームとオレンジジュースを買ってお祝いをした。照れくさそうな顔をした羽月の顔は、今でも思い出せるくらい印象的だった
話を戻そう。羽月が怒っている理由の発端は、テレビでやっていたクリスマス特集の番組だった。
「ヒメさん、クリスマスイヴは仕事?」
「もちろん。成長盛りの青少年のため、バリバリ働きますよー」
洗濯物を畳んでいるとそう羽月が訊ねてきた。クリスマスイヴがどうしたというのか。
「あ、もしかして羽月は彼女とデート? いいよ行っといでー」
「は? 違うし! 彼女よなんていないし!」
あれ、違ったのかとバスタオルを持ちながら考えてみる。クリスマスイヴ、サンタクロースに七面鳥……あとはケーキ? あ、もしかしてクリスマスプレゼントの催促? 高校生といってもまだ子どものカテゴリーにいるから、それは仕方のないことだ。可愛いところあるんじゃんとひとり納得していると、羽月が「誕生日じゃん」とポツリ。ああ、そういえば十二月二十四日はわたしの誕生日だ。羽月の誕生日を聞いた話の延長上で「ヒメさんはいつ?」と聞かれたので「十二月二十四日」と答えたのを思い出した。「クリスマスイヴじゃん!」と興奮していた羽月は、当日朝からずっと祝うと意気込んで宣言していたけど、それほど興味のなかったわたしは曖昧な返事だけを返した記憶がある。そしてハロウィンが終わり、クリスマスシーズンに世の中が切り替わったタイミングで流れたテレビ番組の特集。
「その気持ちだけで嬉しいよ、ありがとう」
そういっても羽月は納得していないようで、この世の終わりが来たかのような顔で落ち込んでいた気がする。そんなやりとりをすっかり忘れ迎えたクリスマスイヴの当日。いつも通り羽月が作ったお弁当を持って出社をし、シャンメリーを買って帰ったわたしの目に入ったのは、誰もいない寒くて静かな部屋。誰もいない部屋のリビングのテーブルには「ヒメさんなんか知らない」と一言書かれた紙があった。そんなに誕生日とクリスマスをやりたかったのかなと、シャンメリーの入った袋を持って部屋を飛び出る。羽月がいる場所なんてひとつしか思い浮かばない。そこへ狙いを定め、わたしは走った。はじめて羽月と出会ったあの小さな公園。それ以外で羽月が立ち寄りそうな場所は、わたしの部屋を含めて存在しないからだ。
「……はづきー。はーくーん?」
「はーくんの営業は終了しました」
「……シャンメリー買って来たから帰ろう、一緒に。ね? いつまでもこんなところにいたら風邪引くよ」
羽月の首にマフラーを巻き付けるためブランコから降りる。ぐるぐると巻き付けたわたしは羽月の前にしゃがみ込み、じっと見上げる。一度は目を逸らされるけど、数秒後にはわたしの方へ視線を戻した。
「その前に、ケーキ買いに行こう」
「クリスマスケーキ?」
「違うっての! もー‼ なんなんだよ‼」
「ごめん、ごめん。明日は休み取ったから、一緒にクリスマスしよっか」
羽月の重なっている手に、わたしも両手を重ねた。むくれている様子は、本当に子どもだ。
「来年からはイヴも休み取れよ」
「え、それは命令? 絶対?」
「絶対‼ 忘れんなよ! あ、あと……ヒメさん、たんじょうび……おめでと」
「ありがとう。ふふ、今日で何回目?」
知らねと出した羽月の舌を、わたしは思いきり引っ張ってやった。
*****
羽月と連絡が取れないと言われ、すぐに電話を掛けた。だけど帰って来たのは「お客様がお掛けになった電話は……」という冷たい機会のテンプレートだった。
「羽月くんから、もうこの関係を解消しようって言われたんですけど、お姉さん何か聞いていないですか?」——ツーちゃんはそう言っていた。他の曜日の女の子達も口を揃えて同じ台詞を言う。聞いていない。わたしは何も知らない。彼女達の会話をまとめると、羽月はひとりひとりに謝ったらしい。そんなことがあったのを知らないのはわたしだけ。わたし以外の中で次に羽月との経験が長いツキちゃんが大体のことを教えてくれた。
「何も言ってないの、理由」
「うん。ただごめんって。殴られる覚悟だったみたい。そんなことするわけないのに」
「……そう」
羽月から話があると言われたのは夏の終わりの頃だったという。確かその頃になると、こちらからのレスポンスも遅かったことがあった。
「お姉さん、本当に心当たりない?」
「わたし? なんでそこでわたしが出てくるの」
「……お姉さん、本気で言ってる?」
ツキちゃんはあからさまな溜め息を吐いた。それが電話越しでも伝わってくる。
「……でもなんとなく安心したかも」
「安心?」
「いつかこんな日が来るのはわかってたから。ほら、私達は羽月くんにたくさん幸せもらったでしょう? だから今度は彼の番。一番長い付き合いのお姉さんだって、わかっているはずでしょう?」
うんと言えないのがわたしの本音だ。彼女が伝えたいこともわかる。わたしだって羽月が幸せになることを願っている側の人間だ。家族なんていないと施設で育った彼は、どんな哀しみを背負っているかなんてわからない。時折見せる哀しそうな色を見て、私の心は苦しかった。
「だから言ってやったの。今度は自分のことを第一に考えてって。幸せになるのは羽月くんの番だよって。笑ってたよ、羽月くん」
「そう……」
「……ねえ、お姉さん? 羽月くんは、お姉さんのこと哀しませることは絶対しないから、だから信じて」
「……ツキちゃん?」
落ち着いた声でツキちゃんはそう言う。そしてこう続けた。
「今度は友達としてお茶しよう、ね? その時は名前教えてね」と。
とにかく羽月を探さないことには話にならない。その日から毎日わたしは仕事帰りにあの公園へ向かった。羽月はきっとここにいる、そんな確信めいた何かがあったから。公園へ通うようになってから何日か経った金曜日の夜。街中に流れるクリスマスソングはもう聴き慣れてしまったもので、羽月とお揃いで買ったマフラーを靡かせまたあの公園へ足を入れる。今日もいないんだろうなと心を沈んでいたが、連絡がつかないのだからこうするしかない。底辺まで落ちた気持ちのまま公園を見渡すと、何かが私の視界へ入って来る。
「……うん?」
ならなんだとその眩しさの原因を突き詰めるため目を細めると、漆黒が徐々に鮮明な色へと変化する。
「……は、づき……」
「……ヒメ、さん……」
無意識のうちに出たのはその持ち主の名前。会いたくて仕方なかった男の名前だ。見るものを捉えて離さない黒と存在感。そして白く棚引く煙。ああ、羽月だ。やっぱり、ここにいた。
「……かくれんぼはもう終わりだよ」
「ハハッ、見つかっちゃった。さすがヒメさん」
一度だけわたしを見て、視線を元に戻す。背中しか見えないこの距離が遠く感じる。
「心配した。ずっと連絡取れなかったから」
「ん? ごめんねヒメさん。ちょっと立て込んでてさ」
「仕事?」
「そんなもんかな」
ぴたりと会話が止まる。わたし達を包むのは、寒空の空気と静寂。それに耐え切れなくなってわたしは「羽月」と三文字を紡ぐ。言い慣れた名前を音にすることがこんなに苦しいなんて、はじめての経験だ。
「うん?」
「元気に、してた?」
「……ほんと、ヒメさんってそういうところあるよね、十年前と何も変わんないや」
「それって誉めてるの?」
「もちろん。俺がヒメさんのことを貶したりバカにしたりしたことある?」
ないねと首を振る。わたしの方をちらりと見て、羽月は口角を上げた。ゆらゆらと立ち上る紫煙は、随分と長く伸びている。数ヶ月振りに嗅いだキツめのタールの香りは、一気にふたりでいたあの時の空気に戻してくれる。高校の時、羽月はわたしに隠れて煙草を吸っていたことがあった。いくら注意してもいうことを聞かなかったから、煙草の中身をシガータイプのチョコレートに入れ替えたことがある。それ以来わたしの前で吸うことはなかった。どこかで隠れて吸っていたかもしれない。だけど成人するまで、私の前で吸うことはなかった。
「立ってんのもあれだし、座ろうか。聞きたいことたくさんあるんでしょ?」
羽月に促され、小さなベンチにふたり並んで座る。大人が座るには少しだけ窮屈だ。
「そのマフラー、俺も使ってる」
「あ、うん。お気に入りだし……」
「俺も。すごく大事なモン」
「……」
また会話が止まる。視線をどこへ置いたらいいかわからなかったわたしは、茶色の地面を見た。何か話さないと。このまま終わってしまう。
「なんで何も言ってくれなかったの……」
絞り出したわたしの言葉はなんて短絡的なものだろう。もっと他の言い方があるだろうに。一度出てしまったものは取り返すことが出来ない。しばらく無言の時間が続いた。
「そんな顔、させたくなかったからだよ」
「……そんな、かお……?」
小さなベンチから立ち上がり、羽月はいつものように煙草へ火を点ける。静かに息を吐き、ポケットに左手を入れた。
「話したことなかったよな、俺の家族のこと」
「う、うん。話したくないだろうから聞かなかったけど……施設の人からもあえて聞かなかったし……」
「……俺の父親だと思われる人は、俺が生まれる前に女作って母親と俺を捨てた。うっすらとしか、母親の記憶ないんだよね……母親も、俺が小学生の時男作って、俺のこと捨てたから」
「……え……?」
風の音がわたしと羽月の間をすり抜けていく。事情があるのは何となく察していた。だけどそれを根掘り葉掘り聞くのは間違っていると、何も聞かなかった。人には触れて欲しくない心の傷があるから。まだ学生の羽月に聞くことなんて出来なかった。
「施設の前に捨てたみたい。ここならどうにかしてくるって思ったんだろうね、変な優しさだよ。で、そのまま施設暮らし。親なんて生きてんのか死んでんのかもわかんないし、興味もないかな正直なとこ。そしたら不良の道をひたすら転げ落ちたってわけ。あ、手当り次第喧嘩してたわけじゃないよ? ケンカ吹っ掛けられて、適当にあしらってたんだ……それでヒメさんに拾われたんだよね」
電灯がチラついている。羽月は携帯用の灰皿を取り出し、灰を落とす。
「別に自分の運命なんて呪っちゃいないよ。じゃなきゃ会えてなかったと思う、ヒメさんに」
「……羽月……」
「……ヒメさん。あ、いや違うね。栞奈さん」
ヒメさんじゃなくて、わたしの名前を羽月は言葉にする。吐き出した紫煙は、白い息とともに冬の夜空へ消えていく。
「七年掛かっちまったけど、やっと渡せる」
「……七年?」
「俺に栞奈さんの全部ちょうだい。名前を同じにする権利も、隣にいる当たり前も、生涯守り抜く約束も、何もかも全部全部」
パチン、と響く音は携帯用灰皿の蓋が閉まる音。くるりとわたしの方を向いて、淋しくなった手を差し出す。そしてもう一度わたしの名前を紡ぐ。
「愛してるって言うの、七年もかかっちゃった」
お姉さん、ここは泣くとこだろ? と意地悪い顔で羽月はわたしの手を取った。そしてグイッと引っ張り、もう片方で抱き寄せる。煙草の香りの距離が、一気に近くなる。
「あと一日遅かったら、もう羽月なんか捨てちゃうとこだったんだからね」
「うわぁ、危ないとこだった。栞奈さんに捨てられたらもう生きてけない」
耳へ落ちる音はわたしの知っている羽月のもので、それをもっと聞いていたくてわたしは背伸びをする。それに気付いた羽月は、高い身長を縮めわたしを抱き上げる。
「回りくどいことしてきちまって、本当に哀しい想いも淋しい想いも辛い想いもいっぱいさせちまって、たくさん謝んなきゃいけないけど……俺は、栞奈さんのことを世界で一番大切で大好きで、愛してる」
刹那、抱きしめる力が強くなる。息継ぎのあと「俺を独りにしないで……俺も独りにしないから」と懇願に近い切ない羽月の言葉が胸を貫く。
「誰も羽月のこと独りぼっちになんてしないよ」
「……うん……」
「だいすき、羽月……だいすき……」
「……う、ん……っ……」
誰もいない小さな夜の公園には、ふたり分の吐息と心臓の音しか聞こえなかった。
*****
「……レストラン……? 羽月が⁉」
「驚き過ぎでしょ……」
手を繋ぎながら冬の夜道を歩く。ぶらぶらと揺らし他愛もない話で花を咲かせる。この数ヶ月何をしていたのか、何故あの特殊な関係を全て断ち切ったのか。そう尋ねれば羽月は「全部栞奈さんのせいだからな」と答える。わたしのせいと言うが、何をしたか思い浮かばない。
「俺の純情を弄んだヒメさんが悪い」だそうだ。ますます理由がわからないわたしに、他の六人は羽月がわたしを想っていることを承知で、奇妙な関係を結んでいたらしい。そして連絡の取れなかった数ヶ月、何をしていたか聞くと先程の答えが返ってきた。何に驚いてどれを驚かない方がいいのか、誰か教えて欲しい。
「だからツキちゃん、あんなこと言ってたんだ……」
「ツキちゃん?」
「羽月と関係を解消したってグループチャットに飛んで来て、ことの経緯を聞いたの。そしたら『羽月くんは、お姉さんのこと哀しませることは絶対しないから、だから信じて』って言われて……もう何に驚いたらいいかわかんない……わかるように教えてよ……」
わたしがそう言うと、羽月はハハッと笑っていつもの口調でわたしの名前を夜の空気に放った。
「ヒメさんの家を出たのは、コックの修行をするため。三年間、びっちり仕込んでもらったんだ、クソジジイに」
「……くそ、じじい……?」
「そ、マジでありえねェクソジジイ。で、そのあとはクソジジイの店で働いてたの」
はあ、と間抜けな返事しか出てこない。それなら何故出ていく必要があったのか、また疑問が生まれる。
「クソジジイの店の暖簾分けしてもらって、その準備とかで会えなかったんだ。それだけ」
「ごめん、いろいろ聞きたいんだけど、何から聞いていいかわかんないから思いついた順でいい?」
「どうぞ?」
「えっと、まずは……家出る必要、あった?」
わたしの問いに、羽月は口に咥えた煙草を指で挟み、煙を吐く。そしてまた咥えると、口を噤んだ。
「……羽月?」
「……恥ずかしいじゃん」
「……へ?」
「……ヒメさんに、栞奈さんに喜んでもらいたくてコックを目指すなんて」
そっぽを向いた羽月の耳は、ほんのりと赤く染っている。わたしに喜んでもらいたくてコックの道を目指した? それはどういう意味だろうと続く言葉を待った。
「……オムライス」
「おむらいす……?」
「美味いって、俺の料理が一番好きじゃん、言っただろ……だから……」
「……え、まさかそれだけの理由で⁉」
羽月の前に回り込み、わたしは両手で繋がっている手を握り直した。突然の行動に羽月は驚きを見せ煙草を落としそうになるも、そこはグッと堪えたようだ。
「十分な理由だろ……俺は栞奈さんで出来てんだから」
「……うわ、一気に重圧が……」
「ハハッ、なんだよそれ」
空いた片手をわたしの手に重ね、ヒメさんと柔らかい声で彼だけの呼び名を呼ぶ。
「ヒメさんは俺の全てなの。だからヒメさんが喜ぶことはなんだってしたい。ヒメさんが笑ってくれることが、俺の永遠の願い」
だから笑って、笑ってくれるだけで幸せなんだ。そう綴る。
「今年の誕生日プレゼントは、俺とレストランでどう? あ、俺の未来も付け加えるからさ」
笑った顔は、はじめて出会ったあの時と何も変わらない。屈託のないその顔を見ると、わたしの心も温かくなる。
「……羽月の未来はおまけなの?」
「さあ、どうとってもらっても構わないよ?」
「いじわる」
「ヒメさん限定」
街灯に照らされた冬の空の下で、ふたり分の影がくっついて伸びている。もう離れないとでも言っているようだ。
「ケーキは明日二個食おう」
「え?」
「もう我慢出来ない。ヒメさん不足で死んじゃいそう」
囁くように言う羽月の足を思いきり踏み付ける。痛っ、と張った声は静かな夜に響く。
「誕生日プレゼント、いらねェの? 返品は受付ないからな」
「ああ、そっか。今日はクリスマスイヴ……」
「俺のお姫様の誕生日。だからじっくり愛させて」
「……なっ……」
もう一度足を踏もうとしたわたしの目論見は見事崩れる。ひょいっと躱したその態度に、今度は睨むよう見上げた。
「お揃いじゃん。俺のクリスマスプレゼントはヒメさんだったし、ヒメさんのクリスマスプレゼントは俺で。これからもたくさんイチャイチャしよーね?」
「ば、バカ!」
「あ、ストックは買ってきてあるから心配しないでね?」
「……っ……‼」
満月がじっとわたし達を見ている。はらはらと舞い降りてきた雪の存在に気付くのは、もうしばらくあと。
「帰ろう、一緒に」
たくさんの愛が詰まったあの場所へ、さあ。
帰ろう、一緒に。
終
