先輩、ボクを

「病院に行こう」
 すぐに意識が戻ったボクに、男はそう言った。どうしたらいいのか分からなかった。逃げるべきだった。
 ボクを後部座席に乗せた男は、そのままボクの手首と足首をガムテープで巻いた。……病院に行くって言ったよね? なんで?
 男は倒れた自転車と転がった通学鞄を道路脇に寄せてから、ボクを乗せた車を走らせた。

 少し走って、町はずれの古い民家の軒先に車を停めて、男はボクを肩に担いで家に入った。
「怪我をさせたくないから、じっとしていて」
 暴れたり、大声を出したら放り投げて怪我をさせるという意味かと思うと怖かった。何にもできなかった。
 古い民家の周りには、同じように古い家が何軒か畑の中にあるだけで、人気のない場所だった。

 もう暗かったので、明かりをつけて、男は言った。
「怪我の手当てをするね」
 ボクは自転車で倒れた時に、あちこち擦りむいたりぶつけたりしていたようだ。大きな怪我はなかったが、何ヶ所か血が滲んでいた。
 古びた救急箱を持って来た男が、ガムテープを剥がして、ボクの手足の治療をした。手や足を掴まれるのが気持ち悪かった。
 男がいない隙に電話しようといつも入れている尻ポケットを探ったが、スマホは無かった。どこかで落としたらしい。詰んだ。

「名前を教えてくれるかな?」
 言いたくない。でも、怒らせたくない。
川嶋優生(かわしま ゆう)
 この後、父と母が離婚するまで、ボクは「川嶋」だった。
 名前って渡しちゃダメなんだなとその時思った。それから男に優生君と呼ばれる度に、ボクが汚れる気がした。

「優生君、お腹空いてる? なんか食べる?」
「あの、ボク、明日も学校あるんで……」
「もう行かなくてもいいよ。優生君、一緒にここにいよう」
「親が心配するんで、帰ります!」
「優生君! そんなわがままは聞かないよ!」
 絶望した。車に乗る前にもっと抵抗するべきだった。

 ピンポン!

 古い玄関チャイムが鳴った。
「え?」
 と振り向いた男を後ろから突き飛ばして、ボクは玄関に走った。

 警察だった。

 男は制服とスーツと私服のお巡りさんに、あっという間に取り押さえられていた。そのまま、周りを何人ものお巡りさんに囲まれている男を、ボクはボーッと見ていた。
 
「あの男、知ってる人?」
 ボクの周りにも何人かのお巡りさんがいた。そのうちの婦警さんに聞かれた。
「……ちょっと前に、道を聞かれた人かも知れないです……」
「いつくらいかな?わかる?」
「……先週、水曜日」
「一週間前だね、ちょうど」

 その前の水曜の下校中、今日通った道の先で何年洗車してないか分からないくらい、汚い古いセダンの横に立った同じくらい汚い感じの男の人に、図書館への道を聞かれた。なんだか近寄ったらいけない気がしたので、分からないと言って逃げた。
 今日も、道路に止まっていたのがその汚い車だった気がする。でも、運転席のドアが開くと思わなかったんだ。

 救急車も来て、ボクは検査の為病院に連れて行かれた。さっきの婦警さんと何人かがついて来た。

 病院には、母が先に着いていた。警察から連絡があったらしい。入院着に着替える時に、今着ている服を全部提出することになった。下着まで全部。それぞれ、紙袋に入れて持って行かれた。ボクは母が持って来た下着を着て、入院着に着替えた。レントゲンやMRIを撮って、脳波も撮って、医師の診察を受けた。若い男の先生だったけど、何科の先生かは聞き損ねた。あの男が手当した傷を、ちゃんと手当し直して貰った。
 打撲と擦過傷と裂傷も少し。一瞬倒れたのはショックによる脳貧血だったらしい。もうなんともない。

 その夜は入院になった。

 病室は個室だったので、ソファベッドで母も泊まり込んだ。

「ゆうちゃんが無事で良かったよ」
「うん……」
 考えすぎてお互いあんまり話せなかった。
 あと、多分母には事件の事に触れないように、医師とかカウンセラーとか警察から要請があったのかも知れない。あの母が何も言わないなんて事があるわけないから。
 ボクはボクで、何かが起きた時にいつもどうしたら良かったのか分からなくなるんだけど。何が悪かったのか。どうするべきだったのか。どこかに正解が書いてあるボクの人生の参考書があったらいいのに。そんな事を思ってたらちゃんと寝てた。

 後から聞いた話では、前の週にボクに目をつけた男は、下校時間を狙って事件を起こした。杜撰な計画だったので、事故の時も家の中から見ていた人が居て、窓から撮った写真で車のナンバーもすぐに警察に通報された。残された自転車と鞄でボクが被害にあったことは母にすぐ連絡され、母もスマホアプリで移動中のボクの位置を確認していた。男の家は町はずれだったけど、近所の人が犬と散歩中に、ボクが担がれて男の家に連れ込まれたのを見ていて通報。ボクのスマホは尻ポケットから担がれた時に車の近くで落ちて、男の家の玄関先でずっと位置情報を知らせていた。

 ある意味運が良かった。男の行き当たりばったりの犯行で。最悪、殺されたり、何年も捕まったままだったかも知れないと思うとこのくらいで済んで良かった。
 でも、そこからボクの生活はいろいろ変わっていった。