先輩、ボクを

 会場はまた、スポーツセンターだった。
 応援の部員は各自で行く。ボクは電車とモノレールを使った。
 三年の部員も一部応援に来ていたが、出場選手以外は自分の予備校や模試で忙しいらしい。インターハイの予選で高校弓道部としての活動にもう区切りを付けたんだ。早い。でも、そうして行かないと行けない世界線なのかも知れない。儚いなと思う。いつでも、『今』の気持ちは大事なんだ。

 入部してからもう二ヶ月近く。応援も何度も来たのでだいぶ慣れた気がする。それでも、息を詰めるような場面に出くわすことが度々ある。弓道の醍醐味と言える。そしてボク達応援者はドキドキしながらのめり込むように応援するけど、選手はしれっとしている。
 これはそう言うもんだから。心は動かさないのが良い射手なのだ。

 で、今まさに小太郎先輩が優勝争いをしていた。
 団体は残念ながら四位だった。県代表は一校だけなので団体の全国出場は無くなった。
 個人戦、山老主将は準決勝で敗退した。小太郎先輩が、因縁の関東大会で優勝争いをした他校の三年生と、またしても射詰競射(サドンデス)になった。

 ここまで競り合いになるのは本当に同格の実力なんだろう。個人は全国大会に男女とも二人が出場できる。なので勝っても負けてもその意味では変わらない。でもここまで戦ってきたのだから、小太郎先輩に勝ってほしい。

 一本目。
 小太郎先輩が甲矢(はや)を射る。右手に二本持った番えた方の矢だ。
 引き絞って、止めて、射る。いつもと同じ。迷わない。
 弦音のバシッと音がする。一瞬でトスッと的に当たる音。良し。

 相手も一本目を中てた。

 二本目。
 小太郎先輩の乙矢(おとや)残った方の一本だ。
 練習の時も変わらないタイミングで、射る。
 バシッ、トスッ、良し。

 相手も二本目を中てる。

 三本目。ここから、相手が仕掛ける様に小太郎先輩の三本目の直後に被せるみたいに射る。
 バシッ、バシッ、トスッ、トスッ、良し。

 ボクなら、きっと次を焦ってしまうだろう。急かされるようで。
 小太郎先輩は全く気にせず、いつもと変わりなく四本目を射った。
 バシッ、トスッ、良し。

 相手は仕掛けたつもりでは無かったのかも知れない。さっきのは自分が焦った早気(はやけ)気味の一射だった様だ。
 ……四射目の矢は的を外れた。

 一瞬、会場の音が消えた。
 息を呑むような間があって、ワッと歓声が上がった。拍手が長め。

 ボクはやっと息を吐いた。良かった。ずっと優勝を争ってきた相手にとうとう勝ったんだ、小太郎先輩。

 夢を見るような心地のまま、家に帰った。
 小太郎先輩、高校総体(インターハイ)県代表だ。全国大会でも頑張って欲しい。
 やったーーー。

 ここから、全国大会までは少し時間がある。他にも交流試合とかあるらしいけど。ボク達新入部員もやっとじっくり練習したりできる。三年生もずいぶん減ったしね。
 数日経ったある日ボクが弓道場に行くと、この日はなぜか他のみんながクラスの用事とか、委員会とか、先生の用とかで遅くて、しばらくボクと小太郎先輩の二人しかいなかった。先輩の体配(弓を射る動作)を矢取り(射った矢の片付け)のために的のある安土の端に控えて堪能した。

 座った位置から立って、足を前後させる、姿勢を整える、構える、弓を持ち上げる、弓と矢を引く、狙って、矢を放って、そのまま気持ちを保つ。
 射法八節で言うと、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心……。

 先輩の体配には一切の無駄が無かった。無駄が入り込む余地がなかった。
 足を踏み開く時、床が僅かに鳴った。弓を持ち上げる時、道着の衣擦れが微かにした。引き分ける時、こちらからは見えないのに、弓と弦を分つ腕の筋肉と背中の筋肉が張り詰める音がする様な気がした。

 会に入って、止まる数秒。
 
 小太郎先輩の全部が的に向かっていて、全部が的を捉えていた。あの真っ直ぐな眼で捉えられたいと思った。その一瞬、ボクは的になりたかった。あんなふうに見つめられるのなら、的に成り代わってもいい。的だと一回で死んじゃうか……。それでも。

 離れの瞬間、弦の音、的に中る音、ボクも止めていた息を吸った。動き出した世界の、頬を撫でる風を感じた。
 今ここで、小太郎先輩は王者の様だった。ボクに見えている景色は完全な絵画の様だった。

コツーン……
 
 安土の横の椿の木から、一つ、若い実が落ちた。その音でハッとした。ふと、自分がキモいと思った。ボクのこんな思いは彫刻の様に美しい、小太郎先輩を汚してしまう気がした。

「矢取りしまーす」
 良さげなタイミングで声をかけた。矢をとっている間に他の部員が続々とやってきた。
 なんだかホッとした。ボクの濁りが露見しなくて済む。