「先輩、ボクを……殺してください」
やっと絞り出したボクの声は、みっともなく震えていた。
「え?」
振り向いた先輩はいつもの冷静な顔を崩して、驚いていた。驚いた顔もカッコいい。
旧道の河の土手は夕日が当たってキラキラする川面と初夏の風が吹いていた。
弓道部の一つ上、先輩の名前は、加賀美小太郎。
何代か前に外国人の血が入っているとかで、少し茶色い髪と目。弓道場で矢をつがえて、弓を構えた時の静かな横顔がカッコいい。
どんな時も、冷静で正に不動心といった様子の先輩の驚いた顔。
ボク、三崎優生が先輩に初めて会ったのは去年の秋。
中三だったボクは、受験生だった。秋の模試がC判定で、ボクは母に連れられて近くの神社ではなく、少し遠くの大きい神社に合格祈願のお参りに行った。
その日は秋の実りを祝う豊年祭の日で、ボクと母はお参りの後、流鏑馬を観た。
秋晴れで寒くもなく、暑くもなく、流鏑馬の馬場は紅葉には早く、まだまだ青葉が爽やかだった。
スタート地点から少し離れた場所で見学する。的は三つ。進路の左側に少しずつ距離を置いて立っている。観客は右側に少し離れて並ぶ。それぞれの的の近くが一番人が多い。もちろん、来年の豊作を占う行事なんだけど、ボクは自分の受験も重ね合わせていた。
馬に乗って、手綱を引かれた射手が出てきた。平安時代みたいな衣装。平安の貴公子みたい。
「あれ? 小太郎くんじゃない? 今年の射手、小太郎君なんだね」
「今年から高校生だっけ? 学区で一番の進学校でしょ? 小太郎くんが弓道もやって、加賀美病院も継いでくれたらお祖父さんも安心だね」
「ご存知なんですか? あの流鏑馬の子」
母と同じくらいの年頃の女性二人の会話に、ちゃっかり参加する母。ほんとこの人はもう……。
「加賀美病院って、ご存知?」
「鴇丘市の? 私たち、その隣の嶺南市から来たんです」
「あぁ、嶺南高校があるでしょ? あそこの弓道部の加賀美小太郎君。流鏑馬は小太郎君のお祖父さんの加賀美病院の院長がずっと射手をやってたんだけど、今年は引き継いだみたい」
「お詳しいですね」
「私達、主人が流鏑馬の保存会にいるので」
「弓だけじゃなくて馬も乗れないといけないから、難しいのよ、見ての通り」
「そうですよね、でも、素晴らしい事ですね」
あの子、ボクより一つ年上なだけで、あんなにしっかりしているのか……。加賀美小太郎君。
開始の案内があった。
まるでボクの目が機械になったように、そこからの加賀美先輩の所作を細かい所まで全部覚えてる。今でも、全部。
馬を正面に向かせて、加賀美先輩は箙から鏑矢を出して弓につがえた。鏑矢は飛んでいる時の音で始まりを知らせて、場を浄化するのだそう。おそらく、後で馬が踏まないように、人に当たらないように、ほんの少し左向きに放った鏑矢は歌うような風音をさせて、放物線を描いてボクの正面の茂みに落ちた。
「ハッ!」
馬を走らせる。何歩かスピードが出るまで力一杯地面を蹴った馬は、すぐに軽やかに走り出す。
手綱を持った左手、弓を持った右手、的の手前で手綱を離し弓を持ち替えて、箙から矢を一本取って、つがえて引き絞って、射る! それを三回! 三つ皆的に当たった!
手を離しても、馬が走って揺れても、ピンと伸ばした背と腕!
うわあぁぁぁ、カッコいい。
見物人が帰って、割れた的が片付けられても、その場から動けなかった。
「ゆうちゃん、まだ帰らない?」
母が言い出した。
「帰る」
「じゃあ、お母さん、トイレ行ってくるから、入り口の鳥居のところで待ち合わせしよう」
「わかった」
帰るか……。そう言えば、鏑矢は茂みに落ちたままかな?
覗くと、綺麗なまま小枝に引っかかって落ちていた。え? これ、このままでいいの?
あたりには誰もいなかった。ボクは鏑矢を手に持って、とりあえず神社の方へ歩き出した。
「あ、拾ってくれたん? ありがとうね。悪いんだけど、今手が離せないから、それ控え室の方に持って行ってくれる?」
さっき母と話した女の人に声をかけられた。
「はい。……控室ってどっち……ですか?」
首を左右に振って方向を訊く。
「拝殿の手前の社務所の裏側……わかる?」
「はい。近くまで行ったら、また誰かに聞きますね」
お参りした神社の拝殿の手前、さっき合格祈願の御守りを買った所が社務所らしい。控室ってどこですか? と聞くと教えてくれた。
社務所の裏手に回ると人声がした。何人かの男の人たちの声がして、笑っていた。
「雪影号さ、いつもより速かったんだよ」
「ははは……雪影号も緊張して、早く帰りたかったんじゃないか?」
「二番的、一瞬間に合わないかと思ったよ」
どうも加賀美先輩の声らしかった。
入り口ドアよりも、開いた窓が近くて、そこから声をかけた。
「あの……すいません、これ」
「え? ちょっと待ってね」
ドアが開いて、加賀美先輩が出てきた。
「これ、拾ったんですけど、ここに届けるように言われて……」
差し出した鏑矢を見て、加賀美先輩が
「うわ、着替えたら探しに行こうと思ってた。ありがとう」
「よかった。要らないのにって言われたらどうしようかと思ってました」
近距離で見る加賀美先輩も、やっぱりカッコよかった。ボクよりずっと背が高くて、足も長い。
「今年、初めて流鏑馬に出たから、記念に取っておこうと思って」
「とても、カッコよかったです! ボク、勝手に流鏑馬に合格の祈願も掛けたから、おかげさまで、なんか受かる気がします。ありがとうございます」
「高校受験?」
「嶺南高校受験します」
「え? じゃあ、受かったら弓道部に来て。あと、ちょっと待って」
そのまま一度中に入った加賀美先輩は、神社の破魔矢を持ってきた。
「合格しますように」
横にした破魔矢の鈴がチリン、と鳴った。
「ありがとうございます。でも、ボク今お財布持ってないです」
「鏑矢のお礼だから。要らないよ。君、名前は?」
「三崎優生です」
「僕は加賀美小太郎です。三崎君、受験頑張って」
ぺこりとお辞儀をして鳥居に行くと母が待っていた。
「遅ーい! あれ? それ、どうしたの?」
ボクの破魔矢を見て訊いてきたけど、もらった、としか教えなかった。
やっと絞り出したボクの声は、みっともなく震えていた。
「え?」
振り向いた先輩はいつもの冷静な顔を崩して、驚いていた。驚いた顔もカッコいい。
旧道の河の土手は夕日が当たってキラキラする川面と初夏の風が吹いていた。
弓道部の一つ上、先輩の名前は、加賀美小太郎。
何代か前に外国人の血が入っているとかで、少し茶色い髪と目。弓道場で矢をつがえて、弓を構えた時の静かな横顔がカッコいい。
どんな時も、冷静で正に不動心といった様子の先輩の驚いた顔。
ボク、三崎優生が先輩に初めて会ったのは去年の秋。
中三だったボクは、受験生だった。秋の模試がC判定で、ボクは母に連れられて近くの神社ではなく、少し遠くの大きい神社に合格祈願のお参りに行った。
その日は秋の実りを祝う豊年祭の日で、ボクと母はお参りの後、流鏑馬を観た。
秋晴れで寒くもなく、暑くもなく、流鏑馬の馬場は紅葉には早く、まだまだ青葉が爽やかだった。
スタート地点から少し離れた場所で見学する。的は三つ。進路の左側に少しずつ距離を置いて立っている。観客は右側に少し離れて並ぶ。それぞれの的の近くが一番人が多い。もちろん、来年の豊作を占う行事なんだけど、ボクは自分の受験も重ね合わせていた。
馬に乗って、手綱を引かれた射手が出てきた。平安時代みたいな衣装。平安の貴公子みたい。
「あれ? 小太郎くんじゃない? 今年の射手、小太郎君なんだね」
「今年から高校生だっけ? 学区で一番の進学校でしょ? 小太郎くんが弓道もやって、加賀美病院も継いでくれたらお祖父さんも安心だね」
「ご存知なんですか? あの流鏑馬の子」
母と同じくらいの年頃の女性二人の会話に、ちゃっかり参加する母。ほんとこの人はもう……。
「加賀美病院って、ご存知?」
「鴇丘市の? 私たち、その隣の嶺南市から来たんです」
「あぁ、嶺南高校があるでしょ? あそこの弓道部の加賀美小太郎君。流鏑馬は小太郎君のお祖父さんの加賀美病院の院長がずっと射手をやってたんだけど、今年は引き継いだみたい」
「お詳しいですね」
「私達、主人が流鏑馬の保存会にいるので」
「弓だけじゃなくて馬も乗れないといけないから、難しいのよ、見ての通り」
「そうですよね、でも、素晴らしい事ですね」
あの子、ボクより一つ年上なだけで、あんなにしっかりしているのか……。加賀美小太郎君。
開始の案内があった。
まるでボクの目が機械になったように、そこからの加賀美先輩の所作を細かい所まで全部覚えてる。今でも、全部。
馬を正面に向かせて、加賀美先輩は箙から鏑矢を出して弓につがえた。鏑矢は飛んでいる時の音で始まりを知らせて、場を浄化するのだそう。おそらく、後で馬が踏まないように、人に当たらないように、ほんの少し左向きに放った鏑矢は歌うような風音をさせて、放物線を描いてボクの正面の茂みに落ちた。
「ハッ!」
馬を走らせる。何歩かスピードが出るまで力一杯地面を蹴った馬は、すぐに軽やかに走り出す。
手綱を持った左手、弓を持った右手、的の手前で手綱を離し弓を持ち替えて、箙から矢を一本取って、つがえて引き絞って、射る! それを三回! 三つ皆的に当たった!
手を離しても、馬が走って揺れても、ピンと伸ばした背と腕!
うわあぁぁぁ、カッコいい。
見物人が帰って、割れた的が片付けられても、その場から動けなかった。
「ゆうちゃん、まだ帰らない?」
母が言い出した。
「帰る」
「じゃあ、お母さん、トイレ行ってくるから、入り口の鳥居のところで待ち合わせしよう」
「わかった」
帰るか……。そう言えば、鏑矢は茂みに落ちたままかな?
覗くと、綺麗なまま小枝に引っかかって落ちていた。え? これ、このままでいいの?
あたりには誰もいなかった。ボクは鏑矢を手に持って、とりあえず神社の方へ歩き出した。
「あ、拾ってくれたん? ありがとうね。悪いんだけど、今手が離せないから、それ控え室の方に持って行ってくれる?」
さっき母と話した女の人に声をかけられた。
「はい。……控室ってどっち……ですか?」
首を左右に振って方向を訊く。
「拝殿の手前の社務所の裏側……わかる?」
「はい。近くまで行ったら、また誰かに聞きますね」
お参りした神社の拝殿の手前、さっき合格祈願の御守りを買った所が社務所らしい。控室ってどこですか? と聞くと教えてくれた。
社務所の裏手に回ると人声がした。何人かの男の人たちの声がして、笑っていた。
「雪影号さ、いつもより速かったんだよ」
「ははは……雪影号も緊張して、早く帰りたかったんじゃないか?」
「二番的、一瞬間に合わないかと思ったよ」
どうも加賀美先輩の声らしかった。
入り口ドアよりも、開いた窓が近くて、そこから声をかけた。
「あの……すいません、これ」
「え? ちょっと待ってね」
ドアが開いて、加賀美先輩が出てきた。
「これ、拾ったんですけど、ここに届けるように言われて……」
差し出した鏑矢を見て、加賀美先輩が
「うわ、着替えたら探しに行こうと思ってた。ありがとう」
「よかった。要らないのにって言われたらどうしようかと思ってました」
近距離で見る加賀美先輩も、やっぱりカッコよかった。ボクよりずっと背が高くて、足も長い。
「今年、初めて流鏑馬に出たから、記念に取っておこうと思って」
「とても、カッコよかったです! ボク、勝手に流鏑馬に合格の祈願も掛けたから、おかげさまで、なんか受かる気がします。ありがとうございます」
「高校受験?」
「嶺南高校受験します」
「え? じゃあ、受かったら弓道部に来て。あと、ちょっと待って」
そのまま一度中に入った加賀美先輩は、神社の破魔矢を持ってきた。
「合格しますように」
横にした破魔矢の鈴がチリン、と鳴った。
「ありがとうございます。でも、ボク今お財布持ってないです」
「鏑矢のお礼だから。要らないよ。君、名前は?」
「三崎優生です」
「僕は加賀美小太郎です。三崎君、受験頑張って」
ぺこりとお辞儀をして鳥居に行くと母が待っていた。
「遅ーい! あれ? それ、どうしたの?」
ボクの破魔矢を見て訊いてきたけど、もらった、としか教えなかった。
