短な恐怖





 蒸し暑さにパタパタと襟口を摘んで扇ぐと、俺はじっとりと流れる額の汗を拭った。


「……ねえ、まだと?」


 前方に向けてそう声を掛ければ、振り返ったタッちゃんはカラッとした笑顔を見せる。


「なんや、もうきつかと? もうすうだけん、楽しみにしてな。きっと驚くけ」

「…………。それさっきも言いよったやん」

「そうちゃ。さっきもおんなじこと言いよったやん。だいたい、“面白かもん”ってなんなん?」

「暑うてかなわんばい……」


 口々にそんな愚痴を溢せば、「根性が足らんなぁ」とだけ告げて再び歩き始めるタッちゃん。そんなタッちゃんの背中を追いかけながら、道なき道をひたすら四人で歩いてゆく。

 そもそもの事の発端は、一刻半前のことだった。


『鬼狩り山で面白かもん見つけたったい。今から見に行こうや』


 得意気に胸を張りながらそう宣言したタッちゃんは、ニカッと笑うと鼻を擦った。そんないつもと変わらない、普段通りの日常。
 まさかこんなにしんどい思いをすることになるとは、あの時の俺達は誰も予想もしていなかった。

 村の外れにあるこの場所は、普段人などほとんど寄り付きもしない鬱蒼(うっそう)とした山。かつて鬼が住んでいた土地として語られ、村人からは畏怖の対象として“鬼狩り山”なんて名前で呼ばれている。
 当然ながらそんな場所なので、人が歩けるような歩道が整備されているわけもなく、うだるような暑さの中歩くのはかなりの疲労を感じた。


「──ほら、あれ見てみぃや!」


 一際大きく声を発したタッちゃんは、前方を指差しながら後方にいる俺達を振り返った。


「……やっと着いたと?」

「ほら、凄かろ!?」


 疲労困ぱいの俺とは対照的に、ワクワクとした瞳を輝かせるタッちゃん。その指先を辿って更に奥へと視線を移してみると、何やら墓石のようなものがある。


「なんやろ、あれ」


 独りごちると、ぜぇぜぇと息を切らしながら追いついて来た武ちゃんが、額に流れる汗を拭いながら俺に向けてポツリと呟いた。


「……誰かん、お墓かな?」


 二人で顔を見合わせながら小さく首を傾げる。


(ほこら)じゃなか?」


 そんな俺達の後方からひょっこりと顔を出した(きよ)ちゃんは、そう言うと興味深げにクリクリとした瞳を開かせた。


鬼神(きじん)や。こりゃあ、鬼神(おにがみ)様ば(まつ)っとう祠ばい」


 フフンと鼻を鳴らしながら胸を張ったタッちゃんは、「面白かとは、これからや」と俺達に向けて宣言すると、再びクルリと背を向けて歩き始める。そんなタッちゃんにつられるようにして後を追うと、祠らしき石の裏側へと回り込む。
 そこにあったのは、観音開きの粗末で薄汚れた小さな箱。箱とはいえ、よくよく見てみると何やら仰々(ぎょうぎょう)しい型をしている。


(さっき祠っち言いよったし、これも神様でも祀っちょるんやろうか……?)


「こん中見たら、驚くけ」


 そう言いながら扉に手を掛けたタッちゃんを見て、驚いた俺は思わず声を上げた。


「待って! ほんとに開けっと? 祟られたらどげんするん!?」

「大丈夫だって。敏雄(としお)は臆病ばい。心配せんでもなんも起こらんけん」

「でも……」


 タッちゃんは大丈夫だと言って笑っているが、目の前の箱を見るとどうにも不安が込み上げてくる。それほどに、不気味で陰湿な雰囲気を放っているのだ。


「うちも見てみたかね」


 清ちゃんの言葉を聞いて武ちゃんの方へと視線を移してみると、困ったように視線を彷徨わせながらオロオロとしている。


「大丈夫だって。俺は昨日見つけた時にいっぺん開けたけど。ほら、なんもなっちょらんやろ?」

「そうよ、心配しすぎばい。せっかくここまで来たんに、なんも見らん気?」


 そんなタッちゃんと清ちゃんの意見に押され、すっかりと勢いのなくなった俺は苦笑した。


「う、うん……ごめん」


 俺のその言葉を合図に再び扉に手を掛けたタッちゃんは、一度ぐるりと俺達の顔を確認すると口を開いた。


「じゃあ、開くっぞ」

「うん」

「……う、うん」

「うん。早う早う」


 箱の前に屈み込んだ清ちゃん達二人を見つめながら、武ちゃんと二人で少し離れた背後から静かに見守る。ギギギと鈍い音を立てながら開かれてゆく観音扉。その光景は、なんだかやはり少し恐ろしい。
 背中を伝っている汗が一気に冷めてゆくような感覚に、俺はたまらずゴクリと小さく喉を鳴らした。


「わっ。……なんこれ?」

「どがんね、カッコいいやろ? 鬼んお面ばい」

「そうかなぁ……。なんかちいと不気味やわ」

清江(きよえ)にはこん良さが分からんとか。やっぱり女はいかんなぁ」

「そがんことないし。こんお面が悪かとばい」


 そんな二人のやり取りを黙って背中越しに眺めていると、こちらを振り返ったタッちゃんが手招きをする。


「そがんとこ突っ立ってないで、二人もこれ見てみぃや」

「う、うん」

「……うん」


 武ちゃんと一緒に恐る恐る近付くと、屈んでいる二人の背後からそっとタッちゃんの手元を覗いてみる。
 そこにあったのは、古木で作られた鬼の面。ドス黒く古めかしいその様子から、その表情も相まって何だか禍々(まがまが)しいものを感じる。


「な? カッコイイじゃろ」


 タッちゃんはそう言って嬉しそうに笑っているが、俺にはこの面の良さが全く分からなかった。


「なんか不気味やわ……」

「何ば言いよっと、こがんカッコイイんに。武史(たけふみ)はこん良さが分かるやろ?」

「……あ、うん。カッコイイかも」

「そうやろ? お前だけやな、こん良さが分かるとは!」


 武ちゃんの返事に満足したのか、とても嬉しそうな笑顔を浮かべるタッちゃん。その横では、武ちゃんが興味深げにお面を覗き込んでいる。
 どう見てもただの薄汚れた不気味なお面だが、この二人にはそうは見えないらしい。


(こん古さが逆にカッコイイんやろか? それにしても、不気味な顔ばい……)


 おもむろに面を被り始めたタッちゃんを見て、思わず一歩たじろいだ俺は息を呑んだ。
 目出し部分の穴が小さいせいか、その表情は外からでは全く読めず、それがより一層不気味さを増している。
 

(…………まるで本物の鬼みたいや)


 怒りとも哀しみとも言い切れぬ、なんとも恐ろしい表情をした鬼の面。
 そこにいるのは確かに見慣れたはずのタッちゃんだというのに、何故か俺の目には本物の鬼のようにしか見えなかった。







 ──それから二週間ほどが経ったある日のこと。
 いつものように畑仕事の休憩中に岩陰で休んでいると、そこへひょっこりと顔を出した武ちゃん。


「敏ちゃん、お疲れ様。今日も暑うてたまらんね」


 暑さのせいか少しばかり紅潮した頬でニッコリと微笑むと、そう告げた武ちゃんは俺のすぐ隣に腰を下ろした。


「ほんと暑うてたまらんよね……。武ちゃん、今日ん畑仕事は? もう終わったと?」


 言いながら首から下げた手拭いで額の汗を拭うと、冷たい水の入った竹筒を武ちゃんの目の前に差し出す。それを受け取った武ちゃんは、「ありがとう」と告げるとゴクゴクと勢いよく喉の奥へと流し込む。この暑さだ。よほど喉が乾いていたのだろう。
 数秒ほど黙ってその様子を眺めていると、ようやく満足したのか、武ちゃんは片手で拭った口元からプハッと息を吐き出した。
 

「うちは収穫は先週で終わっちょるけね。今日は枯葉や残った根の処理だけやったけ、午後は遊んできていいって」

「そっか。俺もあと少しで終わるけ、終わったら一緒に遊ぼうや」

「うん。……あ、そうや。さっき清ちゃんに会うたんやけど、今日は忙しゅうて遊べんって言いよったばい」

「あー……そういやあ、ヤギのお産ん近かって言いよったわ」

「そうなんや? じゃあ生まれるまでは無理そうやなぁ」

「うん、そうやな」

「じゃあ、暫くは二人やな……」

「……そうやなぁ」

「…………」

「…………。ねえ……、タッちゃんは?」


 最近めっきりと見かけなくなったタッちゃんの名を口にすると、一瞬ひりついた空気がその場に流れる。
 あの日あの山で祠を見つけた日から、徐々に様子がおかしくなっていったタッちゃん。いつもなら元気に外で遊んでいるはずなのに、最近では家に引きこもっているのか、滅多にその姿を見かけることもなくなってしまった。


(最後に会うたのはいつやったっけ……?)


 そんなことを考えながら、鬼の面をつけたタッちゃんの姿を思い浮かべる。

 特に何かがあったというわけではない。ただ、あの日あの山で見つけた鬼の面を持ち帰ったタッちゃんは、その面をとても気に入ったのか、下山してからもよく面を被っていることが多くなった。
 その様子は村の人々から薄気味悪がられ、俺の目から見ても少し異様だった。

 もしかして、あの祠で何かに祟られてしまったのでは──? そうは思ったものの、あの山に無断で入ったことを(とが)められるのを恐れ、周りの大人達には誰にも相談することができなかった。
 もしかしたら兄なら何か知っているかもと、三つ年の離れた兄にそれとなく聞いてみると、随分とあやふやな内容しか返ってこなかった。


『──やけな、あん山で鬼ば殺して村を守ったんや』

『あん山に鬼ば住んどったと?』

『そうや』

『一人で?』

『そうや』

『突然現れたと? そもそも、どっから来たと?』

『そがんこと知らん。鬼は突然現るっとばい、やけ怖いんやろ?』

『…………また鬼ば来るやろうか?』

『そりゃ分からんばい。もしかしたら来っかもしれんし、来んかもしれん。あん山に近付かんば大丈夫ばい、きっと』


 俺は兄に聞いたことを後悔した。ぼんやりとしたその内容では、逆に余計な不安を募らせるだけだったのだ。
 どうやら兄は祠の存在など全く知らないようで、そんな兄に鬼の面の事など聞けるはずもなかった。兄の話からわかったことといえば、かつて村に鬼が出た時、あの山で追い詰めた鬼を殺したことから、今では“鬼狩り山”と呼ばれていると。そんな山の名の由来くらいだった。


「タッちゃんは……っ、最近なんか変ばい」


 小さな声でポツリとそう告げた武ちゃんの声は、あまりに弱々しくて蝉の鳴き声にかき消されてしまいそうな程だった。


「確かにあんお面ば最初に見た時カッコイイて思うたけど……。だけんって、あげん毎日かぶちよるなんて不気味ばい」

「…………。やっぱり……祟りなんやろうか?」

「……そうかもしれんばい」


 蒸し暑さで大量の汗を吸収した着物はべっとりと張り付き、執拗に肌に(まと)わり付くその感触は随分と着心地が悪かった。
 俺は張り付いた着物の裾をギュッと上に引き上げると、あの日あの山に行ったことを後悔した。







「……あっ! ねえ見て、あれタッちゃんじゃなか?」


 不意に立ち止まった武ちゃんを振り返ると、すぐ横に戻って武ちゃんの指差す方角を覗いてみる。するとそこにいたのはやはりタッちゃんらしき人物で、他人(ひと)の家の敷地内で何やら漁っているようだった。


「タッちゃん……?」


 思わず漏れ出た俺の声に反応してピタリと動きを止めると、ゆっくりとこちらを振り返ったタッちゃん。その顔は鬼の面で覆われ、異質な雰囲気を放っている。


「……なん、しよーと?」


 恐る恐るそう声を掛けながら視線を下へと移してみると、その手には締め殺された鶏を抱えている。

 ──タッちゃんが殺したのだ。

 そう理解した次の瞬間、全身の毛穴から一気に大量の汗が吹き出すのを感じた。


(目の前におるんは、ほんとにあのタッちゃんなんやろうか……?)


 生まれてから十二年間共に過ごしてきた友人として、どうにも目の前の光景が信じられなかった。
 例え家畜とはいえ、決して動物を傷つけることのなかったタッちゃん。普段はあんなに豪胆なくせに、人や動物を傷つけることを極端に嫌っていた。そんな心優しい少年なのだ。

 にじりと一歩前へと踏み出したタッちゃんを見て、あまりの恐怖からヒュッと乾いた空気が口から溢れ出る。


「こ……っ、こっちに来るな!」


 意外にも、そんな声を張り上げたのは武ちゃんの方だった。
 カタカタと全身を小さく振るわせながらも、必死に威嚇してみせる武ちゃん。その姿を前に一体何を思ったのか、その場で足を止めたタッちゃんはただ静かにこちらを見つめ返した。

 ほんの数秒の(のち)、その沈黙を破ったのは武ちゃんの声だった。


「敏ちゃん、早う逃げよ!」


 そう告げるなり、俺の手を取った武ちゃんは「祟りや……!」と叫びながら一目散に走ってゆく。当然ながらその手に掴まれている俺は、武ちゃんと一緒にその場を強制的に走り去ることになる。
 けれど、今はそれが有り難かった。恐怖で固まってしまった俺は、あの場から一歩も動くことができなかったのだ。


「武ちゃ……ありが、とう……っ」


 息も絶え絶えにそう告げれば、ようやく足を止めた武ちゃんがこちらを振り返った。


「やっぱり……、祟りなんや。おかしかったやろ? ……あげなん、タッちゃんじゃなか!」


 ついには涙声になって声を荒らげた武ちゃんは、鼻を(すす)ると両目をゴシゴシと雑に擦った。


「どうすりゃあいいんやろ……」

「タッちゃんには近付かんことばい」

「でも……タッちゃんはどげんするん!?」

「子供ん僕達にはどがんすっこともできんばい……大人に任せようや!」

「あん山に入ったこと言うと!? 怒られてまうやん!」

「そがんこと言いよー場合じゃないやろ!」

「……っ、……」

「…………っ」


 互いにぜぇぜぇと肩で息をすると、呼吸を整えてからもう一度お互いを見合う。


「……ごめん、武ちゃんの言う通りやわ」

「僕こそごめんね。言い過ぎたばい」


 今ここで二人で争っていても意味は無いのだ。とにかくこの事態を大人達に話さなければならない。そして、一刻も早く祟りに対処してもらうべきなのだ。
 そう考えた俺達は、お互いの両親にあの山での出来事と今日見たことを話すと約束した。けれど、その日の帰り道は酷く憂鬱で、まるで沼地に足を取られているかのように重い足取りだった。







 ──気づけば季節はすっかりと秋口になり、うちの畑では大根の種まきが始まっていた。
 そんないつも通りの日常の中。あれからタッちゃんがどうなったのか、俺の気がかりはそればかりだった。

 秘密を打ち明けた日には、随分とこっ酷く叱られた。それでも、抱えていた重荷から解放されたせいか、俺の心は幾分か軽くなったように感じた。けれど、その隙間はすぐに新たな問題が埋めることとなった。
 秘密を打ち明けた俺に対して、タッちゃんとは二度と関わるなと両親は告げたのだ。

 祟りから解放されればきっと元の関係に戻れる。そう信じていた俺は、両親から告げられたその言葉に大きなショックを受けた。
 そして何より、そんな両親に逆らうことのできない自分自身に失望した。


「タッちゃん、どげんしよるかな……」


 独りごちると、夕焼け色に染まった空を見上げる。そこに広がっていたのは穏やかな琥珀色で、まるで心の中にくすぶっているドロドロとした感情が炙り出されてゆくようだった。
 情けないことに、俺はあの日見たタッちゃんの姿が未だに恐ろしかった。だからこそ、両親に止められているという口実を盾に、あれ以来タッちゃんの家にすら近づいていなかった。
 そんな自分の弱さを呪いながらトボトボと歩いていると、突然の衝撃に吹き飛ばされた俺は尻餅を着いた。


「……っ、痛ったぁ」


 擦りむいた掌の痛さに顔を歪めると、体当たりしてきた本人であろう人物にそっと視線を移す。するとそこにいたのは、先ほどまでその安否を心配していたタッちゃんだった。


「タッ、ちゃん……?」


 久しぶりに見るタッちゃんは随分と痩せこけ、なんだか薄汚れている。そんなことを思いながら手元を見てみると、そこにはあの日見た時と同じ締め殺された鶏が握られている。
 それを認識した途端、あの日の恐怖を思い出してカタカタと震え始めた身体。


「……敏雄」

「ひ……ッ!」


 タッちゃんの動きに驚いた俺は、咄嗟に片手で顔を覆うとズリズリと後ずさった。そんな俺を見て、伸ばしかけた右手を引っ込めたタッちゃん。
 恐る恐るその様子を窺ってみると、タッちゃんの身体には所々に擦り傷や打撲痕がある。察するに、これは昨日今日できたばかりの傷ではないようだ。

 目の前の光景を眺めながら、俺は混乱する頭の中で必死に思考を巡らせた。


(なんで……タッちゃんは泣きよるんや──?)


 ズレた鬼の面の隙間から見えたタッちゃんは、悔しさと悲痛に満ちた表情を浮かべながら涙を流している。


「……タッちゃん?」


 心許なくそう発したその声は、随分と弱々しく情けないものだった。


「──また鬼子が悪さしよった! 早う捕まえるぞ!」 

「あっちに行ったぞ!」


 村人達の怒号が響く中、ズレた鬼の面を被り直したタッちゃんは一気にその場を駆け抜けた。


「……っ。待って、タッちゃん!」


 必死の声も虚しく、あっという間に走り去ってしまったタッちゃん。
 何がなんだか状況の分からないまま、ただ静かにドクドクと鼓動を早める心音。今まで自分が信じて疑いもしなかったものに、その根拠のなさを感じてひんやりとした汗が流れ出る。

 俺はカタカタと小さく震え始めた足でふらりと立ち上がると、何度も(つまず)きそうになりながらもタッちゃんの家へと急いだ。
 そこに見えてきたのは、村人たちに囲まれて暴行を受けているタッちゃんの両親の姿。今年の春頃から病で()せっていたタッちゃんのお父さんは、今にも折れてしまいそうなほどに痩せこけている。


「……っ、許してくんさい。ちいと食べ物が欲しかっただけなんや」

「何度目や、こん穀潰しがっ! 満足に働けんくせに食べ物ばよこせやなんて、なんて図々しかばい!」

「鬼子ん親も鬼に違いなか! 殺せ!」

「「「殺せ!」」」


 村長の言葉を合図に、「殺せ! 殺せ!」と大合唱する村人達。まるで地獄のようなその光景に、俺はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
 先ほど見たタッちゃんの傷跡を思い返しながら、ガタガタと震え始める全身。
 
 鬼の面を被り始めてからおかしくなったタッちゃん。今にして思えば、それ以前から時折悲しそうな表情をしていたような気がする。よくよく考えてみれば、それはタッちゃんのお父さんが倒れてからのことだった。
 何故、そんなことにすら気づいてあげられなかったのか──。頬を伝う涙を拭うと、俺は震える口元から小さな声を漏らした。


「……っ、俺はなんて馬鹿なんや」


 この村の田畑や家畜は、全て村の財産として村長が管理している。そうやって昔から支え合って生きてきたのだ。きっと、鬼という異物を排除しながら。
 兄から聞いた鬼の伝承を思い返しながら、止めどなく溢れ続ける涙。

 タッちゃん達家族は、もしかしたら村八分による差別にずっと苦しんでいたのではないだろうか──?


(やとしたら俺は……)


 村人達によって撲殺されてゆくタッちゃんの両親を眺めながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪める。


「……鬼はお前らの方や」


 そう小さく呟いたその声は、誰にも聞かれることなく村人たちの怒号によってかき消された。




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「「「鬼子を殺せ! 村長殺しの厄災や!」」」


 この日は、すっかりと陽が落ち切った夜深い時刻になっても、月明かりの下では村人たちの怒号が鳴り響いていた。
 松明片手に必死になって森の中を探し回る村人達。その横をすり抜けるようにして森の中を進むと、俺はタッちゃんの行方を必死になって探した。

 両親を殺された仇に、村長を殺害してしまったらしいタッちゃん。そんなタッちゃんの心情を思うと、堪え切れない涙にグッと唇を噛み締める。
 こんなにも愚かで弱い俺では、タッちゃんの為にできる事など何もないのかもしれない。そうは思っても、それでもどうしてもタッちゃんに一言謝りたかった。


「タッちゃん……どこにおるん」


 突然の突風に瞼を閉じると、再び開いた先に見えたのは探し求めていたタッちゃんの姿だった。


「……タッちゃん!」


 そう叫べば、ゆっくりとこちらを振り返ったタッちゃん。その顔は鬼の面で覆われ、タッちゃんが今何を考え、どんな表情でいるのかは全く分からない。
 

「っ、……ごめん! ごめんね、タッちゃん!」


 涙でぐちゃぐちゃになった顔でそう叫べば、ただ静かにその場からこちらを見つめ返すタッちゃん。俺にできる唯一のことは、この場から立ち去るタッちゃんを静かに見送ることだけ。
 クルリと背を向けて森の中に消えてゆくタッちゃんを見つめながら、心優しい少年に向けて何度も謝罪する。


 月夜に照らされて浮かび上がったあの姿を、俺はこの先も一生忘れる事はないだろう。
 返り血を浴びて、まるで血の涙を流しているかのように見えた鬼の面。

 
 それはきっと、お面の裏で一人ずっと泣いていたタッちゃんのように──。



 その日を最後に、俺がタッちゃんに会うことは二度となかった。

 




─完─