はじけてなくなる恋じゃない


「三角公園とファミレス、どっちがいい?」

 駄菓子屋の通りを離れて何を話していいかわからずにいた俺に、恵秀さんが突然そう尋ねてきた。この道を少し行けばファミレスがあるし、次の信号を曲がれば公園のほうに辿り着く。どちらもこの辺りの学生にとっては馴染みの場所だ。

「……それ食べますか?」
「静が食べるなら」

 恵秀さんが持ったままの駄菓子の袋を指差すと小さく頷かれる。時間は夕方、おそらく小学生くらいなら『こんな時間にお菓子なんて』と親に怒られるくらいの時間帯だ。今からファミレスに行くのは気が引けて、俺は赤信号で立ち止まる前に公園のほうに足を向ける。
 
「じゃあ公園で」
「ん、わかった」

 この先にあるのは、本当はこの地域の名前のついた公園だ。なのに角地の大きな三角の形に作られた公園だから、見たままに『三角公園』という通称で呼ばれている。
 大して広くはない公園だけど、少しの遊具と砂場に、一応柵があってボール遊びもできる小学生の遊び場だ。あそこに公園があることを知っていて、そして三角公園と呼ぶってことは、恵秀さんも近くに住んでるんだろう。

「三角公園なんて久しぶりだな……」
「俺はたまに行くんだよね。弟を迎えに」
「そうなんだ」

 その言葉に年の離れた弟がいるんだろうなと想像して納得した。さすがに高校生になってあの公園に用がある人は少ないだろう。
 それから暫く他愛ない話を続ける中で、俺はふと気になっていたことを恵秀さんに問いかけた。

「そういえば、パッチバッチもソーダ味が好きなんですか?」

 この人のことを目で追っている長い間に、彼が選ぶお菓子の味が『ソーダ味』ばかりなことに気づいたのはいつだっただろう。駄菓子のパッケージは見た目でどんな味か想像しやすいものが多くて、恵秀さんが手に持っているのは水色のものが多かった。……決して、ジロジロ見つめてお菓子の味を盗み見ていたわけではない。
 俺の質問に口角を上げた恵秀さんは、袋の中から小さなチューイングキャンディを取り出して小さく揺らした。

「バレてるなぁ。ちっちゃいときから好きなんだよね、ソーダ味」

 ガサガサと音を鳴らして袋を開けると、恵秀さんは丸いチューイングキャンディを一つ口に入れて俺に袋を差し出した。

「おすそわけ。嫌いじゃないでしょ?」
「……はい。いただきます」

 体に悪そうな色だよなぁ、なんて思いながら袋の中に指を差し込んでチューイングキャンディを一つつまんだ。口の中に入れて転がすと、特有の甘みが広がる。こういうのを食べると、小さいときは歯みがきをちゃんとするようによく言われていた。
 
「静が好きなのはぶどうだよね」
「え」 
「いつも絶対ぶどう持ってたし、さっきも最初に俺に見せたのぶどうだったよね」

 ふふっと笑われた俺は思わず俯いてしまった。どうやら俺ばかり気づいていたわけじゃないらしい。
 俺は昔からぶどう味が好きだ。フルーツの味はわりとなんでも好きだけど、駄菓子系ならぶどうの次がソーダで、その次がコーラかも。
 
 それにしても、こっちばかり狼狽えている気がしてなんとなく悔しい。
 俺は負け惜しみみたいに『そっちこそチューイングキャンディもフーセンガムもラムネもアイスも全部ソーダのくせに……』と言おうとしたが、あんまり詳細に商品を並べ立てるのもキモいんじゃないかと思い、別の言葉を選ぶことにした。

「……俺もわかりやすかったかもしれませんけど、そっちこそいつも手に持ってるの全部水色なのわかりやすすぎますよ?」

 その瞬間、目を丸くした恵秀さんが照れくさそうに笑った。また余裕そうに頷くのかなと思っていたから、予想外の子供っぽい雰囲気が新鮮で少し嬉しくなる。

「俺も見てたけど、静も見てたんだね」
 
 彼と俺との歩幅はそんなに変わらなくて、横目にその表情を窺うのは簡単だった。なんだかこっちまで少し照れるようなかわいい表情だったせいで、それ以上恵秀さんをからかうような言葉も出てこなくなる。
 
 口の中のチューイングキャンディはいつの間にかなくなっていた。甘ったるい後味だけがやけにはっきり残っている。すると向こうも同じような状況だったのか、俺のほうへ一瞬目を向けた恵秀さんが先に口を開いた。 

「俺達今まで何回あそこですれ違ったかな」
「……もうわかんないです」
「そうだよね。数え切れなくなる前に、もっと早く声かけたらよかったな」

 あそことはつまり駄菓子屋のことで、すれ違った日のことを思い返してみても、本当に数え切れないくらいの回数であることは間違いなかった。
 なんとなく後悔を乗せたような柔らかな声色で紡がれた恵秀さんの言葉に、俺も不意に過去の記憶を探ってみる。



 
  
 薄暗くなりはじめる平日の夕暮れどき。
 常連の小学生達はとっくにいなくなって、駄菓子屋はもう少しで閉店の時間。別の高校の制服を着た俺とあの人とが、店の中ですれ違う。
 最初はちらりと視線をやるくらいだった。それが回数を重ねるうちに、手に持っている駄菓子の種類が気になったり、今日もいるはずだと思ったらいなくてがっかりしたり、何度もそんな時間を繰り返していった。

 あの駄菓子屋によく通う高校生は、別に俺達ふたりきりってわけじゃない。この辺りはちょうど学区の境目で、俺の通っていた中学校や隣の学区の中学校を卒業した同年代の学生にとっては、コンビニより馴染みある場所だったはずだ。
 なのにどうしてか、お互いにお互いだけを意識していたような気がする。さっさと声をかけてしまえるほど簡単な感情じゃなかったせいか、いつの間にか拗らせてこんなに時間がかかってしまった。

 思えば踏み出せなかった理由なんて、別に特別なものじゃない。お互いがお互いにとって何者でもなかったからだ。声をかける理由を探し続けても、言葉になる前に背中を見送ることになった。
 俺とあの人とは、あの駄菓子屋でだけ『気になる人』になる。
 そうして気づいてほしいようなほしくないような複雑な気持ちが、今日突然に形を変えた。恵秀さんがパッチバッチを持った俺に声をかけた瞬間に、俺達の時間は動きはじめた。

 そう考えるとどうしても気になる。

「どうして今日、声かけたんですか」

 これまでの長い時間そうできるタイミングがあってもしなかった。なんならもっと近い距離ですれ違う日もあったはずなのに、なぜ今日だったのか。なぜ、今だったのか。
 ほんの数日前にゴールデンウィークが過ぎていき、気温は少しずつ上昇している。今年もまたひどく暑い夏がやってくるのが憂鬱に感じ始めた、晴天の今日のこと。

 何があなたを動かしたのか、とても気になって。

 すると彼は一度深く息を吸った。こっちがつい身構えそうになるのを防ぐように優しく笑うので、できるだけ緊張しないようにじっと見つめるのはやめておいた。
 
「……五月なのに暑いなぁと思いながら駄菓子屋に入ったら、静がいるのが見えた。ゴールデンウィークだったし、暫く会わなかったでしょ? それで静があそこにしゃがんでるの、あと何回見れるかなって急に思ったんだ。そうしたらどうしたって、このままでいいわけないってそう思っちゃって」
「このまま……?」
「うん。このまま、名前も知らずにいたら絶対に後悔するから。俺は三年生になっちゃったし、もう五月、もう夏休み、もう受験……なんて言ってたら、あっという間に二度と会えなくなるかもしれないでしょ」

 そんなのやだよ。
 そう言って俺に向けてへらりと笑うこの人の言葉や態度がなぜかひどくに目に焼きついた。心臓が、胸の奥が、きゅっと掴まれるようなそんな感覚がする。

「……俺は、いつか気にならなくなるのかなって、思ってました」

 目を細めて見つめられて、気づけば口が勝手に動いていた。さっきまで言葉を探すばかりだったのに、これだけは知っていたみたいに音になる。
 そのうち、なんでもなくなるとずっと思っていた。いつも少し気になっていた人。会わなくなれば自然に忘れる、この人は俺にとってただそんな記憶の向こうの人になるはずだった。
 
「見慣れたらどうってことなくなるかもって。……ただ駄菓子屋ですれ違うだけの人にそのうちなるんだと思って」
「うん」

 けれど今日それは、明確に形を変えた。
 
「でも、ならなかったから。やっぱりずっと気になる人だったから。……俺だけだろうなと思ってたけど、そっちもそうなら……少し安心したっていうか」
  
 下手くそな言葉で話し続けていたそのとき、恵秀さんの手がこっちに向かって伸びてきた。
 何をしたいのかわからなくて困惑した表情を浮かべたらしい俺に、この人は「頭、触っていい?」と問いかけてくる。

「あ、え……ど、どうぞ……?」
「なんで疑問形?」
「駄目なような気がしなくもないのに、断る理由がなくて……」
「喜んでいいのか悪いのかわかんないなぁ」

 恵秀さんは俺の反応にくすくす笑った。そして結局そのまま俺の頭をくしゃっと撫でる。誰かに頭を撫でられるのは随分久しぶりな気がして、黙り込んだ俺をじっと見つめる視線が少し痛いくらいだった。
 それから恵秀さんは、その手でちょっとだけ髪の毛に指を差し込んだ。さっきまで髪の表面に触れていた指の腹が頭皮に近くなって肩が跳ねる。

「あ、あの……」
「ねえ静。俺、多分これだって、もうわかってるんだけどさ」
「はい……?」

 頭から手を放さないまま、何かを伝えようとするこの人の真意がはかれず戸惑う。
  
「はは、美人てポカンとしても美人なんだね」
「いやあの」
「うーん。なんて言ったらいいかな」

 言い切るより前に今度はまるで犬にでもするみたいにわしゃわしゃ撫でられた。止めようと思って恵秀さんの腕を掴もうとしたら、「静」ともう一度名前を呼ばれてどきっとする。

「先輩と後輩、それとも友達、どっちから始める?」
「へ?」
「お友達から始めようか、って言うつもりだったんだけど……今を逃すと静に『先輩』って呼んでもらうチャンスなくなるなぁと思って」
「なんですかその願望……」
「青春してる感じしない?」

 なんかいいよね、と言うその言葉が、本心なのか冗談なのか、からかわれているんだか、このとき俺には判断できなかった。俺はまだ恵秀さんを知らなくてわからなくて、でもこの人も、この人なりに何か手探りに距離を縮めようとしてくれている気がした。

「笹沼先輩」

 そうしてわざと選んだ名字呼びに、恵秀さんは目を瞬かせて首を左右に振った。
 
「え。違うでしょ、恵秀先輩でしょ」
「笹沼先輩公園着きましたよ」

 ちょうど踏み入れた公園の入口。まだ暗くなる前のほんのりした明るさ。俺達の影が公園の奥に向かって伸びている。
 
「待って、ちょっと静、そうじゃないそうじゃない」
「笹沼先輩あそこ自販機ありますよね。俺カフェオレ飲みたいんですけど」
「ねえさらっと集ってるじゃんおかしいじゃん」

 やられっぱなしはなんだか嫌で応戦してみたら、さっきまで余裕綽々だった恵秀さんがたじろいでおかしかった。
 
「ふ、ふふ」
「笑っちゃってるし」

 そのあと、堪えきれなくて笑いだす俺を見たこの人の優しい目が印象的だった。親しくなるとこんな目をするんだと知ると、もっと先の反応が見たくなるのはどうしてだろう。

「恵秀」
  
 だからなんとなく、そう呼んだ。
 この関係は年齢とかそういうのじゃない気がした。この人が対等に始めたくて今日声をかけてくれたこともわかってて、それならきっと、俺達にはこれがちょうどいい。

「……もう一回」

 そうしたら返ってきたのは催促だった。なんでだよ、と思いながらもう一度呼ぶ。

「恵秀」
「……はい」
「なんで、『はい』なの」
「……はは。やばい、もうホントに駄目かも」

 この人から返ってきたのはわかるようなわからないような言葉だったけど、今は何もわからないことにしようと思う。
 
「呼び捨て、嫌ですか」
「ううん、ぜんぜん。呼び捨てでいいしタメ口でいい」
「じゃあ、そうする」
「うん」

 俺達の会話はちゃんと成り立ってはいても、宙に浮いているみたいな変な感覚だったと思う。不安を煽られるような、それでいて初めての感覚を楽しんでいるような……。俺もこの人もきっと、そんなふうに思っていたはずだ。

「静、連絡先教えて」
「うん」

 ポケットに手を突っ込んできらきらの笑顔で笑う人。格好いいとかわいいとがどっちも共存していてきゅんとした。この瞬間に恵秀はきっと、俺の中で何か特別な存在になったようなそんな気がする。

「これでもう、『なんでもない』じゃないよ」
「……うん」
「あっち座ろっか」
「うん」
 
 それから俺達は公園のベンチで駄菓子を食べた。知っていたようで知らなかったことを確かめるような時間を過ごして、改めて思う。
 目の前のこの人を『なんでもない人』にするなんて、きっと最初からできっこなかったんだな、と。