九月に入って、俺と恵秀がはじめに会ったのは恵秀の面接日の前日だった。駄菓子屋でいつものように買い物をして、俺はいくつも恵秀の好きな駄菓子を買ってそのまま渡した。頑張って、としか言えなかったけど、恵秀はいつも通りの態度で余裕がありそうに見えた気がする。渡した駄菓子の中には、百合さんに事前にお願いしてパッケージにメッセージを書いたパッチバッチのソーダ味を一緒に入れたけど、恵秀は気づいただろうか。
正直当日、朝からずっと緊張していたのは俺のほうだった。受付開始当日に願書を出した恵秀の面接日はすぐにやって来て、そして合否もあっという間に出るらしいとその日の夜に電話をして聞いた。
このそわそわする気持ちは俺達の関係の進展の問題じゃなくて、ただ恵秀の進路が無事に決まることを願う気持ちだったのは間違いない。そのせいか俺の様子が普段と違うことは智樹にだってバレてしまって、学校で不審がられないように気をつけないとと身を引き締めた。
そして、九月の終わり頃。
俺が学校の昼休憩に姉さんからのメッセージに返信しているときに、恵秀から電話がかかってきた。
慌てた俺が大きく椅子の音を立てたせいでかなり視線を浴びたけど、ごめんというジェスチャーだけしてすぐに電話に出る。
「もしもし、恵秀?」
『ごめん静、今大丈夫だった?』
「大丈夫。どうした?」
話しながらすぐに教室から出て廊下の隅の静かな場所まで歩いた。
『合格したよ』
「っ、おめでとう!」
『家に通知が届いたみたいで母さんから連絡あったんだ』
「そっか、よかった……ほんとにおめでとう恵秀」
『ありがとう。静にはすぐ知らせたくて……ごめんね授業前に。また連絡するね』
「ん、じゃあまた」
ほんの二分間程の通話を終えて、俺は安堵から大きくため息をついた。不合格なわけがないと思っていても、こういう瞬間は緊張してしまう。とにかく恵秀の不安もこれで取り除かれたはずだ。ゆっくり休めるといいけど。
そのあと教室に戻ると、なぜかにやにやしている智樹に出迎えられた。
「夏休み明けからずーっと様子変だったのは解決したわけぇ?」
「智樹うるさい」
「静が案外わかりやすいってことが判明して俺は安心したんだ。お前の心を揺れ動かす相手に俺もそのうち感謝を伝え」
「誰かこのサッカーバカ引き取ってくれない?」
「無理無理、こいつ彼女いない夏休み過ごしてサッカーしかしてねえもん。静が面倒みてくれないと」
「お前らはほんと友達甲斐がないな!?」
そうやって夏休みに何度か遊びに出かけたいつもの友人達と笑い合い、俺はなるべく恵秀のことを考えないように努めることにした。智樹の言うとおり態度に出てしまっているのはなんとなく自覚している。
席に戻って両頬を軽く叩いてリセットしようとしたら、斜め前の席の智樹が完全に俺のほうを向いてにやにやしているのが見えた。……ほんとバカ。
そしてその日の夕方のことだ。
今日は母さんが休みだったなと思いつつ「ただいま」と玄関を開けると、そこにはうちの家族のではないけど見たことがある靴が揃えて置かれていた。
「え?」
戸惑いで瞬きをして靴を確認していると、聞きたかった声で名前を呼ばれる。
「おかえり」
「恵秀! なんでうちに……」
「静が帰ってくるの外で待ってたんだけど、たまたま買い物から帰った梨華さんと会って」
「静おかえり〜、ねえ、今日ついデパートの物産展で買い過ぎちゃったの! 百合ちゃんのとこにこれ渡してきてほしいんだけど恵秀と一緒に行ってくれない?」
突然始まった恵秀の話も母さんの話もツッコミどころが満載で俺はぽかんとしてしまった。
なんだその呼び方、急になに?
「おばちゃんでいいのに、って言ったんだけどものすごく呼びづらそうだから名前にしてもらっちゃった! 私も丁寧に呼ぶの面倒だし、恵秀って呼ぼうと思って」
「あ、そう……」
「で、百合ちゃんのとこ行ってくれる?」
「俺に頼むの珍しくない?」
「恵秀いるからいいかと思って。今日時間あるみたいだから、お夕飯一緒に食べましょ。恵秀のお母さんにもさっき電話かわってもらって少しお話したから」
そこには、展開の早さについていけず大混乱の俺、上機嫌の母さん、そして困ったように笑う恵秀、という変なトライアングルが出来上がっていた。
「待って、ちょっと……整理させてくれる……?」
そうして困惑している俺に、恵秀が順を追って説明を始めた。
まず、恵秀は今日授業が終わってすぐに家に帰ったらしい。自営業で定休日はなく、決まった休みは年末年始くらいの恵秀の家では、今日すぐに合格祝いはできないわけで。それで俺に会いにうちまで来てくれたわけだけど、たまたま俺は今日、文化祭に向けた集まりがあって帰るのが少し遅くなってしまった。
そして家の前で俺に連絡をしようとしていた恵秀と、買い物から帰ってきた母さんが鉢合わせしたというわけだ。母さんは恵秀を強引に家に入れて世間話をはじめ、専門学校に合格したという恵秀の話を聞いたらしい。そもそも夕飯を一緒にどうかという誘いをした後にそのことを聞いた母さんは、それならご両親の許可を得て食事に出かけようと提案した、という流れだそうだ。
うん、せめて息子の俺にも聞いてくれ……。
「お母さんちょっとだけ仕事したいから暫く時間あるし、百合ちゃんのとこ行くついでにふたりでお出かけしておいでよ」
「恵秀ほんとによかったの? 無理しなくていいけど」
「いやむしろ静はいいの?」
「俺は祝えて嬉しいけど」
「そう? じゃあお言葉にあまえて」
「はーい。透と凌に自慢しちゃお。じゃぁふたりともいってらっしゃい!」
そう言って矢継ぎ早に母さんに背中を押され、俺と恵秀は家を追い出されてしまった。母さんから百合さんへのおすそ分けを持って、とりあえず俺達は駄菓子屋に向かって歩き始める。
暫くはお互いに何から話していいかわからずにいて、沈黙が続いた。いつものように恵秀が車道側を歩いていて、俺はきゅっと唇を引き結ぶ。
「恵秀」
「ん?」
「……いや、うん。あとでいい」
「うん……俺も、あとで話すね」
ふたりでいてこんなに沈黙が続くのは始めてのことだった。でも、緊張と期待と不安と……そういう感情は確かにあるのに、不思議と居心地が悪いとは思わない。
触れそうで触れないくらいのぎりぎりの距離を保ちながら、俺達はまだじわりと暑い気温の中を静かに歩いていった。
◇
「今アイスコーヒーいれたんだけど、ふたりも飲む?」
「いいの?」
「美味しいのよ〜、静ちゃんはミルク多めにしましょうね」
「ありがとう百合さん」
「どういたしまして。多分今日はもうお客さんも来ないと思うし、梨華ちゃんから連絡くるまでゆっくりしていって。あそこの椅子使ってね」
駄菓子屋について百合さんにおすそ分けを渡し、俺はいつものようにパッチバッチを買った。そうしたら百合さんが俺達にもコーヒーをいれてくれて、どこで時間を潰そうか考えていたこともあってそのまま駄菓子屋の中にいさせてもらうことにした。
完全に暑くなる前にはいつも座っていた外のベンチは、7月に入った頃からほとんど使われなくなる。金属の部分で火傷しかねなくて、百合さんがシートをかけるからだ。
おそらく気温がもう少し下がってきたら使えるようになるだろう。最近は十月に入っても夏日になることも多いから仕方ない。
そのあとコーヒーを持ってきてくれた百合さんは、「私奥にいるから何かあったら呼んでね〜」と言って店の裏に引っ込んでしまった。母さんと同じように俺達をふたりきりにさせるところを見るに、もしかしたら母さんから何か聞いてるのかもしれない。気を遣わせてしまっていたら申し訳ないけど、今はただ状況に甘えさせてもらうことにする。
「美味しいね」
「うん」
俺の分はしっかりミルクと砂糖が入ったカフェオレになっていて、グラスの中では小さな氷が揺れていた。いつかの瓶ラムネのビー玉みたいだなと少し思って、このたった五か月ほどの間に、俺達の時間があっという間に過ぎていったことを思い返した。
『それ、好き?』
目の前にあるパッチバッチの売り場でしゃがみこんで話す自分達の姿が目に浮かぶ。よそよそしかったのはあの瞬間だけで、自分でも驚くほどあっさりと恵秀に心を掴まれてしまった。
思えばその姿を認識したときからずっと気になる人だった。一目惚れに近いような、そしてある種長い片想いをしていたような、この二年はそういう時間だったのかもしれない。
「……恵秀。あの日、声かけてくれてありがとう」
グラスを持った俺が目も合わせずに突然そう言うと、恵秀は一瞬息を詰めて、そしてじっと俺を見た。
「好きだよ静」
その瞬間、さっきまで耳にずっと届いていたはずの冷蔵庫から聞こえる機械音がぴたりと止んだような感覚に襲われた。恵秀の声だけがやけに響いて聞こえて動けなくなってしまう。
視線を向けると、射抜くように見つめられた。
「好き。ずっと好きだった」
真剣な声に、真剣な表情。心を震わすそのシーンの、背景はなぜか古びた駄菓子屋。
不釣り合いな光景に俺は少し笑って、「さんざん時間かけて、なんでここで言うんだよ」と茶化してしまった。
間違いなく、『ここだから』意味があるんだということはお互いにわかっていた。
「花束抱えてきたほうがよかったかな……」
「そんなの、もうプロポーズみたい」
「え、ほぼプロポーズでしょこれも」
「……駄菓子屋で、アイスコーヒー片手にした告白が?」
「そうだよ。俺静のこと放す気ないって何回も言ったでしょ」
当たり前みたいにそう言った恵秀が、ぐいっと俺の顔を覗き込んでくる。近い。
「静も好きって言ってよ」
「……なんで自信満々なの」
「自信満々だから。静、今すごいかわいい顔してるよ」
「は、」
「俺のことが好きって顔してる」
「うるさ……」
ぺち、と恵秀のほっぺたに手を当てて顔を背けさせる。くすくす笑っている恵秀は俺の腕を優しく掴んで「はやく好きって言って」と催促してきた。
「言うのは簡単なんじゃなかった?」
「恵秀突然すぎなんだよ、なんで、心の準備させてくれないの」
「サプライズ。学校に迎えに行ったときもそうだったよね」
「……母さんにも百合さんにもバレてたと思うけど」
「ちなみにうちの家族にもバレバレだけどね」
その瞬間にふたりで顔を見合わせて吹き出す。俺達のバレバレの恋は、それでもきっと運命的なものだって思う。そして家族皆が受け入れてくれる、優しい恋だ。
「静聞いて」
「聞いてるよ」
「好き。付き合って。俺の恋人になってください」
「……」
それはずっと聞きたかった言葉で、ずっと言いたかった言葉でもあった。堪えきれないように言われた告白がじわじわと体の奥をくすぐる感覚がする。今耳赤いだろうな、顔熱いな、そう思いながら恵秀を見た。
「静」
「……俺も好き。ずっと好きだよ、恵秀」
まっすぐに見つめるのは少し勇気が必要で、ちらりと恵秀に視線をやった。恵秀は泣きそうになるのを堪えたのか、くしゃりと表情を歪めたあと俺を思いっきり抱き締めてくる。コーヒーが溢れないように近くにグラスを置いて、俺はその背を小さく撫でた。
「恵秀、痛いってば」
「……っ」
こんなとこで抱き締めて、誰かに見られたらどうするんだよ。百合さんが向こうにいるのに。もしかしたらお客さんも来るかもしれないのに。
でも考えていた言葉は何も音にならなかった。押さえ込んでいた感情が溢れだすように腕に閉じ込められて、何も言えなかった。
「……恵秀、俺の彼氏になるの?」
「してほしい……なりたい」
「恋人って言ったほうがいいのかな」
「どっちでもいい。でも彼氏って言われるのもなんかときめく……」
「ふ、なんだよそれ。はいはい、彼氏ね」
「静、好き」
「ん。俺も恵秀好きだよ」
我慢していた『好き』という言葉を積み重ねると、自分がどれだけ恵秀が好きなのか改めて実感することになった。
百合さんが戻ってくる前に落ち着かなければとゆっくり離れてコーヒーを飲み進めている間も、恵秀にそっと撫でられたり触れられたりしていて困ってしまう。
「恵秀、見すぎ。触りすぎ」
「だってもう俺のなんだって思ったら……」
「ふ、くすぐったい」
「……ますます静がかわいく見える、どうしよう……」
「わかったから。どこにもいったりしないから」
確かめるように触れてくる恵秀の手を掴んで止めさせる。好きで堪らない、と言われてるみたいなその表情や視線を、俺はすべて独り占めして嬉しくて笑うしかできなかった。
