「ねえ静、恋人できた?」
「ブッ」
「あーーティッシュティッシュ!! ごめんタイミング最悪だった!!」
姉さんのその発言に、俺は若干吹いたオレンジジュースを慌ててティッシュで拭うことになった。
「きゅ、急になに」
「雰囲気変わったと思って。ちょっと優しくなったよね静。いや、元々優しいんだけど、警戒心強い猫みたいな感じだったのに、なんか今日違う気がする」
今日は例のバイトの日だった。
姉さんの事務所に時間通りに到着したあと、撮影場所に向かってメイクや着替えを終えた。スタジオで写真を撮ったあとは、許可取りしてあるカフェと姉さん行きつけのアパレルショップで撮影するらしい。
そしてその撮影の小休憩中、いつも俺が来るとき用意してくれてる果汁百パーセントのオレンジジュースを飲んでる瞬間だったわけだ。
「いや、恋人っていうか……」
「え〜いいじゃん! 静がそんな感じになるってことは相手すごくいい人なんでしょう? 絶対紹介して今すぐ教えて!」
「ま、待って。姉さんテンション高すぎ落ち着いて!」
「はいはいはい! まず彼氏? 彼女? 年上? 同い年? 年下? あっ日本人?」
矢継ぎ早にされる質問に怖じ気づきながらも、性別すらひとつも決めつけてこない言葉に少し笑うと同時に、あからさまにほっとしてしまった。
オレンジジュースのカップを置いて息を吐いて、こほんと咳払いをする。
「姉さん、俺ちゃんと話そうと思ってたんだけど」
「うん?」
「……まず第一に、俺、ゲイ」
「あ、そう? じゃあ彼氏ねオッケー!」
「……」
「え、なに?」
今日何食べる?みたいな温度感でオッケーされて俺はどうしたらいいんだろうと思って黙ってしまった。
いや、姉さんはこういう人だってわかってたはずなんだけど、予想の上を行く軽さについ驚いて……。
「……拍子抜けしたというか」
「あのねえ静、うちの家族がそんなことで偏見持つわけなくない? 多分ママもパパも凌も同じような反応だからね」
「わかってるけど、一応俺だってちゃんとしなきゃって思ってるんだからもうちょっとさ……」
「まーうちの末っ子ったら真面目なんだから……じゃあ今日一緒に帰ったときママ達にも話そうよ。こんなのさっさと終わらせておくべきだよ。静が悩むことなんか一つもないのに」
姉さんの言い分もよくわかる。でも、この問題、問題というか気持ちって、ひとりひとり抱える大きさがまったく違う。誰かにとっては今日の昼ご飯を決めるくらい小さなことでも、別の誰かにとっては明日生きるのをやめたくなるかもしれないくらい大きなことだ。
でも俺にとっても、誕生日プレゼントを決めるくらいのことにすべきなのかもしれない。少し悩むかもしれない、もしかしたら別のがよかったと後悔するか、これにしてよかったと満足するか、そんな、人生で何度も訪れるくらいのことに。
「……うん、そうしようかな」
「ふふ、うん。そうしよ。で? 相手どんな人なの?」
「ったく調子いいな姉さんは……」
相手は一つ年上なこと。
花屋を継ぐ予定なこと。
相手の進学と、俺が家族と話をすること、それぞれがきちんとするまで、関係に名前をつけないでいること。
格好よくて、すごく優しいこと。
大好きなこと。
指折り数えて一つずつ確かめるように言う俺の話を黙って聞いていた姉さんは、なぜか途中から涙ぐみはじめた。
「静の口からそんな言葉が出る日がくるなんてぇ……お姉ちゃん泣いちゃう……」
「メイク崩れるからやめて」
「うっ正論すぎ、はぁ、なんか最高かも……相手の子に感謝しなきゃ……あっいつご挨拶にうかが」
「いやいやいや」
俺はその後半泣きの姉さんの大暴走をなんとか宥めて、撮影の続きに姉さんを引っ張っていくことになった。
まだ好きとすら言えてない俺のもどかしさを何重にも飛び越えて挨拶に行こうとしないでくれ……。
そしてその日の夜、無事に撮影を終えた姉さんと俺とが帰って暫くすると、リビングのソファに座った母さんがおもむろに話し始めた。
「ねぇ静、透から話がありますってメッセージが入ってたのよ。何か知ってる?」
「あ、俺も。今日姉さん帰るって聞いてたしオフ合わせてたからいいんだけど、時間通りに帰りなさいって言われた」
「……その、……うん……」
姉さん、善は急げで生きすぎだろ。
当の本人は今シャワーを浴びていて、俺は何から話そうかと内心で焦ってだらだらと大汗をかいている。
そんな俺の微妙な反応に首を傾げつつ、母さんと兄さんは好き勝手に姉さんの『話』について予想を繰り広げ始めた。
「移籍とか?」
「え〜、あの事務所そんな大きくないとこだし、稼ぎ頭の自覚がある姉さんが出てくわけないって。もしかしてドラマのオファーでもあったかな?」
「写真撮られるのはほんとに一流だと思うけど、透は演技はちょっとねぇ……」
「一回あったよねモデル役で」
「そうあれ、あんまり下手くそだから一言あったセリフすらなくなったやつ」
「「ふっ」」
こっちのふたりは容赦ない。
顔見合わせて笑ってる場合じゃない、今まさに風呂から上がってきた姉さんが腕くんで超笑顔でこっち見てるぞ、とは言わないでおいた。
「ママ〜? 凌〜?」
「ごめんなさい」
そして姉さんの猫なで声に肩をびくつかせた母さんと兄さんは、一瞬の間もなく謝罪していた。呆れたようにこっちへ近づいてきた姉さんは勢いよくソファに座ると、髪を拭きながらそれこそ献立や明日の予定を決めるくらいの口調で話を続ける。
「まったく失礼なんだから。話があるのは私じゃなくて静なの。はい静くんどうぞ」
「え!?」
突然話をふられた俺はたまったもんじゃない。なんの心の準備もできていなくて素っ頓狂な声を出すと、姉さんは肩をすくめて自ら話しだした。
「じゃあお姉ちゃんが聞いたげる。ねえママ、凌、静がゲイだと困る?」
「ちょっと姉さん……!」
「困るわけないじゃん、なんでそれで俺らが困、え、母さんなに!?」
「え!? ママ泣いてる!? なんで!?」
単刀直入にも程がある、と焦っていたら、目の前の母さんが両手で顔を覆った。これはまさかの反応すぎて、俺どころか姉さんも兄さんも大慌てだ。
もしかしてショックだったんだろうか。俺も姉さんも軽く考えすぎてたんだろうかとどう話を続けるか言葉を選ぼうとしたその瞬間……、
「やっっと言ってくれる気になったのぉ!? お母さんずっと待ってたんだからぁ〜〜」
と、涙をぼろぼろ零しながら、母さんがそう言った。
「え」
「内緒だったけど百合ちゃんから聞いてたの! 静が春からずっと仲良しな子がいて、いつも楽しそうって! その子の隣にいる静ちゃんいつも幸せそうなのって百合ちゃんが!!」
姉さんと兄さんと俺とは、どうやら様子が変だぞ、と顔を見合わせる。
「なのにお母さんには一言も! 一言もないの!! 私には言えないのかな、話したくないのかな、そんなことも話してもらえないくらいお母さん信頼してもらえてなかったのかなってパパにこっそり相談とかしちゃったんだから!! あーーよかったぁあーー」
そうして一通り言いたいことを吐き出したらしい母さんは、兄さんにティッシュをとらせて思いきり鼻をかむ。それから大きく息を吸い込んで、俺のほうを見た。
「静がどんな人を好きになるかは静が決めることよ。ほかの誰かが決められることじゃない。そんなことで誰にも遠慮したり気を遣ったりしなくていいの」
「でも母さん。いくら百合さんからそういう話を聞いたからって、本当にそれが静が好きな相手かどうかはわからないし、普通の高校生が恋愛事情をそんななんでもかんでも家族に打ち明けたりしないって。ちょっと重いよそれ」
「確かに、私もそれは凌の言うとおりだと思うよママ」
「わかってるわよぉ〜……でもうちのかわいい末っ子が! これまで家族と何人かのお友達以外まっったく興味のなさそうだったうちの静が! 最近夕方いないこと多いしこれまでにないくらいスマホ見てるし絶対怪しいじゃないの〜!!」
俺の話をしているはずなのに、俺以外で話がめちゃくちゃ盛り上がっている。姉さんと兄さんは「まぁわかるけど」とか「ちょっと寂しいのはあるよね」とか同意をしていて、俺だけが脱力して大きなため息をついた。
「百合さんも母さんだから内緒で俺の話をしたんだろうに、まさか本人にぶちまけるとは思ってないだろうな……」
「やめてーーお母さん今すべての信頼を失いかけてる! ごめんなさい!」
「ふふ、いいよ。俺もごめんなさい。何も言わなくて」
俺が少し笑ってそう言うと、横から兄さんが「違うよ静」と話を遮った。
「何も言わないのだって静の権利だよ」
「兄さん……」
「家族だから話してほしいと思う感情と、家族だから話せないという意思がぶつかるのは自然なことだし、静が謝ることじゃないから」
「うん、ありがとう」
この件に関して一番冷静なのは兄さんだった。この後も母さんに対して、姉さんに対して、そして俺に対して、それぞれに諭すように話されて、皆黙って頷くしかなかった。
「母さんの気持ちはわかるけど、そのプレッシャーが静が話せなかった理由なんじゃない? 勝手に父さんに伝えたのも、もしそれで静が母さんに不信感抱いたらどうするのさ」
「はい、すみませんでした」
「姉さんがこうやって静の突破口になってあげたかった気持ちも、こんなの大した問題じゃないって考えたのもわかるけどさ。まず静の気持ちを考えてよ、こんな雑に片付けたいと思ってたわけじゃないと思うよ」
「はい、ごめんなさい」
「静は遠慮しすぎ。多分受け入れる受け入れないの話じゃなくて、母さんや俺達に心配かけたくなかったんだと思うけど……これまで学校とかでも何かあったんじゃないの? ひとりで抱え込むなよ、兄ちゃん何があっても静の味方だよ?」
「うん、ありがとう」
そうして兄さんは、俺を真ん中にして姉さんと母さんとが三人で並んで座っているのを真正面から眺めると「はい、これで落ち着いた?」とにこっと笑った。
「はい」
「静はもういいの? 話したかったこと」
「あ、じゃあ……ちゃんと話そう、かな」
「うん」
俺は兄さんに促されて漸く決心がついた。考えすぎていたことも反省だし、結果的に俺が気を遣いすぎたことで皆まで気を遣うことになって悪循環が起きたわけで。
うちの家族に、そういうのはやっぱり似合わないんだと思う。
「俺、好きな人がいる。ひとつ年上で、向こうにも、その、大事にしてもらってて。……向こうの進路がちゃんと決まって、俺も家族にちゃんと話して、そうしたら付き合おうっていう感じになってて……」
「そっか。相手も真面目な子なんだ」
「うん。……ずっとこの人といるんだろうなって、……なんかわかんないけど、そういう、確証っていうと大袈裟だけどそういうのがあって。お互いに同性が好きで、向こうの家族はもう知ってるみたいで……」
まだ付き合ってないのにこんなことまで言うべきなのかわからないけど、とりあえず今考えてることは素直に全部話しておこうと思った。俺も恵秀も家族が大事なタイプだから、黙っておいたり隠そうとしたりするのはきっと違うだろうから。
「……今度家まで送ってもらうから、そのとき、母さん会ってくれる?」
「いきなり親なんて嫌がられない?」
「そんな人なら会ってなんて言わないって」
「うん。わかった」
「姉さんと兄さんにもそのうち紹介するから……あ、でも事務所に勧誘しないって約束して。恵秀将来お花屋さん継ぐって決め」
「え!?」
俺がそこまで言いかけた瞬間に、母さんが突然大きな声を出した。
「お花屋さんって、もしかして笹沼さん……?」
「そ、うだけど」
「え!! あのすごいハンサムな!?」
「……母さん、もしかして見たことある……?」
「お客様のお誕生日にミニブーケの注文いつもお願いしてるのよ……この前引き取りにいったらすごくハンサムな男の子がいて、オーナーが息子なんですーって嬉しそうに、え!」
「なんだ、そういう……」
「キャーーうそっ、静、やるじゃん!!」
「母さんデリカシー」
「はっ、ごめん」
兄さんの注意に口元を押さえた母さんだったけど、そのあといかに恵秀が見た目が良くて対応もいい好青年だったかを姉さんと兄さんに話して聞かせ始めてしまった。
「静、よかったね」
「うん。ありがとう姉さん」
力説している母さんの話をはいはいと聞いてくれている兄さんを置いて、俺の隣に来た姉さんにそう言ってぽんぽんと頭を撫でられた。
恵秀が普段からいい人だったおかげで、母さんも随分受け入れやすかったんじゃないかと思うと感謝しかない。これで恵秀にもいい報告ができそうだ。
こうして思いがけず母さんの大賛成まで得てしまい、俺の長いようで短い決意の時間は終わりを告げた。
